« スピリチュアリズムとキリスト教:総論編(注記) | トップページ | 心霊研究 »

スピリチュアリズムとキリスト教:個別テーマ(注記)

<注1>

■教皇ベネディクト16世ヨゼフ・ラツィンガー著、星野泰昭訳『イエス・キリストの神――三位一体の神についての省察』(春秋社2011年刊)193頁「訳者解説」参照。

■下記文献の該当項目を基にしてまとめた。

大貫隆他編集『岩波キリスト教辞典』(岩波書店2002年刊)

J・ゴンザレス著、鈴木浩訳『キリスト教神学基本用語集』(教文館2010年刊)

フスト・J・ゴンザレス著、石田学訳『キリスト教思想史Ⅰ』(新教出版社2010年刊)

フスト・J・ゴンザレス著、石田学訳『キリスト教史、上巻』(新教出版社2002年刊)

ミラード・J・エリクソン著、宇田進監修・安黒務訳『キリスト教神学、1巻・2巻合本』(いのちのことば社2010年刊)277頁以下参照

 

<それぞれのイエス説>

アレクサンドリア教会の主教アレクサンドロスは「聖体共存説」を唱えたが、その秘書を務めたアタナシウスは、325年ニカイア公会議に随行して、アレイオス派(イエス人間説を唱えて「父」のみが永遠であるとした)と対抗した。アレイオス派が最終的に排除されて「三位一体の教義」が確定したのは、コンスタンティノポリスで開かれた第2回公会議においてであった。

アタナシウス派も一枚岸ではなかった。「イエスは神であり人であった」とする点では一致していたが、「神と人との結合をどう理解するか」という点で論争となった。

ネストリウス派(→アンティキオ学派:431年のエフェソスの第3回公会議で異端と宣言された)は、キリストには神性と人間性があるとして「二つの本性」を主張して、「人間性と神性を明確に区別してイエスの人間性を確保して、キリストは人間として生まれ、神性を帯びて、三位一体の存在となった」と説いた。その結果、キリストに対してはあくまで神性を帯びた人間であるため「崇敬」となって「崇拝」は否定された。

単性派は「キリストは人間として生まれ、神性を帯びて、三位一体の存在となった後、人間性は神性に吸収され、神性のみの存在(=単性)となった」と主張して、「一つの本性(=単性)」を主張した。したがってキリストは神性だけの存在なので、キリストへの崇拝を認めた。なお単性派は451年のカルケドンの第4回公会議で排斥された。

カルケドン派は「キリストは、神性を帯びた特別な存在(三位一体)として、この世に生を受けた」とした。

 

<マリアの位置づけ>

マリアは「神を生んだ方」を意味する「テオトコス」という称号で呼ばれていた。この称号は431年のエフェソス公会議で最終的に承認された。なお多くのプロテスタントではマリアを「神の母」とみなす考え方を否定している。

マリア信仰はネストリウス派では否定される。また単性派でもマリア信仰は否定される。なお単性派もネストリウス派でも、聖母マリアは単に普通の女性とされた。これに対してカルケドン派では、マリアは「神性の子を産んだ特別な存在」とされた。

 

<信仰の定義>

カルケドン公会議において「キリストの内には二つの本性が一つの人格となって存在している」という概念を再確認した。そして正統的キリスト論となった「信仰の定義」を採択した。「信仰の定義」は下記の通り(出典:フスト・J・ゴンザレス著『キリスト教史、上巻』275頁)。

――われらの主イエス・キリストは唯一の同じ神であり、神性においても人性においても完全であり、真の神であり真の人、理性的な魂と肉体を持ち、神性において父と同質であり、その人性においてわたしたちと同質であり、罪を除いてすべての点において私たちと等しく、神性においては世に先立って生み出され、人性においては、この終わりの時に、神の母処女マリアから生まれたことを告白する。

この方が、一人の同一のキリスト、御子、主、ひとり子であり、二つの性質が混じり合うことも、変化することも、分離されることもなく、表された。この結合は二つの性質の区別を破壊せず、むしろ両性の固有性を一つの位格と一つの実体の内に保持していた。二性は二つの位格へと分割されることなく、唯一の神のひとり子、神の言であるイエス・キリストに属している――

 

<注2

■J・ゴンザレス著、鈴木浩訳『キリスト教神学基本用語集』(教文館2010年刊)103頁。「三位一体」という言葉そのものは聖書には出てこない。

『カトリック教会のカテキズム要約』(カトリック中央協議会2010年刊)によれば「イエスは神のひとり子、三位一体の第二のペルソナです。イエスは使徒の宣教の中心です」(74頁)と説かれている。

 

<注3

■近藤千雄訳『シルバーバーチの霊訓、7巻』(潮文社)79頁によれば、「神とは法則なのです。あなたが正しいことをすれば、自動的にあなたは自然法則と調和するのです。窮地に陥ったあなた一人のために、どこか偉そうな人間的な神様が総力挙げて救いに来てくれる図を想像してはいけません。スピリチュアリストをもって自認する人たちの中にもいまだにそういうふうに考えている人が大勢います」と述べている。

 

<注4>

■近藤千雄訳『霊的新時代の到来』(スピリチュアリズム普及会2004年刊)46頁の記載によれば、「大霊による直接の関与などというものは絶対にありません。あなた方が想像なさるような意味での人間的存在ではないのです」。

さらに人間は、自らの霊的成長レベルに応じた霊と連絡が取れるとして、次のように述べている。「(旧約聖書の)“ヤコブのはしご”の話に象徴されているように、最低のものから最高のものへと至る霊的階梯があって、そこに無数の中間的存在がいるのです。上へあがるほど、より神性を帯びた意志と叡智を表現しております。ですから、人間が心を開き、霊性を開発し、向上するにつれて、より大きな霊力、より大きな知識、より大きな理解力をそなえた高級な存在と連絡が取れるようになるわけです。・・・こちらの世界では、向上進化が進むほど、自分が得たものを他に施すべきであるとの自覚が強くなるのです」

 

<注5>

■モーリス・バーバネル著、近藤千雄訳『これが心霊の世界だ』(潮文社1995年刊)246頁参照。

■「神→摂理⇔人間」の関係

日本国籍を持った国民は、日本国の理念(平和、自由、平等、個人の尊厳等)のもとで有形無形に守られている(→如実に実感できるのは海外に出て他国の実情と比較したとき)。日本国の理念は“法令(憲法・法律・条令・政令等)”の中に盛り込まれる形で、国民に示されている。国民は“法令”を通して日本国の理念を知る(法の支配)。国民は法令に違反すればペナルティを負わされるが、順守すれば国民としての権利を行使でき、保護される。そのため国民は法令に則った生活をする必要がある(霊的摂理に則った生活)。この法令の具体的執行は、階層構造的な(国家・地方)公務員が担う。

この事例において日本国の理念を「神」とし、法令を「摂理」として、その法令の具体的な執行は公務員が行っている。この階層構造的に存在する公務員を「神の摂理を実行する天使的存在」と置き換えれば理解できる。(相対と絶対の違いは脇に置くとして)

 

<注6>

■「分岐点」は禁煙運動に端的に見られる。

1492年にコロンブスは“新大陸”に到達して、その地で行われていた喫煙という「奇妙な風習」を西洋に持ち帰った。日本には1600年頃に“タバコの種子”が持ち込まれて、それが全国に拡散して喫煙が急速に広まった(日本ではタバコは舶来品)。明治政府は社会的に是認されてきた喫煙につき、日清・日露戦争頃から戦費調達のためタバコに税金を課す「タバコ専売法」(1904年:明治37年)を施行した。また「恩賜タバコ」という形で、政府は喫煙者を広めていった。

西洋において肺がんと喫煙との関係の研究が進み、1960年代以降、禁煙の取り組みが始まり、徐々に世界的に拡大していった。日本では1990年代に禁煙運動の一つの分岐点があった。日本に於いて禁煙運動の流れを促進した事例(分岐点)として、当時の国鉄に対して「全ての列車の半数以上を禁煙車に」と訴えた「嫌煙権訴訟」や、禁煙運動の存在があった。それ以降、日本でも加速度的に禁煙が広まった。

どのような取り組みでも「分岐点」に辿り着くまでは長く苦しい道のりだが、胸突き八丁の「分岐点」を超えれば加速度的に進展していく。それが「禁煙運動」に見ることができる。スピリチュアリズムの普及運動も同様である。

 

<注7>

■近藤千雄訳『シルバーバーチの霊訓、2巻』(潮文社)169頁では、「祈りとは波長を合わせることです」「私たちの意志を神の意志と調和させることであり、神との繋がりをより緊密にすることです」。さらに『シルバーバーチの霊訓、3巻』141頁では、「祈るということは、叶えられるべき要求が自動的に授かるような条件を整えるために自分自身の波長を高めて、少しでも高い界層との霊的な交わりを求める行為です」。『シルバーバーチの霊訓、7巻』198頁では、「祈りとはわれわれの周りに存在するより高いエネルギーに波長を合わせる手段」とある。この他に『シルバーバーチは語る』(スピリチュアリズム普及会)133頁や『霊的新時代の到来』(スピリチュアリズム普及会)173頁にも、同様なことが述べられている。

 

<注8>

■近藤千雄訳『シルバーバーチの霊訓、11巻』(潮文社)114頁では、「祈願するというその事実が、内部の神性の発現を促しているから」。さらに『シルバーバーチは語る』(スピリチュアリズム普及会)140頁では、「(祈りとは)内部の大霊をより多く発現し、より多くの恩寵を授かるための魂の活動です」。この他にアラン・カルデック編、近藤千雄訳『霊の書』(スピリチュアリズム普及会)246頁にも、「思念の波動を神に近づけるための祈りです。その祈りを通して神に近づくのです」との記載がある。

 

<注9>

■近藤千雄訳『シルバーバーチの霊訓、3巻』(潮文社)226頁~227頁では、「祈りとは魂の行です。より大きな自我を発見し、物的束縛から脱して、本来一体となっているべき高級エネルギーとの一体を求めるための手段です」「(祈りが)出来ないと観念された方は祈らない方がよろしい。祈りとは精神と霊の“行”です」。

近藤千雄訳『シルバーバーチの霊訓、7巻』(潮文社)205頁では、「その方が祈りたくないと思われるのなら、別に祈る必要はないのです。私は無理にも祈れとは誰にも申しておりません。祈る気になれないものを無理して祈っても、それは意味のない言葉の羅列に過ぎないものを機械的に反復するだけですから、むしろ祈らない方がいいのです」。

 

<注10

W.S.モーゼス著、近藤千雄訳『インペレーターの霊訓』(潮文社)100頁では、「霊体には神性が内在しており、祈りと内省の時を多く持ち、実生活における義務を誠心誠意に果たすことによって、その神性が発達します」。

 

<注11

■近藤千雄訳『シルバーバーチの霊訓、11巻』(潮文社)113頁では、「祈りの対象は自然の摂理であるべきでしょうか」との問いに対して、シルバーバーチは「いえ、対象は内にも外にも存在する大霊であるべきです」と明言している。大霊(=神)とともに「神の摂理」も祈りの対象に含める人もいるが、神概念を理解した者ならシルバーバーチが述べるように、大霊に捧げるべきであろう。

この他に『シルバーバーチは語る』(スピリチュアリズム普及会)159頁でも、「祈願は大霊に捧げるべき」とある。また『シルバーバーチ最後の啓示』(ハート出版)122頁では、「私たちは大霊に祈りを捧げるのでございます」との記載がある。

 

<注12

■近藤千雄訳『シルバーバーチの霊訓、7巻』(潮文社)205頁では、「何に向かって祈るか、いかに祈るかは、本人の魂の成長度と全生命の背後の力についての理解の仕方にかかわってくる問題です」。

 

<注13

W.S.モーゼス著、近藤千雄訳『霊訓、上』(スピリチュアリズム普及会)38頁では、「神については知ることを得た。が、神そのものを直接には知りえぬ。これより後も、かの超越界に入るまでは知り得ぬであろう。われらにとっても神はその働きにより知り得るのみである」と述べる。さらに『霊訓、下』31頁では、「たとえ拝したことはなくとも、われらはその御業を通じて神の奥知れぬ完璧さをますます認識する。・・・われらは無数の方法で、その存在を認識することを得ている」という。

一般に用いられている比喩を使って表現すれば、「雲が重く垂れこめた曇天の日でも、昼間の明るさを通して太陽の存在を実感として感じる。雲に隠れているからといって太陽は存在しないとは誰も言わない」。それと同じこと。

 

<注14

■日本カトリック司教協議会監訳『カトリック教会のカテキズム要約』(カトリック中央協議会発行2010年刊)75頁~80頁参照。

■『岩波キリスト教辞典』(岩波書店2002年刊)1069頁以下。および『マルコによる福音書』63参照。

母マリアと父ヨセフ(木材加工業者)との間に、長男のイエスを含めて7人の子供がいたとされる。ただし「カトリックにおいては、マリアの永遠の処女性の教義からイエス以外の子をマリアの子として認めず、弟や妹をいとこと解釈」している。

 

<注15

■近藤千雄訳『シルバーバーチの霊訓、3巻』(潮文社)105頁では「イエスは普通の子と同じように誕生しました」とあり、101頁では「イエスは神ではなく人間でした。物理的心霊現象を支配している霊的法則に精通した大霊能者でした。今日でいう精神的心霊現象にも精通していました」との記載がある。

ジョン・レナード著、近藤千雄訳『スピリチュアリズムの真髄』(国書刊行会1985年刊)180頁には、「いかなる人間といえども、自然の理法によって地上に生をうけるのです。人間が自然法則を無視して誕生することは絶対にありません。イエスの懐胎も一人のあたりまえの人間の懐胎と少しも変わりません。処女懐胎説は誤り。イエスもまた至って平凡な夫婦の間に生を享けた」とある。

■シルバーバーチは「イエス人間説」を次のような表現で述べている。

近藤千雄訳『シルバーバーチの霊訓、5巻』(潮文社)では、「イエスだけでなく、すべての人間に神の分霊が宿っております。ただその分量が多いか少ないかの違いがあるだけです」(『シルバーバーチの霊訓、5巻』180頁)。結局イエスと私たちの間には「霊(自我の本体:神の分霊が宿る)」の進化レベルに違いがあって、イエスは進化レベルが高いため、「霊」に内在している「神の分霊」の顕在化が一段と大きい、この差が私たちとの違いになる。

さらに「イエスは教会堂という神聖な場所を汚す者どもに腹を立てたのです。イエスは怒ったのです。怒ると云うことは人間的感情です。イエスも人間的感情をそなえていたということです。イエスを人間の模範として仰ぐ時、イエスもまた一個の人間であった、ただ普通の人間より神の心を多く体現した人だったと云うふうに考えることが大切です」(『シルバーバーチの霊訓、5巻』193頁)。「イエスもやはりわれわれと同じ人の子だったと見る方がよほど喜ばれるはずです。・・・人類とともに喜び、ともに苦しむことを望まれます。一つの生き方の手本を示しておられる」(『シルバーバーチの霊訓、5巻』194頁)と。

これからも分かるようにイエスは神の分霊を宿した「神の被造物」であり、「イエス人間説」が正しいことになる。

 

<注16

■近藤千雄訳『シルバーバーチは語る』(スピリチュアリズム普及会2000年刊)176頁参照。なお『シルバーバーチは語る』169頁では、「イエスの地上人生の究極の目的は、地上の人間が内部の大霊を発現すればこれほどのことが可能なのだという、その手本を実行して見せることにあった」との記載がある。

 

<注17

■日本カトリック司教協議会監修『カトリック教会の教え』(カトリック中央協議会2003年刊)53頁参照。

 

<注18

■日本カトリック司教協議会監訳『カトリック教会のカテキズム要約』(カトリック中央協議会発行2010年刊)65頁参照。

 

<注19

■近藤千雄訳『シルバーバーチの霊訓、9巻』(潮文社)139頁では、「イエスは霊能者だったのです」との記載がある。さらに「ここでぜひともご注意申し上げておきたいのは、イエスに関する乏しい記録に大変な改ざんがなされていることです。ずいぶん多くのことが書き加えられています。ですから聖書に書かれていることにはマユツバものが多いということです。出来すぎた話は全部割り引いて読まれて結構です。実際とは違うのですから」とある。聖書を読む場合には注意しなくてはいけない。

近藤千雄訳『シルバーバーチは語る』(スピリチュアリズム普及会)159頁では、「ナザレのイエスは大霊の使命を帯びて物質界へ降誕した多くの大霊の使者の一人でした。そして地上で為すべき仕事は果たしましたが、それで使命の全てが終わったわけではなく、今なお霊の世界から働きかけております」。

さらに近藤千雄訳『霊性進化の道しるべ』(スピリチュアリズム普及会)66頁では、「イエスは進化せる高級霊の一人です。地上人類の手の届かないほど誇張され神格化された、縁遠い存在ではありません。すぐに手の届くところで、あなた方がスピリチュアリズムと呼んでおられるこの真理、その普及の指揮をなさっておられるのです」とある。

■近藤千雄訳『シルバーバーチの霊訓、3巻』(潮文社)104頁では、「イエスはその後も私たちの世界に存在し続けています。イエス直々の激励にあずかることもあります。ナザレのイエスが手掛けた仕事の延長ともいうべきこの(スピリチュアリズムの名のもとの)大事業の総指揮に当たっているのが他ならぬイエスであることも知っている」。さらに『シルバーバーチの霊訓、5巻』78頁では、「霊界からの地球的規模の働きかけの最高責任者」との記載がある。

 

<注20

■近藤千雄訳『シルバーバーチの霊訓、4巻』(潮文社)80頁。『シルバーバーチの霊訓、10巻』61頁。近藤千雄訳『シルバーバーチの新たなる啓示』ハート出版、124頁参照。

同じ内容の記載が、W.S.モーゼス著、近藤千雄訳『インペレーターの霊訓』(潮文社)にある。46頁では「キリストの場合はかつて一度も物質界へ降りたことのない高級神霊が人類の向上と物的体験の獲得のため一時的に肉体に宿ったもの。そうした神霊は高い界層に所属し、人類の啓発のために特殊な任務を帯びて派遣される。肉体に宿らずに、霊媒を見出して働きかける場合もある」。

 

<注21 

■近藤千雄訳『霊的新時代の到来―シルバーバーチの霊訓』(スピリチュアリズム普及会)32頁参照。

<注22 

■近藤千雄訳『シルバーバーチの霊訓、5巻』(潮文社)176頁参照。

 

<注23

■近藤千雄訳『シルバーバーチの霊訓、9巻』(潮文社)221頁では、「私には出しゃばったことは許されません。ここまではしゃべって良いが、そこから先はしゃべってはいけないといったことや、それは今は言ってはいけないとか、今こそ語れといった指示を受けます。私たちの仕事にはきちんとしたパターンがあり、そのパターンを崩してはいけないことになっているのです。いけないという意味は、そのパターンで行こうという約束が出来ているということです」との記載がある。

 

<注24

G.V.オーエン著、近藤千雄訳『ベールの彼方の生活、2巻』(潮文社)39頁では、「こちらには地球の存在自体を支えるための要素を担当する霊と、地上に繁茂する植物を受け持つ霊とがいる。(植物を担当する霊の)霊団は強力な守護神の配下に置かれ、完全な秩序のもとに何段階にも亘って分担が存在する。その下には程度の低い存在が霊団の指揮のもとに、高い界で規定された法則に従って造化の仕事に携わっている。これがいわゆる妖精類で、その数も形態も無数である」。さらに『ベールの彼方の生活、4巻』278頁以下にも関連する記載がある。

 

<注25

■アラン・カルデック編、近藤千雄訳『霊の書』(スピリチュアリズム普及会)213頁~214頁参照。

<注26

■近藤千雄訳『シルバーバーチの霊訓、11巻』(潮文社)19頁参照。

<注27

■近藤千雄訳『シルバーバーチの霊訓、6巻』(潮文社)123頁参照。

<注28

■近藤千雄訳『シルバーバーチの霊訓、5巻』(潮文社)79頁参照。

 

<注29

■近藤千雄訳『シルバーバーチの霊訓、10巻』(潮文社)185頁参照。「神は人間に自由意志というものを授けられているということです。自由意志のない操り人形にしてもよかったのです。が、自由意志による選択の余地を与えられることによって、人間も永遠の創造的進化の過程に参加する機会が持てることになったのです。人間は地上をエデンの園、楽園、天国にすることもできれば、暗く荒涼とした、恐ろしい悪の園にすることもできます。そこに選択の余地が残されているのです」。

 

<注30

G.V.オーエン著、近藤千雄訳『ベールの彼方の生活、1巻』(潮文社)223頁参照。

<注31

■井上順孝編『現代宗教事典』(弘文堂2005年刊)の該当項目を参照

 

<注32

■ローマ・カトリック教会の聖書に対する考え方は「聖書正典を定めたのは教会であるから、教会とその伝統とは聖書を超える権威を持っているので、教会によって定義された伝統とその権威とに矛盾する聖書解釈は間違っている」(フスト・J・ゴンザレス著『キリスト教神学基本用語集』教文館2010年刊、154頁)と主張した。

ホセ・ヨンパルト著『カトリックとプロテスタント』(サンパウロ1986年刊)では「カトリックの見解では、聖書の解釈とキリスト教の正しい理解は、個人に任されたものではなく、教会に任されていた。ここに教会の存在理由がある」(58頁参照)と述べている。

また藤田富雄著『ラテン・アメリカの宗教』(大明堂1982年刊)によれば、「コロンビアのボゴタでは、ドミニコ会の修道院の集会で聖書協会を組織した。間もなく高位の聖職者は配布された聖書を読むことを信者に禁じた。カトリックの教義は聖職者によって教えるべきであって、信者が勝手に学ぶべきではないとし、“無知と狂信”の状態に信者を置くという政策がとられていたためと言われる。聖書の販売が許されたのは、やっと1856年から1860年になってから」(72頁参照)であったという。カトリックとプロテスタントの『聖書』に関する理解の違いがここから分かる。

■近藤千雄著『あの世からの現地報告(三部作)その1』(コスモス・ライブラリー2007年刊)11頁によれば、16世紀頃までの『聖書』はラテン語やヘブライ語で書かれていたので、一般庶民は聖職者からこれが「バイブルの教えだと言われれば、素直にそう信ずるしかなかった」という。

近藤千雄著『あの世からの現地報告:三部作、その1』所収、110頁~272頁(ウィリアム・ティンダル――新約聖書を英語に翻訳して火刑に処せられた男)参照。

語学の天才ウィリアム・ティンダル(William Tyndale1494年または1495年→1536年)は、『聖書』を初めて英語に翻訳した人であった。ティンダルの翻訳のおかげで、初めて『聖書』に何が書いてあるのかを理解した聖職者や庶民は多かったという。しかしティンダルは『聖書』を英語に翻訳した罪で、ローマ・カトリック教会による異端審問で1536年に火刑に処せられた。イギリスの国王ジェームス1世は『聖書』を英訳した『欽定訳聖書』を1611年に刊行したが、その90%がティンダル訳を使っているという。

 

<注33

■ホセ・ヨンパルト著『カトリックとプロテスタント』(サンパウロ1986年刊)55頁以下参照

<注34

■近藤千雄訳『シルバーバーチの霊訓、9巻』(潮文社)139頁参照。「ここでぜひともご注意申し上げておきたいのは、イエスに関する乏しい記録に大変な改ざんがなされていることです。ずいぶん多くのことが書き加えられています。ですから聖書に書かれていることにはマユツバものが多いということです。出来すぎた話は全部割り引いて読まれて結構です。実際とは違うのですから」。

近藤千雄訳『シルバーバーチの霊訓、6巻』(潮文社)196頁には「バイブルには事実でないことが沢山述べられています」との記載がある。

 

<注35

W.S.モーゼス著、近藤千雄訳『霊訓、上』(スピリチュアリズム普及会1998年刊)108頁~113頁では「彼らもバイブルを神の真理を説く聖なる記録として敬意を払うが、同時にそれはその時代に相応しきものが啓示されたものであり、故に今なお現代に相応しき啓示が与えられつつあると見る。バイブルは神と霊の宿命に関する人間の理解の発達過程を示すものとしてこれを読む・・・」「のちの時代の聖なる記録にも同じく執筆者の個性が色濃く残されている」。

 

<注36

■ジョン・レナード著、近藤千雄訳『スピリチュアリズムの真髄』(国書刊行会1985年刊)51頁、62頁、63頁参照。

<注37

■日本カトリック司教協議会監修『カトリック教会の教え』(カトリック中央協議会2003年刊)53頁~55頁参照。

 

<注38

■新約聖書、ローマ信徒への手紙5章「このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入りこんだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです」(512)。このことからキリスト教は「原罪とその結果(苦しみ、乱れた情欲、不毛、死)は、親から子へと伝わり、人祖が罪を犯したのだから、すべての人間は原罪とその結果を背負って生まれてくる」(『カトリック教会の教え』54頁)と考える。

ちなみにスピリチュアリズムでは、「苦しみや死」を罪とは見ていない。高級霊シルバーバーチによれば「死は地上生活の労苦に対して与えられる報酬であり、自由であり、解放です。いわば第二の誕生です」(『シルバーバーチの霊訓、1巻』150頁)。また「苦しみ」にはそれ相当の目的があるとして(『シルバーバーチの霊訓、8巻』138頁)、苦しみは霊性向上のための試練(『シルバーバーチの霊訓、4巻』42頁)であり、苦しみは進化の必須の条件(『シルバーバーチの霊訓、1巻』134頁)であるとしている。

 

<注39

■近藤千雄訳『シルバーバーチの霊訓、6巻』(潮文社)196頁参照。

<注40

W.S.モーゼス著、近藤千雄訳『インペレーターの霊訓』(潮文社1987年刊)26頁参照。「罪とは、本質的には、霊性を高めるべく意図された永遠不変の摂理に意識的に違反することです」「人間イエス・キリストの地上生活は、地上の人間が見習うべき一つの模範を垂れたものでした。が、それをもって人間の罪を贖ってくれるものと看做すことは赦しがたい欺瞞であり・・・」

 

<注41

W.S.モーゼス著、近藤千雄訳『霊訓、下』(スピリチュアリズム普及会)32頁参照。

<注42

■アラン・カルデック編、近藤千雄訳『霊の書』69頁参照。

 

<注43

■日本カトリック司教協議会監訳『カトリック教会のカテキズム要約』(カトリック中央協議会発行2010年刊)165頁参照。

カトリックの告解の方法は「神の代理としての司祭に、犯した罪を告白するという方法」で行う。「もちろん司祭も、ローマ教皇さえも、同じように他の司祭に告解することによって自ら犯した罪の許しを得る」(ホセ・ヨンパルト著『カトリックとプロテスタント』66頁)という。

 

<注44

■ホセ・ヨンパルト著『カトリックとプロテスタント』(サンパウロ1986年刊)68頁参照

<注45

■ヨハネによる福音書には「聖霊を受けなさい。誰の罪でも、あなたが赦せば、その罪は赦される。誰の罪でも、あなたが赦さなければ、赦されないまま残る」(2022,23)とあるように、神であるキリストは教会に、目に見えるような形で罪を赦す権能を与えてくれたと解している。

 

<注46

■近藤千雄訳『シルバーバーチの霊訓、5巻』(潮文社)202頁参照。

結果に対して責任を負わなければならない。蒔いたタネは自ら刈り取らなければならない。

<注47

■近藤千雄訳『シルバーバーチは語る』(スピリチュアリズム普及会)179頁参照。

 

<注48

■日本カトリック司教協議会監修『カトリック教会の教え』では「復活されたキリストは天に上げられ、父とともに地上の弟子たちに聖霊を注がれます。これが聖霊降誕です。この時から教会は活動を開始しました」「この地上でイエスが行われた救いのわざは、聖霊に導かれる教会を通して継続されていくことになります」(165頁)として、カトリックでは「教会」の役割の重要さが述べられている。

 

<注49

W.S.モーゼス著、近藤千雄訳『インペレーターの霊訓』(潮文社1987年刊)65頁によると「死して後に弟子たちに姿を見せたことは事実です。が、弟子たちとともに過ごした時のあの生身の肉体のまま現れたのではありません。また同じ日、弟子たちにやさしく別れを告げた後、一瞬にして姿を消し本来の天界へと帰って行ったことも事実です。人間はイエスが物的身体をもって現れたことに困惑し、その解釈に頭を痛めていますが、その例証となるものを皆さんは(この交霊会で)すでに見ておられます。残酷な死を遂げた後に見せたキリストの身体は物質化した霊体だったわけです。物質化に必要な条件が整ったときに弟子たちに姿を見せたのでした」と説明している。

イエスはエクトプラズムで物的身体をこしらえたのだが、キリスト教では霊的知識がないため、「肉体」または「肉体と類似した身体」と説明している。

 

<注50

W.S.モーゼス著、近藤千雄訳『霊訓、下』(スピリチュアリズム普及会)28頁では「キリストの再来とは霊的再来のことである」。同じく174頁では「“復活”が肉体の復活ではなく“霊”の復活」を述べている。

W.S.モーゼス著、近藤千雄訳『インペレーターの霊訓』(潮文社1987年刊)67頁では「イエスの再臨とは霊的な意味での再臨のことです。しかし物的偏重の時代はそれを物的再臨と考え、イエスは肉体のままいったん天国と呼ばれるところへ運ばれた後、同じ肉体をまとって地上へ戻り、生者と死者ともども最後の審判を下すものと想像した」とある。

さらに182頁~184頁では「帰ってくるのは純粋に霊的な意味なのか」との質問に対して、霊団は「その通りである。今まさに主イエスが(新しい啓示を携えて)地上へ帰って来つつある。それを中継の霊団を通じて行っておられる。必要とあれば自ら影響力を人間に行使されることもあるかも知れぬ。が、肉体に宿って再生されることは絶対にない。今はまさしく霊の時代であり、影響力も霊的である。その影響力は主が地上に降りられた時代のそれと類似している」「霊的真理がそのよみがえれるキリストからの福音である」。

 

<注51

■『岩波キリスト教辞典』(岩波書店2002年刊)617頁参照。

<注52

■『岩波キリスト教辞典』(岩波書店2002年刊)692頁参照。

<注53

■近藤千雄訳『シルバーバーチは語る』(スピリチュアリズム普及会)156頁参照。

<注54

■新約聖書:ローマの信徒への手紙「神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです」(623)。

 

<注55

■近藤千雄訳『シルバーバーチの霊訓、10巻』(潮文社)21頁では「ある種の教義や信条を信じた者だけが永遠の生命を与えられると説いている宗教がありますが、永遠の生命は宗教や信仰や憧れや願いごととは無関係です。生き続けるということは変えようにも変えられない摂理であり、自動的にそうなっているのです」とある。

 

<注56

■上村静著『旧約聖書と新約聖書』(新教出版社2011年刊)214頁~215頁参照。

――「教会」とは建物ではなく「集会」のこと。初期には個人の家に集まったので「家の教会」ともいう。教会では、イエスの死を通して結ばれた「新しい契約」を記念して、共同の食事をした(→後の聖餐式、または聖体拝領)。初期の頃は通常の食事だったが、次第に儀式化してパンと葡萄酒のみをイエスの肉体と血(=死)の象徴として食するようになったと述べている――

 

<注57

■『岩波キリスト教辞典』278頁~279頁参照。

なお1962年から1965年にかけて行われた第二バチカン公会議では「教会はキリストにおけるいわば秘跡、すなわち神との親密な交わりと全人類のしるしであり道具である」(南山大学監修『第二バチカン公会議公文書全集』サンパウロ1986年刊、第1章:教会の秘儀について、序文)と述べている。

 

<注58

■『岩波キリスト教辞典』287頁参照。

<注59

■近藤千雄訳『シルバーバーチの霊訓、11巻』(潮文社)85頁では「教会をイエスは“白塗りの墓”と表現しました。霊力がすっかり抜き取られているからです。繰り返される作業によって築き上げられた壁のあまりの頑強さに、崇高なる霊の力も突き通すことができないのです」。前著123頁では「霊力は建造物を通して流れるのではない」と述べている。

近藤千雄訳『シルバーバーチの最後の啓示』(ハート出版)36頁では、「キリスト教会は霊的真理の宝庫であるどころか、人間生活の問題や大きな可能性とは無縁の、空虚で陳腐な時代遅れの独善的な教義を説くしか能の無い、“白塗りの墓”と化しております」とある。

 

<注60

■近藤千雄訳『シルバーバーチは語る』(スピリチュアリズム普及会)151頁では、「決して私は、聖職者になって神に仕えたいと真摯に望んでいる人を非難しているのではありません。そういう人が少なからずいることは私もよく知っております。私が非難しているのは『組織』です。真理への道を閉ざし、古い慣習を温存し、霊力という活力あふれるエネルギーの入る余地をなくしている、硬直した教会の体質です」。さらに158頁では、「教義は必ず足枷になるということを忘れないでください・・・魂を縛るもの、魂を閉じ込めるもの、魂の自由な顕現を妨げるものは、すべからく排除しなくてはいけません」とある。

 

<注61

■上村静著『旧約聖書と新約聖書』(新教出版社2011年刊)233頁参照。

<注62

■特徴的な事例が「南部バプテスト連盟」の世界宣教に見られる。エドウイン・ルーサー・コープランド(Edwin Luther Copeland1916年→ )は南部バプテストの宣教師、西南学院大学の神学部教授を務めた人だが、自ら所属する「南部バプテスト連盟」の宣教活動を批判的に述べた著書『アメリカ南部バプテスト連盟と歴史の審判』(八田正光訳、新教出版社2003年刊)を著している。

その著書によれば1915年に南部バプテスト連盟の外国伝道局(局長にJ・F・ラブが就任)では、「世界宣教におけるヨーロッパ人優先権(=アングロサクソン白人優越感)の考えが大きく強調された」という。局長ラブの考え方は「白人だけが、単に自分だけの人種だけでなく全ての人種を回心させる才能を持っている」。さらに世界伝道を遂行するための資質である“率先力”と“冒険心”は「この資質はアングロサクソン人に所有されており、どの黄色、褐色、赤色、または黒色人種にもないものである」(63頁~85頁)と述べている。このラブの考え方は西欧の植民地主義からも見られるように(→人種的優越や文化的優越といった優越感として)、白人一般に共通した考え方であった。

 

<注63

W.S.モーゼス著、近藤千雄訳『インペレーターの霊訓』(潮文社1987年刊)43頁参照。

<注64

■『岩波キリスト教辞典』471頁参照。

旧約聖書では「短く空しい人生の日々を、影のように過ごす人間にとって、幸福とは何かを誰が知ろう。人間、その一生の後はどうなるのかを教えてくれるものは、太陽の下にはいない」(コヘレトの言葉612)として死後の世界を語らない。新約聖書でも「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。あなたたちは大変な思い違いをしている」(マルコによる福音書1227)として、死後の世界は控えめである点は旧約聖書と同じである。

キリスト教では死後の世界を語るよりも、生者の世界を語ることに主眼を置いている。

 

<注65

■カトリックでは天国に入る前に、現世で犯した罪に応じた罰を受け、清められる場所として煉獄の存在を認める(根拠:マタイによる福音書1232、コリントの信徒への手紙31112131415にその論拠を求める)。しかしプロテスタントは煉獄の存在は聖書に記述がないとして否定する。プロテスタントは、死んだときに肉体は朽ちるが、死人の魂は「正しい者は天国」へ、「悪しき者は地獄」へと赴くと述べる。

アウグスティヌスは「地獄の火と浄罪の火を区別し、軽い罪を犯した人間は現世の行いや回心、さらに生者による死者の霊魂に対する祈りや寄進によって来世で救われる」と述べた(『岩波キリスト教辞典』1226頁参照)。6世紀になって「大グレゴリウス(540年?→604年)の影響のもとではじめて厳格な意味でカトリックの煉獄という考え方が確定された」という(フランソワ・グレゴワール著、渡辺照宏訳『死後の世界』白水社・文庫クセジュ1992年刊、55頁参照)。

 

<注66

■陰府(よみ)について

『カトリック教会のカテキズム要約』では、「正しい人であれ、悪人であれ、キリスト以前に死んだすべての人の状態を指す」(91頁)として、死者の赴く世界としている。

<注67

■地獄について

『カトリック教会のカテキズム要約』では、「地獄とは、自らの自由な選択によって大罪のうちに死ぬ人々の永遠の責め苦のこと」(125頁)として、罪人が死後に永遠の刑罰を受ける世界としている。このように「(地獄は)神から永遠に切り離された状態」(『カトリック教会の教え』158頁)とする点に特徴がある。

 

<注68

■フランソワ・グレゴワール著、渡辺照宏訳『死後の世界』(白水社文庫クセジュ1992年刊)53頁~54頁では、天国へ行く者と地獄に落ちる者の区別は「明らかに道徳的な標準による」とされる。「魔法使い、裏切り者、悪僧、兄弟殺し、放蕩者、売淫媒介者、盗人など」は地獄へ行くが、ここに「教理に対する反対意見や異端説などもだんだん地獄に落ちる理由となった」という。さらに「罪人が受ける罪の期間については、ローマ・カトリックも正統派プロテスタントも何時もはっきりしていた。魂の運命は臨終のさいに定められて永久に変わらないので、あの世で救済される可能性はない」とされた。

■アメリカで多くのクリスチャンが信じている死後観を図式化すると、「死者の魂は神のもとで眠る(一種の仮死状態)」→「この世の終わりにキリストが再臨する」→「クリスチャンは眠りから覚める」→「元の肉体に戻って復活する」となる(注:なお復活する肉体は従前の肉体ではなく“肉体類似のもの”とする立場も有力)。

そのためアメリカでは“帰るべき肉体を保存する”という発想から、死体を保存するための技術(エンバーミング:embalming)が非常に発達している。キリスト教保守派の地盤であるアメリカ南部ではエンバーミング率は極めて高いが、大都市や西海岸、ハワイでは低く火葬の比率が高まってきているという。

キリスト教では最後の審判に際して、死者が蘇ると言う教義を持つため火葬を禁止してきた。しかしカトリックでは1965年にバチカンの正式見解として「火葬は教義に反しない」と宣言したため、地域差はあるものの近年火葬による埋葬が許容されつつあるという。

『カトリック教会の教え』によれば、「復活の体は、必ずしも、今の体と同じものではありません」(156頁~157頁)として、生前の体と復活後の体の違いを述べていることに注意。時代の要請から解釈の変更を行って火葬が解禁となったのではないだろうか。

 

<注69

■フスト・J・ゴンザレス著、鈴木浩訳『キリスト教神学基本用語集』(教文館2010年刊)281頁では、「霊魂の最終運命については、ほとんどのキリスト教の伝統は、霊魂は体がなくても生きることができるとはいえ、霊魂はそれ自体では完全な人間ではなく、最後の完成において霊魂は再び体と結びつけられる、と主張した。しかし、それは復活した体なので、今のこの体とは違っている」。この記載も火葬との関係から見ると興味深い。

■『聖書(新共同訳、旧約聖書続編つき)』新約聖書「コリントの信徒への手紙、1」15(キリストの復活、死者の復活、復活の体)参照。

フランソワ・グレゴワール著、渡辺照宏訳『死後の世界』(白水社文庫クセジュ1992年刊)52頁では、「やっと最近になって、いわゆる『自由主義』のプロテスタントのあいだにはじめて新しい解釈が現れたのである。それは復活に際して人格の同一性が継続することを確信しているが、肉体として生まれ変わるのはまったく新しいものであり、人間の肉体とは実際の関係がない」という。ここにも時代の要請から新しい解釈が見られる。

 

<注70

■『岩波キリスト教辞典』1215頁参照。

西洋において霊媒が一般的になったのは19世紀半ば以降のこと。これに対して日本では、古来より「いたこ」「ノロ」「ユタ」などの口寄せ系の霊媒が存在していた。また江戸時代には、さしずめ「村の魔法使い」的な役割を担っていた山伏や巫女などが、加持祈祷(治病・除役等)や薬草に関する知識を持った民間療法の専門家として存在していた。これに対して西洋ではキリスト教の伝播の過程に於いて、土着のシャーマニズムは表舞台から駆逐され、超自然的現象は悪魔の仕業とされて社会の裏側に押しやられてしまった。この違いが背景にあって、西洋と日本におけるスピリチュアリズムの普及形態の違いとなって表れている。

 

<注71

■近藤千雄訳『シルバーバーチの霊訓、5巻』(潮文社)47頁~48頁では、「何をして過ごすのですか」との問いに対して、シルバーバーチは「ただ待つだけです。こちらには“時間”というものがないことを忘れないでください。もし自分が待っているという事実に気が付けば、その思念体が破れるはずなのですが、自分でこしらえた牢獄なのですから」「まわりの出来ごととの関連によって成長と進化を意識していくのでして、時間が刻々と過ぎてゆくというのとは違います。魂が成長し、それにつれて環境が変化していきます。時間というのは出来ごととの関連における地上独自の尺度にすぎません。あなたが無意識であれば時間は存在しません。出来事との関連が無くなるからです」。

■近藤千雄訳『シルバーバーチのスピリチュアル・メッセージ』(ハート出版1993年刊)70頁では、「メンバーの一人が、最後の審判日を待ちながら死体の埋葬されている墓地で暮らしている霊がいるというが」との質問に対して、シルバーバーチは「事実その通りなのです。それが私たちにとって厄介な問題の一つなのです。教会で聞かされた通りのことが本当に起きるものと信じ切っているものですから、自分からその考えに疑問を感じるようにならない限り、側からはどうしようもないのです。死ねばガブリエルのラッパが聞こえるまで墓地で待つものという想念体を、全生涯をかけて作り上げて来ているわけですから、その想念体が崩れない限りは、いつまでもその牢獄から脱け出られないのです」。

さらに地縛霊に死の自覚をさせることの難しさを、次のように述べている。「死んだことが信じられない霊の場合も同じです。信じることを拒んでいる限り、私たちも為す術がありません。もう死んで霊の世界に来ているという事実を信じさせることがどんなに難しいか、皆さんには理解できないでしょう」

 

<注72

■近藤千雄訳『シルバーバーチの霊訓、2巻』(潮文社)51頁参照。

<注73

■宮澤虎雄著「心霊研究者の歩んだ道―私と心霊研究(20)」:日本心霊科学協会機関誌『心霊研究』197512月号所収。

交霊会に出現した浅野和三郎霊との問答から、肉体と幽体の分離の状況がよく分かる。

 

<注74

■近藤千雄訳『シルバーバーチの霊訓、4巻』(潮文社)128頁参照。

シルバーバーチは死とは変化することであり、霊の世界における死とは、霊的身体が低いものから高いものへ変化することであると述べている。

 

<注75

■近藤千雄訳『シルバーバーチは語る』(スピリチュアリズム普及会)218頁。近藤千雄訳『シルバーバーチの霊訓、4巻』(潮文社)139頁。『シルバーバーチの霊訓、8巻』(潮文社)103頁参照。

<注76

■近藤千雄訳『霊性進化の道しるべ』(スピリチュアリズム普及会)23頁参照。

 

<注77

■一般に死後の世界の区分は、浅野和三郎が述べた四界説(→神道の四魂説に因んで)による「物質界」「幽界」「霊界」「神界」という分類が良く知られている。しかし高級霊シルバーバーチは「霊の住む世界は全部重なり合っている」「霊界とか幽界とか物質界と云うのは一つの宇宙的生活の違った側面」(『シルバーバーチの霊訓、7巻』131頁。『地上人類への最高の福音』83頁)の呼称に過ぎないとして、霊界をグラデーション的に変化する一つの世界として述べている。

深い死の眠りから目覚めた場所は、霊の世界で最も地上に近い部分にある「中間境」と呼ばれている世界である(→幽界の休憩所とも言われる)。「中間境(=冥府)」とはグラデーション的に変化する霊の世界の中でも、最も地上に近い界層(→物質性が濃厚な世界)のことになる。

霊の世界では霊的成長を目的として永遠に生き続ける。霊的成長度に応じて其々の界層で生活することになる(→霊性レベルによって厳格な棲み分けがある)。

■事故や戦死などによって、肉体から「霊体(幽体と半物質状の幽質結合体)」が急激に分離(引き裂く)された場合には、分離に伴うショックが霊的身体にまで及んで一時的な障害が生じることがある。このような霊(→特別な看護を要する霊)のための施設が霊界(=中間境)には用意されている(→霊界通信では一般に“病院”と云う名で登場してくる)。

霊界通信によれば「霊性に歪みがある霊」(『シルバーバーチの最後啓示』40頁)、「魂に深い傷を負った人たち」(『シルバーバーチの霊訓、4巻』139頁。『シルバーバーチは語る』218頁)、「地上時代ずっと脳の欠陥のために精神に正しく情報が届かず、結果的に霊性が発揮されずに終わった人」(『シルバーバーチのスピリチュアル・メッセージ』62頁)、「精神的に不安定な人で指導と助けが必要な人」(『500に及ぶあの世からの現地報告』117頁、303頁)。さらには無残な事故で急死した場合や「爆弾の直撃にて戦死した霊」(『シルバーバーチの霊訓、3巻』16頁。『シルバーバーチのスピリチュアル・メッセージ』62頁)などの霊が収容される。

収容された霊は「ショックの後遺症」を癒すための処置(『シルバーバーチの霊訓、3巻』17頁参照)や、霊が新しい身体で自我を表現して霊的生活に順応するための調整が、霊的エネルギーの注入という形で行われている(『シルバーバーチのスピリチュアル・メッセージ』61頁参照)。

 

<注78

■ジェラルディン・カミンズ著、近藤千雄訳『永遠の大道』(スピリチュアリズム普及会1997刊)114頁参照。

■「肉体」「半物質状の幽質結合体」「幽体」の関係

ゆで卵の黄身に相当する部分を幽体とし、それを保護してきた白身部分を半物質状の「幽質結合体(外側の殻と同じ形状をしている)」とする。外側の殻は肉体であり、ゆで卵を食べる際に砕かれてゴミ箱に捨てられる。このたとえを使って説明する。

人は死によって肉体(=卵の殻)を脱ぎ捨てて、霊的身体(=白身と黄身部分)となって中間境に入る。そこで霊的波長の調整を行って半物質状の「幽質結合体(=白身部分)」を中間境で脱ぎ捨てると、幽体(=黄身部分)が完成する。そして気分一新して自分の霊性レベルに見合った幽界の境涯に出て行く。幽界では肉体に代わって幽体が「霊(自我の本体)」や「霊の心」の表現器官(衣装)となる。

■ゆで卵の白身部分が一人歩きする

幽界の上層にいる霊が、地上時代に惨い死に方をしたとする。その霊が休息中にふと当時のことを回想した際に、過去の情景とともに強烈な思いが浮かび上がってくる場合がある。この当時の強烈な思念が中間境に捨ててきた「半物質状の幽質結合体(ゆで卵の白身部分)」に感応する。この時の思念が半物質状の「幽質結合体」を動かして、惨殺された土地や建物を幽霊として歩かせることになる(『永遠の大道』123頁参照)。これをシルバーバーチは「地球のエーテル層に刻み込まれた像が想念の波動を受けて一人歩きしているものです」(『シルバーバーチは語る』432頁)という表現で述べている。(→なお幽霊出現には未熟霊がエクトプラズムをまとうケースもある)。

 

<注79

■近藤千雄訳『シルバーバーチの最後の啓示』(ハート出版)38頁参照。

地上の時間は地球の自転公転(昼夜、春夏秋冬)によって機械的に区切った物理的な時間のことをいう。しかし地上にも「精神的要素の時間」がある。同じ一時間でも状況によっては長く感じたり短く感じたりするのはその例である。

霊界では霊的状態(→経験していく過程の中で時の流れを感じとる一種の精神的体験)で時間の流れを計る。幽界の下層界では生活に面白みが乏しいので時間が長く感じられるが、上層界では次々と新しい体験があり、快い活動が多くなるので短く感じられる(『シルバーバーチの霊訓、2巻』146頁)。ただし霊的発達段階における制約はある。霊的成長によって到達した段階より速く動くことはできないので、それがその霊にとっての限界となる(『シルバーバーチの霊訓、4巻』149頁)。シルバーバーチは「地球と接している幽質の界層を超えてしまうと、あなた方が理解しておられるような時間は存在しなくなります」(『シルバーバーチの霊訓、7巻』100頁)と述べている。

 

<注80

■近藤千雄訳『シルバーバーチの霊訓、4巻』(潮文社)127頁では「すべての人間がかならずその低い界層からスタートするのか」との質問に、シルバーバーチは「いえ、いえ、それはあくまで何の予備知識も持たずに来た者や幼稚な者に限っての話です。つまり霊的実在があることを知らない人、物的なものを超越したことを思い浮かべることのできない人の場合です」と述べている。同じ内容で、近藤千雄訳『シルバーバーチのスピリチュアル・メッセージ』(ハート出版1993年刊)56頁がある。

 

<注81

■近藤千雄訳『シルバーバーチの霊訓、2巻』(潮文社)149頁参照。近藤千雄訳『シルバーバーチの霊訓、8巻』115頁参照。

この界層に住む霊は地上的なものを強く引きずっているため、地上世界とよく似た環境の中で、「奮闘努力が要らない」ぬるま湯につかったような生活を送ることになる。指導霊はこの界層の「霊的向上心が芽生えない霊や向上心の弱い霊」に、さまざまな形で霊的な向上心を持たせようと指導を行っている。霊は幻想の世界での生活が次第に退屈となって、願望が何でも叶う生活に飽きがくると、進歩の兆し(霊的自覚)が芽生えてくる。

地上時代の習性から抜け出して霊的自覚が芽生えるまで、このような一種の過度的な状態が続くことになる。

 

― ― ― ― ― ― ― ― ― ― 

*<参考資料:ニカイア(ニケーア)会議>

☆アレイオス論争

■キリスト教は4世紀に入り、コンスタンティヌス帝の庇護を受けるようになると新たな問題が生じてきた。キリスト教が皇帝に庇護されたことによる変化は、身分の高い人々が教会に加わってきたことであった。その結果、世俗の権力が信仰共同体に持ち込まれるようになってきた。さらに大きな問題は皇帝が特定の神学的立場を支持することによって、神学論争が従来は「信仰共同体の枠内の問題」で済んでいたのが、新たに政治的な意味合いを持つようになってきた(→世俗国家の分裂を招きかねない事態が出現する可能性)。

コンスタンティヌス帝がニカイア会議で、アレイオスとその支持者たちを追放したことは「悪い前例を作ってしまうことになった」。これ以降、神学論争が行き詰ると、一方の側が「政治的手段を使って論敵を追放する」ということが行われるようになったからである(フスト・J・ゴンザレス著『キリスト教思想史Ⅰ』320頁参照)。

■イエスの神性をめぐって、アレクサンドリア教会の高名な長老アレイオスは、イエスは神の被造物たる人であったとする「イエス人間説」の立場をとった。これに対して同じくアレクサンドリア教会の主教アレクサンドロスは、「イエスは父の本質から生まれ、父と同質である(=聖体共存説)」との立場を主張して論争となった(→これを“アレイオス論争”と呼ぶ)。その後、ニコメディア(現在はトルコのイズミト)のエウセビオスは、自分の教区にアレイオスを保護したことによって、論争は分裂へと発展した。

 

☆ニカイア会議の招集

■「キリスト教が帝国の絆になることを期待」していたコンスタンティヌス皇帝は、「対立の原因が単純なものではなく、ただ和解の努力だけで解決するような問題ではない」ことを理解した。そのため皇帝は325年にビティニアのニカイア(=ニケーア)に主教たちによる大教会会議を招集して「アレイオス問題」等の懸案事項に対処させた。

教会会議ではニコメディアのエウセビオスがアレイオスの主張を支持する立場に立ったが、会議はイエスを「父の本質から生まれた」「父と同質であられる方」として、従属的な被造物であるとする「アレイオス主義的解釈(=イエス人間説)」を却下した。

しかし「アレイオス主義は異端宣告されたにもかかわらず、彼らを教会から全く放逐するに至ることなく、最終的にアレイオス主義が決定的な仕方で排斥されるまで、さらに50年以上に渡る激しい論争が続くことになった」(フスト・J・ゴンザレス著『キリスト教思想史Ⅰ』318頁)。三位一体の教義が最終的に確定したのは、381年にコンスタンティノポリスで開かれた第2回公会議においてであった。

■公会議で異端とされて排除されたのは「イエス人間説」を説いたアレイオス主義だが、「神には一つの位格(ペルソナ、人格)しかなく、それが三つの違う姿で現れた」という教えや、さらには「キリストは父なる神よりも劣位にいる神や天使である」という教え、さらには「聖霊は人格も心もない単なるエネルギーである」という教えなどは誤った異端の教えであるとされてことごとく排除された。

結局325年のニケーア公会議では「イエス・キリストは真の神で御父と同質」とされ、451年のカルケドン公会議では「イエス・キリストは真の神にして真の人」と宣言されている。これが現在に至るまでキリスト教の正当な教義となっている。

なおアレクサンドリア教会の主教は、ペテロ→アキラス→アレクサンドル→アタナシウスと交替している。

 

 

« スピリチュアリズムとキリスト教:総論編(注記) | トップページ | 心霊研究 »