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動物について:個別問題

目 次

1.動物実験

・残忍さと「進化」との関係

・「進化」の指標

・動物実験

・動機と道義心の関係

蕎麦屋の蕎麦汁の

・因果律は一時凍結

・現代人に共通のカルマとして

 

2.肉食の問題

・シルバーバーチの基本的見解

・「鳥肉」をどのように考えるか

・肉食に関する一つの考え方

 

3.有害動物や有害昆虫の駆除

・比較衡量の問題

・人類の生き方と関わってくる問題

 

4.動物愛護運動

・動物愛護のルーツ

・動物愛護運動の広がり

・運動それ自体が“魂の磨き粉”

 

5.1980年代のアンケート調査

・動物信仰の存在

・大石隆一氏の調査

・世俗的な霊能者が述べる「動物霊」とは

 

6.「憑きもの持ち」迷信

・俗信と迷信

・憑きもの(犬神、狐憑きなど)

・メカニズムの解明

 

7.「動物霊が人間に憑依する」とは

・生前の観念の継続

・師弟関係から派生する問題

・特殊な事例

 

・<注1>  <注2>

 

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.動物実験

☆残忍さと「進化」との関係

混沌としていた地上世界に生命体の頂点に立つ人間が出現すると、物的形体の発達に合わせた階層構造的な秩序が完成された。個々人ごとに一身専属的に「霊(神の分霊)」を内在させた人間は「進化・発達レベル」がそれ以下の生物に対して、“お世話をする”という利他的行為を通して、宇宙に遍満している「霊的エネルギー(根源的素材の個別化)」を生物に流す“通路”の役割を果たすことができる。

この場合に“お世話をする”者と、それを受ける動物との「進化・発達レベル」の距離の遠近の違いによって、動物の飼主に見せる反応は異なるが(注1)。

 

霊的エネルギーの「垂直的なルート(霊的要素→中間物質→物的要素)」と「水平的なルート(私→他者)」との関係でいえば、人間は他者に対して行う「利他的行為」と同様に、生物に対しても「愛情込めて世話をする」という行為を通して、霊的エネルギーを“自らを通路”として“他の存在(人間や生物)”に流していくことができる。

このような人間の行為は、宇宙に遍満している霊的エネルギーを「人間を通路」として生物の世界に流すことであり、生命体という物的形体を身にまとった「意識(霊の外皮)」の「進化」を促進する働きをする。この結果、お世話をした本人自身も、“自らを通路(=垂直的なルート)”として流れる霊的エネルギーの量を増やし、質を一段と高めていくことができる。それによって自らも「進化」していく。

 

これに対して人間や生物に対する無慈悲な残虐行為は(→娯楽として行う闘牛やスポーツハンティングも問題となる)、愛の対極にある冷酷な行為である。愛が人間を含めた生物の霊的成長を促進する方向に、“プラスのカルマ”として働くのとは対照的に、利己性の表れである無慈悲な行為は、“マイナスのカルマ”として自らの霊的成長を抑制する方向で働く。なぜなら無慈悲な行為は、物的世界に霊的エネルギーが流れようとする通路を遮断してしまい、各種生物の形体をまとった「意識(霊の外皮)」の「進化」を抑制してしまうから。

 

☆「進化」の指標

「意識」が物的形体をまとった人間は、霊性を高めることによって自らを“通路”として流れる霊的エネルギーの質量を増やして、それを地上の隅々まで流すことができる。霊的エネルギーが物的地球に満ちていくことによって、利他的行為が日常的に行われるようになり、人間社会は霊的に一段と明るくなっていく。その効果は当然に生物の世界にも反映されて、生物どうしの残忍な行為も少なくなっていく(8179①)。

 

地球の歴史を振り返れば、生物の世界でも一時期繁栄を誇った残忍な“種”は、大量絶滅によって消えていったため、太古に比べれば残忍さは減ってきている(5100⑤)。なぜなら地球上における霊的エネルギーの絶対量が増加することによって、生物における残忍さが次第に減少していくから。これに対して動物への虐待行為は、霊的エネルギーの流れを遮断してしまうため「霊的観点から見て間違ったこと」(8123⑧)になる。残忍性は「進化」の一番の指標となっている(5100⑨)。

 

☆動物実験

現代社会では動物を使った基礎研究は、医学技術の開発、新薬開発、毒性試験(化粧品、食品添加物、農薬)などの分野で広く行われており、私たちの暮らしに深く根付いている。

一般に動物実験は、逃げ場のない檻という閉鎖空間に閉じ込めた動物を使って行うものであり、実験者と動物は“強者対弱者”の関係に立っている。

屠殺や実験の犠牲となった動物は、その“種”が属する「意識(霊の外皮)」を単位として、「償いの法則」や「埋め合わせの法則(597①)」が働くことになる。その際に「一匹とか一頭とかについてではなく、その動物の属する類魂全体を単位として法則が働く」(596⑪)。また動物実験という残虐行為の影響は「動物自身だけでなく、それを働いた人間にも現れる」(メッセージ231⑥)。それは実験者の“霊性の停滞”という形で。

 

☆動機と道義心の関係

動物実験は霊的摂理に反するとシルバーバーチは述べるが、実験者の中には「病で苦しむ人を何とか救いたい」との誠実な動機から行う者もいる。この問題については「動機は人のためと云うことで結構ですが、しかしそれが動物に苦痛を与えているわけです。そうした点を総合的に考慮した上で判断が下されます。いずれにせよ私としては苦痛を与えると云うことには賛成できません」(5115⑪、語る416⑤)と述べている(注2)。

 

霊的摂理から見た結論は「実験者の動機は誠実であるが動物実験は霊的摂理に反した行為である」となる。これは実験者の「動機と道義心」の問題として考えることが出来る。この事例では実験者の行為当時の道義心には問題ないため因果律はいったん凍結状態となるが、霊性が向上した段階で解凍して因果律が動き出す。その段階で実験者は何らかの償いをすることになる。

 

蕎麦屋の蕎麦汁の

実験者の真摯で誠実な動機と動物実験との関係につき「蕎麦屋の蕎麦汁」を使って説明する。蕎麦屋で蕎麦を食べた時に、注意して食べたにもかかわらず汁が跳ねて服につきシミとなった。蕎麦屋の店内の暗い照明では見えなかったので、服がシミになっていることに気がつかなかった。料金を支払って外に出て、明るい太陽の下で良く確認したら服にシミがついているのが分かった(→霊性が向上して薄暗い低い世界から明るい高い世界に来ると、自分の意識の中にある“シミ”が浮き上がって来て、よく見えてくるようになる)。

 

上記の事例で、蕎麦汁が跳ねて服についたことに気が付かなかった場合は、いわば道義心に反しないケースである。この場合はより明るい世界に来て、服にシミがついていたことに始めて気がつくことになる。一般に「進化」の低い段階では、ある行為が霊的法則違反であることが認識できない場合がある(→蕎麦汁が服についたことに気づかない、道義心に反していないから)。しかし道義心に反していないからといって“服についたシミ”がなかったことになるわけではない。これに対して蕎麦汁が跳ねて服についたことに気づいていれば、道義心に反した行為となる。なぜなら服がシミになったことを認識しているから。

 

霊性が向上して一段と明るい世界に来ると、それまで気が付かなかった自分の「意識」の中にある“大きなシミ”や“小さなシミ(→未熟な部分、人に迷惑をかけたことなど)”が、意識の表面に浮かび上がってきて良く見えるようになる。そして何とかしたい気持ちに襲われる。いわば凍結していた因果律が、霊性の向上によって解凍して動き出したから。

 

☆因果律は一時凍結

実験者が「病で苦しむ人を何とか救いたい」との真摯で誠実な動機は、行為時に於いては“道義心(→その時点で到達した霊的意識の水準)”に反していない。そのため動物実験という霊的摂理に反する行為の因果律はいったん凍結される。

その後実験者の霊性が向上して、過去に於いて行った行為が「意識」の表面に浮かび上がってきたとする。その時点に於ける道義心は、過去に行った動物実験に対して「レッドカード」を切ることになる。なぜなら霊性が向上したことによって、凍結状態にあった因果律が解凍して動き出したから。実験者が霊性向上の道を辿るためには、この「レッドカード」を何らかの形で処理しなければならない。

日本には古くから牛や馬などの動物を扱う人たちが、人間の犠牲となった牛馬等の動物霊を供養するため、馬供養塔や牛供養塔などの石碑を立てて祀るという風習があった。ここから類推して実験者は何らかの形で利他的行為(→たとえば「動物愛護運動」といった活動)を行って、浮上してきた負の因果律を処理するのではないだろうか。

 

☆現代人に共通のカルマとして

動物実験によって得られたデータは、さまざまな製品の安全性の検証に用いられて、現代人の生活の利便性に寄与している。いわば動物の犠牲の上に現代社会が成り立っているわけである。動物虐待という霊的法則に反したカルマは、当事者(=実験者)だけに留まらず広く“受益者である現代人”も背負うことになる。当事者が作ったカルマとは性格が異なるが、受益者である以上何らかのカルマを“広く薄く背負う”ことになるから。

このように動物実験によって利便性を受ける者が負う責任、つまり「受益者理論」を使えば、責任は個々において背負うのが摂理であり他人の行為に責任を負わないとする「自己責任の原理」(658①、856⑨、11174⑨等)の問題をクリアすることになる。

 

現代社会は各地で紛争が絶えず、既得権者による目に余る横暴、社会格差から派生する悲劇などが各地で起きており、それらを私たちはマスコミを通して知ることになる。このような重苦しい時代の空気の中で私たちは生きざるを得ない、という制約を負わされることによって、未熟な社会が生み出したカルマを“受益者の一人”として刈り取っているわけである。

 

2.肉食の問題

☆シルバーバーチの基本的見解

シルバーバーチの見解をまとめると次の通りになる。

私たちは「未熟な社会に生きている」ということを前提にこの問題を考える(道しるべ131⑭)。原則はすべての生き物に敬意を払うこと(8181③)。この原則を踏まえた上で、殺害の観念が付きまとう食品は避けること(8189⑭)。やむを得ず生物を殺害して食糧にする場合には、なるべく苦痛を与えず、残酷な方法は取らないこと(道しるべ132③)。このようにシルバーバーチは述べている。

 

またシルバーバーチは生きるためにやむを得ず生き物を殺害して食糧にする場合には、その指標を「意識」の有無に置くとして、「意識を指標とすべきです。意識がある限り、それを殺すことは間違いです」(道しるべ223⑩)と述べる。この場合の「意識」とは「個別意識、類魂意識」のことである。さらに「動機と程度の問題」(8181③)もある。

このような点をメルクマールとして、個々の事例に応用して各自が判断していけば良いことになる。

 

☆「鳥肉」をどのように考えるか

シルバーバーチは「動物」と「鳥類」を分けて、「動物」を哺乳類として用いており「鳥類」をその範疇にいれていない。また「意識」を「自分が何であるか、誰であるかの認識のこと」(道しるべ222⑫)として、さらに哺乳類たる「動物」には「類魂意識(共有状態にある意識体)」があるとして、「個別意識・類魂意識」の有無をポイントにして述べている。

 

シルバーバーチの上記に掲げた「肉食に関する基本的見解」を踏まえた上で「鳥肉」の問題を考えて見ると、最終的にはこれも「動機と道義心」の問題として考えることが出来る(最後啓示126③)。

シルバーバーチは鳥類を「類魂意識」を有する「動物」の範疇に入れていないので、「意識(個別意識・類魂意識)」の問題はクリアできるとしても、現実問題として鳥を食糧にするためには殺害しなければならないこと、肉食であること、鳥類といっても「進化」の進んだ“鳥の種”もいること(→小鳥でも犬より知的に進化しているものもいる:595①)、このような問題は残る。これらの問題を踏まえて各自で判断すれば良いことになる。

 

最終的には「鳥肉」や「両生類・爬虫類の肉」などの「肉食」の問題(→ここに「魚肉」を含めるか否かは各人の思想の問題)は、「シルバーバーチの霊訓」を踏まえつつ(→シルバーバーチは基本点しか述べていないので)、食べ物に関する「思想」の一つと考えた方がより現実的な妥当性がはかられるのではないだろうか。

つまり「A:シルバーバーチの霊訓」+「B:その人の霊訓解釈」+「C:どのような生き方をしたいか」の総和によって“食の問題”は決まってくるといえる。

現実にはベジタリアンの多くは「C」の観点に立って、「肉食」の問題をどうするかを決めているのではないかと思える。これに対してスピリチュアリストの場合は、一般人とは異なって「C」に「A」と「B」をプラスして決定していると思われる。その際に「B」は各人で解釈が異なるため、この問題に多様性が生まれる原因となっている。

そのため“食の問題”は最終的には「その人個人の判断力にまかせる事柄」(最後啓示126③)になるので、各自の「思想」の問題となる。

 

☆肉食に関する一つの考え方

肉食の問題を「中間物質が付着した家畜の肉」という観点から考えて見たい。

物質は「根源的物質(=普遍的物質)」が変化した「普遍的流動体(半物質状の中間物質)」の一種である生命素と一体化することによって、活性化して有機物となり始めて生命の物的形体たる身体となり得る。

 

地上でさまざまな個性を見せる個々の動物(個々の意識)にも、ペットのように所属する“種というグループ”にとって先駆け的な存在といえる個体もいれば、反対に“アウト・ロー”的な個性を持った個体(個々の意識)もいる。個々の動物は、それぞれ固有の物的形体を持つと同時に、その肉体に対応した中間物質(=半物質、幽質結合体)を有している(個人的存在19⑦)。しかし人間とは異なって個別の肉体に対応した霊的要素は有していない(→その種ごとに巨大な“意識=器”という霊的要素があり、個々の物的形体を持つ動物は、それを共有しているにすぎない)。

 

死によって動物の「個々の意識」は所属する霊のグループである「器(→単なる魂の集合体、群魂、集合魂、類魂などの名称で呼ばれている)」に帰るが、物的身体は腐敗作用を通じて“土”に帰っていく。その際に腐敗のスピードをコントロールするために、物体には半物質状の生命素の一部が必ず付着している。私たちが動物の肉を食すると言うことは、動物の物的身体と合わせて「幽質(半物質状の生命素の一部)」も同時に食していることになる。なおこの「幽質」にはその個体が地上時代に見せていた性格傾向や、屠殺の際の“激しい感情”などが染み込んでいる。

当ブログの記事「移植医療とスピリチュアリズム」で見てきたように、移植医療の臓器にはドナーの幽質の一部が付着しており、これを体内に取り込んだレシピエントの体質によっては問題が発生することが知られている。これと同じ現象が「肉食」でも言えることになる。

 

移植医療とはドナーの臓器を人体部品のように考えて、レシピエントの機能不全に陥った臓器と交換して生命を長らえさせるための医療である。これに対して「肉食」とは、「個々の意識(一匹一匹の動物)」が地上体験を積むためにまとった物的身体を食する行為である。両者の大きな違いは、長期間にわたって患者の一部となって存続する臓器と、一時的にエネルギー源に変えるために体内に取り入れる食料という違いである(→家畜の肉を長期間に渡って大量に食する場合は両者の中間的な位置づけになるが)。大部分の「肉食」の場合には問題は発生しないであろうが、例外的に次に述べるように体質によっては問題が起きることもある。

 

大部分の「個々の意識」は所属する「器(動物の“種”に該当するもの)」に戻っていくが、数多い個体の中には本来の界に戻る途中の「中間境(冥府)」に、何らかの理由で留まってしまうものもいるであろう(→半物質状の中間物質を有しているので、理論上は中間境での滞在が可能)。このような「個々の意識」(一匹一匹の物的形体を持った動物)の中には中間境で自己の存在を強烈に主張するケースもあろう。その際に具体的な感情表現を主張するだけの「進化」レベルに達していない、家畜という物的形体をまとった「個々の意識」は,モヤーとした悪想念の塊という形で“嫌悪感という感情”を表現してくるのではないだろうか(霊の心を専有していないから)。これは地縛霊が「臓器+幽質+意識」をセットにして、レシピエントの体内から積極的に自己の存在を主張するケースと似ている。なぜなら“臓器(食肉の一片)が存在する場所”に“地縛霊の意識(家畜という個々の意識に対応する中間物質)”も存在するから。

 

マイヤース霊は「中間境(冥府)」の下層世界を「テロリスト界」(個人的存在252④)と呼んだが、そこには例外的に「動物霊(非人霊、類人霊)」がいるという。このような「動物霊」は、地上時代は“アウト・ロー”的な個性を見せていたのかもしれない。また屠殺される際の激しい感情が「個々の意識」の「幽質」の中に染み込んでいるケースもある。

このような個性や感情が「幽質」には付着しているが、これを霊媒体質者は感じ取ってしまう場合がある。霊的修行によって体質的に敏感になる人が多いと言われるが、修行の結果、肉食などの「重い食事」が次第に摂れなくなる場合がある。また「肉食がその人の性格にどのような影響を及ぼすのか」などの調査研究もある。このような理由から、一般に霊能者(霊媒体質者)や霊的修行者は昔から肉食を避ける傾向にある。

 

3.有害動物や有害昆虫の駆除

☆比較衡量の問題

現代社会は哺乳類であるネズミや有害鳥獣の駆除、有害昆虫の駆除、ウィルスなどの殺菌等、このような“殺害行為”が日常的に行われている。

これらの「有害動物や有害昆虫の駆除」等によって、社会環境が改善されて多少なりとも快適な生活が送れるという利益を私たちは受けている。しかし繁華街におけるネズミの問題や、森林伐採によって人里に下りてきた鳥獣(有害鳥獣)の問題、異常繁殖した昆虫(バッタなど)など、これらについて根本的原因を作ったのは我々人間であるという認識を持つ必要はある。

 

シルバーバーチは全ての生命に敬意を抱くことが原則だが、これも動機と程度問題であると述べる(8181③)。この問題は二つの価値観が対立する問題である。一つは生き物を殺害する行為であること、他方は人間が生きていくための「環境の整備・人間の健康面の配慮」という問題である。これら二つの相対立する価値観を比較考量して、「動機と程度の問題」がクリアすれば駆除は妥当であるという考え方ができる。

私たちは駆除等によって快適な生活を送ることができるので「受益者の一人」という立場に立つ。そのため同時代人として駆除に伴う殺害行為に対して、マイナスのカルマを“広く薄く背負う”ことになる。

 

この問題の「根本原因を作ったのは人間側にある」との認識を持つことは当然であるが、これも人間社会全体の「動機と道義心」の問題と考えることも出来る。つまり現代社会が人間以外の生き物の犠牲の上に営まれている“未熟な社会”であることを、多くの人が認識して環境の改善に取り組むようになれば(社会全体の霊性が向上すれば)、次第に駆除等が現在とは違った形で行われるようになるのではないだろうか。

 

☆人類の生き方と関わってくる問題

シルバーバーチはそもそもウィルス(ビールス)が発生することは「人類の生き方がどこか間違っていることの証拠」(最後啓示83⑤)と述べる。また「ホコリや病気は原因をたどれば人間の利己心、邪心に行きつく。直接の原因は衛生の悪さ、不潔な育児環境、直射日光や新鮮な空気の不足とかにある。さらに原因をたどれば、そういう環境を改めようとしない、恵まれた環境にある人達の同胞への利己心、同胞への非人間性に行きつく。そういう利己心を捨て、弱者を食い物にするようなマネをやめ、我欲や野心を生む制度を改めれば、害虫や寄生虫は発生しなくなります」(597⑦)とも述べている。

 

哺乳類のネズミは飲食店が出す残飯の管理の悪さから歓楽街では異常繁殖している。また本来その地方にいない生き物を人間が持ち込んだ結果、その地で異常繁殖を起こして環境悪化を招いている事例もある。例えばオーストラリアでのウサギの異常繁殖の事例(5118⑩)や、日本における外来魚や外来種の植物が異常繁殖して問題を起こしている事例などがある。このように人間側から見て有害とされる「動物や昆虫の発生」の問題は、シルバーバーチが述べるように人類の生き方と深くかかわっている問題である。

 

4.動物愛護運動

☆動物愛護のルーツ

イエスは動物について述べていないが「その当時はまだ動物の幸不幸を考えるほど人類が進化していなかった」(5119⑧)という。その後人類の「意識」が「進化」して、動物虐待の禁止などを唱えた動物愛護運動が19世紀のイギリスで起きた。

動物虐待防止法は、1822年に「家畜の虐待と不適当取り扱い防止条例(マーチン法)」として、イギリスに於いて初めてが成立した。また1824年には動物虐待防止協会(SPCA)が設立されて、1840年に王立動物虐待防止協会となった。

 

☆動物愛護運動の広がり

動物愛護運動は「動物実験反対」「動物虐待防止」「ベジタリアン運動」「健康維持」「毛皮使用素材の非着用」「スポーツハンティング禁止」「自然破壊に反対する」「エコロジー運動」等へと広がりを見せている。

 

☆運動それ自体が“魂の磨き粉”

「意識の進化」という観点から考えれば、地上は物的形体をまとった人間だけの専有物ではなく、同様に動物も地上で体験を積んでいる。このように多くの生物が自然の中で共存しているという事実を紹介して、正しい知識を広めるという形で動物愛護運動が行われている。この動物愛護運動の背後には霊界の霊団による指導があるという(8219⑬)。

シルバーバーチは「この種の仕事(=動物愛護)は内奥の生命、霊的実在についての知識に目覚め、他の生命との霊的つながりを理解した者が、自分を役立てるという動機一つに鼓舞されて仕事に従事するということであらねばなりません」(8220⑫)と述べている。

 

当然に肉体を持った人間集団が行う普及運動である以上、そこには世俗的な問題も生じてくる。運動の中でさまざまな問題にぶつかることが多いが、その“問題”は当人にとって見ればいわば“魂の磨き粉(粒が粗いものからきめが細かいものまである)”的な役割を持つことになる。

シルバーバーチは「悲しいことですが、この道(=動物愛護)に携わっている人が本来の目的を忘れて我欲を優先させ、一身上の都合の方が大義より大切であると考えるようになったりします」(8209⑧)とも述べている。

 

5.1980年代のアンケート調査

☆動物信仰の存在

日本には古くから蛇や狐・狸等に対する信仰があり、日本人の動物観は時代とともに変遷してきた。縄文土器には蛇の造形が多く見られることから、蛇信仰が存在していたことが知られている(→8世紀頃の“山神”という信仰対象は、多くの場合蛇であった。蛇がとぐろを巻いている形状を山に見立てたとされる)。その後、庶民の間で「狐や狸は霊力を持っている」として崇拝対象となった。また近代では「憑きもの持ち」迷信の蔓延があった。

このように日本には「動物信仰」の長い歴史があり、その影響から「動物霊が人間に憑く」という観念が存在してきた。この「動物信仰」は古代ヨーロッパにもあったが、キリスト教の伝播と共に姿を消していった。

 

☆大石隆一氏の調査

日本の世俗的な霊能者は、依頼者の悩み事に“霊的な処置”を施すという形で対応しているが、その霊的世界観は各人各様であり、それぞれが独自な考えの下で活動を行っている。

心霊研究家の大石隆一氏は1980年代前半に、世俗的な霊能者が“心霊”に関してどのような考えを持っているのかを調査するため、当時活躍していた霊能者などから百名余りを選び出して、彼らに対して「全国の霊能・心霊家の皆様にお願い」という形のアンケート調査を行った。このアンケート調査は80項目にわたる詳細なものであった(大石隆一編著『全国霊能・心霊家名鑑』鷹書房、1985年刊所収)。

 

☆世俗的な霊能者が述べる「動物霊」とは

この調査項目の中に「動物霊とは何か」という項目があり60名が回答している。ここから今回のテーマに沿った項目を取り上げて検証してみた。

まず60名中58名が何を指すのかは別にして、何らかの「動物霊」の存在を認めている。その中には「人間以外の動物にもすべて霊魂がある」「前世は人間であった」「死んだ動物で成仏していないもの」「心を持たない霊」などが「動物霊」であるとの記載もある。

 

それでは「動物霊」の存在を認めたとしてもその正体は何か。

二つの範疇がある。最初の範疇として多くの霊能者等が述べた回答がある。それによれば地上で活動していた「猫、犬、小鳥、蛇、狐、狸、家畜」等は死後に幽界で霊魂として存在している。それが「動物霊」の正体であるとする一群のものである。

もう一つの範疇は「人間が動物の霊となったもの(→変化霊のこと)」「人間が動物の霊に変化していくもの(→変化霊のこと)」「悪念の集合体として架空の動物の姿をした霊体(→変化霊または想念霊のこと)」「人間の妄想が生み出した化生の霊(→想念霊のこと)」「畜生界に落ちた人の霊(→変化霊のこと)」「霊を見る側が自分の中での潜在意識で見ると、その形が動物の形で見える(→霊能者の妄想)」「人間の意識が動物の幽体に反映したもの(→霊能者の妄想)」等があり、主に人霊が変化したものが「動物霊」であるとする一群が存在する。

 

さらに「動物霊」が憑依する人間のタイプに関しては、次のような回答が寄せられている。「本能の人に憑きやすい」「憑依する動物に意識が同通している人」「誇大妄想的な人、典型的な利己主義者に憑く」「新興宗教に入っている人に(動物霊が憑くという現象が)起こる」などがあり、主に霊性の未熟な者に憑依が起きると述べている。

 

6.「憑きもの持ち」迷信

☆俗信と迷信

一般的に民俗学では「民衆の間で行われる宗教的な慣行・風習、呪術・占い・まじない、幽霊・妖怪の観念など」を俗信と呼んでいる。これらは科学的な根拠や合理性は乏しいが、普通の人々が日常生活の中で実践してきた行為や観念を指している。

さらに俗信と迷信との違いに関しては、俗信の中でも特に「社会に対して害毒を及ぼすものを迷信」といって区別している(民俗学研究所編『民俗学辞典』東京堂出版1951年刊、329頁以下)。そのため全ての俗信が迷信となるわけではない。

 

☆憑きもの(犬神、狐憑きなど)

1970年代までの農村では「憑きもの持ち」迷信が広く存在していた。この迷信によってその家筋の者を社会的に排斥する(村八分)とか、結婚の障害になるなどの弊害が生じていた。農村では基本的な“生活単位”は個人よりも家であり、稲作という農作業を通して相互に社会的な義務を行い合う「農村型共同体」が存在している。そのため「憑きもの持ち」迷信は「家や世帯を単位として出現」する。

 

この「憑きもの持ち」迷信の弊害がいかに大きかったかは、島根県知事の恒松安夫氏の言葉からそれが読み取れる。恒松知事は昭和2811月に速水保孝(はやみやすたか)氏の著書『憑きもの持ち迷信』(明石書店1999年刊、改訂増補版)に民俗学者の柳田国男氏とともに次のような「序文」をのせた。

――日本の農村には、古くから、憑きもの持ち迷信が広く存在して、その特殊家筋の人々を、社会的に排斥する風習がありましたが、今日では、主として、若人の自由な結婚の障害として残存していることは、衆知のとおりであります。しかも、この悪習が、特に山陰地方に根強く残っていることは、当地における封建色の強いことを裏書きするものであって、我々にとって、まことに残念なことであると言わねばなりません。・・・今日の農村には、依然として、この迷信存続の物的基礎が残存している以上、容易に消滅しないでしょうが、おそらく、農村の民主化の徹底を図ることによって可能であると思われます――。

 

一般に「憑きもの持ち」とは「人狐」を代々飼っていると称する家がその家筋にあたる。これを「狐持ち」といい、歴史的考察から一般には資産を有する家が該当するとされ、その由来は、「(家の守り神である)飼狐が日頃から物でも金でもくわえて戻るから、自然に資産ができた」とされている。

一方「人狐」に憑かれたと称して騒ぎ立てる者を「狐憑き」と呼ぶ。たまたま「狐持ちの家の者」に対して恨みを売るようなことをすると、その家の「人狐」が、主人に代わって出てきて報復するという。その報復によって引き起こされる現象として、「(人狐を)憑けられた者は、たちまち気が妙になり、あらぬことを口走り、あたかも狐のような所作をする。そうなると医者や薬では治らず、ただ祈祷に頼るほかない・・・それを受けこむ祈祷師がかなり繁盛する」(石塚尊俊著『日本の憑きもの』未来社、1999年刊復刻版、44頁)。このような「憑きものを付けられた者(狐憑き)」に対しては、祈祷師による「憑きもの落とし」の治療が行われることになるので、「狐憑きと祈祷師は一対の関係」となって登場してくる。

 

☆メカニズムの解明

昭和20年代に速水保孝氏は郷里の出雲と壱岐に限定して1軒1軒の家庭に立ち入って、その家系、富の蓄積過程、狐持とされるに至った時期や経緯について社会経済史の立場から詳細な調査研究を行った。そしてその調査の成果を基にして著書を著した(速水保孝著『憑きものもち迷信』明石書店、1999年刊改訂版)。このような「憑きもの持ち」迷信については、多くの研究者による民俗学的な調査・研究が行われてきており、その蓄積によって「憑きもの持ち」迷信のメカニズムが次第に明らかにされてきた(→ただしそのメカニズムは諸説あるが)。

 

関西大学名誉教授の野村昭氏によれば「狐持ち俗信は憑依現象(→憑依信仰のこと)と社会現象(→社会的偏見のこと)の二面性を持って表れる」と述べている(野村昭著『俗信の社会心理』勁草書房、1989年刊244頁)。しかし「憑きもの持ち」迷信の全てが、「憑依信仰」や「社会的偏見」などの民俗学的な観点から、そのメカニズムが解き明かされるわけではない。「憑きもの持ち」迷信の中には社会学者の田中千代松氏の指摘(田中千代松著『霊の世界』日本心霊科学協会、1978年刊55頁~61頁)にもある通り、地縛霊などの低級霊による憑依現象も、少数ではあるが存在していたと考えられる。

 

このように「憑きもの持ち」迷信のメカニズムには数多くの原因が考えられるが、明らかな憑依現象と思われるものを除いた一般的な「憑きもの持ち」現象は、根深い問題をはらんだ典型的な迷信といえるであろう。社会的偏見と村八分的な現象を伴った「憑きもの持ち」迷信は、高度経済成長の波が日本の津々浦々に及ぶようになった1970年代以降には、徐々に消失して克服されてきたように見える(→1970年代は都市化の波が地方にまで及んでいった時期であった。この頃を境にして地域の文化状況が画一化されていったため)。

 

7.「動物霊が人間に憑依する」とは

☆生前の観念の継続

ある人が長年慣れ親しんできた“習慣・習性やモノの考え方”というものは、死という関門を通過したからといっても、本人の意識の中に“霊的自覚”が芽生えてこない限りは、生前と何ら変わらず保持したままであり、その観念が霊の世界において本人の行動様式を縛ることになる。なぜなら霊の世界は思いが現実となる世界だから。これは新参霊が霊の世界に慣れていくための配慮の現れ(=生活の連続性)であると言われている。

 

日本には古くから蛇や狐・狸等の「動物信仰」があり、また近代では「憑きもの持ち」迷信の蔓延の影響もあって、「動物霊が人間に憑依する」という観念が根強く存在してきた。生前にこのような「動物信仰」や「憑きもの持ち」迷信が盛んな地域で生まれ育って、何の疑問も持たずに「動物霊が人間に憑依する」という観念を信じて生活してきた人は、そのような観念を持ったままの状態で霊界入りすることになる。そしてその霊が“霊的自覚”を持つまでは物事の実相が理解できずに、生前に慣れ親しんだ「動物霊が人間に憑依する」という観念を地上世界に放出し続けることになる。

 

このような観念を受信した霊能者は、霊界人の観念が作った“動物をイメージした想念霊(→思念が実在となる世界だから)”や、低級霊が動物に変化した姿(変化霊)などを見て、あたかも動物が人間に憑依していると勘違いして、霊視したままの不完全な情景を相談者に述べることがある。日本人の間で日常的に言われている「動物霊が人間に憑依する」という観念には、このような霊的背景と問題が存在する。

 

☆師弟関係から派生する問題

さらに霊能者特有の問題として「霊能開発時における師弟関係」から派生する問題が存在する。一般に霊媒体質者は指導者の下で霊能開発を行うことが多い。その際に指導者が「動物霊が人間に憑依する」という観念を持っていれば、教えを受ける弟子はたとえ“動物霊”の背後に低級霊の姿を霊視したとしても(→低級霊が動物霊に姿を変えて相談者に憑依している状態)、指導者の言葉を覆して自己の主張を述べることには消極的とならざるを得ない。

特に指導者が職業霊能者の場合で、“動物霊が相談者に憑依しているので除霊する”と言う形で仕事を行ってきた場合には、両者の間に感情的なもつれや禍根を残すことにもなりかねないので、現実問題としてかなり困難であろう。

 

このように「霊能開発時における師弟関係」を通して、「動物霊が人間に憑依する」という観念が代々存続していくことになる。その系統の霊能者の間では、この観念が一般的な現象として語られることになる。このような理由から日本特有の「動物信仰」や「憑依信仰」から派生した「動物霊が人間に憑依する」という観念は、時代を超えて根強く残ってきたのではないだろうか(→但しごく少数ではあるが現実に憑依している場合もある)。

 

☆特殊な事例

定評ある霊界通信によれば精神病には「憑依霊」が原因となって発症するケースがあり、「憑依霊」には「人霊」と「非人霊(類人霊)」の二種類があるという(個人的存在251⑫)。

一般的には死によって肉体を捨て去ったにもかかわらず、本人は死を自覚せず、いまだ肉体があると信じており、意識が地上世界に向いている霊のことを地縛霊という。このような霊が地上と幽界の境界にある「中間境(冥府)」の下層にたむろしている。

マイヤースの通信『個人的存在の彼方』では「中間境(冥府)」の下層世界を「テロリスト界」(個人的存在252④)と呼んでいる。この「テロリスト界」には例外的に「動物霊」が存在しているという。治療不可能な精神病の中には、このような「動物霊」によって憑依されたごく少数の凶暴な精神病者がいると述べている(個人的存在251⑯)。

 

前述したように個々の動物は、それぞれ固有の物的形体を持つと同時に、その肉体に対応した中間物質(=半物質、幽質結合体)を有している(個人的存在19⑦)。しかし人間とは異なって個別の肉体に対応した霊的要素は有していないので、死後はペットのような特殊なケースを除けば、物的形体をまとう動物の「個々の意識」は所属する種ごとの巨大な「意識=器」に吸収される。

しかし数多い個体の中にはスムーズに「死の過程」を辿ることが出来ず、動物界に戻る途中の「中間境(冥府)」で留まってしまうものもいるであろう(→たまにコンピューターが誤作動を起こすケースに類似する)。なぜなら個々の動物はそれぞれ中間物質(=半物質、幽質結合体)を有しているので、理論上は「中間境(冥府)」での滞在が可能であるから。

その中から“アウト・ロー”的な個体(個々の意識)が「中間境(冥府)」の下層でたむろして、憑依現象を起こして凶暴な精神病者を生み出すケースもあろう。ただしその際に、誰彼かまわず憑依するわけではなく、取り憑かれる人には、もともとそういう受け皿が出来上がっている(→極端な誇大妄想や典型的な利己主義などの歪んだ性向を有する場合)。その受け皿という歪みの程度に応じて、地縛霊(人霊)や「動物霊」が憑くのであり、普通に日常生活を送っている分には縁のない存在である。

 

心霊研究家の大石隆一氏のアンケート調査からも窺えるが、世俗的な霊能者は「動物霊の憑依」が頻繁にあるかのように述べて相談者に対応している。しかし現実には、霊能者の潜在意識に深く染み込んだ「動物霊に関する迷信」というフィルターを通して相談者の背後を霊視するため「霊能者の妄想」と思われるケース。または霊視能力が低いため「低級霊の変化霊や想念霊」を「動物霊の憑依」と見誤るケース。本当は何も見えていないのに「動物霊」が見えたと欺罔するケース。このようなケースが大部分であろう。しかし上記で見てきたように極めて例外的に「動物霊」が憑依する場合もある。

 

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<注1>

◆お世話する者とされる者との関係

ここに一本の線を引いて、この線上に“神”と“私”を置いてみる。一本の線の左端に近いところに私がいて、遥か彼方の右端に神がいる。私の右近くに守護霊がいて、さらに守護霊の右近くに高級霊(人霊)がいる。この高級霊でさえも神との距離は天文学的に遠い。

一般にお世話する者とされる者との距離が近ければ、動作(作用)はすぐに何らかの反作用を伴って帰ってくる。たとえばペットの犬や猫に対して、飼主が愛情を込めて世話をすれば、愛くるしい動作を伴った反応が返ってくる。お互いに「愛」を仲介として良好な関係が築かれる。

これに対してペットが爬虫類であれば、当然に反応は鈍いであろう(→個別意識を持った人間と“単なる意識の集合体”がまとう爬虫類という物的形体との間に距離があるから)。さらに両者の距離がある昆虫の場合はどうか、飼主が与える餌や飼育環境の整備(→飼育箱の掃除や温度管理など)などを昆虫の視点から見れば、時間になると餌が出て来たり、清掃されていたり、温度が一定に管理されていたりと、一種の法則性として感じるのではないだろうか。

このように人間と相手の距離の隔たりが大きければ大きいほど、相手は人間の行為を愛情としてではなく、むしろ“法則”として感じるのではないかと思われる。

 

◆「愛」に内在する利己性

左端には物質性を帯びた利己的な愛があり、右端には“神の愛”がある一本の線があるとする。この線上を物質性の濃い左端に行けばいくほど、「愛」の表現は利己性と特殊性を帯びて、そこに何らかの物質的見返りが伴ってくる。一方右に行けば行くほど利己性が薄れてきて、「愛」に利他性が増して普遍性を帯びてくる。「愛」の対象も特定の個人から、万人に、すべての生き物に、自然に、宇宙へと拡大していく。

高級霊の「愛」は守護霊よりも、より普遍性を帯びる。高級霊は『シルバーバーチの霊訓』やモーゼスの『霊訓』に見られるように、時に人間の自由意志を尊重して「どうぞご自分の信じる道を歩まれるがよろしい」と突き放した言い方をすることがある。このように「愛」に一種の冷たさを伴うため、手取り足取り手助けしてくれるのが「愛」だと思っている依存心の強い生き方をしている人にとっては、物質的・精神的見返りのない高級霊の「愛」は、「愛」とはよべない別物となる。このように高級霊レベルの「愛」でさえ、万人が等しく「愛」として感じるわけではない。

一本の線をさらに右にいけば「愛」を受け取る対象が拡大していく。そして「愛」が徐々に公平性・普遍性を帯びてくる。そのためその「愛」を受ける者には、一種の冷たさ・無機質さが表に出てきて「規則性・法則性としての愛」として感じてくることになる。

このように考えると究極的な「愛」の表現は“法則”となる。この“法則”として現われた「愛」が不完全の世界に行くに従って、“法則”の裏側に隠されていた温かみ(両者の距離が近くなる、守護霊と私の関係)が表面に現われて、次第に特殊性を帯びてくることになる。

 

<注2>

◆「道しるべ224②~」では

「しょせん地上世界は発展途上にある未熟な世界です。それゆえ、同胞のためと思ってすることが、他の生命の権利に干渉する事態がどうしても生じます。そこで私は動機――誠実に、純粋に、そして正直に人のためと思って行うという心がけを重視するのです。今私は生体解剖を念頭に置いて申し上げております。私から見れば生体解剖は間違いです。残酷ですし、無意味です」「それを行う人たちの中には、真実、人類を病魔から解放したい一心の人が大勢いる」「そうした実験によって人類の病気を撲滅するための知識が得られると信じてやっているのです。その動機は誠実です・・・」

 

◆「最後啓示44②~」では

「地上生活の目的の一つは霊的意識の覚醒です。それが成就されれば、大局からの物の見方が出来るようになります」「残念ながら現段階の人類の大半は、霊性の発達の欠如から、自分がもともと霊であり、それと同じものが動物にも宿っていることが理解できません」「本質的には同じ霊的存在なのですから、自分より進化の低い階梯にある動物を慈しみ保護してやるべきなのに、自分たちの病気治療の研究のために、無抵抗の動物を材料として、残酷な実験を繰り返しております。が、これは間違いです。こうした邪悪な、悪魔的ともいえる動物実験をやめさせるためにも、時間はかかりますが、まず霊的知識の普及が必要です。そして、人類全体が、今行われていることが間違いであることに気づく段階まで意識が向上する必要があります。短期的に見れば、それまでは、一時的に今まで以上に動物実験が盛んになることもあるでしょう・・・」

 

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