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浅野和三郎の業績

目 次

 

①.はじめに 

・浅野和三郎とは

・「Spiritualism」の訳語

・断り書き

 

②.再び注目を浴びる浅野和三郎

・『大本七十年史』編纂事業

・『近代文学研究叢書』の発刊

・浅野和三郎の「復活」

 

③.浅野和三郎の生涯

ア)主な出来事

・年表

・浅野の生涯を五区分する

イ)浅野の人生における節目

・最初の人生の節目

・二番目の人生の節目

・三番目の人生の節目

 

④.多面的な「顔」

ア)美文作家という「顔」

・文壇デビュー作「吹雪」

・忘れ去られた理由

イ)著名な英文学者という「顔」

・文芸作品から評論や随筆に移行

・英文学者・翻訳家

ウ)宗教教団「皇道大本」の幹部という「顔」

・入信のきっかけ

・「大正維新」論を大々的に喧伝した

エ)スピリチュアリストという「顔」

・大正時代の活動

・昭和時代の活動

 

⑤.研究者が見た浅野和三郎

・研究者、松本健一

・研究者、長崎誠人

・研究者、ヘレン・ハーデカ

 

⑥.日本における“霊的潮流のターニング・ポイント”

ア)「霊的潮流の本流」と「純粋なスピリチュアリズム」

・言葉の定義

・代表的な書籍

・キリスト教との関係

イ)第1回目のターニング・ポイント:昭和4年(1929年)

・「黎明期」から「発展期」へ

・「和製スピリチュアリズム」誕生の要因

・「純粋なスピリチュアリズム」の流入時期

ウ)第2回目のターニング・ポイント:昭和57年(1982年)

・時節の到来

・発展期の「第一期」と「第二期」

エ)「ローカル・スピリチュアリズム」の存在意義

・適用における多様さ

・国家や民族レベル

・個々人レベル

 

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①.はじめに 

☆浅野和三郎とは

浅野和三郎(あさのわさぶろう:1874年→1937年)は、明治7813日に茨城県稲敷郡河内町(当時の村名は源清田村:1)で、父元斎と母かんの三男として生まれた(注2)。浅野は日本における「スピリチュアリズム(心霊主義)&サイキカル・リサーチ(心霊研究)」の草分けの一人であり、日本の「伝統的な祖霊観・霊魂観」(注3)と「新スピリチュアリズム(New Spiritualism Modern Spiritualism)」(注4)を融合させて「和製スピリチュアリズム」を打ち立てた人でもある。

なお「浅野和三郎の家族と出身地」については下記のページを参照のこと。

https://1411.cocolog-nifty.com/ks802/2016/06/post-611d.html

 

☆「Spiritualism」の訳語

一般に「spiritualism(スピリチュアリズム)」は「心霊主義」と訳されているが、近年では発音上の表記そのままの「スピリチュアリズム」として用いられるようになってきた。ここに至るまではさまざまな訳語が使われてきた。

明治から大正期にかけて活躍した翻訳家の高橋五郎は自身の著書『心霊万能論』(前川文栄閣、明治43年刊)の中で、「交霊術――即ち欧米諸国にてspiritism或いは spiritualismと称する」(同書6頁)と記し、別の個所では「スピリチュアル・ヒーリング」を「霊療」(236頁)と訳した。平田元吉は自身の著書『心霊の秘密』(同文館、明治45年刊)の中で「西洋のスピリチズム或いはスピリチュアリズム、訳して降神説或いは交霊説などというものにあたる」(19頁)と記している。

以上のほかに「神霊主義」「心霊術」「降神術」「精霊主義」「新霊魂説」「新精神主義」などと、その時々に応じてさまざまな訳語が使われてきた。

 

浅野は従来「Spiritualism」の訳語を複数用いてきたが、昭和39月の国際スピリチュアリスト連盟(ISFInternational Spiritualist Federation)の大会参加を前にして訳語を一本化した。その際に一般的な「心霊主義」という言葉を用いずに、より宗教性を帯びた「神霊主義」という訳語を用いた(注5)。この訳語選定の過程を推察するに、浅野は過去に大本教団幹部として活躍した経歴を有すること、彼自身の固着思想(固着観念)に「復古神道・天皇中心主義思想」を有すること、このような背景があったため比較的「宗教者的な発想」に馴染み易かったと言えよう。そのため「Spiritualism」を訳する際に、一般的な「心霊主義」という言葉を用いずに、より宗教性を帯びた「神霊主義」という言葉を用いたのではないだろうか。

 

なお「スピリチュアリズム」の類語には「spiritual(スピリチュアル:霊的な)」「spirituality(スピリチュアリティ:霊性)」「spirit(スピリット:霊)」などの言葉がある(注6)。

本稿では「Spiritualism」に対応する訳語として、浅野に該当する箇所については「神霊主義」という言葉を尊重して、そのまま使うことにした。

 

☆断り書き

本来であれば個々人に敬称を付すべきところ、本稿(浅野和三郎研究ノート含む)においては文章全体を統一する必要から、すべての個人名につき敬称を省略した。ご了承願いたい。

用語の問題として、日本では一般に「心霊」という言葉が普通に使われている。その定義は用語を使用する人によってまちまちであるが、一般に「スピリチュアリズム&サイキカル・リサーチ」全体を指す言葉として用いられているようである。そのため本稿で「心霊」または「心霊の世界」と表現する際には、「スピリチュアリズム&サイキカル・リサーチ」全体を表す言葉として用いている。

 

②.再び注目を浴びる浅野和三郎

☆『大本七十年史』編纂事業

大本教団幹部「浅野和三郎」の名前は、1960年代頃から「大本の研究」や「神道霊学の研究」(注7)が盛んになるにつれて浮上してきた。

大正10年(1921年)と昭和10年(1935年)の二度にわたって大規模な弾圧を受けた大本では、1960年代に入ると歴史学者や宗教学者を集めて「大本七十年史編纂事業」を開始した(注8)。その際「第一次大本事件(大正10年)」の関係者として「浅野和三郎」の名が浮かび上がってきた。この時期の研究は「大本」がメインであって、浅野はいわば出口王仁三郎の脇役的存在として登場してくるに過ぎない。

 

☆『近代文学研究叢書』の発刊

『近代文学研究叢書、別巻』の記載によれば、昭和女子大学の近代文学研究室では、近代の文学者の伝記・業績に関する厖大な資料や文献をまとめて、これらを研究の基礎資料とするため『近代文学研究叢書』全77巻(内訳:明治期12冊、大正期13冊、昭和期51冊、別巻1冊。収録された文学者や思想家は394名に及ぶ)を刊行した。資料の収集や実地調査、遺族訪問には日本文学科の学生が動員されたという。研究叢書は昭和311月に昭和女子大学光葉会から第1巻が出版されて以降、平成13年に完結するまで45年の歳月をかけて順次刊行された。

 

昭和50年(1975年)5月に『近代文学研究叢書、41巻』が刊行された。この研究叢書41巻には、昭和116月から昭和122月までの間に没した、南部修太郎(なんぶしゅうたろう)、鈴木三重吉(すずきみえきち)、岡倉由三郎(おかくらよしさぶろう)、河東碧梧桐(かわひがしへきごどう)、浅野馮虚(あさのひょうきょ)の5名が収録されている。この巻で「浅野馮虚(浅野和三郎の筆名)」(注9)が取り上げられた意義は大きい。なぜなら41巻の「巻末付記」にも記されているように、これまで「浅野馮虚についてまとまった研究」はなかったからであった(→この研究の元資料になったと思われる、鈴木まさ子著「浅野馮虚」:雑誌『学苑』昭和318月号所収を除く)。41巻の「浅野馮虚」研究が浅野の生涯を唯一網羅的に扱った論稿であった(注10)。

 

研究書「浅野馮虚」の優れている点は、宮澤虎雄、脇長男(筆名は脇長生)、笠井鎮夫、秋山美智子、浅野遥、鈴木彦四郎、岡保生、浅野修一から聞き取り調査を行っていること。さらに国立国会図書館、東京大学図書館、東京大学明治新聞雑誌文庫、日本近代文学館、早稲田大学図書館、総持寺(鶴見)、昭和女子大学図書館及び近代文庫等での資料収集等を行っていることである。このようにして「生涯―幼少年時代、修学時代、活躍期、大本教入信、晩年」「著作年表」「業績―美文創作、翻訳、英文学史」「資料年表」「遺族・墓地」の構成で「浅野馮虚」は書き上げられた。特に「著作年表」と「資料年表」は資料性に優れている。

ただしこの研究にはスピリチュアリズムの視点は全くないので、スピリチュアリズム研究の一環として参照する場合には注意を要する。この刊行後「浅野和三郎」を取り上げる研究者は等しくこの資料を利用している(注11)。

 

☆浅野和三郎の「復活」

「浅野和三郎」という名は、『近代文学研究叢書、41巻』の刊行時期にあたる1975年を基準にすると「第一次大本事件」から54年、美文作家「浅野馮虚」から70年余り、一般人が容易く目にするという形では、誌面に名前が載ることはなかった。しかし近年の「スピリチュアリズム・ブーム」にのって、「スピリチュアリズム(心霊主義)&サイキカル・リサーチ(心霊研究)」の草分けとして「浅野和三郎」の名前が、書籍やホームページでしばしば目にするようになってきた。各研究分野に目を向ければ、それぞれの分野で浅野が改めて注目されるようになってきたことが分かる。しかし現在でも浅野に関する研究はそれぞれの分野に特化したものとなっており、幼少期から「神霊主義者時代(=スピリチュアリスト)」までの全生涯を網羅した研究は見当たらない。

 

③.浅野和三郎の生涯

ア)主な出来事

☆年表

1874年(明治7年)813日:出生

1880年(明治13年):源清田小学校入学(6歳)

1887年(明治20年):萩原漢学塾で学ぶ(13歳)

1888年(明治21年):東京英語学校で学ぶ(14歳)

1891年(明治24年):第一高等中学校入学(17歳)

1896年(明治29年):帝国大学英文学科入学(22歳)、翌年に東京帝国大学と改称

1898年(明治31年):デビュー作「吹雪」を『帝国文学』に掲載

1899年(明治32年)7月:東京帝国大学英文学科卒業

1899年(明治32年)9月:東京商業学校勤務(25歳)

1900年(明治33年)3月:海軍機関学校英語学教授に就任

1900年(明治33年)11月:結婚(和三郎26歳、多慶子17歳)

1915年(大正4年):三男の病気、秋に「摩訶不思議な世界」を知る(41歳)

1916年(大正5年)45日:大本を訪問して教祖と面会

1916年(大正5年)12月:海軍機関学校を退職、大本本部の綾部に移転(42歳)

1921年(大正10年)2月:第一次大本事件、保釈後は謹慎生活(47歳)

1923年(大正12年)3月:心霊科学研究会を創設

1923年(大正12年)9月:関東大震災により罹災(49歳)

1928年(昭和3年)9月:ISF大会参加(54歳)

1937年(昭和12年)23日:急性肺炎で死去(62歳半)

 

☆浅野の生涯を五区分する

浅野の生涯を区分けしてみると特徴がより鮮明となる。本稿では次の五つに分けてそれぞれの時代の特徴点を概観した。このように区分けすることによって、浅野は各分野において活躍したことや業績を残したことが明らかになってくる(→ただし「学び舎の時代」を除く)。しかし浅野和三郎系統のスピリチュアリズムの世界を除いて、長い間「浅野和三郎」という名は忘れ去られており「過去の人」であった。

 

A:出生から大学卒業までの「学び舎の時代」

明治7年(1874年)8月の出生時から明治32年(1899年)7月に東京帝国大学を卒業するまでの期間を扱う。なお大学2年の後半(明治313月)から大学3年にかけての期間は、次の「美文作家時代」と重複する(→「学び舎の時代」参照)。

 

B:創作活動期にあたる「美文作家時代」

明治31年(1898年)から明治33年(1900年)頃までの期間になる。この時期の浅野の身分は東京帝国大学の学生であり、卒業後は明治329月より夜間学校の東京商業学校(神田区錦町二丁目6番地)で英語の講師を務めた(→「英文学者時代」参照)。

 

C:翻訳家、英文学者としての「学者時代」

明治33年(1900年)3月から大正5年(1916年)12月迄で、この期間は海軍機関学校の英語学教授の職に就いていた。大正4年(1915年)秋から翌年12月迄は子供の病気がきっかけとなって行者と知り合い、「摩訶不思議な世界」に魅せられて次第に大本教に引き込まれていった期間にあたる(→「英文学者時代」「鎮魂帰神の修業時代」参照)。

 

D:大本教団の幹部という「宗教者時代」

大正51210日に横須賀を引き払って京都の綾部に転居した日から、「大本事件(大正10212日の強制捜査に端を発した一連の事件)」で京都監獄に収監され、同年617日に保釈されて出所してきた夏頃までの期間を扱う(→「皇道大本時代」参照)。

 

E:スピリチュアリストである「神霊主義者時代」

大正10年秋頃に「大本事件の謹慎生活を始めて、殊に心霊研究に熱心になった」(宮澤虎雄)時期から、昭和12年(1937年)23日に死去するまでの期間を扱う(→「心霊科学研究会時代」「ISF大会・英米の霊媒探訪」参照)。

 

イ)浅野の人生における節目

☆最初の人生の節目

浅野の人生には霊的面から見て三つの大きな節目があった。

最初の節目は大正4年(1915年)秋、息子(三男の三郎)の病気がきっかけとなって、行者石井ふゆと出会ったことであった。石井が行った透視等の実験(注12)を目の当たりにして、それまで「単調平凡」に歩んできた実証主義的な浅野の人生観は大きく転換した。この出会いによって「魔訶不可思議な世界(=心霊の世界)」へと続く扉を開けたという意味で、浅野の人生における最初のターニング・ポイントとなった。

後年浅野は、石井の実証実験が失敗に終わっていたら「私という人間は、恐らく終生心霊問題などに(関わらなかった)」(注13)と述べている、このことからも明らかである。

一個の“自由意志を持った浅野和三郎”という観点から見れば、“石井の透視実験”を見学した浅野には、この時「心霊の世界」の奥深くへと進んでいく道と、一切「心霊の世界」とは関わりを持たない道という二つの選択肢があった。選択如何によっては当然にその後の人生は変わってくる。この分岐点において浅野は自由意志を行使して「心霊の世界」へと続く道を選択した。この選択によって「神霊主義者」の道へと大きく一歩足を踏み出した。

 

☆二番目の人生の節目

二番目の節目は大正10年(1921年)212日の強制捜査に始まる「大本事件」であった。この事件で「刑事被告人の地位」に立たされた浅野の罪名は天皇に対する「不敬罪」であった。この時人生における最大の岐路に立たされた浅野には、三つの道が用意されていた。

一つ目は「心霊の世界」の奥深くへと進んでいく「神霊主義者」としての道、二つ目は「大本事件」以降一切「心霊の世界」と「大本信仰」には関わりを持たない道、三つ目はこの両者の中間の道で「大本信仰」のみに生きる宗教者としての道。この中からどれを選択するかの決断を迫られていた。

浅野はこの三つの選択肢の中から、自由意志を行使して一つ目の「心霊の世界」の奥深くへと進んでいく「神霊主義者」としての道を選択した。

個別霊として自由意志を行使して、さらなる「心霊の世界」の深みへと足を踏み出した浅野は、この事件の謹慎期間中にスピリチュアリズムに対する理解を深めて、従来の宗教者の立場を離れてスピリチュアリストとしての道へと、大きく歩み始めた。このように大正10年(1921年)は、宗教者からスピリチュアリストへと転換を図った年であった。

日本のスピリチュアリズムは浅野の活躍と連動する形で発展してきた、という事実を踏まえて考えて見れば、大正10年(1921年)はいわば日本の「スピリチュアリズム元年」にあたる年と言える。これに対して今村新吉と福来友吉が共同して御船千鶴子の透視の研究を行った明治43年(1910年)は、日本における「心霊研究元年(または心霊現象研究元年)」の年であった。このように日本には「スピリチュアリズム元年(大正10年:1921年)」と「心霊研究元年(明治43年:1910年)」の二つが存在する。

 

☆三番目の人生の節目

三番目の節目は昭和3年(1927年)に開催された、国際スピリチュアリスト連盟(ISFInternational Spiritualist Federation)の大会参加と、西洋における物理的心霊実験会の見学であった。前年の昭和2年(1926年)27日に大正天皇の逝去による大赦令の発布があり、「大本事件」の審理を扱っていた大審院は、同年517日に大赦令を適用して事件関係者に免訴判決を言い渡した(注14)。これによって浅野の罪名である「不敬罪」は免訴となり、長年の精神的重圧であった「刑事被告人の地位」から解放された。翌年浅野はISF大会に参加して、世界各地の心霊家と思う存分交わることができた。

この交流が浅野に与えた影響は、彼自身の中に存在していた「素朴なナショナリズム」の高揚であった。この高揚感はその後、日本の「伝統的な祖霊観・霊魂観」と「新スピリチュアリズム(New SpiritualismModern Spiritualism)」を融合させて独自色の強い「独特な日本的新スピリチュアリズム」(田中千代松)、別名「和製スピリチュアリズム」を提唱していくきっかけともなった。この「和製スピリチュアリズム」は、昭和期の「神国思想」全盛期に国家神道の枠内に収まる「体制内思想」として、浅野の固着思想(固着観念:復古神道・天皇中心主義思想)によって色付けされた「ローカル・スピリチュアリズム」であった。

浅野はこの大会参加を利用して、西洋の心霊現象の実験会に立ち会ったが、この体験は翌年(昭和4年:1929年)以降、日本における「新スピリチュアリズム」の新たな展開を準備させることにも繋がった。これ以降、浅野が行った物理霊媒を前面に立てた「心霊知識の普及活動」は、運動体という観点から見れば、日本におけるスピリチュアリズム運動の「前衛」としての役割を担うことになった。このような観点から見て浅野の人生上の三番目の節目は、日本におけるスピリチュアリズム史上、最初の「霊的潮流のターニング・ポイント」となった。

 

④.多面的な「顔」

ア)美文作家という「顔」

☆文壇デビュー作「吹雪」

浅野の生涯は、さまざまな「顔」で彩られている。その一つが美文作家という「顔」である。東京帝国大学2年(明治31年:1898年)の時に、美文形式(注15)の短編作品「吹雪」を「馮虚道人」という筆名で、雑誌『帝国文学』(明治31310日発行:注16)に掲載した。美文は明治20年代中頃から明治30年代中頃にかけて流行したが、その特徴は内容よりも形式美を重んじた文体にあり、特に雅文(和文)の要素が強く反映されたものとなっている。詩人で評論家の大町桂月(おおまちけいげつ:1869年→1925年)は、明治29年に発行された『花紅葉:美文韻文』(博文館)の序文の中で、「美文も韻文もひとしく詩である」と述べている(注17)。

浅野の文壇デビュー作「吹雪」は物語性を持った美文であったが、桂月は次のように述べている。「(吹雪は)固より寥々たる短編にして深き所なく、また清新ともせざれども、一寸面白き節あり、西洋の短編より得来れる詩趣にあらずやと思はる」「吹雪一篇は、余が帝国文学の詞藻欄の散文の中にて、尤も面白しと感じたるものの一つとして、世に推薦するもの也」(注18)と批評した。

浅野は「吹雪」を『帝国文学』に発表した後、続けざまに美文作品を発表している。大学卒業の年(明治32年:1899年)は多作であり、発表の舞台も『帝国文学』から『太陽』『新声』『天地人』等と広がっている。桂月は作家としての浅野を「浅野馮虚の美文、殊に谷川の水の如きは、一代の絶品なり」と極めて高く評価した。

 

☆忘れ去られた理由

「美文作家:浅野和三郎」の名は長い間、忘れ去られていた。この理由は何か。

推察するに浅野の美文作家として活躍した期間が、明治30年代のわずか3年余りという短さ。当時は「言文一致運動」の時代であったこと。浅野の作品の表現技法が美文(擬古文)であり、現代人からすれば美文は「古典」を読む感覚になってしまうこと。美文の最盛期は明治30年代であり寿命が短く、程なく自然主義文学に取って代わられたこと。さらに作品の発表舞台が一般大衆向けの「新聞小説」ではなく、読者層が一定の層に限られていた『帝国文学』がメインであったこと。このようなことが要因となって、長い間「美文作家:浅野和三郎」の名は忘れ去られていた。

 

イ)著名な英文学者という「顔」

☆文芸作品から評論や随筆に移行

浅野和三郎は明治33年(1900年)3月から海軍機関学校教官となったが、この時期は物語性を持った文芸作品から評論や随筆に移行していた。浅野は明治33年にアメリカの短編小説の創始者であるワシントン・アーヴィング(Washington Irving1783年→1859年)の「アルハンブラ伝説」の一部と「スケッチ・ブック」の一部を評釈した『英文評釈』(新声社、明治336月)を著した。また明治34年には『スケッチ・ブック』を翻訳している。これらの評釈や翻訳は明治の若い学生に人気があったという。後年、浅野はISF大会(昭和3年:1928年)に出席するため神戸の三宮からバイカル丸に乗船したが、この船中で旧制の中学校時代に『スケッチ・ブック』を愛読していたという読者と偶然に出会い、挨拶を受けている(注19)。

随筆には横須賀や三浦半島の自然風物・名勝、旅を素材にしたものがある。明治337月の『明星』に掲載した「勝力の岬」、明治3310月の『新声』に掲載した「海辺の逍遥」、明治3311月の『帝国文学』に掲載した「按針塚」、明治342月の『新文芸』に掲載した「汽車の数日」などである。

 

☆英文学者・翻訳家

浅野の創作期間は短く明治34年以降は、海軍機関学校の教官(英文学者・翻訳家)の生活に専念していった。

翻訳家としての浅野は、明治34年以降『クリスマス・キャロル』『スケッチ・ブック』『シェイクスピア全集』等における初期の翻訳者として名前が登場してくる。特に友人の戸澤正保(筆名は戸澤姑射)との共同作業である『シェイクスピア全集』に関しては、10巻までと未完に終わったものの明治の翻訳界において大きな貢献をなした(注20)。

浅野は明治40年(1907年)に大著『英文学史』を刊行したが、この書籍は明治末から大正時代にかけて英文学研究者にとっての指導書であった(注20)。いわばこの時期、浅野は著名な英文学者であった。

 

英文学者としての浅野は「英文学史の世界」では、明治期に活躍した人物として今でも取り上げられている。しかしあくまで学問の世界であるため一般的ではない。研究者向けの書籍ではあるが『シェイクスピア研究資料集成、第2巻』(日本図書センター1997年刊)では、「シェイクスピア全集」の初期の翻訳者として浅野の「沙翁」が紹介されている(184頁~199頁)。また『近代日本英語・英米文学書誌、第5巻』(ゆまに書房1995年刊)では、浅野の「英文学研究書目」が紹介されている(2頁~9頁)。さらに海江田進著「沙翁全集の試み―戸沢正保・浅野和三郎の業績―」(『東京外国語大学論集』19693月号、19703月号所収)では、専門的な立場から訳文の検討がなされている。

昭和43年(1968年)10月に研究社から刊行された『日本の英学100年』3巻シリーズ(明治篇・大正篇・昭和篇)では、「シェイクスピア全集」を扱った箇所(明治編)や「英文学史」を扱った箇所(明治編、大正編)で、それぞれ「英文学者、浅野和三郎」として紹介されている。

 

ウ)宗教教団「皇道大本」の幹部という「顔」

☆入信のきっかけ

大正4年(1915年)に息子(→三男の三郎:明治405月生)が病気となり、この病気が行者の予言通り治癒したことや、当てモノ実験などによって浅野は霊的世界に目覚めた。その後「大本教(→当時の名称は皇道大本)」を知り、自動書記現象である教祖の“筆先”と出口王仁三郎の鎮魂帰神法や霊学に強く惹きつけられた。なお『近代文学研究叢書』では、浅野が「大本行きを決意するに至る予備的経験」として息子の病気とともに、明治40年前後に目撃した催眠術の実験を挙げている(注21)。

浅野は大正5121日付で海軍機関学校の教授を退職し、横須賀を引き払い京都の綾部に引っ越して大本の幹部信者となった(→綾部に転居して大本に入信したのか、この年の夏に入信したのかは不明)。浅野の大本入りは、海軍機関学校教授で著名な英文学者の入信ということで当時話題となり、教勢の全国展開に大きく貢献して教団の興隆をもたらした。

英語や英米文学の研究者を対象とした雑誌『英語青年』には、「片々録」という個人消息欄がある。その大正51215日号の「片々録」に「海軍機関学校教授浅野和三郎氏(沙翁劇やスケッチ・ブック、クリスマスカロルなどの訳者)は、去二日依願免職となった。氏は丹波に退いて大日本教という新宗教の宣伝に従事する由。それにしても古くから編修中であった英和辞典どうなる事であろう」との一文が載っている。

当時の大本の信者数は1000人程度であり、京都府綾部にある地方のローカル教団にすぎなかった。そのため『英語青年』の編者が大本の教団名を正しく理解せず(あるいは誤植のためか?)、下線を引いた箇所が「大日本教という新宗教」となっている。なお「大本教」はたびたび名称を変更しているが、大正5422日に「皇道大本」に名称変更しているので、浅野が大本の幹部として活躍した時期の正しい名称は「皇道大本」である(注22)。

 

☆「大正維新」論を大々的に喧伝した

大本に入信した浅野は、大本の機関誌『神霊界』の主筆・編集長として、また鎮魂帰神の審神者として、出口王仁三郎に次ぐ幹部信者として活躍した。浅野たち幹部は、教祖の筆先の世直し思想や王仁三郎の「大正維新」論(注23)を大々的に喧伝したため、大きな社会的反響を呼び起こした。これがきっかけとなって、大本は大正10212日の強制捜査に端を発した権力からの大規模な介入を招いた(→これが「第一次大本事件」といわれている)。浅野は刑法の「(天皇に対する)不敬罪法違反」と「新聞紙法違反」で起訴された(注24)。その後の浅野は、この事件をきっかけにして大本を離れて、スピリチュアリズムの世界へと進んでいくことになった(注25)。

 

エ)スピリチュアリストという「顔」

☆大正時代の活動

浅野は大正11年(1922年)秋頃から心霊科学研究会発足のため、主唱者となって活動を開始した。そして翌年の323日に学士会館で創立総会を開き、「心霊科学研究会」を立ち上げた。しかし大正12年(1923年)91日の関東大震災によって事務所が罹災し、各種資料も焼失したため、会は休会状態となり機関誌『心霊研究』も3号で廃刊となった。浅野はその年の12月に事務所を大阪に移転して、大正13年(1924年)2月に雑誌『心霊界』(→機関誌『心霊研究』を改題して発行したもの)の創刊号を発刊して活動を再開した。

機関誌の『心霊界』は大正147月号(第2巻第7号)から誌名を『心霊と人生』に改題したため、機関誌の名称は『心霊研究』→『心霊界』→『心霊と人生』と変更されている。なお『心霊研究』と『心霊界』との間には機関誌としての号数の連続性はないが、『心霊界』と『心霊と人生』の間には連続性を持たせている。このことは機関誌の性格に表れている。

従来の機関誌『心霊研究』は「純学術的報告機関」として位置付けていたが、『心霊界』と『心霊と人生』の場合は「宗教、政治其の他百般の人生問題、思想問題」を扱うとしており、両者の間には「機関誌の性格」に違いが存在している。

 

推察するに機関誌『心霊研究』発行時は、心霊科学研究会という組織には実体があったため、浅野も組織の決定には従わなければならなかった。しかし『心霊界』と『心霊と人生』発行時においては、すでに組織という実体はなかった(と思われる)。そのため震災以降、心霊科学研究会は浅野の意向で100%なんとでもなる“組織”に変質していたのではないだろうか(→これに対して東京心霊科学協会は組織としての実体を持っていた)。このように考えれば機関誌の性格が『心霊研究』と、『心霊界』『心霊と人生』とで異なっている理由が理解できる。

浅野は大正147月に雑誌の名称を『心霊と人生』に改題すると同時に、心霊科学研究会の事務所を「神奈川県鶴見町 (現:横浜市鶴見区) 字東谷1601番地」に移転した。

 

☆昭和時代の活動

昭和3年(1928年)に第3回国際スピリチュアリスト連盟(ISF)の大会がロンドンで開催されて、浅野は福来友吉と共にこれに参加した。浅野はISF大会参加の機会を利用して、イギリス、フランス、アメリカ等で心霊現象の交霊会に立ち会った。欧米の心霊事情を視察した浅野は、日本においても「心霊現象の科学的研究」や「霊媒能力の実地応用」の必要性を痛感し、実験に耐えられる霊媒の出現を強く待ち望んでいた(注26)。

亀井三郎は雑誌『科学画報』(昭和44月号)に掲載された浅野の基調報告の記事を読んで、昭和45月に浅野の自宅を訪ねてきた(注26)。この時の亀井と浅野との出会いがきっかけとなって、その後物理的心霊現象に耐えうる霊媒が次々と浅野の周囲に出現した。物理霊媒の出現によって、霊的真理普及に沿った実験会や研究を行うことができるようになって、日本の「スピリチュアリズム&サイキカル・リサーチ」が大きく進展していった。

浅野は物理的心霊現象の実験会や講演会を継続して開催し、さらには西洋のスピリチュアリズムに関する本の翻訳出版や、各地における精神統一実修会の実施などを通して心霊知識の普及に努めたが、昭和12年(1937年)23日に急性肺炎で626ケ月の生涯を閉じた。

スピリチュアリスト(神霊主義者)としての浅野和三郎は、以前から一部の世界の人たちの間ではよく知られた存在であったが、浅野の系統の人たち以外では、同じ「心霊の世界」でもそれほどポピュラーではなかった。

昭和60年(1985年)に潮文社から『復刻版:浅野和三郎著作集』シリーズが刊行されたことや、各分野で浅野が「復活」してきたこと、2000年代に入って「スピリチュアリズム・ブーム」などがあり、これらに伴って「スピリチュアリズム&サイキカル・リサーチ」の先駆者である浅野和三郎が注目されるようになってきた。しかし浅野のこの分野に関するまとまった研究は見当たらない。

 

⑤.研究者が見た浅野和三郎

☆研究者、松本健一

評論家の松本健一(麗澤大学教授:1946年→2014年)は『出口王仁三郎:屹立するカリスマ』の中で、「高芝熊文書」を引用する形で浅野について次のように述べている(注27)。

松本は大本信者の大島豊の言葉を引き合いに出して「大島はここで、“大正維新”を中心とする“世界の大改造”という発想は、もともと開祖なおの“筆先”に発するものとはいえ、浅野和三郎らの新参派がちょっと“独断的”に先走りしたものではないか、と批判している。そのことについては、事実、王仁三郎自身が心配していた。大島はそういった事情を知った上で、第一次大本事件は“その責任の大半”が浅野一派にある・・・こういった見方は、ある意味で真実をついていて、大島豊の観察眼がなかなかに鋭いことを示している。たしかに大正11年の立替にむけての浅野の簡潔、明解な“大正維新論”は、知識人の爪先立ちのようなところがあった」(下線部分は原文のまま)と。この松本の意見は“大本幹部たる浅野和三郎の役割”に対する、大本研究者の共通した浅野観になっている。

松本健一の著書には、上記の他に「明治の新進英文学者が、何故心霊研究にのめりこんだか」というテーマで、浅野の半生を書き上げた『神の罠―浅野和三郎、近代知性の悲劇』がある(注28)。この著書は浅野和三郎を研究する者によって、しばしば引用されている(→長崎誠人も『神の罠』を取上げて自説と対比している)。なお松本はスピリチュアリズムとは距離を置いているので、これらの著書を参照される場合には注意を要するが。

 

次に松本の『神の罠』の中で気になる箇所を取り上げて検証してみた。

松本によれば、浅野は死後の世界を「霊魂という永遠の存在がある、という仮説的な方法によって解こうとした」(前著224頁)という。さらに「死というモノが存在するわけではない。これは、しかし当時の浅野がみずからの心にいいきかせている言葉であった。なぜなら、浅野と妻の多慶子は昭和4228日、次男の新樹を24歳の若さで亡くしていたから」(前著207頁)とも述べている。

しかし浅野は死後の世界を「信仰の問題」ではなく、「科学的領域に属する問題」(注29)として強く確信していたのであり、松本が述べるような「(息子の)霊魂は事実として存在するのだ、という確証をえたいがための精神の営みにほかならない」(前著215頁)という消極的な確信であったのではない。

浅野は三男の病気によって、自分とはまったく無関係と思われていた世界の扉を開いた。実証的知識人が最初にしたことは、石井ふゆを実験霊媒にして透視のテストを行ったことであった(注30)。さらに浅野の大本入信の動機は「鎮魂帰神を通じての霊魂研究」であり、一貫して霊に対する関心を持ち続けていた。そのため大本脱会後は草の根的に、精力的に「各人の肉体に霊魂が宿っていること」「肉体を離れた霊魂は死の彼岸に存続すること」「死者の霊魂は生者の肉体に憑依すること」「霊魂界と人間界との間に交通が可能であること」「霊魂の働きは驚くべき威力と種類に富むこと」(注31)などを説き続けて、確信を持ってスピリチュアリズム(神霊主義)の普及に努めたのである。

松本の執筆テーマが「明治の新進英文学者が、何故心霊研究にのめり込んでいったか」なので、「子供の病気や死」を浅野の心霊研究の主要テーマとしたことも分からないでもないが、彼の「スピリチュアリズム&サイキカル・リサーチ」に対する理解は、通俗的であり本質を理解していない。一般に松本のような立場を取って浅野を論じる研究者は多い。このような松本の見解に対して宗教学者の津城寛文(筑波大学教授)は「松本健一は浅野を、ナショナリズムという『神の罠』におちた、挫折した近代知識人ととらえているが、一側面にすぎないだろう」(注32)と述べている。

 

☆研究者、長崎誠人

宗教学が専門の長崎誠人(近大姫路大学准教授)には「浅野和三郎と大本―大正知識人の宗教受容―」(注33)という論稿がある。また日本宗教学会の第62回学術大会(2004年)の第8部会で「大正期における知識人の宗教―浅野和三郎を中心に―」を報告し、さらに第64回学術大会(2006年)の第7部会で、「浅野和三郎研究」を報告している(注34)。

長崎は「浅野和三郎と大本―大正知識人の宗教受容―」の中で、浅野は大正4年の息子(三男)の病気をきっかけにして宗教の世界に入り、さらに神霊の世界へと進んでいったことを述べている。この中で「学校出の表通りの人間」対「裏面・裏通り」という対比を行い、この中には「知識人・エリート」対「民衆」、「科学・合理主義」対「迷信」という対比を含んでいると論じている。そして浅野の大本入りは「霊魂・神霊の世界の実在」と「予言の確信」を通してであったと論じた。

浅野が従来の「科学万能の知から、それを超えた新たな知、すなわち宗教と科学が統合された知の探求へと向かった」理由として、長崎は「欧米のスピリチュアリズム・オカルトとラフカディオ・ハーンの影響」と「浅野自身が救済の体験を持たなかった」ことをあげている。浅野の大本入りを「西洋=近代の科学的“知”から、宗教と科学の統合された新たな“知”の探求の道程」という見方でとらえている。長崎に対しても松本健一の批評と同様なことが言える。このように長崎の研究は浅野の大本入信というテーマに絞って論じている点で、限定的な研究である。

 

☆研究者、ヘレン・ハーデカ

宗教学者のヘレン・ハーデカ(Helen Hardacre:ハーバード大学教授)は「浅野和三郎と20世紀初期日本における心霊主義」(注35)というテーマで論稿を書いた。この中でヘレン・ハーデカは浅野の活躍した時代の心霊状況を概観して、浅野の生い立ちから海軍機関学校時代、大本教入信の決断の過程。さらに大本教での活躍ぶりや、晩年の神霊主義者時代までをおおまかに紹介している。また浅野が大本教団の急成長に果たした役割や、大正維新による社会の緊張感を作り出したことなども指摘している。

そして「浅野の教育、翻訳技術、大本教での経験は、欧米の心霊主義と日本の都市中産階級のサロン社会との間に、見事な架け橋を創るための素地を与えた」と述べる。

このように長崎誠人とヘレン・ハーデカの論稿は、浅野を正面から論じた数少ない論稿であるが、どちらも概括的で晩年の「神霊主義者(スピリチュアリスト)」への言及が弱いところに共通点がある。

 

⑥.日本における“霊的潮流のターニング・ポイント”

ア)「霊的潮流の本流」と「純粋なスピリチュアリズム」

☆言葉の定義

地上世界において1848年にスタートした霊界主導による「地球を霊的に刷新する運動」、すなわち「宇宙(=霊的宇宙)に遍満している霊的エネルギーを地上にふんだんに流し込む運動」を本稿では「霊的潮流の本流」と名付けた。この「霊的潮流の本流」はさまざまな分野に流れ込んで、影響力を行使するという形で地球全体の霊的刷新を図っている。

この「霊的潮流の本流」の中の一分野である“地上人に関わる分野”の霊的な潮流、すなわち高級霊から霊界通信という形でもたらされた「普遍的なスピリチュアリズム思想」を地上に隈なく普及させて、地上人の霊的レベルアップを図る目的を持った運動を、本稿では「純粋なスピリチュアリズム」または「質の高い高等なスピリチュアリズム(Higher Spiritualism)」の普及運動と呼ぶことにする。この流れは“指導者や霊媒の移動、書籍の普及”という形をとって、ニューヨーク州の一寒村のハイズヴィルからアメリカ全土へ、そしてヨーロッパへ、さらには当時の強国イギリスやフランスなどを経由して、20世紀初頭には世界各国へと及んでいった。

この「普遍的なスピリチュアリズム思想」は世界各地に普及して行くにしたがって、各国の風土や国民性、伝統的宗教や習俗などと習合化して変質していった。この地域性を持ったスピリチュアリズムを本稿では「ローカル・スピリチュアリズム」と呼ぶことにする。一般には「折衷的なスピリチュアリズム」とか「習合化したスピリチュアリズム」という言葉で表現されているものと同じである。

代表的な「ローカル・スピリチュアリズム」には、イギリスの英国教会と結びついた「キリスト教的スピリチュアリズム」、ブラジルにおいてさまざまな宗教や土着の習俗と結びついて習合化した「カルデシズム」、そして日本の伝統的な祖霊観や霊魂観と結びついた「和製スピリチュアリズム」などが知られている。

 

☆代表的な書籍

一般にスピリチュアリズムの世界では、アラン・カルデック編纂の『霊の書』『霊媒の書』とモーゼスの『霊訓』。さらに『シルバーバーチの霊訓』は「質の高い高等なスピリチュアリズム(Higher Spiritualism)」の代表的な書籍であると言われている。本稿ではこれらの書籍(霊界通信)にマイヤースの『永遠の大道』『個人的存在の彼方』とG.V.オーエン著『ベールの彼方の生活』(全4巻)、モーゼス著『インペレーターの霊訓―続『霊訓』―』を加えて、これらの著書で述べられている“教え”を「純粋なスピリチュアリズム」または「質の高い高等なスピリチュアリズム(Higher Spiritualism)」と呼ぶことにする。

霊的エネルギーが地上に満ちていく様は五感では捉えられないので、本稿では「質の高い高等なスピリチュアリズム(Higher Spiritualism)」の代表的な書籍が普及して、その“教え”が「認容(→霊的教訓を消化して自分のものとすること)」されていく状況を“普及過程”とした。そしてこの“普及過程”を川の流れに譬えて、便宜「霊的潮流の本流(地上人に関する分野)」としたわけである。

なお「霊的潮流の本流(地上人に関する分野)」「スピリチュアリズムの本質」「普遍的なスピリチュアリズム思想」「純粋なスピリチュアリズム」「質の高い高等なスピリチュアリズム(Higher Spiritualism)」は使用する文脈で言葉を分けただけであって、全て同じ内容を指している。

 

☆キリスト教との関係

本稿では高級霊によって人類の共有財産としてもたらされた霊的教訓を、「普遍的なスピリチュアリズム思想(=純粋なスピリチュアリズム、または質の高い高等なスピリチュアリズムHigher Spiritualism)」と呼んでいるが、この思想には「キリスト教の影響が強く表れている」との批判がある。このような誤解は次のような事情から生まれた。

「普遍的なスピリチュアリズム思想」は、キリスト教圏のイギリス(霊媒のモーゼスやバーバネル)やフランス(カルデックが関わった霊媒)の霊媒を通して地上にもたらされた。当然に交霊会参加者もキリスト教徒がメインであった。そのため“教え”自体もキリスト教的色彩を帯びたものとならざるを得なかった(→なぜなら霊界通信は霊媒の潜在意識にある用語や概念を使って表現するため)。

またモーゼスの『霊訓』からも分かるように、スピリチュアリズムの最大の抵抗勢力はキリスト教であったことから、必然的にキリスト教の教義に言及する度合いが高かった。さらには一神教であるキリスト教には「宗教を世界に広める」という考えが極めて顕著であり(→その宣教にはしばしば武力が伴っていたが)、その影響や手法がスピリチュアリズムの普及運動にも見られたことも指摘できる。

19世紀から20世紀にかけては白人至上主義に立った「西欧文明優位主義」が盛んに唱えられた時代であった。この主な背景には「社会進化論」と「優生学思想」の影響がある。

ハーバート・スペンサー(Herbert Spencer1820年→1903年)は「生存競争と自然淘汰によって生物の進化を説明」する「ダーウィンの進化論」(1858年)を広く人間社会に当てはめて、自然のみならず人間の社会や文化などにもこの原理が貫いていると考えた。スペンサーの唱えた社会進化論は、イギリスよりもアメリカで圧倒的な人気を誇った。スペンサー流の進化論によって、多くの富を所有した者は「資本主義の勝利者(→自らを適者生存によって富を蓄えることが出来た勝利者であると称した)」であり、また人種に優劣をつけて「劣った黒人は優秀な白人に使えるのは当然である」として人種差別が正当化された。

さらには自然選択を「逆選択」して、人種や民族の改良を研究する科学であると述べたフランシス・ゴルトン(Francis Galton1822年→1911年)の優生学の思想も、この時期大きな影響力を及ぼした。これらの思想が背景となって、「自由競争と経済の放任主義」による弱肉強食的な社会が出現し、「西欧文明優位主義」的な風潮が生み出された。このような思想的背景やキリスト教の独善性などによって「西洋から中南米・アジア・アフリカへ」という“大きな流れ”が地上世界には存在していた。

霊界側ではこのような地上側の特殊事情を考慮して、汎用性を持った「普遍的なスピリチュアリズム思想(=純粋なスピリチュアリズム)」を全世界に発信させるために、当時の地上世界の勢力図を上手に利用して広めたことが、事実を整理してみれば理解できる。

本来スピリチュアリズムは特定の宗教性を帯びた思想ではないのだが、キリスト教圏の国家や国民を“普及の手段”として用いたために、「キリスト教の影響が強く表れている」と言った誤解が生まれる要因となった。

 

イ)第1回目のターニング・ポイント:昭和4年(1929年)

☆「黎明期」から「発展期」へ

日本には“霊的潮流のターニング・ポイント”が二つある。

最初のターニング・ポイントは昭和4年(1929年)であった。浅野は昭和3年(1928年)に国際スピリチュアリスト連盟(ISF)の第三回大会に福来友吉と共に参加した。浅野はこの大会参加の機会を利用して西洋のスピリチュアリストとの交流をはかり、さらにイギリスやアメリカ等において優秀な物理霊媒による心霊実験に立ち会う機会にも恵まれた。

翌年以降、日本には相次いで優秀な物理霊媒が出現した(注36)。また受け皿組織の拡充も図られた。昭和3年から昭和4年における出来事を霊的観点から見れば、浅野の昭和3年の西洋における一連の体験は、日本において物理霊媒を前面に押し出しながら霊的真理を普及させていくための準備作業の一環、いわゆる霊的な環境整備の一環であったことが理解できる。

昭和4年以降、浅野たちによる活発な霊的真理の普及活動によって、日本における霊的潮流は格段にその流量を増して、日本のスピリチュアリズムは「黎明期」から「発展期」へと着実にコマを進めることができた。このことからもこの時期、日本における霊的潮流は最初の大きなターニング・ポイントを迎えたことが分かる(注37)。

 

☆「和製スピリチュアリズム」誕生の要因

浅野はISF大会で西洋のスピリチュアリストと交流を持つことができたが、この交流体験は浅野の内面にある「素朴なナショナリズム」を強めることになった。この時期の浅野のナショナリズムからは、後年彼が主張した「国家主義」や「皇国史観」と結びついた極端な国粋主義的傾向や偏狭な民族主義的傾向は感じられない(注38)。ISF大会参加によって浅野はナショナリズム(=国粋主義)を大いに刺激されて日本に戻ってきたが、このナショナリズムの高揚感がその後の「独特な日本的新スピリチュアリズム」、すなわち「和製スピリチュアリズム」を誕生させる要因の一つになった。

 

☆「純粋なスピリチュアリズム」の流入時期

日本においては、明治末期から大正期にかけて本格的にスピリチュアリズムが流入してきた。浅野は京都の綾部での謹慎期間および「刑事被告人」時代に、モーゼスの『霊訓』やステッドの『ジュリアの音信』、オーエンの『ベールの彼方の生活』、アラン・カルデックの『霊媒の書』(→『霊の書』は不明)、ハンネン・スワッハーの著書などを、ロンドンで『ライト』誌を発行している会社を通して取り寄せて勉強していた(→浅野は昭和3年にISF大会参加の機会を利用して『ライト』誌の主筆デビット・ガウを表敬訪問している)。昭和3年に刊行された『心霊講座』には、それらの著書が引用という形をとって随所で紹介されている。

浅野は「質の高い高等なスピリチュアリズム(Higher Spiritualism)」の代表的な書籍であるモーゼスの『霊訓』を翻訳しており、またマイヤースの『永遠の大道』(1932年刊)を1934年から1935年にかけて、『個人的存在の彼方』(1935年刊)も1936年に翻訳している。これらの書籍の“教え”の核心には「スピリチュアリズムの本質(神→人類)」がある。浅野はこの翻訳を雑誌『心霊と人生』掲載している。筆者はモーゼスの『霊訓』の翻訳状況や『心霊講座』の引用状況から判断して、少なくとも日本には1920年代に「純粋なスピリチュアリズム」は流入していたと考えている。

日本に流入した「純粋なスピリチュアリズム」は、なぜその後、スピリチュアリズムの世界から消えてしまったか。筆者は次の二通りの説を考えて見た。

一つは浅野の「スピリチュアリズムの本質に対する理解が不十分であった」と言う考え方。もう一つは大本事件によって国家権力に楯突くことの愚かさを、身を持って体験した浅野は、スピリチュアリズムを後世に繋げていくために、あえて「当時の支配思想の中に組み込んだ」とする筆者の主張である。

後者は当時の「近代天皇制イデオロギー」という「体制内思想」の中にスピリチュアリズムを組み込み(→伝統的な祖霊観や霊魂観と結びつけた“和製スピリチュアリズム”として)、そこに「スピリチュアリズムの本質」を溶け込ませて、猛威を振るった「国体論」の嵐をかいくぐったという考え方である。これら二つの説を「浅野和三郎の思想」の中で検証した。

 

ウ)第2回目のターニング・ポイント:昭和57年(1982年)

☆時節の到来

日本では浅野和三郎によって、日本の「伝統的な祖霊観・霊魂観」と「新スピリチュアリズム」を融合させた「和製スピリチュアリズム」が打ち立てられた。「普遍的なスピリチュアリズム思想(→純粋なスピリチュアリズム、質の高い高等なスピリチュアリズムHigher Spiritualism)」は、『心霊講座』(昭和3年刊)の中に引用という形で一部紹介されているが、時代が厳しくなっていく中でそのままの形で普及させることは難しくなった。そのため昭和の前期、次第に「近代天皇制イデオロギー」が全盛となっていく中で、「国体」論とは相いれない「スピリチュアリズムの本質(=普遍的なスピリチュアリズム思想)」は、日本の「伝統的な祖霊観・霊魂観」と習合する形で溶け込んで(→和製スピリチュアリズムとして)、日本の霊的レベルの底上げを図りつつ“時節の到来”を待っていた。

時代が移り変わって昭和の末期、昭和57年(1982年)に「精神世界ブーム」という“時代の追い風”に乗る形で、「純粋なスピリチュアリズム」は表舞台に“浮上”してきた。この背景には運動の主体たるスピリチュアリストの世代交代と、国民の意識の変化があった。これ以降「質の高い高等なスピリチュアリズム(Higher Spiritualism)」の教えを説いた霊界通信は、書籍となって相次いで刊行され書店に並んだ。

この“再浮上のきっかけ”を作ったのは、公益財団法人・日本心霊科学協会の機関誌『心霊研究』に昭和57年(1982年)6月号から昭和58年(1983年)10月号まで連載された、近藤千雄訳による「シルバーバーチは語る」であった。この連載は非常に好評であり、当時の「精神世界ブーム」という“時代の追い風”に背中を押される形で一気にブーム(第二次シルバーバーチブーム:注39)となった。

昭和の末期、「純粋なスピリチュアリズム」は、「質の高い高等なスピリチュアリズム(Higher
Spiritualism
)」関連書籍の相次ぐ刊行という形をとって表舞台に姿を現した。このようにして日本でも原書を取り寄せたりせずとも、容易く「普遍的なスピリチュアリズム思想」を学ぶことのできる環境が整ってきた。

この頃の日本は、社会全体に拝金主義の風潮が蔓延してバブル景気に浮かれていた時期であった(→バブル景気とは、198612月~19912月までの期間における社会の経済状況のこと)。日本ではこの時期、“拝金主義と霊的環境整備(=霊的知識普及のためのインフラ整備)”という二つの相反する動きが同時に起きていた。バブル景気のさなか昭和天皇の崩御により「昭和の時代」が終わって「平成の時代」に入った。日本では1990年代の後半以降、インターネットの急速な普及があり、2000年代に入ると「スピリチュアリズム・ブーム」が出現した。そしてその流れの中から「浅野和三郎が再浮上」してきた。

 

☆発展期の「第一期」と「第二期」

日本のスピリチュアリズム史を俯瞰してみれば、昭和57年(1982年)以降、明らかに変化が表れていることが分かる。筆者はこの時期を境にして、日本のスピリチュアリズムは「発展期の第二期」に突入したと考えている。

「発展期の第一期」とは、昭和4年(1929年)から昭和56年(1981年)までの期間であり、この期間の特徴は「普遍的なスピリチュアリズム思想(=スピリチュアリズムの本質)」は日本人の思想に馴染み易い形に姿を変えて、つまり「和製スピリチュアリズム」の中に溶け込んで、日本全体の霊性レベルの向上に努めることを目的とした時期であったと言える。

そして「時期の到来」によって「発展期の第二期」が昭和57年(1982年)以降始まった。この「第二期」の特徴は「普遍的なスピリチュアリズム思想」が前面に出てきて普及していく時代であった。

1980年代における霊界側の意図を筆者なりに推察してみれば、霊界には日本に「普遍的なスピリチュアリズム思想」を着実に定着させるという方針があり、この霊界の方針に沿って良質なスピリチュアリズムの文献を、この時期に立て続けに刊行させて、日本の“霊的環境の整備”を行わせた、ということが事実を整理してみれば窺える。これは“次なる一手”へと、日本のスピリチュアリズムのレベルを高めるための準備でもあった。

この「純粋なスピリチュアリズム」が再浮上するきっかけを作った1982年という年は、“霊的潮流のターニング・ポイント”となった二つ目の節目の年であったことが分かる。このように日本には“霊的潮流のターニング・ポイント”となった年が、昭和4年(1929年)と昭和57年(1982年)の二つ存在している。

 

エ)「ローカル・スピリチュアリズム」の存在意義

☆適用における多様さ

地球上には多様な気候風土、国や民族の歴史、国民性などによって、さまざまな“宗教や信仰形態”を持つ人たちが共存して生活している。そこには極めて多様性に富んだ世界が広がっている。顕幽を貫く霊的法則そのものは不変であるが、その法則の適用に際しては個々人の置かれた実情や霊的進化の程度を考慮しなければならず、そこには“適用における多様性”が常に存在する。スピリチュアリズムは究極のところ「生き方の指針(実践哲学、信仰)」である以上、各国の実情や国民性の違いなどから変質・変容していくことは必然であろう。

高級霊のシルバーバーチは次のように述べて、“適用における多様性”の存在を肯定している。「さまざまな民族の必要性に応じて、さまざまな手段が講じられつつあります。忘れてならないのは、現在の地上はますます複雑さを増し、相互関係がますます緊密となり、それだけ多くの通信回路を開かねばならなくなっているということです。各民族の異なった気質、習慣、思想、生活手段や様式を考慮に入れなくてはなりません。通信の内容もその国民の生活環境や特質、民族的習性にあわせなくてはなりません。それをその国民の言語で表現せねばならず、その他もろもろの制約があります。が、啓示の由って来る究極の淵源はみな同じです」(注40)と。

しかし各国の宗教や習俗と習合して広がった「ローカル・スピリチュアリズム」には、当然に霊的法則に反したさまざまな“夾雑物”が混在している。高級霊のシルバーバーチは「宗教の名のもとに行われている欺瞞と誤謬」(注40)という表現で、この“夾雑物”の存在を指摘している。

このように各地における気候風土、国や民族の歴史、国民性などの違いから変質・変容していくスピリチュアリズムの現状に対して、「純粋なスピリチュアリズム」という“光”を当てることによって、“夾雑物”の存在を浮き彫りにすることができる。そしてそれらの“夾雑物”を“濾過”することによって「ローカル・スピリチュアリズム」を一段と高いレベルにまで引き上げることができるようになる。その結果、“適用における多様さ”という観点から、「ローカル・スピリチュアリズム」は「純粋なスピリチュアリズム」を各国民や民族、個々人の実状にあった形で表現することができるわけである。ここに本来の意味での「ローカル・スピリチュアリズム」の存在意義がある。

 

☆国家や民族レベル

国家や民族レベルにおける「純粋なスピリチュアリズム」の役割とは、「ローカル・スピリチュアリズム」が誤った方向に変質・変容していかないように監視し修正させる“モニター装置としての機能”である。修正の方法としては、混乱を避ける意味で穏やかな形で行われていくと思われる。なぜなら高級霊のインペレーターも「われらとしては急激なる改革によって混乱を来すことは望まぬ。今あるものに磨きをかけ、新しき解釈を施したく思う」(注40)と述べているから。

 

☆個々人レベル

個々人に対しても「なぜあなたは“純粋なスピリチュアリズム”を学ぶのですか?」という形で、同じことが問われてくる。

まず各自が有するバックグランドの違い、つまり各自はそれぞれ霊性レベルが異なること、各自はそれぞれ具体的な諸事情を有していること、各自はそれぞれに固着思想(=固着観念)を有していること、その強さの程度に違いがあることなど、多様性に富んでいる。このような多様性に富む人たちが、スピリチュアリズムを学んでそれを「生き方の指針(=実践哲学、信仰)」とする際にも、そこには個人レベルにおける“適用における多様性”が存在する。

突き詰めれば「純粋なスピリチュアリズム」を学ぶということは、個人レベルにおいては各自が有する「道義心というモニター装置」に、この“光というものさし(=純粋なスピリチュアリズム)”を組み込んでいく作業にほかならない。この作業過程において、各自が有する“固着し沈潜している固有思想”との間で葛藤が起きることになる。この葛藤(=破邪顕正)具合如何によって、その人の“スピリチュアリズムの純粋さの度合い”が決まり、その度合いに応じて霊性を向上させるための“動機付け”が行われることになる。ここに個々人において「純粋なスピリチュアリズム」が果たすべき意義と役割がある。

 

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