アメリカからヨーロッパへ
目 次
<はじめに>
<1.1848年のハイズヴィル>
①.エプワース牧師館事件
②.ハイズヴィル事件
・事件の概要
・地縛霊(低級霊)との交信
・ついに物証発見
③.ハイズヴィル事件の意義
・エプワース牧師館事件との比較
・スピリチュアリズムのブーム
<2.アメリカからイギリスへ>
①.アメリカ社会におけるブームの立役者
・スピリチュアリズム揺籃期の特徴
・アンドリュー・ジャクソン・ディヴィス
・ジョン・W・エドマンズ
・ロバート・ヘアー
②.イギリス社会におけるブーム
・スピリチュアリズムの普及経路
・ヘイデン夫人、大西洋を渡る
・ホームの帰国
・民衆レベルの交霊会ブーム
<3.スピリチュアリズムと神智学>
①.ブラヴァツキーの神智学
・二つの神智学
・さまざまな思想をミックス
・霊能者ブラヴァツキー
・ブラヴァツキーの「スピリチュアリズム擁護」
・ブラヴァツキーの「スピリチュアリズム批判」
②.SPRとブラヴァツキー
・神智学協会ロンドン支部
・エンマ・ハーディング・ブリテン
・神智学の奇蹟
③.リードビーターが見た交霊会
・リードビーター、インドに渡る
・大衆向けの頂点にある交霊会の存在
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<はじめに>
1848年に起きた「ハイズヴィル事件」のような低級霊(地縛霊)によるラップ現象は古くから数多く報告されているが、「ハイズヴィル事件」の130年前にも同様な事件として「エプワース牧師館事件」が起きていた。両事件は霊界の関与の有無や社会に及ぼした影響等を考える際に良い材料となる。
その後ハイズヴィルで勃興したスピリチュアリズムは、大西洋を渡りイギリスに舞台を移して発展し、20世紀初頭までには世界の主な国や地域に浸透していった。本章ではアメリカやイギリスにおいてスピリチュアリズムがブームとなった状況を概観した。
この霊的潮流は、日本には明治時代に西洋の各種思想とともに断片的に流れ込んできたが、20世紀初頭(明治末期から大正時代にかけて)に心霊関係の書籍の翻訳(英語→日本語)という形で、主にイギリス系のスピリチュアリズムが流入して一大出版ブームが起きた。大まかに言えば霊的潮流は、主として「アメリカ→イギリス→日本」という経路を辿って日本に流入してきた。
スピリチュアリズムがブームとなっていた1875年に、ニューヨークでブラヴァツキーとオルコットによって「神智学協会(近代神智学)」が設立された。当時はスピリチュアリズムと神智学の境界が曖昧であったため、多くの著名なスピリチュアリストが神智学協会員を兼任していた。この両者の蜜月時代は10年ほどで終了したが、その決裂の原因となったのは「神智学の奇蹟」の暴露であった。本章では「ブラヴァツキーの神智学」を通して当時のスピリチュアリズムとの関係を概観してみた。
<1.1848年のハイズヴィル>
①.エプワース牧師館事件
ポルターガイスト現象としては、ハイズヴィル事件の130年前に起きたエプワース牧師館事件(イングランド東部のリンカンシャー、エプワースの町)が良く知られている。
キリスト教系のメソジストの開祖ジョン・ウェズリー(John Wesley:1703年→1791年)の父サミュエル・ウェズリー(Samuel Wesley:1662年→1735年)は、1716年に英国国教会のエプワース(Epworth)の教区牧師となった。このサミュエル・ウェズリーの牧師館兼自宅で、1716年12月から翌年の1月末まで断続的に、叩音(ラップ)や足音などを伴った激しい怪奇現象が起きた(注1)。
なおこのポルターガイスト現象には、11歳の娘のヘッティが霊媒の役割を果たしたと云われている。エプワースの牧師館事件は霊界の組織的関与がない偶発的な怪奇現象であり、科学者の関心を呼ぶこともなく、また広く世論を喚起することもなく終息した(→ハイズヴィル事件との対比)。
②.ハイズヴィル事件
☆事件の概要
アメリカのニューヨーク州ロチェスター近郊のハイズヴィルという場所は、数件の木造家屋と小さな農場があるだけの一寒村であった。この村落には幽霊が出ると噂されていた木造の地下室付きの家(ヘンリー・ハイド氏所有の借家)があった。この家の借主であるジョージ・ベル(霊から殺人者として名指しされた)にメードとして雇われていたルクレシア・ブルヴァ(またはパルヴァー:14歳の娘)は、1844年頃、時々寝室をたたく音(叩音)や家の周囲を歩き回る不思議な足音を聞いていた。
また1846年から1847年頃の借主であるミケエル・ウイクマンも、戸口付近で誰もいないにもかかわらず騒々しい叩音をたびたび聞いている。彼の娘(8歳)は、夜に一度冷たいネバネバする手で顔をなでられたように感じたという。このような怪奇現象がたびたび起きるため、ついにウイクマンは引っ越してしまった。
その後1847年12月にニューヨークから移住してきた鍛冶屋のジョン・D・フォックスと妻、そして姉妹のマーガレット(またはマーガレッタ、マギーとも呼ばれている:1838年?→1893年)とケイト(またはケティー、キャッシー、キャサリンとも呼ばれている:1841年?→1892年)の一家が引っ越してきた。
始めのうちは何事もなかったが翌年の3月の夜、拳で家の壁を叩く音(ラップ)やノックの音、家中の家具を動かす音などが聞こえ始めた。来る夜も来る夜もこれらの怪音が自己の存在を知らしめるかのように鳴り響いた。3月31日の夜にひときわ大きなラップ音が発生した。この音に対して姉妹が手を叩くという方法(または指を鳴らす方法)で通信を試みたところ、ラップ音による返答が返ってきた。
☆地縛霊(低級霊)との交信
この姉妹の名前や年齢、霊とのやり取りは書籍によって記載が異なるが、おおよそ次のような経緯をたどって通信が試みられた。
「悪魔さん、あたしの言うとおりにして」とケイトは手を一回叩いた。ノックが一回返ってきた。ケイトが二回叩く、ノックも二回。意思が通じ合えると姉妹と霊との間でノック二回なら「イエス」、ノックなしは「ノー」という取り決めをして通信を続けた。「あなたは殺されたの?」ノック二回。「殺した人は、法律で裁かれたの?」ノックなし。「その人を法律で罰することはできる?」静寂。・・・あまりに重大な内容のためフォックス氏(またはフォックス夫人)は霊の許可を受けて隣人を呼んできた。そして隣人がさらに隣人を呼び寄せて家中一杯になった中で交信は続いた。
その後「事件」の概要が明らかとなった。
地縛霊(→死によって肉体を捨て去ったにもかかわらず、本人は死を自覚せず未だ肉体があると信じており、意識が地上世界に向いている霊のこと)とのやり取りを通して霊の身元が判明した。殺されたのはチャールズ・B・ロスマ(31歳)という名前の行商人で、5年前の夜に前の住人のベルに包丁で喉を切られて、所持金の五百ドルを奪われて殺害された。死体は階段を引きずられて地下室の土間に埋められた。
この噂を聞いて翌日の夕方までにフォックス家に三百人近くが集まってきた。そして地下室の床を掘り始めたが水が湧き出てきたため中止となった。その年の夏に作業を再開して、1.5メートル掘り出したところ板が現われて、その下に木炭と生石灰と人間の頭髪および多少の人骨が現われたが、殺害された行商人のものと断定するまでには至らなかったという。
☆ついに物証発見
フォックス家の三姉妹は霊媒(長女のリーが最初の職業霊媒となる:注2)となって生活の糧を得ていたが、姉妹間の不和や経済的な事情、精神的な問題などがあって平坦な人生ではなかった。長女リーは1890年に、三女のケイトは垢と安酒の臭いにまみれて、1892年に歩道で死んでいるのが見つかった。次女のマーガレットは1893年にニューヨークの安アパートで、事実上誰にも看取られずに死んだという。
フォックス姉妹が相次いでこの世を去って10年以上のち、廃屋になったフォックス家の“お化け屋敷”の地下室で遊んでいた子供たちが、崩れた壁の奥に白骨死体を見つけた(注3)。
この行商人の死体という物証発見によって、半世紀以上前に世間を賑わしたフォックス姉妹の“話”の信憑性が証明された。とかく疑惑がつきまとっていたフォックス姉妹の心霊現象は(注4)、この物証により欺瞞ではなかったことが立証された。
③.ハイズヴィル事件の意義
☆エプワース牧師館事件との比較
このハイズヴィル事件とエプワース牧師館事件とを比較してみると、次のようなことが明らかになってくる。双方の事件の共通点としては、カギとなる人物が存在したこと(未成年者の女子)。この人物が存在して発生した現象であること(霊媒体質者の存在の関与)。
相違点としては、エプワース事件では叩音(ラップ)や足音などの現象が霊側から一方的に発信されていたが、ハイズヴィル事件では顕と幽との間に交信が成立したことであった。この交信の成功という事実は重要である。なぜなら一般にポルターガイストは、各種の物理的現象が一方的に発生するため、発生源である霊との間には交信が成り立ちにくいとされているから。さらに重要な点は、ハイズヴィル事件の56年後に廃屋から物証が見つかって、1848年に出現した地縛霊がラップで述べた内容に関して、裏付けが取れて“事件”が立証されたことである。
社会に及ぼした影響という点でも大きな違いがある。エプワース牧師館事件は霊界側の組織的関与がなかったため、一過性の現象で終わってしまった。これに対してハイズヴィル事件の場合には、この事件がきっかけとなって、学者や知識人、聖職者などが心霊現象に関心を持ち、その後の「科学的検証を伴った心霊ブーム」に道を開いたことである。この点がハイズヴィル事件の前と後の“スピリチュアリズム”を分ける際のポイントとなっている。
この科学的検証は、“霊魂説(→「死後も個性が存続すること」「霊の世界が存在すること」「顕幽の交流が可能なこと」などの霊的事実)”を証明して、霊界通信によってスピリチュアリズム思想が地上世界にもたらされる際の土台部分となった。
このようにハイズヴィルのラップ現象は、霊界主導によるスピリチュアリズム運動(→霊魂説を土台とした霊的真理の普及運動へと発展していく)の端緒となった事件であった。霊的視点から見て霊界側の組織的関与が存在したハイズヴィル事件と、存在しなかったエプワース牧師館事件とは、その後の影響力という点で大きく異なっている。
☆スピリチュアリズムのブーム
このラップ音やノック音などを通して、この世と目に見えない霊の世界との交信を行ったフォックス姉妹の噂は、瞬く間にニューヨーク州北部から近隣の州へと広がり、大きく報じられて評判となった。当事者であるマーガレットとケイトは事件の渦中から逃れるために、当時ロチェスターで音楽教師をしていた23歳年上の長女“リー(Leah:1814年→1890年)”の家に避難した。しかしマーガレットやケイトの行くところには絶えずラップ音や、その他の心霊現象がついて回ったことから、ハイズヴィルのラップ現象は姉妹の霊媒体質を介して発生したものであることが判明した(→心霊現象の出現には霊媒体質者の存在が前提となる。心霊現象の発生と霊媒体質者の存在との因果関係が明らかとなった)。
フォックス家の知人であるフレンド派(→クエーカーの正称)のアイザック・ポスト(Isaac Post)は、ロチェスターのリーの家を訪ねてアルファベット表を使って交霊実験を行って霊界からのメッセージを受け取った(注5)。その後このメセージに沿って行動する人が増えていき、アイザック・ポストの呼びかけで1849年11月14日、ロチェスターのコリンシアン・ホール(またはコリント・ホール)で、マーガレットを霊媒としたスピリチュアリストによる最初の集会(公開交霊会?)が開かれた(注6)。集会の参加者は少人数であったという。
フォックス家の姉妹マーガレットとケイトおよび長女のリーは、ニューヨークやトロントなどの都市でラップを中心とする公開実験会を行った。「(長女の)リーは交霊会開催の要望が高まるにつれて普通の職業に就けなくなり、1849年11月29日、職業霊媒となった」(注7)という。この時期、フォックス家の姉妹に触発される形で、各地に物理的心霊現象を起こすことができる霊媒が次々と現れた。現象も当初のラップから自動書記、直接談話等へと種類を増やして、著名人を含む多くの人達を巻き込んだ形で、アメリカ社会に一大ブームを巻き起こした。
フォックス姉妹の支援者の一人、ニューヨーク・トリビューン紙の創立者兼編集長で後に合衆国下院議員にもなったホラス・グリーリー(Horace Greely:1811年→1872年)は、フォックス姉妹の教育に関して面倒を見た人物として知られている。グリーリーは心霊現象を解明するため、フォックス姉妹の周辺で起こる不思議現象を徹底的に調査した。調査の結果、ラップは「姉妹の演出ではない」との結論を得て、この事実を自らの新聞に『神秘の叩音』(1850年)と題して載せた。その後各地で行われた実験会に触発される形で、実際に心霊現象を見た有力者(グリーリー、タルマッジ、エドマンズ、ヘアー他)の支持もあり、スピリチュアリズムは急速に広がっていった(注8)。
後年、コナン・ドイルはハイズヴィルの地縛霊の役割について「(見えない世界からの)働きかけの全体的な方向はいまや拡大して、より重要な転向をした。もはや殺された一人の男の訴えの段階ではなくなったのだ。かの行商人は先駆けとして使用されたもののように見える。彼が突破口と方法とを見出したいま、無数の知性的存在が、彼の背後に群がり来たのである」(注9)と述べている。
このような形で短期間にアメリカ東部一帯に影響力が広がっていったが、その最大の理由は霊界側の積極的な働きかけがあったからである。霊界側の強い影響力の行使があったことによって次々と新たな霊媒が出現して、交霊会を通して人間の死後存続や死後の生活という霊的事実が広まり、人々に強い影響力を与えていったからであった。
殺害された地縛霊によって引き起こされたポルターガイスト現象(ハイズヴィル事件)は、霊界主導の組織的・継続的な霊的刷新運動の端緒となった事件として、歴史の中に位置付けられることになった。そして4年後の1852年には大西洋を渡ってイギリスに上陸して、スピリチュアリズムは著名な科学者を巻き込んで、さらに大きく発展していくことになる。このような観点から従来の自然発生的に存在するスピリチュアリズムと区別する意味で、ハイズヴィル事件以降のスピリチュアリズムを「新スピリチュアリズム(=近代スピリチュアリズム)」(注10)と呼んだ。
<2.アメリカからイギリスへ>
①.アメリカ社会におけるブームの立役者
☆スピリチュアリズム揺籃期の特徴
当時アメリカ社会で出版されたスピリチュアリズム関連書籍を概観すれば、スピリチュアリズムの揺籃期の特徴が窺い知れる。この時代のアメリカでは物理的心霊現象を取り上げるよりも、むしろ死後の世界の状況や死後も人間の個性が存続するといった、哲学的・宗教的方面に関心が向いていた(注11)。また普及方法も心霊書の出版に重きが置かれており、その際に著者はキリスト教に対して最大限の注意を払いながら執筆をしていたことから、当時は“スピリチュアリズムの抵抗勢力”として、キリスト教の影響力がいかに強かったかを物語っている。
さらに当時の霊界通信を見れば、霊界と地上との位置関係を物的な距離で表現するなど、いまだ通信霊自身に“地上的残滓(物的要素)”が色濃く残っていることから、さほど進歩していない霊が霊界で見聞きした状況を地上に伝えてきたことが分かる(注12)。このような“地上的残滓”を残した霊による霊界通信の役割とは、その後に送られてくる高級霊からの霊界通信のための“露払い”であったといえようか。
1848年3月31日ハイズヴィルの地縛霊(低級霊)の心霊現象から始まった霊界主導のスピリチュアリズム運動は、1880年代頃になると従来の「スピリチュアリズムの哲学や宗教的側面」を志向する活動から、スピリチュアリズムの土台部分である心霊現象を科学的に検証するといった、科学的な志向を強める新たな展開が始まった(→特徴的な団体として1882年創設の心霊研究協会:SPR=Society for Psychical Researchの活動がある)。それに伴ってスピリチュアリズム運動の中心は、アメリカからイギリスに移っていった。
☆アンドリュ-・ジャクソン・デイヴィス
アンドリュ-・ジャクソン・デイヴィス(Andrew Jackson Davis:1826年→1910年)は、貧しい家庭で育ち、学問とは縁遠い環境の中で成長した。
デイヴィスは1848年3月31日のメモ(または日誌)に次のように記している。「けさ日の出頃、寝ている私の顔の上を温かい息が吹き抜けた。そして優しく、しかし力強い声で“友よ、いよいよ仕事が開始された。見よ、生きた証拠が生まれようとしている”と言った。いったい何のことだろうと、一人考えていた」(注13)。これはデイヴィスが、幽界の浄化活動が一段落して、霊界側から物的地球を霊的に刷新するための運動(新スピリチュアリズム)に対して「ゴーサイン」が出されたことを、温かい息吹とともにデイヴィスの背後霊のスエーデンボルグを通して受け取った内容といわれている(注14)。
またデイヴィスは1847年に出版した『自然の原理(The Principles of Nature)』の中においても、「人間は霊界に住む霊魂と交わることができる。今や霊界からの呼びかけが殺到しており、近く霊界との通信が確立されるだろう」(注15)と述べている。このようにデイヴィスは、すでにハイズヴィル事件の前年に霊界主導の「霊的刷新運動」が起こることを鋭い霊感を通して感じ取っていた。
霊能者としてのデイヴィスは入神講演を頻繁に行い、また霊感によって多くの霊的な書物を著したが、当時のスピリチュアリストが物理的心霊現象にばかり関心を持ち、その哲学的・宗教的意義を疎かにしていることを批判して、一線を画する意味で1880年に自らの心霊哲学を「調和哲学」であると宣言した(注16)。
スピリチュアリズム勃興期における人々の関心の対象は、人間の死後存続の事実と霊的世界における生活にあった。若干毛色は異なるが、デイヴィスもスピリチュアリズム思想と同様なことを「調和哲学」という名前で説き、スピリチュアリズムの普及に貢献した。
ただしデイヴィスには「私が独自の霊視状態に入った時、別に私に助言者とか指導霊が付くわけではなく、自分が求めるものの実体を直接入手する」とか、「私は霊界人から知識を入手するのではない」(注17)などの言葉がある。このように背後霊の関与を否定して、あたかも自力で霊界の情報を入手したかのような発言をしている。この点がスピリチュアリストとの違いとなっている(注18)。
☆ジョン・W・エドマンズ
アメリカにおけるスピリチュアリズム勃興期の最有力者の一人であるジョン・W・エドマンズ(John Worth Edmonds:1816年→1874年:エドモンズの訳もある)は、ニューヨーク州最高裁判事で次期大統領候補者でもあった。エドマンズは1851年1月にフォックス家の姉妹の避難先で起こった「ロチェスターの怪音」(マーガレットの避難先の姉リーの家の屋根で大砲のような音が起きた)に興味を抱き、スピリチュアリズムに関心を持った(注19)。エドマンズも当時の一般的な学者と同様に、当初は自然法則に反する心霊現象に対して、「こうした現象は詐術だと考えてそれを暴いて公表するつもり」で調査を始めた。しかし次第に心霊現象は真実であるとの確信を持つようになった(注20)。
このようにエドマンズの最初のきっかけは心霊現象であったが、霊からのメッセージの哲学ないし宗教性の重要さに気づき、それらをまとめて1852年と1855年に宗教問題や霊界における生活などを綴った著書『スピリチュアリズム』を出版した(注21)。
エドマンズは1853年8月1日付の『ニューヨーク・コーリアー』紙に「人々へ」と題した文章を載せている。この中で自らスピリチュアリズムを信じている旨を表明して、それまでの調査結果を報告した。また1853年8月6日付の『ニューヨーク・ヘラルド』紙には「(心霊現象が真実であること)を人々に知らせることはやはり非常に重大な義務だと感じるようになった」(注22)と述べている。
このエドマンズのスピリチュアリズム信奉に対する意思表明は、一大センセーショナルを巻き起こして激しい論争を呼んだ。なぜなら当時の社会では死後の世界はキリスト教の管轄であり、教会は「スピリチュアリズムは悪魔の仕業である」との立場から、死者と語り合う交霊会を否定していたからであった。そのためスピリチュアリズムに傾倒したエドマンズは、激しい非難と中傷にさらされることになって、6年間務めたニューヨーク州最高裁判事を辞職せざるを得なかった。
このような教会によるエドマンズ攻撃の根拠は、1854年のケベック大司教が教書の中で述べた、スピリチュアリストを「悪魔と戯れる人」と批判した言葉に求めることができる。この教書は当時のカトリック教会に対して大きな影響を及ぼした。これによって教会は人間側からの「いかなる影響によっても起こりえないような運動」や「人間の能力を超えた知的現象」など、科学知識をもってしても説明のつかない現象は全て「悪魔のなせる業である」として、スピリチュアリズムに対しては厳しい態度をとった(注23)。
☆ロバート・ヘアー
ロバート・ヘアー(Robert Hare:1781年→1858年:ペンシルヴェニア大学の化学の名誉教授)は、最初に新聞でスピリチュアリズムを批判した科学者の一人であり、1853年に「人々が理性も科学も捨てて、スピリチュアリズムと呼ばれるとんでもない妄想に取りつかれてゆく、この狂気の潮流を押しとめるために何か自分にできることをするのは、同胞に対する義務である」(注24)と考えて研究を開始した。
しかしヘアーは1853年以降、研究を開始して数々の霊能者を調査したが、当初の意に反してこの世のものではない力や知性が実際に働いていることを証明することになってしまった。彼はその調査結果をまとめて1855年に『心霊現象の実験的研究』(霊の存在と人間との交信の事実を立証する心霊現象の実験的調査研究)という本を出版したが、激しい反発が巻き起こった(注25)。
その後ヘアー自身霊媒としての能力を発揮するようになった。エドマンズに送った手紙のなかでこの間の心境に触れている。「近頃、私は霊界の友と意思を交わすに足る霊能を得たおかげで、嘘つきだ、詐欺だ、という非難から霊媒たちを弁護する必要から解放されました。今や、問題にされうるのは私自身の人格だけなのですから」(注26)と。
②.イギリス社会におけるブーム
☆スピリチュアリズムの普及経路
ニューヨーク州の一寒村で起こった“事件”をきっかけとして、スピリチュアリズムはアメリカ社会でブームとなり、やがてイギリスに、そしてヨーロッパ大陸へと伝播して世界へと広がっていった。
スピリチュアリズムの普及経路の中核に位置する国としてイギリスとフランスがあげられる。当時のイギリスやフランスは工業が発達した国であり、世界中に広大な植民地を領有していた(→1870年の「列強の世界工業生産に占める割合」によればフランスの工業生産高はイギリスの3分の1。また領有する植民地もフランスはイギリスの3分の1だが、両国は他の列強と比較して突出していた)。また両国は、政治的にも軍事的にも優位にある影響力のある国であり、国内においても科学的な調査研究を行う風土や人材などの各種条件が揃っていた。このような理由から、当時のイギリスは「アングロサクソン系のスピリチュアリズム」の、フランスは「スピリティズム(=カルデック流スピリチュアリズム)」の普及経路の中核に位置していた。
これはスピリチュアリズムの普及が、イギリス(→科学的な志向性が強い)やフランス(→再生やカルマなど宗教的な志向性が強い)を経由した方が比較的容易に全世界に広まるとの霊界側の判断があったものと思われる。その後におけるスピリチュアリズム普及の経緯は、まずヨーロッパ列強の影響力の強い地域や植民地に浸透し、さらに20世紀初頭までには霊界側の思惑通りに世界を一巡して主な国や地域に浸透していった。
この時期の日本は江戸時代末期(幕末期)にあたり、民衆を基盤とする新しい霊的潮流としての「神道系の復興運動(→教派神道の誕生)」がおきていたが、これは世界的レベルから見ればローカル的な動きであった。また当時の日本には科学的な調査研究の領域に踏み込むだけの力量もなく、霊的知識を世界に発信するだけの国力もなかった。
さらに19世紀は白人至上主義の時代であり、キリスト教の宣教と重ね合わせた形で、西洋から中南米・アジア・アフリカへという“大きな流れ”が存在していた。霊界側はこのような地上世界の勢力図を上手に使って、霊的潮流を全世界に行き渡らせるための発信地として、当時の強国イギリスやフランスを選択したといえる。“本流たる霊的潮流の発信地”として日本や中国が選ばれなかったのは当然であったろう(注27)。
☆ヘイデン夫人、大西洋を渡る
ハイズヴィルで起こったポルターガイスト現象に端を発した「新スピリチュアリズム」は、短期間に大きな盛り上がりを見せてアメリカでブームとなった。そのスピリチュアリズムに対する熱狂は、ボストン在住で叩音霊媒として評判が高かった、W.R.ヘイデン夫人(Mrs W.R. Hayden:“ハイデン夫人”という訳もある)が1852年10月にイギリスを訪問したことによって大西洋を越えた。
ヘイデン夫人がイギリス滞在期間中に行なった心霊現象はラップがメインであったが、ジャーナリズムが書き立てたことによって瞬く間にイギリス国内で脚光を浴びることになった。その結果、この時代の社会的現象とまで言われた「家庭交霊会ブーム」がもたらされた。このブームは「心霊現象の科学的解明に向けての機運」を盛り上げることになった。
ヘイデン夫人のラップ現象は、最晩年の博愛主義的社会主義者ロバート・オーエン(Robert Owen:1771年→1858年)をスピリチュアリストに転向させるきっかけになったという。社会学者の田中千代松氏によると「1852年の暮ちかい或る日、老オウエンは、その10月にアメリカからロンドンへ来てホテルに滞在していたミセスW.R.ヘイデンを訪ねた」(注28)。そこでオーエンはヘイデン夫人のラップを実体験した。「当時のある著名人が言ったという、ロバート・オウエンを転向させただけでもヘイデン夫人は記念碑を建ててもらうに値すると」(注29)。オーエンは1853年にスピリチュアリストに転向した。
ヘイデン夫人の経歴や人柄は次の言葉から読み取れる。イギリスの「多くの新聞はハイデン夫人(=ヘイデン夫人)を“アメリカの冒険女”と見なし、学者や聖職者たちと共に、その“いかさま”を激しく非難した。彼女はまだ若く、素朴で素直な人柄だったと言われ、この敵意と攻撃は相当こたえたことと思われる。そのためもあってか、また彼女の夫が英国で始めた史上初のスピリチュアリズムの雑誌が1号で挫折したためか、翌年には帰国してしまう。アメリカではその後、彼女は医学を学び、博士号を取り、15年間にわたって大学で教えたり、保険会社の保険医として働いた」(注30)。このようにヘイデン夫人の経歴を見ると、夫人は教養の高い人であったことが分かる。
スピリチュアリズムの普及に貢献したが敵対者からの激しい攻撃にも出会った霊媒。ヘイデン夫人とフォックス家のマーガレットやケイトとの生き方を比較してみると、そこには再生するにあたって地上で成すべき使命と、過去世で作った“霊的負債の清算(カルマの解消)”とが大きく作用していたことが見て取れる。あまり教育を受けられなかったマーガレットとケイトは、絶えず不思議現象の渦中の人として注目を浴び続けたが、詐欺の偽証告白や姉妹間の不仲に揺れた厳しい地上人生を歩むことになった。これは再生人生において、何らかのカルマが絡んでのことであろうか。
☆ホームの帰国
D.D.ホーム(多くの文献では“ヒューム”という名前になっている:Daniel Dunglas Home:1833年→1886年)はイギリスのエジンバラ近郊で生まれたが、9歳の時に叔母の養子となってアメリカに渡った。ホームは1850年頃から物理的心霊現象(ラップ、テーブル現象、霊の手、音楽現象、空中浮揚等)が不意に発生するようになった。ロバート・ヘアー教授やジョン・エドマンズ判事らはホームの心霊実験に立ち会って、彼の心霊現象は真実であるとの報告を行った。このことによって「霊媒としてのホームの評判は広まった」。
アメリカにおいて多くの人々をスピリチュアリズムに導いたD.D.ホームは、1855年4月にイギリスに帰国した。帰国後のホームはヨーロッパの社交界を舞台に活躍し、多くの有力者や権力者(→イギリス王室関係者、フランス皇帝・皇后、プロシャ王、ロシア皇帝など)との間で交友を深めて「瞬く間に熱心な追随者をヨーロッパ各地に獲得していった」。このようにホームは、イギリスばかりでなくヨーロッパ大陸(イタリア、フランス、ドイツ、オランダ、ロシア等の各地)に、スピリチュアリズムを普及させる上で大きな貢献を果たした。
1852年に渡英したヘイデン夫人(Mrs. Hayden)や、1853年に渡英したロバーツ夫人(Mrs. Roberts:注31)、さらには1855年に渡英したホーム(D.D. Home)は、「イギリスのスピリチュアリズム運動の先駆け」、イギリスでスピリチュアリズムが関心をもたれるきっかけを作った人であった。このように「新スピリチュアリズム」を人的な流れからみれば、“霊的潮流の本流”はアメリカからイギリスへと流れていったことが分かる。
☆民衆レベルの交霊会ブーム
19世紀後半のイギリス社会において霊媒能力を持つ者は、公開で行う交霊会や、身内だけのプライベートな家庭交霊会などで、物理的心霊現象(ラップ、テーブル傾け、光や芳香の出現など)や霊界通信(トランス状態における霊との交信や自動書記現象)などを、毎日のように行っていた。数多い霊媒の中には、心霊現象を意識的に演じて参加者を欺いた者やインチキが発覚した者、また報酬を受け取る者や無報酬の者。さらには親密な雰囲気の中でしか能力を発揮できない者や、広いレパートリーを出現できる者など玉石混交であったという。このように民衆レベルでスピリチュアリズムは広がりブームとなった(注32)。
<3.スピリチュアリズムと神智学>
①.ブラヴァツキーの神智学
☆二つの神智学
神智学(theosophy)という言葉は、ギリシャ語の「神theos」と「叡智sophia」の合成語からできている。一般に神智学という場合には「キリスト教神智学」と「神智学協会」の二つの事柄を指す。
前者の「キリスト教神智学」とは、「見神体験」や「神への自己上昇」さらには「宇宙の根源との一体化による絶対智の悟り」といった事柄を意味するキリスト教の思想の一つを指しており、代表的な人物には自らを「神智学者」と称したドイツの思想家のJ.ベーメ(Jacob Böhme:1575年→1624年)がいる。
これに対して「神智学協会」とは1875年にブラヴァツキー(Helena Petrovna Blavatsky:1831年→1891年)とオルコット(Henry Steel Olcott:1832年→1907年)によって始められた運動体のことであり、一般に両者を区別する意味で後者を特に「近代神智学」と呼んでいる(注33)。「近代神智学」は東西の神秘思想を融合して独自の理論体系を打ち立てたものであり、その論理的で思弁的な理論体系はさまざまな人たちに影響を与えつつ、ルドルフ・シュタイナー(Rudolf Steiner:1861年→1925年)の「人智学」や20世紀後半のニューエイジ運動へと繋がっている。
現在では「近代神智学」とスピリチュアリズムとは全く別個の体系となっているが、1885年頃(この年に「ホジソン報告書」が出された)までは両者は密接な関係にあった。ここでは初期における神智学(ブラヴァツキーの神智学)とスピリチュアリズムとの関係について概観してみる。
☆さまざまな思想をミックス
ロシアの神秘思想家のピョートル・デミアノヴィッチ・ウスペンスキー(P.D.Ouspensky:1878年→1947年)は、1913年にインドのアディヤールを尋ねた際に当時の神智学を称して、「教義に一貫性がなく抽象的なことなど、神智学理論として整然と体系化されたものではない」などと批判的に述べている(注34)。
ブラヴァツキーによって築かれた神智学は、後継者たちによって継承され、精緻な理論体系にまとめ上げられて発展していったが、ブラヴァツキーの神智学理論と後継者の神智学理論とでは多少内容が異なるという。
ブラヴァツキーによって始められた「近代神智学」は、オカルティズム(東西の神秘思想や魔術を含む)、宗教、さまざまな思想等をミックスして一つの理論体系として打ち立てたものであり、この点が高級霊からもたらされた霊界通信を基にしたスピリチュアリズムとの本質的な違いになっている。
☆霊能者ブラヴァツキー
1875年11月17日にブラヴァツキーは神智学協会(The Theosophical Society)を設立したが、彼女の出発点はスピリチュアリストであった。ハワード・マーフェット原著の『H・P・ブラヴァツキー夫人』によれば、1858年に放浪の旅から一時故郷に戻った時のブラヴァツキーは、「何かにとりつかれた婦人」になっており「霊媒だという噂が急速に広まった」という。そしてブラヴァツキーはラップ現象やテーブル・ターニング等の心霊現象をまわりの人たちに披露したと記されている(注35)。
その後のブラヴァツキーは、1872年イギリスで発行された『心霊雑誌』4月号の記事に「カイロに、心霊主義者の協会が設立された。会長はロシア女性ブラヴァツキー夫人で、数名の霊媒が協力している。交霊会は、火曜と金曜の夜に開かれる」(注36)として紹介された。このようにしてブラヴァツキーは40代半ばまでは、スピリチュアリズムの世界で活躍していた。
☆ブラヴァツキーの「スピリチュアリズム擁護」
ブラヴァツキーは、1874年10月30日ニューヨークの『ディリーグラフィク』に「驚くべき霊的現象」という文章を発表した。内容はブラヴァツキーがエディ家で目撃した兄弟(ホレイショーとウイリアム)の物質化現象を紹介したもので、「霊現象や霊媒に批判的な研究者を厳しく攻撃したもの」であったという。
さらに1875年1月には、ホームズ夫婦の家主が「(霊媒ホームズ夫婦の交霊会で出現した物質化霊ケイティ・キングについて)ケイティに扮装して交霊会に出現したのは自分である」と新聞で告白した事件があった。この事件についてブラヴァツキーはホームズ夫婦の弁護に回り、1875年1月末、心霊誌『光の旗』に文章を掲載した(注37)。「この記事はブラヴァツキーをスピリチュアリズムの世界で有名にした」という。この時期ブラヴァツキーは雑誌寄稿者として活躍していたが、その後しだいに軸足をオカルトに移していった。
☆ブラヴァツキーの「スピリチュアリズム批判」
1875年7月にブラヴァツキーは、雑誌にカバラ・薔薇十字主義を扱った記事を発表するようになった。この背景には、エリファス・レヴィ(Eliphas Levi:1810年→1875年)のオカルトの影響を受けていたといわれている(注38)。これらの記事の内容から、ブラヴァツキーの思想がこの時期(1875年)を境にして、スピリチュアリズムからオカルトに大きく転換したことが分かる。
当時のオカルティズムには確立した儀礼体系(→魔術師に大きな影響力があったエリファス・レヴィの魔術理論が色濃く影響していた)があった(注39)。
このレヴィの説から強く影響を受けたブラヴァツキーの目には、スピリチュアリズムのラップ現象やテーブル・ターニング等の心霊現象は、初歩的で幼稚なものに映ったのであろう。このような初歩的な心霊現象より、体系的なオカルト思想の方がより上だと判断したブラヴァツキーは、スピリチュアリズムからオカルト思想への転向を図った。
その後ブラヴァツキーは、スピリチュアリズムの根幹部分である「霊との交流(顕幽の交流は可能であるので、霊媒を通して特定の死者の霊との交信が可能)を批判」して、これを否定した。このブラヴァツキーの発言はスピリチュアリストの強い批判を浴びた。
②.SPRとブラヴァツキー
☆神智学協会ロンドン支部
イギリスの神智学協会(支部)は1878年6月27日に、ブルームスベリーのラッセル大通り38番地に設立された(注40)。「近代神智学」はスピリチュアリズムから出発したため(→近代神智学は「スピリチュアリズムの私生児」であるとの表現がある)、ロンドンに支部が設置されると多くのスピリチュアリストやSPRの会員が神智学協会に加わった。
たとえば“エンマ・ハーディング・ブリテン”、“ウィリアム・ステイトン・モーゼス”、“ウイリアム・クルックス”、“ウイリアム・ステッド”、“ フレデリック・マイヤーズ”、さらには“ アルフレッド・シネット(Alfred Percy Sinnett:1840年→1921年)”などの著名人が当時の神智学協会の会員に名を連ねていた。「スピリチュアリストとSPR(心霊研究協会)」側と「神智学協会」との関係は、1885年にSPRの神智学協会に関する最終報告書(ホジソン報告書)が出されるまでは良好であった。
☆エンマ・ハーディング・ブリテン
スピリチュアリズム(またはスピリチュアリスト)と神智学(または神智学協会)との緊密な関係は、イギリス生まれの霊媒で著名なスピリチュアリストであるエンマ・ハーディング・ブリテン(Emma Hardinge Britten:1823年→1899年)の思想遍歴に見ることができる。ブリテンは1856年渡米した際にスピリチュアリズムに触れて霊媒となり、スピリチュアリストの組織「心霊知識普及協会」にケイト・フォックスとともに参加した(注41)。
ブリテンはブラヴァツキーとは友人どうしであり、1875年の神智学協会設立にも一役買っている。またブリテンは『魔法術(アートマジック)』(1875年または1876年)というオカルト本を出版している。この本の前書きには「自分はこの本の著者ではなく、騎士ルイ(→ブラヴァツキーのマスターと同じ概念で、マスターとは霊的存在のこと)の代筆者である」との記述があり、「内容は完全なオカルティズムであった」(注42)という。この時期のブリテンはオカルティストであった。
その後ブリテンは1887年にアメリカからイギリスに渡り、週刊誌『ツーワールズ(Two Worlds)』という心霊誌を創刊し、1892年には「全米スピリチュアリスト連合」を創設している(注43)。『ツーワールズ』は後年、モーリス・バーバネルが主筆(編集長)となっており、「シルバーバーチの霊訓」を普及する上で重要な役割を果した雑誌である。
このように1880年頃は、スピリチュアリストと神智学協会は友好関係にあった。これは「当時の神智学協会の教義自体が柔軟で曖昧であったため」であるとされている(注44)。
☆神智学の奇蹟
インドのアディヤールでは、ブラヴァツキーは礼拝堂において、マスター(→霊的存在のこと)からの手紙が「急送された」り、ブローチ、皿などの物品が突然に出現する「神智学の奇跡」(注45)を披露して参会者を驚かせていた。しかしこの現象は旧知のエマ・カッテング夫婦の協力の下で、さまざまなトリックを使って演出されたものであった。1884年という年はブラヴァツキーにとって受難の年であった。
1884年にエマの解雇をめぐって、エマは「解雇された腹いせ」からこれらのトリックを暴露した手紙の束を、神智学協会を敵視していたマドラス・キリスト教大学学長のパターソンのもとに持ち込み、それが『キリスト教大学マガジン(=マドラス・クリスチャン・カレッジ・マガジン)』の1884年9月号と10月号に掲載された。このことによって神智学協会内部の人事を巡る騒動が、外部に広がり収拾がつかなくなってしまった(注46)。
SPRは「神智学の奇蹟」に関心を持っていたため、1884年5月にSPR内部に「神智学会で生起すると伝えられている奇現象を調査する委員会」が設置された(注47)。この年の秋に神智学協会内部の騒動が外部に広がり、この真相究明のためSPRは1884年12月(または11月)にSPR創立時のメンバーであるリチャード・ホジソン(Richard Hodgson:1855年→1905年)を、インドのアディヤールに向かわせた。現地に赴いたホジソンは、真偽を解明するため神智学協会の本部施設の実測やブラヴァツキーの筆跡鑑定など、徹底した調査を行い、それらをまとめてSPRに報告(→「神智学に関連せる諸現象についての報告―ホジソン報告書―」:1885年のSPR報告書第3巻所収)した(注48)。
この報告書に基づいてSPRの調査委員会は「ブラヴァツキーは歴史上もっとも成功した、巧妙で興味深い詐欺師として永遠に記憶に残すに値する人物という肩書きを得た」(注49)と結論付けて発表した。この事が神智学協会とイギリスのスピリチュアリズム界との決定的な亀裂となり、その後の「再生論」否定に大きく寄与することになってしまった。
③.リードビーターが見た交霊会
☆リードビーター、インドに渡る
近代神智学は「スピリチュアリズムの私生児」(田中義廣氏)といわれるが、英国国教会の牧師補(ハンプシャー教区)であったC.W.リードビーター(Charles Webster Leadbeater:1847年?または1854年?→1934年)は、1884年にロンドンでブラヴァツキー(Eelena Petrovna Blavatsky:1831年→1891年)と出会った。そして神智学協会の専属職員となって、その年の暮れに協会本部があるインドのアディヤールに住居を移した。
1884年2月にブラヴァツキーはオルコットとともにインドを立って、イギリスに滞在して神智学の宣伝に努めていたが、インドでは旧知エマの解雇に端を発した騒動が、「神智学の奇蹟」のトリック暴露というスキャンダルとなっていた。間もなく英国心霊研究協会(SPR)は真相究明のためこの騒動に介入してきたため、ブラヴァツキーは12月に急遽帰国した。この帰国の船便にリードビーターは同船して、一緒にアディヤールに向かったのではないかと思われる。
リードビーターはブラヴァツキーやその他の神智学会の関係者とは異なって、スピリチュアリズムに対して好意的である。その背景には数多くのスピリチュアリストの交霊会に出席して、交流した体験があったからであった。リードビーターは「(スピリチュアリストの交霊会では)明らかに幽霊の大部分は本物であり、幽霊たちの言っていることは興ざめの場合もあり、その宗教的教えなるものは、普通はいわゆる“水割りのキリスト教”であるが、それにもかかわらずその教えは進歩的であり、従来の狂信的な宗教より進んでいる」と。また「心霊主義の暗い面だけを観るのは誤りである。それは思いもかけず急死した死者に後事を整理、解決する機会を与えるなど、多大の善をもたらした事を忘れてはならない」(注50)と述べている。この発言からも交流の跡が窺える。
☆大衆向けの頂点にある交霊会の存在
さらにリードビーターは「質の高い高等なスピリチュアリズム」の存在も視野に入れて、スピリチュアリズムの中にも「ラップやテーブル・ターニング」といったデモンストレーションや、死者との語らいをもっぱら行う大衆向け交霊会の頂点に、思想や哲学が語られる質の高い交霊会が存在している点を指摘した。
この背景には次のような事情があったと思われる。国教会の牧師であったW.S.モーゼス(William Stainton Moses:1839年→1892年)は、彼自身の思想の中に深く固着していたキリスト教神学が、高級霊インペレーター霊からの自動書記通信によってことごとく論破された。その経緯を、リードビーター(→1879年に英国国教会の牧師補となっている)は同時代人として見聞して、そこから強く影響を受けたのではないかと思われる。
この「モーゼスの交霊」は、スピリチュアリズム史に燦然たる輝きを放っているが、その陰には当時の人たちの霊性を向上させるという目的を持った、霊的に極めて質の高い多くの交霊会の存在があった。そのことをリードビーターは「一般大衆の目や耳にふれることなく、その成果についても全く公表されない高級な心霊主義の存することも心に留めておくべきであろう」と述べて、質の高い交霊会の存在を暗に指摘している。
そしてこれらの頂点に「そのようなサークルのうち最良のものになると厳秘に附され、着席者も少数に限定される。そのようなサークルでは同じ顔ぶれだけが繰り返し、繰り返し集まり、部外者は一切入れず、着席者から発するマグネティズム(磁気)が変わらないように留意されている。このようにして出来上がった状態はその類を見ないほど完全であり、その結果は最も驚嘆すべき性格のものとなる」(注50)と述べている。
このようなリードビーターの記載から、モーゼスの交霊会が脚光を浴びる一方で、脇役的な目的ゆえにスポットライトを浴びることもなく、スピリチュアリズムの発展のため、捨て石となっていった多くの良質な交霊会が存在していた事実が窺える。このような質の高い交霊会の存在は、人類に霊的進化を促すための“地ならし的役割(裏方の役割)”を果たしたと同時に、その後の良質な霊界通信を地上にもたらす際の受け皿へと繋げていった。
◆スピリチュアリズムについて:目次 https://1411.cocolog-nifty.com/ks802/2016/12/post-6a12.html