<目次>
1、スピリチュアリズムの「神観」
・神と顕現する場の関係
・神と人間との間に摂理が介在する
・霊界人の神観
2、基本的な霊的法則
・因果律
・一般的な愛
・親和性
・自由意志
3、見えない世界の霊的存在とは
・「天使的存在」と「人間的存在」
・霊的世界の主な住人たち、その1
・霊的世界の主な住人たち、その2
4,講座に寄せられた質問
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1、スピリチュアリズムの「神観」
①、神と顕現する場の関係
ア、全ての存在に宿る
シルバーバーチの「神観」は唯一絶対的な創造者である「神」あるいは「サムシング・グレート(偉大なる存在)」が宇宙を創ったとする「有神論・創造説」(注1)の立場に立つ(1巻196⑤、3巻184⑪~⑫参照)。この「創造主としての神」の立場から、被造物のすべてに創造者である神が「宇宙の隅々まで行き渡っている」とする。
シルバーバーチは「神は全生命に宿っております。全存在の内部に宿っております。全法則に宿っております」(5巻140⑪参照)と述べる。これは創造者である神と同質の霊が、個別霊の場合は“神の分霊”という形で、その他の場合は“霊(根源的素材たる普遍的要素としての霊)”という形で、神が顕現する“場(意識、魂)”とワンセットになって、全ての存在の内部に組み込まれていることを意味する。
イ、神の愛(普遍的な愛)
神は人智を超えた何らかの意図(設計図)によって宇宙を創った。神は宇宙にある全ての存在が自力によって「愛、慈悲心、寛容心、公正」などの“神の属性(完全性)”を100%支障なく発揮できる様な仕組み、つまり霊的法則を創った。
このように神の意図(設計図)が最初にあって、その意図を実現する為に“神の愛”がある。この“神の愛”を隈なく全存在物に行き渡らせるための手段として“摂理(霊的法則)”は存在する(→万物が自力で霊的成長する為の公平な仕組み、その仕組みの背後に愛がある)。ここから「神の意図(設計図)→神の愛→摂理(霊的法則)→全存在物」という関係性が見えてくる。なおシルバーバーチは「神は無限なる愛」(6巻153①)であり「愛とは摂理のこと」(8巻126⑪~⑫)と述べている。
このような形で創られた宇宙には“神の愛”が「普遍的要素としての霊(=霊的エネルギー)」に姿を変えて遍満している。この“霊力(=霊的エネルギー)”が霊的法則の作用によって、遅かれ早かれ宇宙の隅々にまで過不足なく及んでいくことになっている。その時の宇宙の姿は“神の属性(完全性)”が100%発揮された“完成された世界”となるであろう。
ウ、“神の分霊(霊)”と“場”がワンセット
A、個別霊の場合
人間たる個別霊にも“神の分霊”と神が顕現する“場”(→場とは「本来の私という意識」や「霊的な心」のこと。この顕現の度合いに応じて霊性の高い人や霊性の低い人“が存在する)が、自我の本体にワンセットになって組み込まれている。その“場”に於ける顕現状態は個々人によって異なっている。“場”に内在している“神の分霊”の顕現の度合いが高い霊とは、神の属性(→親切、同情、慈悲心、思いやり、寛容心、公正、慈善、愛など:1巻19⑧~⑨、1巻155①~②参照)が形体からより多く、オーラという形で滲み出ている高級霊である。低ければ「残虐性、野蛮性、傲慢さなど」が形体からより多く滲み出ている低級霊である。
霊界ではそれぞれの霊は「意識の進化(→顕現する場・本来の私という意識・霊的な心に潜在している神の分霊が少しずつ表面に顕在化して行くこと)」に見合った形体をまとう。そして同一レベルの形体をまとった霊は親和性から集まって環境を形成するので「意識=形体=環境」という関係になる。霊界には意識の進化状況に応じて環境(=界層)は無限に存在する。必ずしも4界(物質界、幽界、霊界、神界)または7界(物質界、アストラル界、メンタル界、ブディー界、アートマ界、モナド界、ロゴス界)と言う訳ではない。
B、動物の場合
「神は全生命に宿っている」(5巻140⑪参照)ので当然に動植物にも宿っている。動物の場合では“集合魂(→イラストの升が神の一部である普遍的要素としての霊が顕現する場所となる集合魂)”に潜在している“霊”の顕現度合いが相対的に高ければ、その集合魂から派生する“個々の意識(イラスト、Aのエッセンス部分)”がまとう物的形体(イラスト、Cの物的身体)は、より個別化が進んだ高等な動物となる。そして長い年月の末に意識は類魂意識(グループ・スピリット)を持つまでに進化して、地上世界で“個々の意識”がまとう形体は哺乳類となる。
これに対して集合魂に潜在している“霊”の顕現度合いが相対的に低い場合は、集合魂を構成する“個々の意識(イラスト、Aのエッセンス部分)”がまとう物的形体は、生物学でいうところの「進化体系(人間→哺乳類→鳥類→爬虫類→両生類→魚類→昆虫→単細胞生物)」の中で“低いランク”の形体をまとうことになる。
C、自然界の場合
「神は全存在の内部に宿っている」(5巻140⑪参照)ので、当然に自然界の中にも“神の一部である霊”と神が顕現する“場”がワンセットになって組み込まれている(→シルバーバーチの神観は設計者である神は万物の外にいるとする有神論の立場、神と被造物とは同一とする汎神論とは異なる)。
顕現度合いが低ければ、地球の誕生当時に見られたように自然は大規模な噴火・嵐・地殻変動などを伴った荒々しい表情を見せることになる。物的地球は誕生して以降も進化し続けている。現在では荒々しい自然現象の頻度は太古に比べて低くなっており、穏やかな表情を見せている。
このような自然界から、人はその背後に潜在的に宿っている“神の一部である霊”の存在を感じ取り、畏敬の念を抱くことになる。自由意志を持った人間世界とは異なって、自然界からはストレートに神の存在を感じ取ることができる。それが自然崇拝へと繋がった。なお動植物の世界では個体の行動や存在それ自体に本能が作用している。そのため本能が作用している分だけ、個体からは神の存在をストレートに感じ取れない。
霊的世界は神の被造物である全存在の内部に潜在している“神の一部である霊”が、顕現する場に顕在化している割合に応じたヒエラルキーの世界となっている。大まかにいえば「人間→動物→植物→自然」という階層構造となっている。
②、神と人間との間に摂理が介在する
ア、公平性の確保
創造主である神は人智では知り得ない“何らかの目的(神の意図・設計図)”のもとに宇宙を創り(→それ故に神は宇宙の外にいる)、統治する手段として摂理(→自然界を支配している理法や法則のこと)を創った。シルバーバーチはたびたび「摂理の神」(福音47⑫参照)を強調する。図式的に言えば「神→神の摂理⇔万物」となる。この神観では神と人を含む一切の万物は直接相対することはなく、両者の間には必ず「神の摂理(法則)」が介在する。神は摂理の裏側に隠れる形で存在することになる。
摂理が介在することによって万物を分け隔てなく平等に扱うことが出来るので御利益信仰は起こりようもない。なぜなら何人たりとも「神の摂理」に則れば霊的成長がもたらされ、逆らえば霊的成長が損なわれることになるからである。いわば「神の摂理」という川の流れに沿って生きるのか、それとも逆らって生きるのか。そこには各自の自由意志が介在する。
イ、人格神の否定
シルバーバーチは、神は人間的憤怒に動かされるような人間的存在ではない(3巻72⑨~⑩参照)とか、「生身の一個の人物を絶対服従の対象としてはいけない」(3巻86⑫参照)、神は個的存在ではない、人物的存在でもない(11巻108①参照)と述べて、現人神や人格神を否定している。
さらに「大霊(神)による直接の関与などというものは絶対にありません。あなた方が想像なされるような意味での人間的存在ではないのです」(到来46⑩~⑪参照)と述べて、神が法則を介さずに直接関与する形態(神⇔人間)を否定している。
ウ、「神⇒摂理(法則)⇔人間」の関係
神と人間との関係は「神とは法則なのです。あなたが正しいことをすれば、自動的にあなたは自然法則と調和するのです」(7巻79⑫~80②参照)と述べているように、神は法則を介して人間に働いている。図式的に言えば「神⇒摂理(法則)⇔人間」となる。
シルバーバーチは「摂理の神」を前面に出すことによって、奇跡や依怙贔屓等による例外規定は一切存在せず、人間を含めた万物に公平に神の愛が行き渡ることになると説く。このように人間側から見れば神は法則として現れるので(→法則の裏側に神がいる)、「神は法則です」と述べたまで(→神は全法則に宿っている:5巻140⑪参照)。
エ、祈りと摂理の関係
上記のような「神⇒摂理(法則)⇔人間」という神観が普及することによって、多くの信仰者が抱いている“神と人間が直接相対する神観”から生じる「神との取引」という行為。例えば高価な供え物をすることによって神の加護が増すという神観(→人身御供・生贄など)は誤りであることが明らかになっていく。
このようにして霊的摂理が普及して霊的観点から見た“本来の神観”が理解されるに伴って、従来の“御利益信仰的な神観”(→長時間祈りを捧げることによって願望が叶うなど)は質的に変革されることになり、地上世界が大きく変わっていくことになる。
人が何を信じようと、どのような信仰対象を持とうと、その対象に対して何を祈ろうと本人の自由だが、祈りが霊的摂理に合致していなければ叶えられない点だけは事実である。霊的真理が普及していくに従って、この点が明確となって行く。
オ、「祈りの対象」と「忠誠を捧げるべき対象」の違い
シルバーバーチは祈りの対象は神であると述べる(11巻113⑩~⑪参照)。なぜなら祈りとは、神の分霊である自己とその始源との一層緊密な繋がりを求めるための手段であるから(12巻125⑪参照)。従って神の使者である高級霊やイエスを祈願の対象とするのは間違いとなる(語る159⑦参照)。
これに対してシルバーバーチは忠誠を捧げるべき対象は「宇宙の大霊すなわち神と、その永遠不変の摂理」(メッセージ165⑮~⑯、7巻207③~④参照)であると述べて、祈りの対象とは区別して用いている。なぜなら祈りの照準は当然に「神」でなければならないのに対して、個別霊が永遠の旅を続けていく為には「流れに乗る」という意味で「摂理」に合わせる必要が出てくる。そのため忠誠の対象として「神」に「永遠不変の摂理(統治の手段)」が加わった。
③、霊界人の神観
ア、神はその働きによって知るのみ
肉体をまとった状態では直接に神を認識することは不可能である。一方霊界人にとっても神はその働きによって知り得るのみである。シルバーバーチの霊性レベルでさえも「私はまだ宇宙の最高の顕現を見たと宣言する勇気はない」(6巻128⑨参照)として、高級霊でも“神(→宇宙の最高の顕現)”を見ることはできないと述べている。
イ、比喩「曇り空でも太陽の存在は感じられる」
モーゼス著『霊訓』のインペレーター霊によれば「(地上にいた時より)神については(多くを)知ることを得た。が、神そのものを直接には知りえぬ」「われらにとっても神はその働きにより知り得るのみ」(霊訓上38⑬~⑮参照)と述べる。さらに「たとえ(神を直接に)拝したことはなくとも、われらはその御業を通じて神の奥知れぬ完璧さをますます認識する」「われらは無数の方法で、その存在を認識する」(霊訓下31④~⑥参照)という。
一般に用いられている比喩を使って表現すれば、「雲が重く垂れこめた曇天の日や雨の日であっても、私たちは昼間の明るさを通して太陽の存在を実感として感じ取る。雲に隠れているから、雨が降っているからといって太陽は存在しないとは誰も言わない」。ここに出て来る「太陽」を「神」に置き換えれば霊界人の神観が分かる。
2、基本的な霊的法則
①、因果律
ア、因果律の目的は霊性の進化
辞典の記載によれば「因果律とは一切のものは原因があって生じ、原因が無くては何ものも生じないという原理」(広辞苑)とある。
シルバーバーチによれば「(因果律とは)原因はそれ相当の結果を生み、自分が蒔いたタネは自分で刈り取る」(1巻82③~④参照)ことであり、数多くある霊的法則の中でも基本的な法則の一つである。さらに因果律の根本には霊性の進化という目的があるため(1巻180⑥~⑦参照)、高級霊といえども“原因と結果”の過程に介入することは出来ない(7巻186⑪~⑫参照)。また行為者は永遠の旅路のどこかの時点で、必ず「蒔いたタネの刈り取り」を行う。必ずしも短い「地上生活期間中に(因果律が)成就されるとは限らない」(1巻179⑪~⑫参照)と述べる。
イ、「因・縁・果」の関係
私たちの毎日は絶えず「原因」を作り、その「結果」を刈り取りながら生活をしているようなものである。何らかの摂理違反行為という「原因」を作れば、それは本人自身が必ず返済していかなければならない(→例:暴飲暴食はやがて体の不調となって表れる)。その返済方法は条件(縁)に応じて異なるが。
シルバーバーチも条件(縁)については「種を蒔きさえすれば芽が出るというものではない。芽を出させるだけの養分が揃わなくてはならない。養分が揃っていても太陽と水がなくてはならない。そうした条件が全部うまく揃った時にようやく種が芽を出し、成長し、そして花を咲かせる」(1巻63⑫~64①参照)と述べる。
このように宇宙は「原因と結果の法則(=因果律)」を基本として形成されているので、何らかの原因を作れば機械的に相応の結果が発生するのが原則である。しかし条件(縁)によっては表れ方(結果)が法則の範囲内で異なって出てくる(→水や光の当て具合で異なる)。
ウ、因果律は国家や民族に対しても働く
戦争や過去の植民地支配などによって引き起こされた行為は、当然に個人の集合体である国家や民族に対しても何らかの結果(→例:植民地宗主国に見られる負の遺産など)となって返ってくる(4巻82①~②、4巻33⑮~34①参照)。霊的摂理に逆らった行為を行えば、その行為の主体が「個人・集団・民族・国家」を問わず、いつかはその代償を支払わされることになるからである(語る93⑨~⑩参照)。
エ、複合的に働く因果律
各自は「民族・国家・地域・家など」、自分の周りで複合的に働くカルマを駆使しながら、自らが持って生まれてきたカルマの解消を図っている。
私がある国家や民族の下に生まれてきたと言うことは、その国家や民族が過去に作ったカルマを“大枠”として用いながら、その枠組みの中で自らのカルマの解消を図っていくということである。
民族や国家などの因果律の“大枠”による縛りの強弱は、一般には市井で暮らす庶民であれば影響は比較的薄いが、国家の意思決定の過程に直接携わる国家公務員や、国家を背負って他国で働く駐在員であれば縛りは強い。このように複合的に働くカルマを駆使しながら、自らのカルマの解消に努めると同時に霊性の向上を図っている。
例えば対外折衝という形で国家の意思決定に携わる国家公務員は、相手国との粘り強い交渉という“外交の場”を使いながら、自らが有するカルマの解消を図っていく。その他の国民は“重苦しい時代の空気(→例えばコロナ禍を生きる、近隣諸国との緊張関係の中で生きるなど)”を受忍するという行為を通して、その受忍の過程で自らが有するカルマの解消を図って行く。それと同時に過去に国家が作った“縺れた糸”をほぐしていくという形で。
オ、「因果律の拡張」と「業因縁の継承」について
A、「家(イエ)」と「家(家制度)」
日本に於いて見られる独特な因果律は、「仏教の縁起(因縁生起)」に「先祖崇拝思想」と「家の観念」が結びついて、国民の間に広く受け入れられてきたもの。この中の「先祖崇拝思想」は考古学の調査(→石と墓の配置など)から、既に縄文時代にはその痕跡が見られる。
古代より「家(イエ)」は家族生活の場であると同時に、社会の伝統的な構成単位である親族集団を指す言葉でもあった。このような生活の場や親族集団としての「家(イエ)」とは別に、「構成員の生死を超えて家産・家業・家名などの継承によって存続すべき家(家制度)」がある。
このような生活共同の単位としての「家(イエ)」が「家制度」という形で、社会の中に制度として組み込まれたのは比較的新しい。近年では「家」は家族と同義語と見なされる「家(イエ)」を指すことが多い。
B、「家制度」
江戸時代の「家制度」は「家禄制度」と結びついた武家階層や朝廷に仕える公家から始まり、徐々に豪商や豪農に広がったが、名家でもなく資産も無い大部分の庶民には初めから無縁な制度であった。それが明治31年(1898年)制定の明治民法によって、全国民を対象とした「家制度(=家族制度)」が創設された。これは戸主に家の統率権限を与えた制度で、古くからあった「家(イエ)」と言う家族集団を制度化したもの。明治民法の制定によって、日本における「家制度」は従来の「上層の家」から「庶民の家」へと拡大された。
この「家制度の拡大」につき著名な民法学者の中川善之助氏(1897年→1975年)は次のように述べている。「日本には二つの家族観がある」「一方に由緒正しき家系の名家名門である上層の『家』を基準に考えるもの、他方に戸主も家族も働いて共同生活をまっとうしている庶民の『家』を基準に考えるものがある」。
一般に「家の因縁」と言う場合の「家」とは、「構成員の生死を超えて家産・家業・家名などの継承によって存続すべき家(家制度)」を指すことが多い。このため「家」を「庶民の家」ではなく「由緒正しき家系の名家名門の家」という意味で、この立場から次に「家の因縁」を見て行く。
C、スピリチュアリズムから見た「家の因縁」とは
宗教では「先祖から流れてきている悪因縁は、身内の誰かが消さなければならぬ」として、この流れを断ち切るには「布施心が悪因縁を解消する最も良い方法」であると言われている。世俗的な心霊の世界でも、頻繁に「親の因果が子に報う(→先祖が犯した悪い行いが原因で、何の罪もない子がその報いを受けて不幸になる)」が説かれている。
これに対してシルバーバーチは「原因を作った者は自ら償いをして刈り取る」という「自己責任の原則」(6巻58①~⑧、59⑫参照)を述べている。この「自己責任の原則」から見れば、孫は祖父が蒔いたタネ(原因)を祖父に代わって刈り取ることはできない。祖父が作った原因は祖父自ら何らかの形で、霊界でまたは再生して刈り取りをすることになる。
孫は再生するに当たり、自身のカルマを解消するために日本という民族集団が有する大枠としてのカルマを使って、さらに「名門の〇〇家」に生まれて、この家に存在する“カルマの流れ”を利用しながら(→例えば代々の当主は極端な吝嗇家で傲慢な人であり、それによって作り出された家にまつわるカルマの流れ)、自分自身のカルマの解消をはかるのが最も適していると判断して再生したもの。血縁を重視して「名門の〇〇家」に再生したのではない。通常は祖父という霊魂と孫という霊魂の間には血縁関係はないから。
このように一般に言われている「因果律の拡張、業因縁の継承」は、シルバーバーチが述べている「各自が各自の人生の重荷を背負う(自己責任の原則)」という因果律の原則から見ると問題がある。
②、一般的な愛(利他的行為)
ア、愛の多様な形態
A、愛は全ての根源
愛は宇宙の原動力であり全ての根源となっている。例えばキリスト教文化圏では「隣人を自分のように愛しなさい」(マタイ福音書22㊴参照)という「隣人愛」があり、これが道徳・哲学・宗教等いずれの立場からも最も根源的な観念の一つとされている。儒教文化圏の東洋にも「仁(→血縁に根差す愛)」「仁道(→仁を無縁の人にまで広げていくこと)」「慈愛」といった観念がある。
シルバーバーチも同様に「愛が全ての根源です。人間的愛はそのほんのささやかな表現に過ぎませんが、愛こそ神の摂理の遂行者です」(1巻60⑭~61①参照)と述べている。霊界人が地上人に対して手助けするのも愛に根差しているから。このように愛は様々な形態の背後に存在しており、世の中の全ての根源となっている。
B、進化レベルの距離間に応じた「愛」の感じ方
一般にお世話をする者とされる者との“進化レベルの距離”が近い場合、例えばペットの犬や猫に対して、飼主が愛情を込めて世話をすれば、愛くるしい動作を伴った反応が返ってくる。お互いに「愛」を仲立ちとした良好な関係が築かれているから。
これに対して両者間の進化レベルの差が大きい爬虫類のトカゲや両生類のカエルをペットとしている場合ではどうか、当然に反応は鈍いであろう。さらに進化レベルに差がある昆虫の鈴虫の場合はどうか。飼主が与える餌や飼育箱の掃除・温度管理などの飼育環境の整備を鈴虫の視点から見れば、時間になると餌が出て来たり清掃されていたり、また温度が一定に管理されていたりと、鈴虫に感受性があれば一種の“法則性”として感じるのではないだろうか。
このように人間と相手の“進化レベルの距離”が大きければ大きいほど、相手の受け止め方の違いは大きい。両者の距離の隔たりが大きいほど相手は人間の行為を愛情としてではなく、むしろ“無機質な法則”として受け取るのではないだろうか。
C、一本の線で「愛」を表現する
次に一本の線を引いて、線上の左端には物質性を帯びた究極の「利己的な愛(→束縛する愛、血縁や仲間重視の愛)」を置き、線上の右端には「利他的な愛(→与えるだけの愛)」の極致である“神の愛”を置く。ここでは「私」を起点にして、進化レベルの高い霊との関係で「私が感じる主観的な愛」がどのように変わっていくのかを見て行く。
この線上を物質性の濃い左端に行けばいくほど、「愛の表現」に利己性や特殊性が帯びてきて、そこに何らかの物質的見返りである「お金、モノ、保護などの対価」が伴ってくる。
一方右に行けば行くほど愛に内在するところの利己性や特殊性が薄れてきて、利他性が増して愛に普遍性が帯びてくる。受け取る「愛」の対象者も左端の「一対一」の特定の個人から、右端に行くに従って万人に、すべての生き物に、自然に、宇宙へと拡大して行く。
D、高級霊の「愛」
霊界通信で定評がある『シルバーバーチの霊訓』や『モーゼスの霊訓』を読んでみれば、高級霊の「愛」には普遍性が伴っていることが分かる。例えば人間の自由意志を尊重して「どうぞご自分の信じる道を歩まれるがよろしい」と突き放した言い方をする場合がある。
手取り足取り手助けしてくれるのが「愛」だと思っている、依存心の強い生き方をしている人にとっては、本人の自由意志を尊重する高級霊の「愛」からは一種の冷たさが感じられるのではないだろうか。高級霊レベルの「愛」でさえ、万人が等しく「愛」として感じるわけではない。さらに「超高級霊の世界」に行けば「愛」を受け取る対象がさらに拡大して、愛に内在する“規則性・公平性・普遍性”といった無機質さが前面に出てくる。
E、神=愛=摂理
線上の右端に位置する神は(→厳密には創造者であるため線上の欄外に置かれるが)、宇宙を統治する仕組みとして「神→摂理(法則)⇔万物」を創った。その仕組みの背後には、万物が平等に霊的成長を果たすための“究極の愛”が隠されている。なぜなら「(究極の)愛とは摂理のこと」「神そのものが愛」、すなわち「神=愛=摂理」だから(8巻126⑪~⑫参照)。このように考えると究極的な「愛」の表現は“法則”となっていく。
この“法則”として現われた「愛」が不完全な世界に行くに従って、“法則”の裏側に隠されていた温かみが表面に現われてきて(→愛する者と愛される者との距離が近くなるから)、次第に「愛」に個別事情と言った利己性や特殊性が帯びてくることになる。
イ、血縁重視の利己的な愛と利他的な愛
愛には普遍性を帯びた高い霊性を伴った愛から、血縁関係から発する“閉鎖的で内向的な愛”まで幅広く存在する。家族的な絆に根ざした血縁的な愛よりも「奉仕的精神から発動した愛」には、行為の純粋さが高い分だけ“神の属性(→愛・寛容さ・叡智・親切・優しさ・思いやりの心など)”がより多く顕在化している。なぜなら排他性を帯びた内向的愛よりも発展性がある外向的愛の方が、利他性指向が強い分だけ上だから(1巻145⑪参照)。
ウ、地上に通信を送る霊
シルバーバーチは次元の異なる地上に通信を送ることは、霊的波長から物的波長への切り替えを伴うことから「容易なことではない、(通信霊は)大へんな努力を必要とする」、そのため通信霊は必然的に「愛念を抱く者に限られる」(1巻89⑨~⑪参照)と述べている。
このような困難を乗り越えて地上に送られてくる霊界通信の多くは、未だに意識の関心が地上に向いている物質臭が抜け切らない霊、物的波長に馴染み易い幽界の下層界に居住する血縁の霊からの通信である。ここに血縁重視の霊界通信が多くなる理由がある。
霊的自覚が深まるにつれて、霊には霊性レベルを向上させるという上昇志向が強まって行くため、次第に地上への関心は薄れて行く。そのため自覚が芽生えた霊からの通信は減っていく。傾向として地上への通信は、霊に何らかの使命がある場合に限られてくる。
③、親和性
ア、基本的な法則
A、最初の一歩は地上人が行動で示す
霊的摂理に「親和性の法則」がある。これは霊的成長度が同じで親和性を有する者との交流が日常的に行われている霊界では基本的な法則だが(最後啓示149①参照)、霊界とこの世との間でも「親和性の法則」は働く(5巻234①~③参照)。
例えば人の為という利他的な願望は、自動的に同じ願望を抱く霊界人を引き寄せる(1巻29⑤~⑦、2巻17⑤~⑥参照)。そのプロセスを見ると、まず霊界人を引き寄せる為の何らかの“利他的な行動や強い思い”が地上人側に先行して存在する必要がある。最初の一歩は地上人側からであり「必要な条件を人間側が用意する」ことから始まる(2巻209⑨~⑫参照)。
なぜなら地上人の利他的な行動や思いに共鳴した霊界人が親和性によって引き寄せられるから。霊界人から見れば地上人の霊的成長度は霊体オーラから一目瞭然にわかるので、それだけの“資格”がなければ霊界人は引き寄せられない。これが基本となる。
B、何の為に霊界人は地上人を指導・援助するのか
地上人が人の為に行う利他的行為は、地上人のみならず霊界人にとっても霊性向上のチャンスとなるので、同じ願望を持つ霊界人を引き寄せることになる。なぜなら親和性によって引き付けられた霊界人は、地上人の“利他的行為を援助する”という行為を通して、自らの霊性レベルを引き上げることができるから。霊界人も霊性向上のため常に“人世のため”に働くことを願っている。そのため霊界人はたえず霊的エネルギーの“通路・道具”となる協力者を求めている。
宇宙に遍満している霊的エネルギーは他者に対する利他的行為によって(→行為者が地上人や霊界人を問わず)、行為者自身を通路として流れて行く。その際に必ずその一部が行為者に蓄積される。蓄積された霊的エネルギーは行為者の“本来の私という意識(霊的な心)”を活性化させて、その意識に潜在している“神の分霊”の顕在化を促進させるから。
C、「引き寄せの法則」の問題点
巷には「思いは現実になる」を応用して、これを「成功法則」とうたったセミナーや解説本で溢れている。それらには「お金の引き寄せ」「恋の引き寄せ」「思い通りの進学先や就職先を実現させる」等のタイトルが並んでいる。当然に引き寄せる対象は、物質性が強いこの世的なモノであり、それは本人自身の利己的な願望でしかない。
利他的願望は霊性向上の為の動力源(→霊的な本能だから)となり、利己的願望は物的世界に縛り付けるという霊的摂理の原理から見ても、巷にあふれている「引き寄せの法則」には問題がある。そこには物的願望が叶えさえすれば良いと言う利己的思いが強くある。地上世界は霊性レベルを向上させるために物的体験を積むための「学校」と言った観点や、各自が遭遇する困難や障害は“魂の磨き粉”であると言った観点は全くない。
地上人が己の利己的願望達成の為に引き寄せる霊界人とは、親和性の法則から見て物質臭の強い低級霊や地縛霊(→いまだ死んだという自覚のない霊)である。引き寄せる人が霊的に敏感体質者の場合には、良からぬ影響を受けることがある。
イ、憑依(親和性の法則の一種、負の親和性)
A、意識の振れ幅
地上の人間の一日は、高尚な意識状態から動物性を過度に発現させた意識状態の間で、絶え間なく揺れ動いている。人の魂を揺さぶる行動や話を見聞きすれば意識は高揚する。これに対して過度のアルコール摂取は、自らの“理性の蓋”を開放して動物性を強く発現させることになる。
このように人間は意識の揺れ幅に応じて、あらゆる霊的レベルの霊からの影響力にさらされている。しかし「実際に引き寄せるのは自分と同じ霊格を持った霊だけ」(8巻94⑭~⑮参照)であり、「両者の間に親和関係(→何らかの共通の受け皿)がある場合に限られる」(語る435⑦~436③参照)。例として自殺願望がある人は自殺霊を引き寄せるなどがある。
B、マイナス作用の親和性
親和性の法則には、原因があればその“原因の性質”に応じた「親しみ結びつきやすさ」という関係がある。原因を発する者の行為や言動に応じた霊界人が引き寄せられるという関係は憑依現象にも言える。なぜなら憑依現象は親和性が“マイナスの作用”となって表れたものだから。これに対し霊界人からの援助は親和性が“プラスの作用”となって表れたもの。
霊的世界に移行後さほど時間がたっていない霊や、物質臭が極めて強い幽界の底辺部分にいる霊にとっては、同じような“受け皿(→例えば自殺願望を持つ者は自殺霊を引き寄せる)”を持つ地上人には影響力を行使しやすい。長年に亘って形成されたマイナスの性格傾向は、その人の潜在意識にパターン化されて組み込まれている。死後間もない霊や幽界の底辺部分にいる霊と、地上人(→霊媒体質者に限る)との間に共通の文化・思考法・似たような地上体験などがあって、さらに“受け皿”が存在すれば憑依は殊更に簡単に行えてしまう。
親和性があると言うことは人間の堕落した生活が同類の邪霊を引き寄せることになるので、人間の側から“餌(受け皿)”をまかなければ憑依は防げることになる(霊訓上48⑫~⑭、50⑥~⑧参照)。シルバーバーチは「自分は大人物であると思い込んでいる人間、大酒飲み、麻薬中毒患者などがこちらへ来ると、地上で似たような傾向を持つ人間を通じて満足感を味わおうとするもの」(5巻234⑦~⑨参照)と述べる。
なおシルバーバーチは「調和のとれた生活、正しい心掛けと奉仕の精神にあふれた生活、我を張らず、欲張らず、独りよがりにならない生活を心掛けていれば、憑依現象は絶対に起きない」(語る436①~③参照)と述べる。
C、顕幽の悪循環を断ち切る
高級霊は「地上の罪悪と悲劇の多くは邪霊が同種の人間に働いた結果に他ならない」(霊訓下156②~③参照)ので、その「悪循環を断ち切る方法は人類全体の道徳的意識の高揚と物的生活の向上に俟つほかない」(霊訓上50②~③参照)と述べる。地上においては霊的知識の普及活動、そして知識を日常生活に活用する為の実践活動が、マイナスの連鎖を断ち切る為には喫緊の課題となっている。
この地上人と霊界人の関係を物理の「音叉(おんさ)」の実験に例えて見れば良く分かる。固有振動数が同じ共鳴箱付き音叉を二つ用意して、片方を鳴らすと空気の振動を伝わって他方の音叉もなり始めるが、固有振動数が違う場合は共鳴しないという現象と同じである。
④、自由意志
ア、自由意志を使って霊性の向上を目指す
霊的摂理の中に「自由意志の行使」という法則がある。人間はロボットではないので、一定の枠組みの中で神からの授かりものである自由意志を有している(3巻162⑨、4巻35④参照)。
これを用いて自らの判断で行為を行うことによって霊性レベルのアップをはかっている。当然にその使用法を誤れば霊性の停滞を招き、それ相応の責任が発生する(→マイナスのカルマの発生)。これは個人であろうと国家であろうと同様である。
イ、自由意志と宿命との関係
A、再生テーマの設定
しばしば自由意志と宿命との関係が問題となる。再生に際して「本来の私という意識(霊的な心、霊的意識)」は指導霊の助言を得ながら「出生に際してのテーマ(再生テーマ)」を設定する。テーマには二つの側面がある。まず「本来の私という意識(霊的な心)」に内在する“神の分霊”を意識の領域により多く顕在化させる為に「新たな地上体験を積む」という側面(→シルバーバーチは「潜在的大我の発達にとって必要な資質を身に付ける」と述べる:1巻109⑧参照)。次に「地上でしか償えないカルマの解消を図る」という側面がある。
B、「本来の私(という意識)」の自由意志
これらの「再生テーマ」を地上人生の中で達成するため、「本来の私という意識(霊的な心、霊的意識)」は最も適した「試練、寿命、性別、両親、体質など」を自由意志で選定する。なお過酷な体験の中で“再生テーマ”をクリアしていく道を選択した場合には(→ハイリスク・ハイリターンの道を選択)、当然に背負うハンディキャップは厳しいものになる。
C、「現在の私(という意識)」の自由意志
地上に誕生して肉体をまとうことによって、肉体本能に強く影響を受けた「現在の私という意識(物的な心)」が生まれる。この「現在の私という意識(物的な心)」は「本来の私という意識(霊的な心)」が自由意志で設定した大枠としての地上人生に沿って(→この大枠は現在の私から見れば宿命となる)、遭遇する試練に対して“現場サイドの自由意志”を行使しながら乗り切って行く(→運命づけられた一定のワクの中で自由意志が許されている:4巻85①~②参照)。その過程で“再生テーマ”の達成を図っていくことになる。
ウ、自由意志の行使という二つの側面
自由意志の行使の問題は、まず「本来の私という意識(霊的な心)」が行使する側面(1巻109⑨参照)と、他方「現在の私という意識(物的な心)」が行使する側面の二方面から考察する必要がある。後者はいわば“現場サイドの自由意志”である(注2)。
自由意志は「本来の私という意識(霊的な心)」が進化した分だけその行使範囲は広くなる(1巻64⑩~⑫参照)。その結果として「現在の私という意識(物的な心)」が行使できる“自由意志(=現場サイドの自由意志)”の行使可能性の限界がそれだけ拡大する。
3、見えない世界の霊的存在とは
霊的世界には他界した人間の霊以外にどのような霊が生活しているのか。以下項目ごとに見て行くことにする。
①、「天使的存在」と「人間的存在」
霊的存在には霊的成長に物的身体をまとって体験を積む必要がある「天体人・宇宙人」と呼ばれている「人間的存在(個別霊)」と、霊的成長に物的体験を不要とする「天使」と呼ばれている「天使的存在(個別霊)」という二系統の霊がいる。高級霊からの霊界通信ではこの分野に関しての情報は少ない。
なおスピリチュアリズムでは高級霊という言葉を頻繁に使用するが、この言葉は相対的な表現である。一般には本人の生活面の指導を行って、霊的成長を支援する役割を持った霊界人を指すことが多い。
一般には“本来の私という意識”に潜在している“神の分霊(完全性)”の顕在化が高ければ、神の属性(→親切、同情、慈悲心、思いやり、寛容心、公正、慈善、愛など:1巻19⑧~⑨、1巻155①~②参照)が形体からより多く滲み出ている高級霊である。これに対して顕在化が極めて低ければ「残虐性、野蛮性、傲慢さなど」が形体からより多く滲み出ている低級霊である。
シルバーバーチは「霊的進化の末に二度と地上世界へ生身に宿って戻ってくる必要のない段階まで到達した」(11巻12⑦~⑧参照)霊である。つまり「地球圏霊界」を卒業した霊なので超高級霊と言う表現になるが、煩雑になるので高級霊で統一した。
ア、天使的存在
A、霊的成長に物的体験は不要
個別意識を持った主な意識的生命体(個別霊)には、「天使的存在」(6巻163⑩、4巻80②~⑦参照)と「人間的存在(→地球人を含む天体人、宇宙人のこと)」(語る202⑤参照)がいる。両者の違いは霊的成長に物的体験を必要とするか否かによって区別されている。
「天使的存在(以下天使と記載)」とは、個別性を特定の形体ではなく色彩や光輝で表現して、霊的体験を積んでいる個別霊のこと。霊的成長に物的体験を不要とする点に特徴がある(4巻80④~⑤参照)。なお天使とは「人間的存在」とは霊系が異なる自然霊のことで、高級な自然霊を「天使」と言い低級な自然霊を「妖精(精霊)」と呼んでいる。
B、「宇宙の経綸」の仕事
この広い宇宙には物的身体をまとって物的体験を積まなくても、霊的成長ができる天使が住む界層が存在する。これらの天使は一度も物質界に誕生したことがなく居ながらにして高級霊であり、宇宙の上層部に所属して「宇宙経綸の仕事(→霊的摂理の執行)」を担当している個別霊である(4巻80④~⑤、新啓示124④~⑧参照)。
個別霊たる天使にも上級天使や下級天使など、霊的成長度に応じた階層構造的な序列がある。なお西洋人は「守護霊や背後霊」を天使と呼ぶ場合があるが、それらは過去に地球という物質界で生活したことがある人霊であって本来の意味での天使ではない。
イ、人間的存在
A、人間的存在が住む惑星
個別霊たる「人間的存在(天体人又は宇宙人)」は、霊的進化に“物的身体をまとって体験を積む”ことが必要な意識的生命体(個別霊)である。その為に形体は「霊的身体+中間物質の接合体(接着剤の役割)+物的身体」という多重構造となっている。なお「人間的存在」と言っても、物的身体が持つ物質性は各天体人の霊的進化によって異なっている。この宇宙には重い物的身体を持つ霊的進化の低い天体人(→地球人)から、希薄な物的身体を持つ高度に進化した天体人まで幅広く存在している。
宇宙には霊的進化に物的体験を必要とする「人間的存在」が住む天体(→惑星、恒星、衛星、彗星など)は数多く存在する(6巻170④~⑦参照)。地球以外の天体で生活する「人間的存在」の姿かたちは、個々の天体ごとに物的条件(→気圧、気温、環境等)が異なるため、普段私たちが見慣れている姿かたちをしているわけではない(6巻170⑧参照)。しかし意識的生命体(個別霊)であるという意味では、我々地球人と同じ組織的存在である(6巻170⑪~171①参照)。
シルバーバーチによれば宇宙に数多くある人間的存在の住む天体の中でも、地球より霊性レベルが劣っている天体は一つだけであると言う(語る202⑤~⑦参照)。「人間的存在」の霊的レベル、つまり天体人の固有振動数に応じて意識がまとう物的身体の振動数に違いがあるため、霊的レベルの低い天体の住人(→意識の精妙化の度合いが低いので形体の振動数は粗い)は高い天体の住人(→意識の精妙化の度合いが高いので形体の振動数は細かい)の姿は見えない。
そのため霊的レベルの高い「人間的存在(→振動数が高い存在)」は一種の物質化現象によって、低い天体の住人(→振動数が低い存在)に姿を見せることになる。マスコミで時々話題に上がるUFOの問題も、このように物的身体を有する“人間的存在の振動数の違い”から考えて見ると理解できると思われる。
B、振動数の違い
霊界では低い振動数の界層に住む霊は、自分たちより一段高い振動数を持つ界層の世界に住む住人の姿は見えない(→この世に住む低い波長の肉体をまとった人間には中間境や幽界の下層界は見えないのと同じ)。このことから推測するに地球人が見ている宇宙とは、地球と同一振動数の宇宙、またはそれ以下の宇宙を見ているに過ぎない。なぜならより精妙な振動数を持つ進化レベルの高い人間的存在が住む宇宙は見えないから(→このことから宇宙には振動数に応じた無数の宇宙が存在することになる。最先端宇宙論では「パラレル宇宙論・並行宇宙論」が議論されている)。
今後、惑星探査が進展しても、地球人に見える範囲は当該惑星の低い振動数であった過去の世界の光景でしかない。地球人固有の霊的レベルを上げない限りは、現在の高い振動数を持つ天体人(人間的存在)の姿かたちは永遠に見えないであろう(→低い振動数の世界から高い振動数の世界は見えないから)。
SF映画で取り上げられる“宇宙人との遭遇”は、低い振動数を持つ地球人の都合からではなく、高い振動数を持つ天体人側の必要性から物質化現象によって実現するもの。
②、霊的世界の主な住人たち、その1
ア、各界の経綸を司る天使的存在
各界層における「霊的摂理の執行」は、界層担当の「天使的存在(以下天使と記載)」を通して行われる。例えば幽界に居住する霊が自らの自由意志で利他的行為を行えば、その行為に対して幽界担当の天使は霊的成長というプラスの評価を下す。それに対して利己的な行為を行えば霊性の停滞というマイナスの評価を下すことになるという具合に。
このような幽界に居住する霊の行為に対して、神の摂理に沿って何らかの評価を下すのが「宇宙経綸を執行」する幽界担当の天使である。なぜなら「無限の階梯の一つ一つの界層に神の意志の行使者が控えている」(霊の書213⑪参照)から。
イ、妖精(想念霊、原始霊)
A、想念霊としての妖精
低級な自然霊である妖精(精霊)は、天使の末端の仕事を受け持っている。天使は仕事を遂行する際に手足が必要となる場合は、その都度、想念(思念)で妖精を作り出す。天使によって創り出された妖精は「想念霊としての妖精(原始的精気)」と呼ばれる。
この点につき定評ある霊界通信には「自由意志もなく、何の目的なのかについての自覚もないまま大自然の様々な側面での現象の演出に携わっている」「指令を発する存在がいて、それに反応して働く存在(精霊)がいる」(霊の書214⑩~⑫参照)との記載がある。地球の進化のしるしである地震・火山の噴火・雷など(12巻109⑪~⑬参照)、自然現象の裏側でも妖精は働いている。
この「想念霊としての妖精」には人間とは異なって個別性や知性はなく、仕事が終われば霊の世界の大気中に融解して消滅する(コナン・ドイル著『妖精物語』コスモ・テン198頁~203頁参照、ドイルは霊視能力者のリードビーター主教の精霊研究を紹介している)。
これは霊界では想念(思念)で作られたものは本人がそれを必要だと思わなくなるまで存在し続け、不要となれば消えてしまうという原理があるから(500現地報告125⑩~⑬、330⑧~⑩参照)。
なおこの種の妖精には知性はないが「森の中や川辺、湖の近くなどで孤独を楽しんでいる人間に感情面での影響を及ぼすこともある」(個人的存在246③~⑦参照)。私たちは木立が発する香気を浴びることによって精神的に安らぎと爽快さが得られる。この森林浴の効果には「妖精が人間の感情面に及ぼす影響」が考えられる。
B、原始霊としての妖精
妖精には「想念霊としての妖精」の他に、天使や人間と同様に「個別霊」としての「半理知的原始霊」(彼方4巻278⑧参照)という妖精(精霊)がいる。この原始霊としての妖精(→実在の自然霊)は人間よりは進化の程度は低いが生命力を持った存在であり(最後啓示179⑫~180①参照)、鉱物の凝縮力として働くもの、植物の新陳代謝を促進するもの、動物の種族ごとの類魂として働くものなど、無数の分野の自然法則の運用に貢献している(彼方4巻278⑧~⑯参照)。
妖精(精霊)の中でも高級な原始霊は「デーバ」と呼ばれており、生命力を持った存在だが人間よりは進化の程度は低い。物理的心霊現象を起こす際には裏側で働いている(最後啓示179⑦~180⑦参照)。
前述のコナン・ドイル著『妖精物語』によれば、原始霊は各段階を経て“火の精”から“空気の精”に進化して行くという(前著200頁参照)。人間とは進化の系統が異なる存在であり、高級霊からの霊界通信でも情報が限られた分野である。
ウ、想念霊(思念霊)
霊の世界では思念は何らかの形体を伴って現実化する。思念で環境や客観的な存在物を作り出すことが出来る。この思念によって出現した“霊の分身”を想念霊と呼ぶ。この想念霊を作り出せるのは「天使的存在」と「人間的存在」だけである。
この世の人間も意識する意識しないに関わらず日常的に想念霊を作り出している。例えば恨みから他人を呪うとその呪いの念が想念霊となって、呪われた人の周りを取り巻くことがある。呪われた人が霊的に敏感体質者であって、なお且つ何らかの親和性や“霊的な受け皿”があれば呪った人の念(→呪った人が想念で作った想念霊)の影響を受ける。
人間の強い思いが想念霊を作り出すという現象は、宗教や信仰の世界ではしばしば見られる。信心深い人が自分自身の想念で作り出した“神仏の姿(想念霊)”や“イエスの姿(想念霊)”を(到来236⑫~⑭参照)、本人自身が見て驚くと言った現象が時々話題となる。
エ、人間に愛された動物
数多い動物の中には人間と接触することによって、人間らしい個性的な意識を表現する個的存在(ペット)がいる(5巻89⑪~90⑬参照)。それらは人間の愛によって死後一時的に個別意識を持ったままでの存続が可能となった動物である。
このような人間に愛された一部の動物は死後、幽質をまとって生前の形体を維持しながら(8巻185⑬参照)幽界の下層界で飼主と一緒に生活することができる(8巻187⑦~⑨、個人的存在247③~④参照)。しかし幽質をまとった存続は一時的なものであり、ペットの霊はやがてその動物の出身母体であるグループの中に融合して個性を失っていく(5巻91⑪、8巻206⑤~⑥参照)。融合したペットはグループの進化に貢献したことになる。
③、霊的世界の主な住人たち、その2
ア、守護霊
A、誰にでも必ず一体の守護霊が付いている
人間には全員に守護霊が一人(→守護霊は生涯変更なし)、受胎(→受精時:4巻53⑩~⑪参照)から死の瞬間まで(1巻179③参照)、あるいは地上に誕生する前から付いている(1巻179②~⑨、10巻138⑪参照)。守護霊は個人でも集団でも守護される側の霊格にあった霊がつく(霊の書208⑧~⑪、210⑤~⑨参照)。
人間と守護霊との関係は、原則として霊的親和性によって結びつくが、例外として血縁関係による結びつきも存在する。シルバーバーチは「(人間と守護霊の関係は)霊的親和性による結びつきです。たまには血縁関係が縁になることもありますが大部分は、血縁はありません」(道しるべ228⑤~⑫参照)と述べる。
多くの場合「守護霊は再生する前まで顔見知りの間柄」(霊の書208⑦参照)にある霊である。ここから守護霊は同じ類魂のメンバーという説が有力に主張されている(スピリチュアリズム普及会発行『続スピリチュアリズム入門』35⑩参照)。
守護霊は本人の特質を見極めた上で、本人の霊的進化に最も適した形で任命されて付く(道しるべ230⑬~⑭参照)。守護霊も霊的に進化するために本人との間に霊的な関係を持つことになる。
両者の関係をリング上で闘う“ボクサーA(再生霊)”と、リングサイドで闘いを見守る“セコンドB(守護霊)”に例えて見れば、両者の関係の一端が理解できると思う。Aは闘いの相手の一挙一動に全意識が集中しているため、巨視的に闘いの全容を見ることが出来ない。しかしBは介添人という立場で、闘い全体を俯瞰できる位置にいる。そのためAに対して的確な支援ができる(注2)。
B、霊的回路を敷設する
守護霊はその人間が辿るべき道をあらかじめ分かっているが(1巻179⑥~⑦参照)、人間側から両者間に“磁気的な回路”を敷設しておかなければ(→日頃から思念を守護霊に向けるなど)、守護霊は影響力を行使できない(2巻209⑥~⑬参照)。
両者の結びつきが強いほど守護霊は両者間に敷設された“磁気的な回路”を通して強い影響力が行使できる(道しるべ228⑪~⑫参照)。しかし多くの人は霊的世界を信じていないので、守護霊との間には“磁気的な回路”は敷設されていない。その為に守護霊は霊力の行使に苦労しているのが現状であるという。
このことに関してシルバーバーチは「守護霊の働きかけを全く感受できない場合は、霊力を使用して外部環境から操作せざるを得ない」(到来33⑨~⑬参照)と述べる。この「外部環境から操作する」とは、本人の血縁者などが有する磁気的回路(愛の絆)を守護霊は一時的に借用して、このルートからインスピレーションを送って導くことが考えられる。
C、日本的な霊魂観に立った「守護霊説」批判
日本的な霊魂観に立って書かれている『心霊科学入門』(板谷樹・宮沢虎雄共著、日本心霊科学協会発行)では「(守護霊は)多くの場合300年~700年前他界した祖先の霊魂で、男には男の守護霊が、女には女の守護霊が付いている」(前著188頁参照)とある。この日本的な「守護霊説」には次のような問題がある。
<問題点①、原則として霊的親和性、例外として血縁関係>
守護霊は原則として霊的親和性によって付く。上述したようにシルバーバーチは「(守護霊は)霊的親和性による結びつきです。たまには血縁関係が縁になることもあります」(道しるべ228⑤~⑫参照)と述べている。
<問題点②、男には男の、女には女の守護霊が?>
霊は性交によって子孫を作る必要はないことや、男女の性別は「地上人生のテーマ(→地上でしか償えないカルマを解消することと、新たな地上体験を積むことの二点)」達成に最も適した性を“私(→本来の私という意識、霊的な心)”が選択する、この点から見ても霊には性別はない(→今生は男で生まれ、来世は女で生まれるなど、良くあるパターン)。
シルバーバーチは「霊の世界では界を上がるにつれて男女の差が薄れていく」(4巻141⑬参照)、またマイヤース霊も「魂には女性も男性もない、つまり性別はない」(個人的存在105⑬~⑭参照)と述べている。地上的な習慣を色濃く残している幽界の下層界を離れるに従って、霊的自覚の芽生えに伴って次第に地上的な観念や習俗から離脱して行くので、男女の別はなくなっていくから。
<問題点③、通信は霊媒の潜在意識を使って送られるから>
霊界通信は霊媒の潜在意識にある用語を使って地上に送られる(個人的存在20⑪~21④参照)。そのため通信霊と霊媒のオーラの融合具合によっては、霊媒の潜在意識にある“色”が付着した通信となってしまう(→ホワイト・イーグルの通信はキリスト教と神智学の影響が強い、オーエン著『ベールの彼方の生活』はキリスト教の影響が強いなどが好例)。
霊媒の固着観念に日本的な霊魂観が強く染みついていれば、その“色”が強く表に出てきてしまう。このような点から見ても日本的な霊魂観に立った「守護霊説」には問題がある。
イ、背後霊
A、背後霊は入れ替えがある
背後霊とは人間の背後にいて感応する霊の総称のこと。一般には「守護霊」「支配霊」「指導霊」から「邪霊」「因縁霊」「憑依霊」まで、あらゆる霊が背後霊には含まれる。しかし現在では主に善霊を指す用語として使われている。
この背後霊という言葉は日本心霊科学協会の初代理事長夫人、霊能者の吉田綾氏が「背後から護るという意味で、人間に憑いてその人を護っている何人かの霊たちに付けた呼び名」であると言う。これ以降「背後霊」の意味は「善霊を指す言葉」として使われるようになった(出典『心霊科学入門』188頁参照)。
なお背後霊の範疇に含まれる「守護霊」は別枠扱いとされることが多い。地上人の出生から死までの期間、守護霊は一人のみで生涯変わらないが(1巻179⑤参照)、背後霊は複数存在する(1巻179②~⑥参照)。一般の人の場合は霊的成長とともに背後霊は入れ替わっていく(霊訓上31④~⑤参照)。
背後霊は主に地上圏に近い霊たちである(霊訓上31⑥~⑧参照)。地上人の霊的進化に見合った霊が霊的親和性から、人間を指導する目的で、または自身の霊的向上の為の必要性から援助している(霊訓上30⑫~⑬参照)。地上に戻ってくる霊は、地上の人間と連絡が取りやすい幽界にいる霊である。その中で一般人の場合には、主に「霊的自覚」が芽生えた幽界の上層界にいる霊が指導や援助を行う目的で降りてくる。
高級霊の場合は霊媒体質者に必要に応じて憑く(霊訓上31⑧参照)。なぜなら霊媒の霊能力を通して地上世界にスピリチュアリズムを普及することができるから。また霊媒は睡眠中に幽界の下層界に降りて、担当する救済霊を手助けして“迷っている霊”の浄化の手伝いを行うことが出来るから(2021年12月号『心霊研究』11頁~12頁参照)。
B、二人三脚で霊的成長を目指す
背後霊となる為には自薦や他薦があり(2巻131②~④参照)、その霊的レベルや担当する分野などはさまざまである(2巻130③~④参照)。背後霊も自身の霊性向上のために地上人を援助している(霊訓上30⑫~⑬参照)。さしずめ地上人は背後霊に対して“活動する場”を提供して、二人三脚で霊的成長を目指している“同志的存在”とでも言えようか。
本人が背後霊に気持ちを向けることによって両者間に“磁気的な回路(絆)”が架設されて、それが次第に強固になっていく(1巻135⑭参照)。その“磁気的な回路(絆)”を通って背後霊から支援のための霊的エネルギーが送られてくる。その際の援助や指導は霊界人の都合とタイミングで行われる。またその方法はあくまで霊的影響力の行使という形になる(10巻166⑫~167③参照)。
地上人が背後霊の霊的支援を受けて、困難に打ち勝って物事をやり遂げれば、地上人自身の成果であると同時に背後霊にとっても成果となる(→リング上で闘うボクサーの勝利であると同時にリングサイドにいるセコンドの勝利でもある)。
ウ、支配霊(背後霊の一種)
A、支配霊とは
支配霊とは「交霊会における霊界側の司会者」(田中千代松編『新・心霊科学事典』潮文社93頁参照)とされる霊、または「霊団全体の指揮に当たる霊」(7巻176⑫~177③参照)のことである。シルバーバーチのような霊格の高い支配霊は霊界の霊媒を介して、本来の個性を犠牲にして地上圏に降りてきている(2巻119⑧参照)。霊的な飛躍の為の犠牲である。
B、霊媒が他界した場合
物理的心霊現象が盛んな頃は、支配霊は担当する物理霊媒が他界したら別の霊媒を探して仕事を継続していた(8巻27⑪~28①参照)。なぜなら物理現象を扱う支配霊は高度な技能を持つ“技術屋さん(職人さん)”だから。
これに対して精神的心霊現象の場合には原則として霊媒が他界したら支配霊の仕事は終了する。なぜなら精神現象を扱う霊媒は物理霊媒より支配霊との関係がはるかに緊密だから(8巻28②~⑤参照)。
シルバーバーチ(支配霊)の場合はバーバネル(霊媒)が死去すれば、支配霊としての仕事は終了する。シルバーバーチの仕事は高度な内容であった為に、大変な時間と労力をかけてオーラの融合を図って仕事を行ってきたことから、再び別の霊媒を探して通信を行うことはないという(8巻28⑥~⑨参照)。
C、支配霊の霊格
支配霊の霊格は霊媒が行う仕事によって異なり、霊媒より高い場合(→霊視・霊聴・霊言・自動書記などの精神的心霊現象の場合)もあれば低い場合(→物質化現象・念写・アポーツなどの物理的心霊現象の場合に見られる)もある。
霊媒の潜在意識を使って生起する精神的心霊現象を扱う支配霊の場合は、霊格は必ず霊媒よりも高い。なぜなら“純粋な霊的教訓”を地上に降ろす為には、オーラの融合の訓練と併せて霊媒の生活面の指導も行う必要があるから(→霊媒の霊格を上げる必要があるから)。
これに対して物理的心霊現象を扱う霊媒の支配霊は、必ずしも霊格が高い霊ばかりではない。なぜなら物理現象を演出するには地上的要素が強く残っている必要があるから(7巻176⑨~177⑨参照)。
熟練した支配霊が行う霊媒現象には「霊媒との調和の程度が高く潜在意識による着色が少ない」(メッセージ82⑪~⑫参照)が、人間的に問題がある霊媒の場合には「低級霊が支配霊のスキを狙って憑依してくる」(最後啓示158③~⑤参照)ので要注意。
エ、指導霊(背後霊の一種)
指導霊(→背後霊と呼ばれることが多い)の主な役目は、本人の霊的面からの監督指導である。指導霊は守護霊とは異なって、成長過程の一時期だけを担当して、次の段階になると霊は入れ替わる(到来21⑭~22⑤参照)。
指導霊は親和性ある者どうしが引かれ合って、または前世の縁(→日本的心霊の世界で言う“因縁霊”のことで、プラスの縁であれば指導霊として付き、マイナスの縁であれば憑依霊として付く)で自分を役立てたいという欲求に沿って人間を選択する(最後啓示89②~⑪参照)。
指導霊自身も霊的成長のため(→コーチとしてのキャリアのアップのため)、自分の持っている資質を犠牲にして地上圏に降りてくる。地上時代に指導に当たっていた霊が、本人の死後も引き続き幽界で指導霊として担当する場合もある(続霊訓120②~③参照)。
オ、指導霊崇拝批判
A、指導・監督に誤りを犯すことがある
霊的な理解力は霊的発達の程度に応じたもの。その霊の霊的レベルが限界となるので高級霊といえども完璧ではない。そのため指導や監督の際に誤りを犯すこともある(6巻207④~⑧参照)。絶対に誤りを犯さないのは創造者の「神」のみ(8巻18⑤~⑥参照)。
シルバーバーチは常々指導霊は崇拝対象とされることを望まないとして、指導霊の資格を得た霊は自身が崇拝の対象とされることは間違いであるとの認識を持っている(8巻21②~③参照)と述べる。そして「指導霊崇拝」(8巻18③参照)や「イエス崇拝」(3巻104⑨、5巻206⑧~⑨参照)等の「高級霊信仰(高級霊崇拝)」を批判している。なぜなら彼らは最終的な責任者ではないからである。
B、高級霊は取次役である
シルバーバーチは「祈りの対象」は神であると述べる(11巻113⑩~⑪参照)。なぜなら祈りとは、神の分霊である自己とその始源との一層緊密な繋がりを求めるための手段であるから(12巻125⑪参照)。従って神の使者である高級霊やイエスを祈願の対象とするのは間違いとなる(語る159⑦参照)。
一つの解決策として高級霊(=守護霊や指導霊)は“取次ぎ役”であるとの認識を持つことが、守護霊崇拝や指導霊崇拝に陥るのを避けるポイントになる。
C、イエスは最高神界の数ある存在の一人
キリスト教徒やイエス信奉者は絶対に受け入れないであろうが「キリスト(=ナザレのイエス)は唯一の絶対神ではありません。至尊至高の神性を具えた最高神界の数ある存在のお一人です。父と呼んでいる存在はそれとは別です。それは人間が思考しうる限りの究極の実在の表現です。従って父はキリストより大であり、キリストは父に所属する存在であり神の子です」(彼方4巻231②~⑤参照)というスピリチュアリズムに沿った考え方がある。
4、講座に寄せられた質問
①、質問その1
<質問>「霊的知識を得た次の段階、霊的実践や霊的成長の具体的な道筋をテーマにしたお話をして頂けると参考になり、とてもありがたいです」
<回答>
これを主題にした講座は、来年開催予定の「関心の高いテーマ」の中で取り上げますので、今回は概略を述べるに留めます(→連続講座の第8講「霊的成長について」の中で取り上げる予定です)。
ア、「霊的な本能」とは
人間は霊であり、霊的身体には「霊的な心(本来の私という意識)」が具わっている。この「霊的な心」の中に完全性である「神の分霊」が潜在している。そのため人間はしばしば「ミニチュアの神」とされている。
霊である人間が誰しも持っている「霊的な本能」とは、この「霊的な心」に潜在している「完全性(=神の分霊)」を“心(=本来の私という意識)”の領域に顕在化させていくことに他ならない。
イ、知識には責任が伴う
シルバーバーチは「知識には責任が伴う」(1巻53②、9巻135③参照)と述べる。スピリチュアリズム思想を学んで知識の分量を増やして行くと、次第にその人の生き方が問われてくる。生き方の「質的な転換(知識から生き方へ)」が求められてくるから。
この点につきシルバーバーチは、霊的知識は実生活の場で実践して初めて理解したことになる(1巻63⑩~⑪参照)。「知っているということと、それを応用することとは別問題です。知識は実生活に活用しなくてはなりません」(3巻42⑪参照)と述べる。なぜならその人の霊性レベルの判断指標は日常の行為にあるから(9巻117⑭~118③参照)。
ウ、最終的には「信仰生活(広義)」に移行して行く
スピリチュアリズム思想は「信仰・宗教」と相性が良い。そのため霊的知識を増やして行くとモノの見方が徐々に地上的な尺度ではなく、霊的観点に立った見方に変化して行く。その結果、地上生活が煩悩まみれの生活から、精神面の向上(→物的な心の向上、引いては霊的な心の向上)を重視した広い意味での“信仰生活”へと軸足が移行して行く。
②、質問その2
<質問>「病気の理由について。「発達障害」というのはスピリチュアル的にどのような意味を持つのでしょうか? 平成以降の生まれの人に集中しています。昭和の時代にはありませんでした」
<回答>
ア、「発達障害」とは何か
ネット記事の「メディカルノート」によれば、「発達障害とは、生まれつきの脳の障害の為に言葉の発達が遅い、対人関係をうまく築くことが出来ない、特定分野の勉学が極端に苦手、落ち着きがない、集団生活が苦手、といった症状が現れる精神障害の総称」のこと。
イ、「発達障害」は昭和の時代にはなかった
発達障害という言葉は「1987年から1993年まで使われていたアメリカ精神医学会の診断と分類の為の基準の第3版(DSM)の中で、精神遅滞(知的障害)、広汎性発達障害(自閉症など)、特異的発達障害(発達性言語障害、学習障害など)の上位概念として用いられていた言葉」のこと(日本大百科全書)。
その後「2013年にアメリカ精神医学会の診断と分類の為の基準の第5版(DSM)が発表された。その中に神経発達障害の章が創設され、そこに含まれる診断名として、知的障害、コミュニケーション障害、自閉症スペクトラム障害、注意欠陥多動性障害、特異的学習障害、発達性協調運動障害などが挙げられている」(日本大百科全書)。
日本では2004年に「発達障害者支援法」が成立して広く使われるようになった。そのため「発達障害」は極めて新しい言葉である。しかしその中に含まれている各種の障害は従来から知られていたものである。質問者が述べた「発達障害は昭和の時代にはなかった」との指摘は正しい。
ウ、脳という表現器官の故障に過ぎない
スピリチュアリズムの観点から「発達障害」を見れば、脳の機能である「霊的な心(霊的意識)」から流れてくる繊細な波長の信号と、「物的な心(精神)」から流れてくる粗い波長の信号を受信する機能が正常に働かない、刺激に対して脳が異常な反応を示す状態にあると言える。
「発達障害」は単に脳という受信・発信を司る器官が、機能不全に陥っている状態にあるだけ。その結果、特定の分野の課題を処理する機能が人より劣っている、そういう状態でも「私という自我(霊的な心、物的な心)」は正常である。「発達に障害がある」状態で収集した地上体験を通して「私という自我」は学んでいると言える。
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<注1>
◆「有神論」とは
・「有神論」とは神は被造物の世界とは区別されて、被造物の世界の外にある超越した存在とする立場(→創造者の親と被造物の子は別人格)。神と被造物の世界とは本質的に同一とする汎神論(→親と子は別々に見えるが実は同一人格)とは対立する。但し神は人格神ではない。
◆「創造論」とは
・「創造論(創造説)」とは「ダーウィン的な進化論を否定して、神による天地創造を主張する」説のこと。しかし一般には、創造論とは「キリスト教の『聖書』に書かれていることは事実である」との立場から狭義の意味で使われている。そのため現状では「創造論者とはキリスト教徒のこと」を指す言葉になっている。しかし創造論者には大きく分けて二つの立場が存在する。
・まずキリスト教とは関係なく、神の存在と神の創造を認める立場の「宗教や思想」がある。創造説に立つスピリチュアリストはここに含まれる。これを「広義の創造論」と呼ぶことにする。これに対してキリスト教徒の『聖書』をベースにした創造論を「狭義の創造論」と呼んで区別することにする。この「狭義の創造論」の中に現在アメリカで興隆を極める独断的で原理主義的な「特殊創造論者」がいる。その影響力の強さ故に、近年では創造論は極めて狭義の意味で使用されるようになってしまった。
・有神論的進化論の立場に立つ遺伝学者のフランシスコ・コリンズは「過去100年余り“創造論者”という言葉は、理神論者や有神論者を含む広い意味としてではなく、一部の特定層を指す言葉として乗っ取られ、固有名詞化されてしまった」と述べて「特殊創造論者」を批判している(フランシスコ・コリンズ著、中村昇・中村佐知訳『ゲノムと聖書』NTT出版2008年刊168頁)。
◆「有神論的進化論」とは
・なお有神論的進化論(折衷的進化論)とは、人間の進化を「肉体上の進化」と「知的進化(人間に宿る霊の観点から見る)」に分けて、前者は進化論の観点から、後者は創造論の観点から論じる立場のこと。
・有神論的進化論は19世紀のスピリチュアリストの間では、広く受け入れられていた説である。進化論で著名なアルフレッド・ラッセル・ウォーレスもこの立場に立っている。なお国書刊行会から1985年から1986年にかけて刊行された世界心霊宝典シリーズに『スピリチュアリズムの真髄』(原題:The Higher Spiritualism:1956年発行)という書籍がある。この著書を読んでみれば、著者のジョン・レナードは有神論的進化論の立場に立っていることが分かる。このような点から見て現在でも有神論的進化論に立つスピリチュアリストは数多く存在すると思われる。なおスピリチュアリズムは創造論の立場に立つ。
◆シルバーバーチの汎神論的な表現
・高級霊のシルバーバーチは「大霊は人間をはじめとしてあらゆる生命形態に内在しております。すべてが神であり神がすべてなのです」(道しるべ46⑨~⑩)と述べて、汎神論的な表現(すべては神)を使っている。
・この言葉だけを見れば、シルバーバーチは「汎神論」を述べているのではないかと誤解してしまう。スピリチュアリストもシルバーバーチの神観は「汎神論」であると理解している人は多い。
・たとえばハンネン・スワッファーは「シルバーバーチの哲学の基本的概念は、いわゆる汎神論である」(語る18⑬)と述べている。また『シルバーバーチの霊訓』4巻の編者ウィリアム・ネイラーも、まえがき部分で「愛他精神と素朴さと叡智に満ち、汎神論に裏打ちされたその明晰な教訓は、常に人生における霊的要素と同胞との関係における慈悲心の大切さを強調する」(4巻5⑫~⑬)とも述べている。ハンネン・スワッファーもウィリアム・ネイラーも安易に「汎神論」という言葉を使用している。しかし『シルバーバーチの霊訓』全体を読めば、シルバーバーチは神の創造を前提にして個々の霊的教訓を述べているので、明らかに「汎神論」ではないことが分かる。
◆シルバーバーチの「神観」は
・シルバーバーチは「創造主である大霊は、自分が創造したものの総計よりも大きいのでしょうか」との質問に対して「そうです。ただし、創造は今なお続いており、これからも限りなく続きます」(到来23⑨)と応えている。また「ああ、大霊よ。あなたは、形態の如何を問わず、全生命の創造主にあらせられます。あなたの摂理は全生命を支える無限なる摂理であり、あなたの計画は宇宙の生命活動の全側面に配慮した完璧なる計画であり、そのすべてをあなたの愛が育んでいるのでございます」(到来132④~⑦)。
・このような表現に見られるように、神と万物を「創ったもの」と「創られたもの」に分けて、両者の間に一線を引いていることが分かる。このように神の創造を前提とした上で個々の霊的教訓を述べていることから、シルバーバーチの神観は明らかに「有神論・創造論」であり、「汎神論」ではないことが分かる。
<注2>
◆「意識」を潜水士に例えて説明する
・今も昔も海底で作業をするには潜水具を身に付けなければならない。ここでは1800年頃の潜水士の海底作業を例にして「意識」を説明してみる。
・海上に停泊して潜水士の作業を支援する作業船の世界を霊界とし、海上から支援するメンバーの「ABCDEFG」を霊的家族(類魂)とする。
・海底を地上世界とし、肉体を潜水具とする。そして橋脚の整地作業に関する一連の海底作業を、「現在の私」が今回の地上人生で達成すべき仕事(使命)とする。
・Aは支援船の上にいる時はクリアな意識状態にあった。そのAが支援船を離れて海底に降り立つと、1800年頃の性能の悪い潜水具の影響と、さらに「水圧、水流、水温、視界など」の制約を受けて限定された意識状態に陥る。
・支援船の上にいる時のAのクリアな意識状態を「本来の私という意識(本来の私)」とし、海底に降り立った時のAの限定された意識状態を「現在の私という意識(現在の私)」とする。
・さらに作業を終えて海面に浮上して行く過程を「幽界」とする。Aは海面に浮上して行くに従い、本来のクリアな意識状態を取り戻して行く。
◆二つの「自由意志」の問題
・海上に停泊する船上で、「本来の私A」はこれから行う海底作業全体の手順をクリアな意識状態の中でAの自由意志で決定した。
・海底に降り立った「現在の私A」は「本来の私A」が決めた作業手順に従って作業を進めて行く。その作業の途中で何らかのアクシデントが起きた場合には、「現在の私A」は「現場サイドの自由意志」で乗り切って行く。
・このように海底作業全体の手順という大枠を決めた「本来の私A」の「自由意志」があり(この大枠は「現在の私」から見れば宿命となる)、「現在の私A」はこの大枠の範囲内で「自由意志」の行使が許されている。
◆守護霊は「霊的家族(類魂)」のメンバー
・守護霊は「再生する前までは顔見知りの間柄」(霊の書208⑦参照)であり、守護される側の霊格にあった霊がつく(霊の書208⑨~⑪、210⑤~⑨参照)。両者の関係は原則として霊的親和性による結びつきである(道しるべ228⑤~⑫参照)。このことから守護霊は同じ「霊的家族(類魂)」のメンバーが原則として付く。
・今回「霊的家族(類魂)」のメンバーAが地上に再生する霊となり、メンバーBがAの守護霊役となる事になった。
・肉体(潜水具)をまとって地上世界(海底)に降り立ったAは限定された意識状態にある。これに対して守護霊役のBは支援船の上から海底にいるAに向けて支援する仕事に就く。このことからBはクリアな意識状態でAの地上生活全体(海底作業)を見渡せる位置にいる。
・守護霊役のBは両者間に敷設された磁気的回路を通して、地上で悪戦苦闘するAに対してインスピレーションでアドバイスを送っている。地上に降り立ったAが、あの世の存在や守護霊の存在を否定していれば、両者間に磁気的回路が構築されずBは「現在の私A」にインスピレーションを送れない。