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アメリカからヨーロッパへ:注記

<注1>

■主な参照文献は、ジョン・イングラム著、平井呈一訳「エプワース牧師館の怪」:『書物の王国⑱―妖怪―』(国書刊行会1999年刊)所収、57頁以下。ピーター・アンダーウッド著、南條竹則訳『英国幽霊案内』(メディアファクトリー2010年刊)75頁以下参照。

■前著「エプワース牧師館の怪」によれば、怪現象は「1716122日に、父の下僕のロバート・ブラウンが、夜の10時ちょっと前に、女中の一人と庭を見晴らす食堂にいると、誰か玄関の扉を叩く音が聞こえた。ロバートが立って行って、扉を開けたが、誰も見えなかった。すると、すぐにまた追っかけて叩く音がして、なにか呻くような声が聞こえてきた」から始まった。

この現象発生期間に在宅していた家族は、上記参照文献やその他の資料の記載から人物名を抜粋してみると、父のサミュエル、母のスザンナ、娘エミリア(またはエミリー?年齢不詳)、ナンシー(15歳)、スーキー(またはスザンナ13歳)、モーリー(またはメアリー12歳)、ヘッティ(またはマヒタブル11歳)、ケッツィー(またはケズィア、年齢不詳)であった。なおこの現象には、娘のヘッティが霊媒の役割を果たしたと云われている。

■ジョン・ウェズリーは、父サミュエル・ウェズリーが書き残した日記の記録や、牧師の長男サミュエル(Samuel1690年→1739年:父親と同じ名前)が家族からもらった手紙、その他の家族の者や訪問客が残した記録などをまとめて編纂し、1720年に『アーミニアン雑誌』(または『アルミニウス派』誌)にこの「怪奇現象」の顛末を載せている。この記事は1784年にも同じ雑誌に再録されている。

 

<注2>

■田中千代松編『新・心霊科学事典』(潮文社1984年刊)363頁参照。

 

<注3>

近藤千雄著『霊的人類史は夜明けを迎える』(ハート出版1993年刊)212頁~213頁。

ハイズヴィル事件の56年後、19041123日付『ボストン・ジャーナル(Boston journal)』に次のような記事が載った。

――ロチェスター発、19041122日。1848年にフォックス姉妹が聞いたというラップの発信者とされる人物の骸骨が同家の地下室の壁と壁の間から発見された。これで、二人の少女は霊との交信に関する誠実さにつきまとっていた疑惑を完全に打ち消すことができた。フォックス姉妹はある男性の死者と交信したと言い、その男性は殺害されて地下に埋められたと主張したことになっていた。そこでその地下室が何度か掘り返されたのであるが、その遺体が見つからず、二人の話を裏付ける証拠が得られずにいた。その遺体を発見したのは、今では“お化け屋敷”と呼ばれている、その二人の少女が住んでいたハイズヴィルの家の地下室で遊んでいた小学生たちであった。その家の現在の所有者でハイズヴィルの名士でもあるウィリアム・クライド氏は、子供たちの通報で調査したところ地下室の崩れた壁の下からほぼ完全な白骨死体が発見された。(中略)これによって1848411日に署名された母親マーガレット・フォックス夫人の宣誓書が、事実上、裏付けられたわけである――

このようにして、姉妹が最初にラップ音で会話をしたという行商人の遺体(遺体の傍から、当時の行商人が金銭を入れて持ち歩いていたブリキ缶が発見されている)が発見された。

 

<注4>

ジョン・レナード著、近藤千雄訳『スピリチュアリズムの真髄』(国書刊行会1985年刊)参照。

のちにケイト(キャサリン)がイギリスを訪問した際に、物理学者のウイリアム・クルックス博士が彼女の霊能力の真偽について調査した。クルックスは「これまで数多くの霊能者を調査してみたが、その能力の大きさと確実さとにおいてケイト・フォックス嬢の右に出る者はいない。例の叩音は床や壁からも聞こえるのであるが、私の肩のあたりや手のすぐ下から聞こえることもあった。また一枚の四角な紙切れの一角にヒモを通し、そのヒモをつまんで吊るし下げてみたら、その紙の表面でも(ラップ)音がした。そんな具合にありとあらゆる工夫をして試してみたが、どうやってもトリックや器具を使ったものではなく、正真正銘の心霊現象であると断定せざるを得なかった」(前著67頁~68頁)と述べて、彼女の霊能力の真実性と強さを証明した。

さらに「多様性の点ではホームが抜きん出ていたが、力や確実性の点ではケイトが上であった」(前著196頁)とも述べている。

 

<注5>

■田中千代松著『新霊交思想の研究(改訂版)』(共栄書房1981年刊)37頁参照。

アイザック・ポストが霊界から受け取ったメッセージは、前著によれば「友よ。あなた方はこの真理を世に広めなければならないのだ。これは新時代の曙光(ショコウ)なのである。それを、あなた方はもはや圧し隠そうとしてはならないのだ。あなた方がその義務を行うとき、神はあなた方を護り、善き霊たちがあなた方を見守るであろう」という内容であった。

 

<注6>

■アーネスト・トンプソン著、桑原啓善訳『近代神霊主義百年史』(コスモ・テン・パブリケーション1989年刊)44頁参照。

 

<注7>

■田中千代松著『新霊交思想の研究(改訂版)』(共栄書房1981年刊)39頁参照。

 

<注8>

■田中千代松編『新・心霊科学事典』(潮文社1984年刊)111頁参照。

前著によれば「1851年に最初のスピリチュアリストの団体『ニューヨーク・サークル』ができ、その提唱により同じ年に『ニューヨーク会議』が設立された。その主張する新しい科学と信仰に共鳴する者達の中には、州知事、連邦裁判所判事、大学教授、将軍、新聞社主筆、小説家、詩人などの著名人がいた。『スピリット・ワールド』によれば、1851年にニューヨークには約百人の霊媒がおり、フィラデルフィアには五十人から六十人のスピリチュアリストの私的な集まりがあった。18554月の『北アメリカ評論』は、全米に約二百万人のスピリチュアリストがいるというニューイングランド協会の推定に間違いはないと述べている」との記載がある。

ちなみに1850年のアメリカの総人口は23191000人であり、1860年の人口は31443000人であるので(出典:有賀貞他編『アメリカ史、2』山川出版社1993年刊、参考文献73頁掲載の表「合衆国の人口と面積の増大」参照)、上記の「1855年時点で200万人のスピリチュアリストがいる」という記載は驚異的である。1846年当時の日本の総人口は2700万人前後であるので(出典:『グラフ日本史』一橋出版1986年刊、61頁参照)、ここからも200万人という数字の大きさが分かる。

筆者が参照した数冊の書籍に、当時のアメリカのスピリチュアリストの信者数が200万人とか300万人という数字が散見されるが、これは非現実的な数字と見た方が良いと思われる。「スピリチュアリストの定義」の問題はあるにしても、この記事を書いた者は当時のスピリチュアリズムが大きな影響力を持っているということを言わんがために、殊更このような数字を使って表現したのであろう。

■田中千代松著『新霊交思想の研究(改訂版)』(共栄書房1981年刊)41頁参照。

イヴォンヌ・カステラン著、田中義廣訳『心霊主義』(白水社・文庫クセジュ1993年刊)10頁の記載によれば、1852年オハイオ州クリーブランドで第一回心霊主義会議が開催された。当時のブームの様子は「1854年にすでにアメリカの心霊術は、1万人以上の霊媒と、それに従う300万人以上の信者を数えるようになった」という表現に表れている。

■田中千代松著『新霊交思想の研究(改訂版)』(共栄書房1981年刊)43頁、および田中千代松著『新霊交思想・心霊研究・超心理学年表』(日本心霊科学協会1974年刊)12頁。

これらの記載によれば、合衆国上院議員(18331834)でウィスコンシン州知事(18441846)のナザニエル・タルマッジ(Nathaniel P. Tallmadge17951864)は、スピリチュアリズムの共鳴者約13,000人の署名を集めて、18544月にスピリチュアリズムを科学的に研究する国立の研究機関の開設を国会に請願したが、採択されなかった。そのため18546月にスピリチュアリストの組織である「心霊知識普及協会」(Society for the Diffusion of Spiritual Knowledge)を発足させた。この「心霊知識普及協会」(→心霊研究の先駆的組織であるという)には、エドマンズやタルマッジも名を連ねていた。協会は機関誌『クリスチャン・スピリチュアリスト』を1857年まで発行した。

 

<注9>

■田中千代松著『新霊交思想の研究(改訂版)』(共栄書房1981年刊)38頁参照。

 

<注10

■稲垣直樹著『フランス心霊科学考』(人文書院2007年刊)240頁参照。

アラン・カルデックはスピリチュアリズムを「再登場」という表現を使って、1848年以前と以後を区別して次のように述べている。

――カルデック自身「近代スピリチュアリズム」の起源をフォックス姉妹に求めて、次のように述べている。「観察された最初の出来事はいろいろな物が動き出すことだった。これは一般にテーブル・ターニングとかテーブルのダンスとか呼ばれた。こうした現象は最初にアメリカで観察されたものらしい。というよりも、むしろアメリカで再登場したといったほうがよいだろう。それというのも、この種の現象がはるか古代から見られたことは歴史の明らかにするところだからである。突拍子もない音とか、はっきりした原因もなしにコツコツ叩く音とか、不可思議な出来事をともなってこの現象は起こった。それはアメリカから発してヨーロッパに、そしてほかの地域にあっという間に広まった」(Kardec, Le Livre des esprits,1857 )――

■社会学者の田中千代松氏は『新霊交思想の研究(改訂版)』8頁の中で、「新スピリチュアリズム(または近代スピリチュアリズム)」を次のように述べている。

――新スピリチュアリズムとは何か。エンサイクロペディア・ブリタニカへの寄稿者(R.H.ソーレス)は「スピリチュアリズムという語は二様の意味で用いられて来ている。第一は、諸宗教が通有する非物質的な霊的な世界の実在を主張する形而上学を指し、第二は、死者の霊と交信するを目的とする信仰および実践の体系、またかかる信念を有しかかる実践を行う人々の社会的制度を指す」と。この第二のものが19世紀中葉において特に勃興したとき、“新”という形容詞が付せられたのであった。そしてこの筆者の記述が示しているように、しばしば“新”を落として用いられているのである。しかし、この筆者の定義付けには補足が必要である。それは、新スピリチュアリストたちは、死者の霊との交信が科学的に可能であるという確信の上に立っている、ということである。それゆえ彼らは言う、「(新)スピリチュアリズムは、顕幽両界における人間の経験に基礎を置く人間存在の科学であり哲学であり宗教である」(Two WorldsVol.64、№32961951127日)と――

 

<注11

■田中千代松編『新・心霊科学事典』(潮文社1984年刊)113頁参照。

前著によれば「学問研究の分野ではなく、社会改革という実際的分野に特色を発揮した」のが、アメリカのスピリチュアリズムの特徴であるという。

 

<注12

■ジョン・レナード著、近藤千雄訳『スピリチュアリズムの真髄』(国書刊行会1985年刊)65頁~99頁参照。

 

<注13

■ジョン・レナード著、近藤千雄訳『スピリチュアリズムの真髄』(国書刊行会1985年刊)59頁~60頁参照。

デイヴィスは1880年に自らの思想を「調和哲学」であると宣言した。またしばしば調和哲学を「哲学的スピリチュアリズム(Philosophical Spiritualism)」と呼んだ(前著93頁)。デイヴィスは調和哲学の使命を「宇宙の不変不滅の摂理を求め、それを人生に活用すること」(前著156頁)と述べている。

――(デイヴィスは)スピリチュアリストたちが物理的心霊現象にばかり関心を示して、肝心の哲学的ないしは宗教的意義をおろそかにしていることを遺憾に思い、今の状態が改まらない限り、自分がスピリチュアリストと同列に数えられることはお断りすると言明し、1880年にはついに自分の思想と当時のスピリチュアリズムとを区別させるために、これを“調和哲学”The Harmonial Philosophyと呼ぶことを宣言した。――

――(ジョン・レナードはデイヴィスの考えをまとめて次のように表現した)心霊現象はその裏に重大なる哲理を暗示しているのであるから是非これを理解してほしい。その理解なしでは心霊現象は何の意味もない。ところが人は実験会だのサークルだとかに夢中になり、センセーショナルな、あるいは奇蹟的な現象ばかりを追い求めている。心霊現象がウソだというのではない。それ自体は実在するのだが、それは目に見えない深い真理を教えんがための物的証拠のようなものであって、現象ばかりをいつまでもいじくりまわしても無意味である。一度心霊現象の真実性を認めたならば、それからはその背後にひそむ深い哲学的思想に目を向けるべきである―― 

 

<注14

■近藤千雄著『霊的人類史は夜明けを迎える』(ハート出版1993年刊)205頁~206頁参照。近藤氏は「the good work」の訳に「仕事」という言葉を当てたが「定冠詞のtheが用いられていること・・・これはすでに定まったことを意味するもの」と述べている。

■霊の世界の下層界(=幽界)の浄化活動は、G.V.オーエン著『ベールの彼方の生活、4巻』(潮文社)178頁以下参照。

物的地球を浄化する作業の前提として、幽界を浄化する必要があった。当時の時代背景を俯瞰してみれば、神的属性つまり神自身を「物的形態の中に細かく顕現していく」という意図の下で、「当時の人類の発達の流れは下流へ、外部へ、物質へ、と向かっていた」。その結果「勢いが加速され、地上から侵入してくる誤謬の要素が、それを受け入れ変質させていく霊的要素をしのぐほどになったのです。そこで我々が地上へ下降していくためには下層界を浄化する必要が生じました。地上への働きかけをさらに強化するための準備としてそれを行った」という。

図式的に見れば「スタート:神的属性を物的形態の中に顕現させる」―→「物的思考が霊的思考をしのぐ勢いとなる」―→「幽界に侵入する(地上的習慣は死んだからと言って急に変わるわけではなく、物的思考は本人が霊的に覚醒するまでは生前と同じ状態で保持しているから)」―→「幽界の浄化作業」―→「物的地球の浄化作業」の順番で行われた。

 

<注15

■近藤千雄著『霊的人類史は夜明けを迎える』(ハート出版1993年刊)194頁、205頁~206頁参照。

 

<注16

■板谷樹、宮澤虎雄共著『心霊科学入門』(日本心霊科学協会1973年刊)34頁参照。

 

<注17

■ジョン・レナード著、近藤千雄訳『スピリチュアリズムの真髄』(国書刊行会1985年刊)35頁、36頁参照。

レナードは「デイヴィスは普通に言うところの霊媒ではなく、またいわゆるスピリチュアリストでもなかった。確かにスピリチュアリズムに賛同していたし、その積極的な支援者でもあり、またその教義の説教者としても働いたが、彼の残した著作とその哲学はいわゆる霊媒現象の産物ではなかった。自分で言っているように彼の場合は自分の霊感と霊視によって自分で取得し自分で語ったその産物であって、霊界のスピリットが彼に感応して授けたものではない」「超越状態において自ら感知したままを述べたものである」(65頁)と述べている。

 

<注18

■近藤千雄訳『シルバーバーチの霊訓、8巻』(潮文社)20頁参照。

高級霊シルバーバーチは「私を道具として使用する高級霊団の援助のもとに素朴な真理をお届けしている」と述べている。

 

<注19

■田中千代松編『新・心霊科学事典』(潮文社1984年刊)265頁参照。

 

<注20

■近藤千雄著『日本人の心のふるさと“かんながら”と近代の霊魂学“スピリチュアリズム”』(コスモス・ライブラリー2006年刊)116頁の記載によれば、エドマンズは「私がこの道の研究を始めたのは18515月のことで、それから2年後の18534月に入ってようやく霊界との通信の実在に得心がいった。その正味2年と2カ月(?:原文のまま)にわたる期間中に私は実に何百種類にも及ぶ心霊現象を観察し、それらを細かくかつ注意深く記録した」と述べている。このような過程を経てエドマンズは、心霊現象は真実であるとの確信を持つようになった。

 

<注21

■ジョン・レナード著、近藤千雄訳『スピリチュアリズムの真髄』(国書刊行会1985年刊)70頁参照。エドマンズ著『スピリチュアリズム』の内容は、「主としてスエーデンボルグとベーコンからの哲学的ないし宗教的な問題、それに霊界における生活に関する通信」であった。またこの中で「判事の娘ローラを通じて語った英国女王エリザベス1世(1533年→1603年)の訓話で、女王自身の体験を例に挙げて、地上における非人間的行為が死後において如何なる報いを受けるかを切々と語っている」(前著74頁)のが目を引くという。

 

<注22

■田中千代松編『新・心霊科学事典』(潮文社1984年刊)266頁。

同様の記載は春川晋栖仙編『スピリチュアル用語辞典』(ナチュラルスピリット2009年刊)66頁にもある。その記載によればエドマンズは「185381日付『ニューヨーク・クーリエ(New York Courier)』紙、86日付『ニューヨーク・ヘラルド(New York Herald)』紙に、スピリチュアリズムに関する彼の経験談を掲載した」。

■この他にエドマンズに関しては、A.R.ウォーレス著、近藤千雄訳『心霊と進化と』(潮文社1985年刊)94頁~97頁、186頁~191頁にも詳細な紹介記事がある。以下要約する。

――エドマンズの娘のローラ(Laura)は霊媒であった。普段のローラは、英語以外は全くしゃべれなかったが(ただし学校で習ったフランス語は片言程度ではあるがしゃべれた)、いったん入神すると数ヶ国の言葉を自由に話せる霊言霊媒に変わったという。「ある夜、拙宅(エドモンズ)の客間に十二人ないし十五人の客を集めて交霊会を開いたことがあるが、初めに当市在住の画家のG氏とギリシャ人E氏の二人の新顔を紹介した。やがてローラを通じてスピリットが英語でG氏にいろいろと語りかけてきた。そのスピリットは数年前にG氏宅で死亡した友人であることが分かったのであるが、G氏を除くわれわれには名前も知らない人であった。そのスピリットがときおり片言のギリシャ語を交えるので、中途からE氏がギリシャ語で話しても良いかと聞いたところ結構ですと言うことになった。それから一時間余りE氏はすべてギリシャ語で、ローラ(実はスピリット)は英語とギリシャ語の両方で会話が続けられた」(ウォーレス著『心霊と進化と』190頁)――

 

<注23

■イヴォンヌ・カステラン著、田中義廣訳『心霊主義』(白水社・文庫クセジュ1993年刊)123頁参照。

ケベック大司教の教書は「テーブルを通じていったい誰が答えることができるのか。それ自体は生命も知性もないテーブル自身ではありえない。死者の魂か。だが選ばれた魂はわれわれの下劣な好奇心を満足させるために、わざわざ至福の状態を離れはしないだろう。・・・それでは? そこで残るのは、悪魔自身、および人間の軽信を手玉に取る悪魔の軍団である・・・悪魔と戯れる者は、イエス・キリストにおいて楽しむことは許されまい」と述べている。

■田中義廣訳『心霊主義』121頁以下参照。

1853年にヴィヴィエの司教ギルベール(のちの枢機卿、パリ大司教になった)は、テーブル・ターニングの性格と危険を指摘している。さらにこの他のフランス各地の司教(ル・マンの司教、オータンの司教、カンブレの司教、ルーアンの司教、マルセイユの司教、ヴェルダンの司教、アルビの司教、レンヌの司教、オルレアンの司教、ディジョンの司教、ポワティエの司教)も同様な指摘を行っている。

これらの司教に共通する見解としては、「心霊現象の多くが詐欺」であり、「心霊主義(スピリチュアリズム)は悪魔の所業である」との指摘であった。そしてスピリチュアリズムを厳しく糾弾した。この宗教界の動向に呼応する形で、1854年にフランスの科学アカデミーは心霊現象に反対の立場を表明している(『心霊主義』11頁)。

■ジョン・レナード著、近藤千雄訳『スピリチュアリズムの真髄』(国書刊行会1985年刊)86頁以下参照。

スピリチュアリズム勃興期の啓蒙書に共通して見られる特徴として、キリスト教に対する配慮(または遠慮)があるという。

――当時(1860年代~1870年代頃)はキリスト教絶対の時代であった。そうした理由もあって当時のスピリチュアリズム啓発書の大部分は、本質的にはスピリチュアリズムがキリスト教といささかも矛盾しないことを説明せんとする、いわば弁明的な内容を持つものであった」。さらに「当時は宗教的なドグマというものに対して今日のように自由な解釈を施すことはとても許される世相ではなかった。オーソドックスなドグマと相容れない立場に立つことは大変な勇気のいることだった。したがってスピリチュアリズムについて筆を揮う者は、それこそ恐怖におののきながら筆を執った。そして、きまって自分がキリスト教に背を向ける意志も、否定する意図もないことを立証することに最大の努力を払った。当時のスピリチュアリズム関係書がキリスト教との関連性に力を注いだことは、そうした理由があったのである――

■このような当時の「キリスト教絶対の時代」に、モーゼスの霊団(インペレーター霊団)は果敢に挑んでいった。霊団はスピリチュアリズム普及のための最大の抵抗勢力であったキリスト教神学という壁を切り崩すために、すべてのエネルギーを集約して挑み成功した。これによってスピリチュアリズム普及のための下地が作られて、1930年代以降本格的に開始するシルバーバーチ霊団の活動につなげていくことができた。

 

<注24

■田中千代松編『新・心霊科学事典』(潮文社1984年刊)379頁参照。

■ジョン・レナード著、近藤千雄訳『スピリチュアリズムの真髄』(国書刊行会1985年刊)194頁には「最初に科学的解明に乗り出したのはヘアー教授である」と。さらにジョン・ベロフ著、笠原敏雄訳『超心理学史』(日本教文館1998年刊)58頁では「ヘアーは、心霊主義をアメリカの新聞で最初に糾弾した人物でもあった」との記述がある。

■ウォーレス著『心霊と進化と』98頁によれば、ヘアーは当初「マイケル・ファラディーの説(→テーブルが動くのは、無意識の筋肉の震えに反応しているのであり、参加者が不注意に機械的圧力を加えたに過ぎないとして、そこには霊の力など働いていないと述べた:デボラ・ブラム著『幽霊を捕まえようとした科学者たち』37頁参照)を読んでそれで十分だと思った」。しかし「テーブル現象を実際に目撃して、その説では解決にならないと判断」して、自分で装置を考案して自ら実験を行ったという。

 

<注25

■ジョン・ベロフ著、笠原敏雄訳『超心理学史』(日本教文館1998年刊)59頁によれば、ヘアーは著書発行の前年の「1854年にワシントンで開催されたアメリカ科学振興協会で講演しようとした時にも、怒号のためヘアーは口を開くことができなかった。その後まもなく、ヘアーは大学を辞職している」という。

 

<注26

■田中千代松編『新・心霊科学事典』(潮文社1984年刊)380頁参照。

 

<注27

■スピリチュアリズムの普及経路がアメリカの一寒村で受信されてブームとなり、まもなく大西洋を渡ってイギリスやフランスで大きく発展して(イギリスの科学的研究、フランスのカルデック流スピリティズム)、そこから全世界に発信された理由は、19世紀が白人至上主義社会であることと、19世紀に於ける英米の国力の違いが作用していると思われる。

■皆村武一著『“ザ・タイムズ”にみる幕末維新』(中公新書1998年刊)によれば、

――19世紀の「万国公法(国際法)」では、ヨーロッパ文明を有する国だけが文明国とみなされ、国際法上の主体として認められていた。文明国は、開拓・征服・割譲によって新たな領土を獲得し、相互にそれを承認し、確定する権利を有していた。世界は三つに分けられる。第一は「自主の国(ヨーロッパ諸国)」で完全な政治的承認がなされた国。第二は「半主の国(半未開国:中国や日本など)」で部分的な政治的承認が得られた国であり、西洋諸国は一定の条約を結ぶ(不平等条約)が、拒んだ場合は武力征服する。第三は「未開国(アジア・アフリカ諸国)」であり、「無主の地」として征服の対象とされた地域である(91頁参照)――。

当時は西洋優位の考え方が「世界の常識」であった。ここに明治新政府がイギリスを手本として近代化政策を強力に推進させた理由があった。

19世紀半ばにおける英米の国力の違いは各種資料によって明らかであるが、国民が受け止める一般的な印象については、浅野和三郎著『英文学史』(明治40年:1907年)の巻末付録「米国文学史」の記載が参考になる。

日本においてはアメリカ文学の紹介がイギリス文学に比べてかなり少なかったが(→現実に大正末頃までは少なかったという)、その理由を浅野は「アメリカの歴史の浅さ」と共に、当時は一般に「アメリカ文学は植民地の文学であり、イギリス文学の一支流と考えられていた」ことによると述べている。

この他に『日本の英学100年、明治編』(研究社1968年刊、106頁)、『日本の英学100年、大正編』75頁を参照のこと。

19世紀中頃のアメリカは、西部に広大なフロンティア(アメリカ国勢調査局長は報告書に1890年にフロンティアが消滅した旨を記した:有賀貞・大下尚一他編『アメリカ史、2』山川出版社1993年、16頁)が広がっており、毎年大量の移民が押し寄せる“二流国家(農業国家)”と見られていた。そのため“本流たる霊的潮流”は、当時の二流国家のアメリカから、いったん一流国家のイギリスに移してそこから全世界に発信された。

 

<注28

■田中千代松著『新理想郷物語』(出版科学総合研究所1987年刊)25頁参照。

 

<注29

■田中千代松著『新霊交思想の研究(改訂版)』(共栄書房1981年刊)46頁参照。

 

<注30

■三浦清宏著『近代スピリチュアリズムの歴史』(講談社2008年刊)69頁参照。

田中千代松著『新霊交思想・心霊研究・超心理学年表』(日本心霊科学協会1974年刊)10頁によれば、「英国における最初のスピリチュアリスト誌『霊の世界』を企てたが、5月に初号を発行しえただけであった。ヘイデン夫人この年にアメリカに帰る」との記載がある。

 

<注31

■ジャネット・オッペンハイム著、和田芳久訳『英国心霊主義の抬頭』(工作舎1992年刊)29頁。田中千代松著『新霊交思想の研究、改訂版』(共栄書房1981年刊)48頁。ジョン・レナード著、近藤千雄訳『スピリチュアリズムの真髄』(国書刊行会1985年刊)101頁参照。

田中千代松氏によればヘイデン夫人の夫は「ボストンでスター・スパングルド・バンナー紙の編集長」(『新霊交思想の研究』45頁)であるという。しかし三浦清宏氏によれば「彼女は『星条旗』紙の主幹の妻」(三浦清宏著『近代スピリチュアリズムの歴史』68頁)であると述べている。Wikipediaによれば“星条旗新聞”の創刊は1861年となっているので、現在の星条旗新聞と同じ名前だが違う新聞なのかもしれない。

■田中千代松著『新霊交思想・心霊研究・超心理学年表』日本心霊科学協会1974年、12頁によれば、「1853年頃、“お茶とテーブル・ターニング”の会が流行」したという。

 

<注32

■ジャネット・オッペンハイム著、和田芳久訳『英国心霊主義の抬頭』(工作舎1992年刊)24頁~28頁参照。

1852年イギリスに流入したスピリチュアリズムは、庶民の間で家庭交霊会ブームをもたらした。「小さな家庭内サークルでのプライベートな霊媒たちの活動は、プロの霊媒による公開交霊会とは比べものにならないほど身近なもので、多くの信者の生活に心霊主義を持ち込むきっかけとなった」(前著26頁)。

このように庶民の間に広まったスピリチュアリズムはブームとなって、「霊魂や霊の世界が実在すること」「顕幽の交信が可能なこと」を、具体的な事実という形で証明して見せた。■歴史的事実として西洋ではキリスト教の伝播の過程に於いて、土着のシャーマニズムは表舞台から駆逐され社会の裏側に押しやられてしまった。「シャーマンを通して霊的存在が出現するというアニミズムやシャーマニズムの死生観・霊魂観」は、ことごとく社会の表舞台から一掃されてしまった。

ヴィクトリア朝時代(1837年→1901年、英国)、庶民の間から始まった「現代版シャーマンによる家庭交霊会のブーム」は、いわばカラカラに干上がった霊的土壌にクワを入れて耕す現象となって、キリスト教社会において抑圧されてきた霊の復権に道を付けることになったといえる。このような庶民レベルのスピリチュアリズムのブームは、心霊現象の科学的解明に道を付けることに繋がったが、構造的にはいわば下から押し上げられる形で、SPR(心霊研究協会)などのアカデミズムにおける検証が始まったといえよう。

 

<注33

■神智学の本来の意味は、「学問的知識によらずに神秘的直感によって、直接に神を認識し神の啓示に触れようとする立場」である。ここから「神は叡知的な性格を持ち、宇宙は神の叡智によって形作られているが、人間の智や認識も神の叡智に通じる性格を持ち、人間は神を認識し神に近づくことができる」と説かれている。このような立場にある神智学は「神の不可知や人間の認識の限界を強調する正統派神学や哲学からは、常に異端視されてきた」。本稿において述べる神智学とはこのような本来の意味ではなく、19世紀後半のブラヴァツキー等によって主張されてきた“神智学(=近代神智学)”を指す。

 

<注34

■ピーター・ワシントン著、白幡節子・門田俊夫共訳『神秘主義への扉』(中央公論新社1999年刊)216頁~223頁参照。

 

<注35

■ハワード・マーフェット原著、田中恵美子訳『H・P・ブラヴァツキー夫人』(竜王文庫1981年刊)94頁以下、171頁参照。

■ステイトン・モーゼス著、近藤千雄訳『霊訓』(国書刊行会1985年刊)384頁(梅原伸太郎著「人間の代理人としてのモーゼス」参照)。この他にコリン・ウィルソン著、中村保男訳『オカルト』(平河出版社1985年刊)349頁にブラヴァツキーの霊能力の強さを示すエピソードがある。

ブラヴァツキーの霊能力はどの程度のものであったのか。多くの伝えられている事例から判断すれば、かなり強い能力を持った霊媒体質者であったことが窺える。

たとえば『霊訓』(国書刊行会)の中で、「1881年頃、神智学協会の中で、イムペレーターを名乗る霊は、実は現在生きている神智学協会の幹部の一人で、その人物がWS・モーゼス本人に気づかれずに陰でモーゼスを操作しているのだという噂が広まった・・・これを伝え聞いたモーゼスがイムペレーターに噂の真偽を尋ねたところ、イムペレーターは、それは全くの作り話であると答えた。そして、ブラヴァツキー夫人については、『彼女は我々と話したことはない。しかし、彼女には必要とあれば我々の存在に関する事実を確かめるだけの力はある』と言った」というエピソードがある。高級霊のインペレーターはブラヴァツキーの霊能の強さに関しては認めていたことになる。

■田中千代松著『高等霊交思想についての考察』(自費出版1976年)35頁以下参照。

田中千代松氏はブラヴァツキーの「神智学の奇蹟」のトリックの背景には、「霊媒的能力の発現には消長があること」や「霊媒者と人格の問題」、さらには「物理的心霊現象には霊媒者のエネルギーの消耗をかばうための“霊的トリック”の存在」などを指摘している。

田中氏は「霊媒的能力の発現には消長があること」を理由に述べているが、高級霊のシルバーバーチも同様なことを述べている。「どの霊媒の場合も同じですが、霊能の行使が身体に害を及ぼすと見た場合は遮断せざるを得ないのです・・・本来の健康状態でない時は霊力が一時的に引っ込められることがあることを予期しなければなりません」(近藤千雄訳『シルバーバーチの霊訓』2110頁)。

■吉田正一著『吉田正一論文集』(日本心霊科学協会1981年刊)12頁以下参照。

吉田正一氏(元日本心霊科学協会理事長)は「霊媒者と人格の問題」に関連して「霊能の進化とは心境を高めること・・・霊能修行者の背後霊が、より高い心境のものに移行し、そこに新しい背後関係が設定されることをいう(→霊能の質的養成)」。さらに「霊能の強化とは霊能を強めること・・・霊能修行者とその背後霊との関係それ自体を深めることをいう(→霊能の量的養成)」。このように分けて両者の関係を論じている。

■モーゼスの霊訓には「続霊訓」で知られている『インペレーターの霊訓』(近藤千雄訳、潮文社)という著書がある。その中に田中千代松氏が述べた「霊的トリック」を示唆する文言がある。「物理現象にたずさわる低級霊は、ある目的を何とか達成しようとして、ごまかす意図からではなしに、手っ取り早い手段を使用することがあるものである。特に完全物質化現象は低級霊にしかできない現象の一つであるが、霊側は別にごまかすつもりからではなしに霊媒の身体を利用することがある。それが一番手っ取り早いからであるが、貴殿にはそれがせっかくの純正な現象の中にもごまかしが混じっているかに思われるのである」(『インペレーターの霊訓』163頁)。

しかし「霊媒的能力の発現には消長があること」や「霊媒者と人格の問題」「霊的トリック」の問題と言っても、ブラヴァツキーが行った「神智学の奇蹟」のトリックは、当初からエマ・カッテング夫婦の協力の下に行った故意犯である。

 

<注36

■岩本道人著「神智学の誕生」:近代ピラミット協会編集『オカルト・ムーブメント』(創林社1986年刊)所収、40頁参照。

 

<注37

■岩本道人著「神智学の誕生」:近代ピラミット協会編集『オカルト・ムーブメント』(創林社1986年刊)所収、42頁以下参照。

 

<注38

■岩本道人著「神智学の誕生」:近代ピラミット協会編集『オカルト・ムーブメント』(創林社1986年刊)所収、37頁以下参照。

 

<注39

■エリファス・レヴィ著、生田耕作訳『高等魔術の教理と祭儀(教理篇)』(人文書院1982年刊)180頁~参照。

レヴィは交霊会で出現する霊は死後、天上に昇る魂の部分ではなく、肉体に重なって存在するアストラル・ボディという不可視の体であり、往々にして夢魔や怨霊などの邪悪な存在になる地上的・物体的な屍であるとして、「霊を呼び出すことは危険でかつ有害」であり、「霊魂が上層領域を実際に離れて私たちと話しにやってくるという証拠は何一つなく、却ってその逆が考えられる」と述べている。

レヴィのいう「アストラル・ボディという不可視の体」とは、スピリチュアリズムで言うところの半物質状の「幽質結合体」のこと。帰幽後の霊は「中間境」で霊的身体(=幽体のこと)を完成させて、「幽質結合体」を脱ぎ捨てて自分の霊的レベルに見合った境涯へ行く。しかし中には、死の自覚がなく意識が地上に向いている霊(→「幽質結合体」を脱ぎ捨てることが出来ずに何時までも「中間境」に留まっている地縛霊)もいる。この地縛霊と霊的波長があった人間は、とかく問題が起きやすい(→レヴィが危険であると述べているのはこの意味)。

 

<注40

■ハワード・マーフェット原著、田中恵美子訳『H・P・ブラヴァツキー夫人』(竜王文庫1981年刊)200頁参照。

 

<注41

■田中千代松編『新・心霊科学事典』(潮文社1984年刊)377頁。および三浦清宏著『近代スピリチュアリズムの歴史』(講談社2008年刊)189頁参照。

 

<注42

■岩本道人著「神智学の誕生」:近代ピラミット協会編集『オカルト・ムーブメント』(創林社1986年刊)所収、50頁。ピーター・ワシントン著、白幡節子・門田俊夫共訳『神秘主義への扉』(中央公論新社1999年刊)73頁参照。

 

<注43

■アーネスト・トンプソン著、桑原啓善訳『近代神霊主義百年史』(コスモ・テン・パブリケーション1989年刊)189頁参照。

ジャネット・オッペンハイム著『英国心霊主義の抬頭』73頁によれば、『スピリチュアル・マガジン(→1860年創刊の心霊主義雑誌の草分けだが1877年に廃刊:71頁参照)』『スピリチュアリスト・ニューズペーパー(→『スピリチュアリスト』誌を改題した。1869年末から1882年まで発行された)』『ライト(1881年創刊)』などの雑誌は、中流階級の教養豊かな都市生活者を読者層としていた。これに対して『ツーワールズ』は都会人よりも地方読者を想定していたという。なお『ツーワールズ』は次第に“改革的で進歩的な非キリスト教的な心霊主義の代表的な雑誌”になった。『ツーワールズ』は1887年から1892年まではブリテンが、その後1906年まではE.W.ウォリスとJ.J.モースによって編集された。

■三浦清宏著『近代スピリチュアリズムの歴史』(講談社2008年刊)189頁~191頁参照。

ブリテンは1890年に「スピリチュアリスト国民連合(NFS)」設立のために尽力し、1892年には「全米スピリチュアリスト連合」を設立した。

ブリテンは自動書記によってロバート・オーエンから受け取ったメッセージが「スピリチュアリズムの七綱領」として知られている(これは「スピリチュアリスト国民連合」の綱領ともなっている)。

1.神はあらゆるものの源である。

2.人類はみな同胞である。

3.人間の個性は死後も存続する。

4.この世とあの世とは交信可能であり、人間は天使の指導を受ける。

5.各人にはそれぞれ果たすべき責務がある。

6.生きている間も死んでからも、行ったことには必ず報いがある。

7.人の魂は永遠に向上することができる。

 

<注44

■ジャネット・オッペンハイム著、和田芳久訳『英国心霊主義の抬頭』(工作舎1992年刊)225頁参照。

 

<注45

■ピーター・ワシントン著、白幡節子・門田俊夫共訳『神秘主義への扉』(中央公論新社1999年刊)115頁参照。

 

<注46

■ピーター・ワシントン著、白幡節子・門田俊夫共訳『神秘主義への扉』(中央公論新社1999年刊)112頁以下参照。なお「神智学の奇蹟」の言葉の出典は『神秘主義への扉』115頁。

 

<注47

■田中千代松著『高等霊交思想についての考察』(自費出版1976年刊)32頁によれば、「この委員会の構成員はE.ガーニイ、F.W.マイヤーズ、F.ポドモア、H.シジュウィック、およびJ.H.スタック。後にR.ホジソンとH.シジュウィック夫人が加わった」という。

 

<注48

■田中千代松著『高等霊交思想についての考察』(自費出版1976年刊)30頁参照。

 

<注49

■インド人の反応

ジャネット・オッペンハイム著、和田芳久訳『英国心霊主義の抬頭』(工作舎1992年刊)232頁。イヴォール・グラッタン=ギネス編、笠原敏雄訳『心霊研究―その歴史・原理・実践』(技術出版1995年刊)によれば、この報告書によって神智学協会は壊滅的な状態に陥ったという(15頁)。

しかしインド人の反応はイギリス人とは異なっていた。「ブラヴァツキーはインドではヒンズー教の側に立っていた。それゆえ、伝道組織やSPRのような西洋の組織からの攻撃は、心霊現象が本物か偽物かという論争をうやむやにしてしまうことになった。彼女を支持するインド人の目には、ブラヴァツキーと(インドの)自治と大義は同一の問題にうつるようになったからだ」(ピーター・ワシントン著『神秘主義への扉』119頁)。

■神智学協会の分裂

神智学協会は1895年の大会で、オルコット、アニー・ベサント、リードビーターの「アディヤール派(→オルコットの会長在職は1875年→1907年、次のアニー・ベサントの会長在職は1907年→1933年)」と、「アメリカ神智学協会」の二つに分裂した。

その後インドに本部を置く「神智学協会アディヤール派」はインド独立運動と密接に結びついていく。二代目会長のアニー・ベサントは、1917年にインドの独立運動に指導的役割を果した「インド国民会議の議長」に就任している。

アメリカ神智学協会は1898年に本部をカリフォルニア州サンディゴ近郊のポイント・ローマに移した。それ以降「ポイント・ローマ派」と呼ばれた。現在はカリフォルニア州パサディナに本部を置き、アメリカでは単に「神智学協会」と呼ばれている(→または「神智学協会、国際本部:カリフォルニア州パサディナ」という表記)。「ポイント・ローマ派」は、学校や孤児院を建設して「ユートピア的なコミュニティを目指した」。まぎらわしいが現在の「アメリカ神智学協会」は、「神智学協会アディヤール派」のアメリカ支部のこと。

■スティーブンソン

イギリス人のエドワード・スタンリー・スティーブンソンは、1902年から1922年までの20年間、海軍機関学校の英語教官として在籍していた。スティーブンソンはポイント・ローマの機関誌に日本関係の記事や写真をたびたび掲載していた。その関係で、戦前の日本海軍はポイント・ローマ派の神智学協会と関係が深い。たとえば日本海軍の練習船がサンディゴ港に入港するたびに神智学協会は歓迎レセプションを開いたなどが知られている。

また1909年(明治42年)渋沢栄一が率いる渡米実業団(総勢50数名)は、サンディゴ訪問の際に、半日割いてポイント・ローマを訪問している。渋沢栄一記念財団の資料によれば1909年(明治42年)1122日(月)の『渡米実業団日録』の記事に「滞米第83日、サンディゴ到着。ロマ岬で神智教付属学校ラジャ・ヨガ学院を訪問。ホテル・デル・コロナドで商業会議所の午餐会」という記載がある。なお浅野和三郎(1900年から1916年まで教官として在籍)と関係が深いのは「神智学協会ポイント・ローマ派」である。

 

<注50

■アーサー・E・パウエル編、仲里誠桔訳『神智学大要Ⅱ』(たま出版1981年刊)237頁以下参照。

 

 

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