海軍機関学校
■海軍機関学校(Naval Engineering College)とは機関科の海軍将校を養成するエンジニア養成学校であり、海軍大臣に直属した海軍三校(海軍兵学校、海軍機関学校、海軍経理学校)の一つである。一般には「機関学校」や「海機」と略称されることが多い。
■明治7年(1874年)5月に「神奈川県三浦郡横須賀村4番地向山」に「海軍兵学寮横須賀分校」が設置された。明治11年(1878年)6月に「海軍兵学校附属機関学校」と改称。明治14年(1887年)7月28日に海軍兵学校から独立して「海軍機関学校」となった。しかし明治20年(1887年)7月15日をもって海軍機関学校は廃止された。
■その後、明治26年(1893年)11月29日に勅令(217号)によって再度設置(横須賀汐留)された(→明治27年10月卒業生が機関学校第一期生となった)。明治34年9月に汐留から白浜に移転した。
大正12年(1923年)9月1日の関東大震災まで横須賀の白浜にあったが、震災によって横須賀の白浜校舎が焼失したため、大正12年(1923年)から大正14年(1925年)までは、「生徒科」を江田島の海軍兵学校内に臨時移転させた(→機関学校の「本部」と「練習科」は横須賀白浜に残留)。
■大正13年10月に海軍機関学校の舞鶴移設が認可されたことから、大正14年(1925年)舞鶴仮校舎に移転。大正15年1月に海軍機関学校本部が横須賀白浜から中舞鶴に移設された(→なお付属の「練習科」は昭和3年に海軍工機学校として分離された)。その後昭和17年11月に機関科は兵科に統合され、昭和19年9月に海軍機関学校は海軍兵学校舞鶴分校となった。昭和20年9月30日をもって海軍兵学校舞鶴分校(旧:海軍機関学校)は廃校となった。
■浅野和三郎が勤務した明治33年(1900年)3月から明治34年9月までの校舎は横須賀の汐留にあった。当時の海軍大臣山本権兵衛の海軍大拡張計画に基づく生徒増員により校舎が手狭となったために、明治34年9月からは横須賀の白浜に移転した。
この時期の生徒の修学期間は3年4カ月であった。修学期間は時期によって異なる。ちなみに明治40年~大正期は概ね3年、昭和初期は3年8か月、昭和7年(第44期)~昭和9年(第46期)入校は4年の平時標準が適用、昭和16年末入校(第54期)以降は2年4か月で卒業となっている。機関学校入学年齢は16歳以上20歳以下。
■海軍の将校養成学校には、海軍兵学校(兵科将校)、海軍機関学校(機関科将校)、海軍経理学校(主計科将校)の海軍三校があった。兵科将校に認められて機関科将校に認められていなかったものに、指揮権継承と大将昇進(昇進は中将止まり)があり、航海術を学んでいないため軍艦の艦長にはなれなかった。しかしこれらは昭和19年に撤廃された。
ちなみに機関科の生徒は、明治36年当時の「海軍機関学校生徒教程:第三学年の教科」によれば、数学・応用力学・理化学・外国語・水雷術・機械学・造船学・学図(見取図・製図)・工学となっており航海術は学んでいない(海軍教育本部編『帝国海軍教育史、第三巻』原書房1983年刊、復刻版)。
この海軍兵学校卒と機関学校卒との昇進や待遇格差問題では、兵科出の行き過ぎたエリート意識と相まって問題・弊害があったという。そのため現在の海上自衛隊幹部候補生学校では兵科・機関科などの区別はなく、卒業後に航海科・砲雷科・機関科などに分けられ、指揮権や昇進の区別もない。
◆浅野和三郎研究:目次
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