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日本における祖霊観・霊魂観

①.通説的な「柳田国男の祖霊観・霊魂観」

☆死者の赴く世界

民俗学者の柳田国男(1875年→1962年)によれば、「日本人の死後の観念、すなわち霊は永久にこの国土のうちに留まって、そう遠方へは行ってしまわないと言う信仰が、おそらくは世の始めから、少なくとも今日まで、かなり根強くまだ持ち続けている」(『柳田国男全集、1361頁)と。柳田は死者の赴く場所は仏教で言う西方浄土など遠隔の他界ではなく、子孫の住む生活空間に近い山深い山林に集まり、そこで鎮まっている。このような死後の世界が生者の隣接地にあるという観念を持っていたという。

 

柳田は晩年に「みずから究明した固有信仰観」に立って「どこかささやかな丘の上からでも、(子孫を)見守っていたい」として、生前に「柳田が好んで散歩したコースであり、丘の頂からは柳田の住む成城をはじめ東京の市街を一望することができ、自宅からも至近距離にあった」生田の丘陵に自身の墓を選定していたという。柳田はその地に埋葬された(柳田国男研究会編『柳田国男伝』三一書房1988年刊、1130頁、1131頁参照)。

 

☆死霊から祖霊へ

通説的見解では、仏教理論が変容して「死者の汚れた魂を鎮めて浄める」との立場から、49日(忌中)の忌明け以後、一回忌、三回忌、七回忌、十三回忌、三十三回忌(弔い上げ)まで、「死者供養(先祖供養)」を行うとされている。そして死者の魂(霊)は「弔い上げ」によって、初めて汚れを払い去って清まり、個性を失って先祖の霊に融合して祖霊となるとされている。供養の対象となる死霊が祖霊となり、祖霊が神格化して祖神や氏神として祭られることになるわけである。これを柳田は「人がなくなって通例は三十三年、稀には四十九年五十年の忌辰に、とぶらい上げまたは問いきりと称して最終の法事を営む。その日をもって人は先祖になるというのである」(『柳田国男全集、13131頁)と述べている。

 

通説的な柳田説からは、日本人の伝統的死生観には、血縁集団としての「個性を失った先祖の霊魂の集合体(一種の類魂的な状態)である祖霊」という考え方や、「霊魂の集合体からの生まれ変わり」という考え方がある。この考え方の背景には、農地や家名が代々継承されていくという「一族中心の血縁者の世界観」があること。さらに「鎮守の森の氏神(神格化した祖霊など)」を中心に形成された「氏神氏子」的な共同体の存在が前提にあること。このような背景が伝統的な死生観には存在している。

 

☆田の神、山の神

一定期間(弔いあげ)を経て「死霊から祖霊」へ向上した死者の霊は村の氏神と一体となり、村の近くに留まって人々の生活を見守り、「先祖祭や収穫祭などの折々に家々の子孫に迎え祀られ、彼らに庇護を与える」。これは祖霊が春になると山から下りてきて「田の神」となって稲作を助けて、秋になって収穫が終わると山に帰って「山の神」となる、このような祖霊に対して子孫は春と秋に氏神を祭る村祭りを行って感謝をささげる、このような農耕儀礼となって代々伝わってきた。さらに「(氏神は)本来氏の先祖を祀るものであった」が、時代の流れとともに地域の守り神に変質して、産土神や鎮守神へと性格を変えていった。

 

☆「祖」の読み方

漢字の読み方には「祖」を「おや」と呼んだり、「祖神」を「おやがみ」と読ませたりしている。「オヤは“遠つおや”などという古来の用い方もあり、今でも広い範囲に目上の人を親と呼んでいて、生みの親だけには限らぬのである」(『柳田国男全集、1367頁)と。「祖神」には「おやがみ」と「そじん」の二通りの読み方がある。

 

②.神道の考え方

☆「親→祖先→祖神」という考え方

日本の伝統的思想では柳田説のように、供養の対象となる「死霊」が「祖霊」となり、「祖霊」が神格化して「祖神や氏神」として祭られるとする。

神道の考え方では、「神」と「祖先」との間には明確な境界がなく、渾然一体のものとして扱われて、遠い祖先は、祖先であると同時に「神」としても崇められている。ここから基本的な図式として「親」の延長線上に「祖先」がいて、その先に「祖神」が控えている「親→祖先→祖神」という考え方となっている。

 

☆平田篤胤の説

国学者の平田篤胤は死後の霊は「幽冥界」に赴いて「神」となって、永遠にこの世の一角(=幽冥界)にとどまって子孫を見守り続ける(→この考えは肉体とは別に死後も存続する霊魂の存在を認めていたことになる)。幽冥界からはこの世がよく見えるので、この世で生活している「君・親、また子孫を助け守る」。このような柳田国男の『先祖の話』をほうふつさせる記述が『霊の真柱(たまのみはしら)』の中にある。

 

神道では祖先神や英雄神などの人格神が、神話の神々として登場してくる。篤胤も「於夜乃御祖能神(おやのみおやのかみ)とは、我が此御国は神の本国にて、我ら各々ともに其の御末なる故に、我を生成(うみなし)たる両親より祖父母・曾祖父母と、夫より逆上り(それよりさかのぼり)て昔の先祖たちを稽ふれば(かんがえれば)、其大本の先祖は必ず神等に止まる故に、かく詠たるなり」として、日本では「親→祖先→祖神」の関係が存在していたということを『玉襷(たまたすき)』の中で述べている(日本思想体系50『平田篤胤・伴信友・大国隆正』岩波書店1973年刊、189頁)。

 

☆家族国家観

この祖先神の代表格として、天皇の祖神(皇祖)の「天照大神(あまてらすおおみかみ)」があげられる。昭和12年に文部省が発行した『国体の本義』では、「天照大神の御子孫が代々この御位につかせ給うことは、永久にかわることのない大義である」(文部省編『国体の本義』昭和1810刷発行、18頁)と述べて、万世一系という縦軸の権威づけに「天照大神」を利用している。

 

この「イデオロギー的祖先観」によれば、「天皇と国民は家長と家族との関係におかれているから、天皇の祖神たるアマテラスはまた、当然ながら天皇の家族である国民にとっても祖先神となる」「伊勢神宮を日本国民全体の祖神鎮座地に設定した」(桜井徳太郎著『霊魂観の系譜―歴史民俗学の視点』160頁~)。これが戦前の国家神道の下で“支配的観念(→事実上の強制が存在した)”として存在した「家族国家観(=天皇を家長として国民をその家族構成員とする観念)」である。

 

☆敬神崇祖一体感

神道では「神」と「祖先」は一体として敬われていた。この背景には神を尊び敬う「敬神」と、自らの祖先を崇め貴ぶ「崇祖」を合わせた「敬神崇祖」という神道の基本理念が存在している。「祖霊崇祖」という観念は、江戸時代の菩提寺と檀家によって形成された「先祖と墓、骨」を祀る仏教と、鎮守の森の氏神の祭りを通じて「共同体の安寧秩序」を目指す神道が、ともに先祖崇拝の観念を有していたことから広く国民の中に浸透したという。ここに敬神が加わって、宗教意識として江戸時代末期以降「敬神崇祖一体観」として広く普及した。東京帝大の憲法学教授であった穂積八束は「民法出でて忠孝亡ぶ」(1891年)という論稿を著して、この中で「日本は祖先教の国なり、家制の郷なり」として、キリスト教的な個人主義をベースとした旧民法法典(→フランスの法学者ボアソナードの影響が強い)の実施延期を強く主張した。その後、穂積自身が委員となって、「家」制度を家族法の中心とした民法が作られて、公布・施行(1898年)された。

このように日本の伝統的な「神観」は、一神教であるキリスト教の「神観」やスピリチュアリズムの「神観」とは全く異なっている。

 

③.通説的見解に対する批判

宗教学者の佐藤弘夫氏は「柳田の祖霊観は、日本列島に一貫して存在する『日本人』のそれを示したものではなく、江戸時代以降に新たに形成される霊魂観を前提として形成されたもの」(『死者のゆくえ』182頁)と批評している。通説になっている柳田説は、近世以降に作られた「祖霊観・霊魂観」であったと述べている。

佐藤氏によれば、現在見られる死に関する観念の形成は「(永続するイエという観念が庶民層まで浸透して)イエごとの墓地の形成」と「(個人の遺骨や霊魂と一体一で対応する)墓標としての石塔の普及」、さらに「檀家制度の整備」と「菩提寺を通じた葬送儀礼の普及」、これに「位牌をはじめとする儒教的な儀礼と理念が導入」されることによって、「骨と霊魂との結びつき=死者が墓に留まると言う死をめぐる観念(→“草葉の陰で眠る”という考え方)」に転換して、生者と死者がこの世を明確に分離された形で共有すると言う観念となって、江戸時代中期以降に完成をみたと述べている。

 

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