浅野和三郎の業績:注記
<注1>
■河内町史編纂委員会編『図説、河内の歴史』2003年刊、164頁~参照。鈴木まさ子著「浅野馮虚」(雑誌『学苑』昭和31年8月号)48頁参照。池田昭編『大本史料集成、Ⅲ』25頁の警察資料。
<注2>
■昭和女子大学近代文学研究室著『近代文学研究叢書、41巻』378頁、426頁参照。松本健一著『神の罠』75頁、100頁参照。
源清田小学校創立百周年記念事業推進委員会編『百年の歩み――源清田小学校』(1992年:平成4年6月1日発行)。
<注3>
■柳田国男著「先祖の話」:『柳田国男全集、13』(ちくま文庫1990年刊)所収。野村純一他編『柳田国男事典』(勉誠出版1998年刊)573頁~。桜井徳太郎著『霊魂観の系譜―歴史民俗学の視点』(講談社学術文庫1989年刊)。佐藤弘夫著『死者のゆくえ』(岩田書院2008年刊)参照。
<注4>
■浅野和三郎著『心霊講座(本文復刻版)』(潮文社1999年刊)583頁~584頁参照。
浅野は上記著書の中で「日本の伝統的思想と新霊魂説との不離の関係」(583頁)。さらに「日本の伝統的思想の中心骨髄は『敬神崇祖』の四文字に結晶せしむることができます。これが出発点となりて日本の建国も、君民一体も、義勇奉公も、何もかも出来上がっております」(584頁)と述べている。なお上記の「新霊魂説」とはSpiritualismの訳語のこと。
■田中千代松著『新霊交思想の研究(改訂版)』(共栄書房1981年刊)8頁で「新スピリチュアリズム」を解説している。
――新スピリチュアリズムとは何か。エンサイクロペディア・ブリタニカへの寄稿者(R.H.ソーレス)は言う、「スピリチュアリズムという語は二様の意味で用いられてきている。第一は、諸宗教が通有する非物質的な霊的な世界の実在を主張する形而上学を指し、第二は、死者の霊と交信するを目的とする信仰および実践の体系、またかかる信念を有しかかる実践を行う人々の社会制度を指す」と。この第二のものが19世紀中葉において特に勃興したときに、“新”という形容詞が付せられた。・・・しかし、この筆者の定義づけには補足が必要である。それは、新スピリチュアリストたちは、死者の霊との交信が科学的に可能であるという確信の上に立っている、ということである。それゆえに彼らは言う、「(新)スピリチュアリズムは、顕幽両界における人間の経験に基礎を置く人間存在の科学であり哲学であり宗教である」と――。
■スピリチュアリズム
人間の本質は霊であり、霊の世界からの働きかけは常に存在するとの立場を「スピリチュアリズム(Spiritualism)」と言うが、この考えは古代から存在していた。
これに対して「新スピリチュアリズム(Modern Spiritualism、New Spiritualism)」とは、田中千代松の前述の補足に従えば、上記のスピリチュアリズムの立場を認めた上で、さらに「顕と幽の交信は科学的に証明が可能であるとの確信の上に立つ立場」を指す。このような考え方に立つことによって(→「新スピリチュアリズム」の存在を前提として)、始めて心霊研究(サイキカル・リサーチ)は「スピリチュアリズムから派生」したと言われていることが説明できる。なお「新スピリチュアリズム」は別名「モダン・スピリチュアリズム」または「近代スピリチュアリズム」ともいう。
この「新スピリチュアリズム」の幕開けは1848年3月31日アメリカのニューヨーク州の寒村、ハイズヴィルのラップ現象から始まった。
■モールス信号との関係
心霊研究家の梅原伸太郎は、ジョン・レナード著、近藤千雄訳『スピリチュアリズムの真髄』(国書刊行会1985年刊)所収の「スピリチュアリズムの歴史的変遷」の中で、通信手段として地縛霊が用いたラップについて、次のように述べている。
――叩音現象それ自体は訳の分からぬいわば不気味な現象であったが、これを逆に通信手段として活用するに至った着想はいかにも近代的な合理主義の産物であった。当時実用普及の段階にあったモールス信号にアイディアを借りて、叩音を通信手段とすることを思いついた・・・そうした情動的訴えにルールを設けて、交信の手段とするという考えは、19世紀も半ばになって初めて人の心に生じたことである。あの世とこの世にようやく理性的な交信の約束が締結したのであった――。
梅原は「新スピリチュアリズム」の意義を、「モールス信号」という合理的な手段で理性的な交信ルールを作って顕幽の交流が行われた点に求めたが、これは田中千代松が述べた「新スピリチュアリストたちは、死者の霊との交信が科学的に可能であるという確信の上に立っている」と同じ趣旨である。
■高級霊の見解
高級霊のシルバーバーチは、この「新スピリチュアリズム」を霊界側から次のように説明している。
――「このたびのコミュニケーションは組織的であり、協調的であり、監理・監督が行き届いており、規律があります」(近藤千雄訳『シルバーバーチの霊訓、7巻』潮文社、151頁)と。さらに「(新スピリチュアリズムの運動は)一大計画の一部として行われており、その計画の推進は皆さんの想像も及ばないほどの協調体制でおこなわれております。背後の組織は途方もなく巨大であり、細かいところまで見事な配慮がなされております。すべてに計画性があります」(『シルバーバーチの霊訓、7巻』151頁)――。
シルバーバーチはこのように述べて、突破口となったハイズヴィルの低級霊の背後に霊界側の戦略があることを示唆している。
<注5>
■浅野和三郎著『世界的名霊媒を訪ねて』(心霊科学研究会1970年刊)3頁参照。春川栖仙編『スピリチュアル用語辞典』178頁~179頁参照。田中千代松著『新霊交思想の研究(改訂版)』(共栄書房1981年刊)9頁参照。
<注6>
■スピリチュアリズムの用例
一柳廣孝他共編『霊を読む』(蒼丘書林2007年刊)16頁によれば、「スピリチュアリズム」という言葉は、明治20年(1887年)凌空野人(りょうくうやじん)編『西洋奇術狐狗狸怪談』(イーグル書房小説部、明治20年4月刊)の中で出てくるという。
それによれば――狐狗狸の字は好事者が音響の類似たるより戯れに附会せしこと・・・人身にある電気の作用によりて活動するものにして、原名スピリチュアリズム(Spiritualism)といい、さながら我が国の徃事巫女の口寄せを為す如く、米国において若き男女の間にもてはやされる一種の遊戯――であると。この記載によればスピリチュアリズムとは、いわば日本版「イタコ」とのこと。
■日本の文献に登場した最も初期の事例
日本におけるスピリチュアリズムの流入の痕跡は、明治時代に出版された各種出版物を通して跡付けられる。明治時代に西洋の各種思想が日本語に翻訳されて次々と紹介されたが、その中にイギリス系のスピリチュアリズムが入っていた。
日本近代文学研究者の一柳廣孝(いちやなぎひろたか:横浜国立大教授)によれば、
――日本における心霊学紹介の嚆矢は、おそらく箕作元八の「奇怪不思議の研究」(『東洋学芸雑誌』明治18年3月に掲載)である。しかし心霊学が世に知られ、影響力を持ち始めるには、1910年前後まで待たねばならない。高橋五郎、渋谷保らが心霊学関連の著書を次々に発表し、巷で「千里眼」=透視の実在が騒がれ、各種新聞が「千里眼」の存在を確証する「新科学」として心霊学を紹介しはじめた時期だ(一柳廣孝他共編『霊を読む』蒼丘書林2007年刊、8頁参照)――。
このように箕作元八(みつくりげんぱち)は、日本における「近代スピリチュアリズムやSPRの研究内容を紹介した嚆矢である」という。
■箕作元八著「奇怪不思議の研究」
箕作元八(みつくりげんぱち:1862年→1919年)は東京帝大教授で、当初は動物学を専攻していたが途中からフランス史に転向した経歴を持つ学者であり、日本における西洋史学の先駆者である。箕作は井上円了が主宰した「不思議研究会」の第一回会合(1886年:明治19年 1月24日)の出席者名簿に名前を連ねている(井上円了著『妖怪学講義緒言』20頁参照)。
掲載誌の『東洋学芸雑誌』(→1881年に東洋学芸社から創刊された月刊誌で、1874年創刊の『明六雑誌』と並んで明治初期の代表的な学術雑誌)は、当時最も権威のある学術雑誌であったので、イギリスの心霊研究の動向を紹介した箕作の「奇怪不思議の研究」を読んだ知識人は多かったのではないだろうか。井上の「第一回、不思議研究会」は箕作の記事掲載の翌年(1886年)に開かれているので、参加者の間で英国心霊研究協会(SPR)の動向が話題になったものと思われる。
一柳は箕作元八の「奇怪不思議の研究」や、凌空野人編『西洋奇術狐狗狸怪談』の中で使われた「スピリチュアリズム」と云う用語が、日本の文献に「スピリチュアリズム」という言葉が登場した最も初期の事例であると述べている。
■「spirituality」とは「霊性」のこと
鎌田東二(京都大学教授)によれば、スウェーデンボルグ著の『神智と神愛』は鈴木大拙訳で、大正3年(1914年)に丙午出版社から刊行されたが、この中で「spirituality(スピリチュアリティ)」を「霊性」と訳しており、これが「spirituality(スピリチュアリティ)=霊性」と訳した最初であると記している(鎌田東二著『宗教と霊性』角川選書1995年刊、362頁以下参照)。なお鎌田によれば、「霊性」という日本語を最初に用いた人は平田篤胤であり、『密教修事部類稿』(文政4年:1821年)の巻末にある「久延彦祭式」の中で「霊性」という言葉が使われているという。
<注7>
■霊学とは
一般に「霊学」とは、宗教の神秘主義的な教え(→例えば神道の神秘主義的な思想など)や、死後の世界や霊的な存在について「行法を通して研究」しようとする学術を指す言葉として用いられている。一般に「霊学」では、「教学」と「行法(鎮魂帰神など)」がワンセットとなっているところに特徴がある。
上記のような特徴を持った「霊学」は、事典では次のような使われ方をしている。縮刷版『新宗教事典』(弘文堂1994年刊)では「本田霊学」「大本の皇道霊学」「神道霊学」「静岡の稲荷講社で霊学や鎮魂帰神の霊術や審神者の技法を学ぶ」「霊学的、神秘主義的な系統」「神秘主義的霊学」として。また縮刷版『日本宗教事典』(弘文堂1994年刊)では「信仰が儀式化し、形式化してくると、素朴な形での幽斎へのあこがれがよみがえってくる。これが、神人感合の法としての鎮魂帰神であり、霊学ともよばれるものである」。このような形で「霊学」という言葉が使われている。
■神道霊学
神道研究といえば従来「祭り」「儀式」「組織」「歴史」などが取り上げられてきたが、「神道の行法」に関しては軽視されてきたようである。「神道霊学」という場合には神道の行法に重点を置いた学術をさすが、イメージ的に戦前の狂信的な神道観とダブり、戦後は長らく敬遠されてきた分野であった。しかし1960年代に大本に関する研究が盛んになり、1970年代に入ると鈴木重道著『本田親徳全集』(山雅房1976年刊)、鈴木重道著『本田親徳研究』(山雅房1977年刊)、佐藤卿彦著『顕神本田霊学法典』(山雅房1978年刊)などが刊行されて、本田親徳に関する資料が充実してきた。このようにして次第にタブーが薄れて、研究テーマとして「神道霊学」が登場してきた。
■鎌田東二の見解
鎌田は霊学に関して次のように述べている。
――「霊学」という言葉を用いて、霊的存在を探求する学的立場を初めて鮮明に打ち出したのは、すでにみたとおり、幕末から明治期にかけて活躍した国学者、本田親徳(1822年→1889年)である。大本教の出口王仁三郎(1871年→1948年)、神道天行居の友清歓真(1888年→1952年)、三五教の中野與之助(1887年→1974年)らの近年の神道系新宗教の教祖はみな本田親徳の高弟長澤雄楯(1858年→1940年)より、本田霊学を学び、それをみずからの教学の基礎に据えている。それゆえ、日本の「霊学」思想史上において、本田親徳はその発端に位置すべき人物であり、さらにその源流として、平田篤胤(1776年→1843年)、吉田兼俱(1435年→1511年)、白川神道(伯家神道)などをあげることができる(鎌田東二著『神界のフィールドワーク』創林社1985年刊、251頁以下参照)――。
<注8>
■大本七十年史編纂会『大本七十年史、下』(宗教法人大本1967年刊)。
前著「あとがき」によれば、1960年(昭和35年)4月に「大本七十年史編纂会」が発足した。編纂の基本方針として「歴史学・宗教学者の参加を求めて、厳しく大本の真実を追求し、一教団のための歴史にとどめず、国民の史書としての評価にこたえうるよう配慮をすること」とされた。これによって『大本七十年史』編纂事業に、多数の学者を編集参与として参加させた。昭和42年(1967年)までに「大本七十年史編纂会」から、限定出版として資料性の高い『大本七十年史、上巻・下巻』(各巻5670部)や『大本事件史』(1000部)が刊行された。
■編集参与には次の学者の名が記されている(なお肩書は当時のまま)。
上田正昭(京都大学助教授、歴史学者)
佐木秋夫(日本宗教学評議員、宗教学者)
松島栄一(東京大学史料編纂所員、歴史学者)
村上重良(東京大学東洋文化研究所員、宗教学者)
小口偉一(東京大学教授、宗教学者)
北山茂夫(立命館大学教授、歴史学者)
岸本英太郎(京都大学教授、経済学者)
柴田実(京都大学教授、歴史学者)
林屋辰三郎(立命館大学教授、歴史学者)
<注9>
■ベースとなった論稿
この『近代文学研究叢書』の「浅野馮虚」には、もとになった論稿があった。昭和女子大学光葉会の会員である鈴木まさ子は、昭和29年9月12日に源清田村を訪問して多慶子夫人や実兄の正恭(昭和29年10月20日逝去)と面談し、さらに戸沢正保(昭和30年3月12日逝去)や脇長男等と面談して、それらをまとめて昭和女子大学の光葉会から発刊された雑誌『学苑』(昭和31年8月号)に「浅野馮虚」として発表した。発表の舞台となった『学苑』は大学の学内誌であったため、広く一般の読者の目に触れることはなかった。
鈴木の論稿では「生涯――幼少年時代、青壮年時代、晩年」「業績――美文創作と彼、翻訳及び英文学史」「遺族・墓地」の各項目が立てられている。論述の仕方は『近代文学研究叢書、41巻』とほぼ同じである。
鈴木の論稿には付記として「本稿を草するにあたって本学の坂本由五郎教授の指導、並びに金子健二、辻村鑑、山宮允、上井磯吉教授をはじめ戸沢正保、脇長男、山田正一七(都立大図書館)諸氏の教示をいただき、資料収集には上野図書館、国会図書館、都立大学図書館、本学図書館、本学近代文学研究室の好意に浴し、布施明子氏の増訂により発表に至ったことを深く感謝いたします」(48頁)との記載がある。その後20年余り後に『近代文学研究叢書、41巻』が発刊された。この叢書の「浅野馮虚」の末尾には、小さく「執筆、小澤明子」と記載されている。ここでは小澤明子が「浅野馮虚」の論稿をまとめたことがわかる。その際に鈴木まさ子の論稿「浅野馮虚」を基にしたのではないだろうか。
■浅野和三郎一家の集合写真
雑誌『学苑』の表紙の裏面の「文学遺跡巡礼」に、浅野和三郎一家の集合写真(浅野和三郎、多慶子、長男の勝良、長女の美智子、次男の新樹、三男の三郎の6人)と、加入訂正が施された浅野の自筆原稿が掲載されている。その集合写真の横には「沙翁訳を企ててその志を十分に遂げたとはいえないが、わが沙翁翻訳史上に於いて原作に忠実な翻訳の第一筆を染めた功績は永く称揚されなければならない」とコメントが付いている。
<注10>
■昭和女子大学近代文学研究室著『近代文学研究叢書、41巻』(1975年刊)511頁参照。
この「巻末付記」に「半生を捧げた心霊家としての業績については紙面の関係もあり省いた」と記されている。そして「生涯、著作年表によって、その業績の一端が評価されることを期待してまとめた」とある。
■浅野和三郎の全業績を網羅した研究は、旧稿の改訂作業を始めた2014年時点においても、筆者が理解している範囲では見当たらない。
<注11>
■この『近代文学研究叢書』の刊行後、昭和52年(1977年)10月に茨城県の常陽新聞社が「郷土茨城に関係ある文学作品の初めての系統的集大成。幻の作品をも多数発掘収録し、日本文学の近代化に郷土の文学が如何に寄与したか、その姿を浮き彫りにする」との趣旨に基づいて、『茨城近代文学選集』全5巻を刊行した。このシリーズの1巻「明治の文学」の中に長塚節(ながつかせつ:1879年→1915年、歌人)や戸澤姑射(戸澤正保)と並んで浅野馮虚の「若木の桃」「血くもり」「花見ぬ人」の三篇が取り上げられた。著書の中で戸澤姑射と浅野和三郎は茨城県出身者であるが、県外で活躍した人として紹介されている。この著書の浅野の解説部分を読むと『近代文学研究叢書』をベースにしていることが分かる。
また、平成元年(1989年)に刊行された『神の罠』(松本健一著)も『近代文学研究叢書』をベースにしている。
<注12>
■浅野和三郎著「出盧」:『大本霊験秘録(復刻版)』(八幡書店1991年刊)所収、52頁~60頁(38頁~46頁)参照。
<注13>
■浅野和三郎著『心霊読本』(心霊科学研究会1937年刊)68頁参照。
<注14>
■大本70年史編纂会『大本事件史』(宗教法人大本1967年刊)。出口栄二著『大本教事件―奪われた信教の自由』(三一書房1970年刊)参照。
<注15>
■進藤咲子著「明治の美文」:『研究資料日本文法』第10巻、修辞法編(明治書院1985年刊)所収、98頁~114頁参照。
美文とは明治の中期ごろに流行した擬古文で、内容よりも形式美を重んじた優雅な文体(雅文)で書かれたものをいう。森鴎外や落合直文がその先駆けとなり、大町桂月(おおまちけいげつ:1869年→1925年)、武島羽衣(たけしまはごろも:1872年→1967年)、塩井雨江(しおいうこう:1869年→1913年)の共著『美文韻文:花紅葉』(博文館、明治29年1月)には、散文体美文18篇、韻文の新体詩16篇が収録されている。この『美文韻文:花紅葉』が出た頃から、美文が明治の文壇で流行した。しかし明治30年代に全盛を極めた美文は、明治の末頃には次第に勢いを失った。なぜなら美文は思想や感情を盛り込む文章表現の技法としては不向きであったため、明治末以降は現実をありのままに写しとろうとする「自然主義文学」に徐々に取って代わられたから。
■美文の代表作「花紅葉」は『明治文学全集、第41巻』(筑摩書房1971年刊)3頁以下に収められている。
美文の代表作『花紅葉』は、明治の文芸書のなかで最も売れたものの一冊といわれている。また文芸の世界に大きな影響を及ぼして、刊行後すべての文芸雑誌には美文欄が置かれたという。代表的な美文の書籍には前出の『花紅葉』以外に、明治32年(1899年)に出版された『白露集』がある。この『白露集』に浅野馮虚(浅野和三郎の筆名)の「血くもり」「谷川の水」「吹雪」の3篇が収められている。
■昭和女子大学近代文学研究室著『近代文学研究叢書、第41巻』(1975年刊)参照。
大町桂月は浅野の「谷川の水」(明治32年)について「浅野馮虚の谷川の水は、近時の文壇、愛誦するに足るべき絶好の詩篇也」(前著409頁)と高く評価した。
大町は百号となった『帝国文学』を回顧して、「醉言醒語」(『明治文学全集、41巻』筑摩書房1971年刊、所収)の中で次のように述べている。「姑射(戸澤正保)、馮虚の二氏、その割に進歩せざるは惜しむべき也」(196頁、下段)と。
『帝国文学』百号記念号(第9巻第4号)の発行は明治36年4月10日であるので、この頃の浅野は美文という創作から離れて翻訳に比重を移していた。この理由を著書『出盧(しゅつろ)』(復刻版『大本霊験秘録』八幡書店1991年刊所収)の中で次のように述べている。「自分が両三年後に全く創作を断念し、一時翻訳に遁れたのは、一つは文学者の生活というものに愛想をつかしたためでもあるが、一つは此の苦痛(→いつまでも記憶に「吹雪」の一字一句が残っているため)から脱出せんがためでもあった」(前著14頁)と。
厳しい家庭環境で幼少期を育った浅野は、当時の放蕩三昧の作家生活にはついていけなかったのかもしれない。大町桂月は才能豊かな浅野が創作から離れていく様子を見て「進歩せざるは惜しむべき也」と述べた。
<注16>
■浅野和三郎の処女作「吹雪」の発表舞台となったのは、帝国文学会の機関誌『帝国文学』であった。帝国文学会とは、東京帝大文科大学の教官、卒業生、在校生によって結成された会のことを言う。機関誌『帝国文学』は明治28年(1895年)1月10日に創刊されて、大正9年(1920年)1月1日発行の終刊号(第26巻第1号)まで継続発行された。
<注17>
■「花紅葉:美文韻文」:『明治文学全集、41巻』(筑摩書房、昭和46年刊)所収。
大町桂月は「花紅葉:美文韻文」の序文で「美文を花になずらふるも可なり、韻文を紅葉とみはやすも亦妨げず、花や、紅葉や、これ天の文、美文や、韻文やひとしくこれ詩なり。而して、その字句に拘束あるものを韻文といひ、拘束なきものを美文といふ。議論叙述の文、絢爛を極むるも、美文と為さざるは、その本質、詩にあらざればなり。・・・明治29年冬秋剣草盧に於て、桂濱月下漁郎しるす」。
この序文から、美文の本質は詩であったことが分かる。
<注18>
■雑誌『文芸倶楽部』(第4巻第6編)の「時文」欄で、大町桂月は浅野馮虚の「吹雪」をこのように批評した。なお昭和女子大学近代文学研究室著『近代文学研究叢書、第41巻』(1975年刊)406頁参照。
■馮虚著「吹雪」:佐藤儀助編『白露集』新聲社、明治32年9月刊、178頁~214頁所収。
浅野の文壇デビュー作品「吹雪」は華麗で巧みな擬古文で書かれている。
「吹雪」の書き出しは「立てる華表(=神社の鳥居)はいくとせの雨にうたれ風にさらされけん。半ばくちてかたへに傾き、かけわたせる注連も亦、いつの祭りのなごりならん」で始まり、「華表のうちは老松すきまなく茂りあいて、枝に通ふ風のねは太古の響きを伝え、露にうるはう細路は千年の苔にうつもれつつ、あたりのけしき何となくものさびたるに、ひときは暗き奥の方にほの見ゆる鎮守のみやしろの、之も又古木と共に老い、落葉とひとしく朽ち果てて」。この冒頭部分の文章は練りに練って、装飾の限りを尽くした美文調の特徴が良く出ている。
<注19>
■浅野和三郎著『世界的名霊媒を訪ねて』(心霊科学研究会1970年刊)14頁参照。
<注20>
■研究社出版1968年刊『日本の英学100年』明治篇106頁、178頁。大正篇75頁参照。
飯島小平は「明治とシェイクスピア」の中で次のように述べている(明治篇178頁)。
――明治のシェイクスピア翻訳中、戸澤姑射、浅野馮虚訳のシェイクスピア全集(未完)について一言しておく。故射・馮虚は共に東京帝国大学在学中ラフカディオ・ハーンの講義を聴講、ハーンがシェイクスピアを訳すときの心得として「先生諸生に勧めて曰く、汝が日常の言葉を以て質朴に沙翁を翻訳せよ」と教示したとその序文中に記してある。逍遥の最後の口語訳も、ハーンが今日シェイクスピアを訳するなら、口語体で訳するが当然だと、語ったのを伝え聞いて逍遥も口語訳に移ったことを思いあわせるとき、ここにもハーンのすぐれた文才がみられる。浅野・戸澤は明治38年「ハムレット」訳に始まり「ロメオとジュリエット」「ベニスの商人」「オセロ」「リア王」「から騒ぎ」「ジュリアス・シーザー」「御意のまま」「行違い物語」「十二夜」と十冊を出して終わっているが、その訳は口語訳であり、当時としてはかなりくだけた清新な訳し方をしている。中でも「ハムレット」「御意のまま」は良訳である。当時逍遥の「ハムレット」は未だ第一幕四場までしか訳されていなかった――。
この文面から小泉八雲のシェイクスピアの翻訳に与えた影響の大きさが見えてくる。
■戸沢姑射著「沙翁全集の思い出咄」:『英語青年』(1950年7月号・8月号)。及び松本健一著『神の罠―浅野和三郎、近代知性の悲劇―』(新潮社1989年刊)96頁参照。
坪内逍遥のシェイクスピアの訳は「歌舞伎調」的な訳でクラシックな点に特徴があり、戸澤・浅野訳は坪内逍遥訳よりも訳者の個性を主張しない点、現在の翻訳に近い感覚の文章といえるという。これはラフカディオ・ハーンから韻律にこだわらない口語的な翻訳を勧められたため「言文一致」風の文章で戯曲を訳したからであるとされる。
シェイクスピア全集(戸澤が7巻、浅野が3巻翻訳)について、松本健一は「日本で初めての全集であったこと」「二人とも美文創作の経験があって文章が練れていること」「英文の実力があったこと」「訳文が言文一致体という、当時の戯曲では画期的なものであったこと」などの理由により売れ行きが好調であったと述べている。
なお浅野が訳したのは第3巻『ベニスの商人』(明治39年2月)、第8巻『御意のまゝ』(明治41年5月)、第10巻『十二夜』(明治42年11月)である。
<注21>
■昭和女子大学近代文学研究室著『近代文学研究叢書、第41巻』(1975年刊)383頁。
浅野和三郎著『出盧』:『大本霊験秘録(復刻版)』(八幡書店1991年刊)35頁(21頁)以下参照。
<注22>
■大本七十年史編纂会『大本七十年史、上』(宗教法人大本1964年刊)339頁以下によれば、「直霊軍の軍規が公表されて、いよいよ本格的宣教体制をととのえた大本は、翌1916年(大正5年)になると、皇道大本と改称した」。また「(大正5年)4月22日には、これまでの『大本教』という名称を『皇道大本』と改称した」との記載がある。
<注23>
■大本七十年史編纂会『大本七十年史、上』(宗教法人大本1964年刊)683頁以下参照。
浅野和三郎が大正10年(1921年)の年頭に当たって述べた『大正日日新聞』記事が当時の雰囲気がよく伝えている。新聞記事の冒頭で「しかし乍らモウ駄目だ。本家本元の欧羅巴(ヨーロッパ)があの為体だ。もがけばもがく程自己の立場を困難ならしめ、天下に対して顔向けが出来なくなる許りだ。大正9年まではお茶を濁せたかも知れぬが、大正10年となりてはモウ出来ない。何となれば大正10年は、物質万能主義の総決算期に属し、同時に新たなる霊的文明の建設さるべき大転換期に属するからである。これは天地の宿命であり、超人的大威力で遂行されるものである」と述べて、立替えを信じ力説していた。
■宮澤虎雄著「心霊研究者の歩んだ道―私と心霊研究(7)」:雑誌『心霊研究』昭和49年2月号の記載では、当時の状況を「(筆先からは)明治50年を境として前後10年が立替え立直しの正念場であるということが出ているので、幹部達が、大正10年頃が立替え立直しの時期と考えて熱烈に宣伝したのであった。出口教祖及び浅野さんの文書・言論などによる宣伝よりも、実際に信者の先頭に立って、大正10年の立替え立直しを絶叫した指揮者達の宣伝は更に熱狂的であった」と。当時の熱狂的な雰囲気がよく分かる。
■当時の大本が掲げた「大正維新」論とは、次のような内容を含む考え方のこと。
①.「世界大家族制度の実施実行」――大本には「大本から日本へ、日本から世界へという雛型の考え方」があった。神聖復古を世界に拡散していくこと。
②.「国家の財政経済の根本的な改革改正」――当時の金本位制度を批判した。
③.「天産物自給論」――洋装の禁止や肉食の禁止を唱えた。
④.「租税制度の撤廃」――租税制度を撤廃して調貢制度を復活させるとした。
⑤.「経済制度の改革」――私有財産制度を廃止する。大正維新の第一歩は「日本臣民の私有財産全部の奉還に始まる」としているとしている。
■早瀬圭一著『大本襲撃』(毎日新聞社2007年刊)121頁参照。
浅野は大正9年(1920年)1月25日に、東京・駿河台の明治大学大講堂で超満員の観衆を前にして、「時局大講演会」を開いた。この他に大阪の中之島公会堂や東京の専修大学、慶應義塾大学、学士会館、有楽座などでも講演会を開催している。これらの講演会に於いて、浅野は激しい口調で大正10年の立替えを訴えた。
<注24>
■大本七十年史編纂会『大本事件史』(宗教法人大本1967年刊)参照。
<注25>
■大本七十年史編纂会『大本七十年史、上』(宗教法人大本1964年刊)620頁~625頁、682頁~687頁参照。
<注26>
■雑誌『心霊と人生』(昭和4年2月)に掲載された「世界神霊大会の概況、ご挨拶にかえて所信を披露す」の一文から伺える。浅野は「心霊現象の科学的研究を行なわないことには、実験ヌキで理化学の権威が築きあげ得ないようなものです。もしも日本で、これに適せる良い霊媒が得られなければ、外国から輸入する。私の手で話をつけて置いた名霊媒は、米国にも、英国にも相当多数に上がります」と述べている。
■秋山美智子著「心霊講座、発刊の頃の想い出」:浅野和三郎著『心霊講座―読みやすい現代語訳』(ハート出版2014年刊)所収。
秋山は「(亀井は)『科学画報』4月号に父の帰朝報告の論文が掲載されたのを見て、『私もできます』と申されて、来宅されたのでございます」と記している。
<注27>
■松本健一著『出口王仁三郎――屹立するカリスマ』(リブロポート1986年刊)150頁以下参照。
■京都府警の警部高芝熊が大本に潜入して、大本内部で「皇道大本教主輔秘書兼内事寮参務」という役職を得た。内部に潜り込んだ彼が、内定の結果あつめた証拠が「高芝熊文書」として裁判に使われた。この文書の全文は、池田昭編『大本史料集成Ⅱ』(三一書房1982年刊)211頁~266頁に掲載されている。
<注28>
■松本健一著『神の罠―浅野和三郎、近代知性の悲劇―』(新潮社1989年刊)
<注29>
■雑誌『心霊と人生』昭和2年9月号の「文士の自殺」参照。
この文中で浅野は「(芥川の)『死』につきての言説が単なる信仰の問題であるのなら、われわれは芥川君の自殺の可否善悪につきて論議する資格はない。しかしながらこの問題はすでに当然科学的領域に属するものであって、単なる信仰の問題ではない。で、お気の毒ながら私は断言する。芥川氏はあたら才人に似合わぬ大錯誤をやられたと」述べた。
<注30>
■浅野和三郎著『出盧(復刻版)』:『大本霊験秘録』(八幡書店1991年刊)所収、52頁~53頁(38頁~39頁)、56頁~60頁(42頁~46頁)参照。
<注31>
■浅野和三郎著『心霊講座(本文復刻版)』(潮文社1999年刊)569頁以下参照。
<注32>
■津城寛文著『公共宗教の光と影』(春秋社2005年刊)222頁参照。
<注33>
■長崎誠人著「浅野和三郎と大本―大正期知識人の宗教受容」:『日本文化の諸相』(風媒社2006年刊)所収、251頁~269頁。
<注34>
■日本宗教学会『宗教研究』第77巻339号(2004年3月号)380頁~381頁:報告者、長崎誠人「大正期における知識人の宗教―浅野和三郎を中心に―」。および『宗教研究』第79巻347号(2006年3月号)331頁~332頁:報告者、長崎誠人「浅野和三郎研究」。
<注35>
■ヘレン・ハーデカ著、中村恭子訳「浅野和三郎と20世紀初期日本における心霊主義」:『アジアの宗教と精神文化』(新曜社1997年)所収、5頁~28頁参照。
<注36>
■日本において明治以降、物理的心霊現象を出現させることができる物理霊媒は、大きく分けて次の三つの系統に分類できる。
①長南年恵に代表されるように信仰集団の枠内で囲われてしまい、科学的研究に応えられなかった霊媒。
②福来友吉の透視や念写の実験に協力した霊媒。本稿では「御船千鶴子、長尾郁子、森竹鉄子、高橋貞子、武内天真、渡辺偉哉、三田光一」を“福来友吉系の霊媒”と呼ぶ。
③浅野和三郎の心霊知識の普及活動に協力して、その先頭に立って物理実験に協力した霊媒。本稿では「亀井三郎、本吉嶺山、津田江山、北村栄延、萩原真、竹内満朋」を“浅野和三郎系の霊媒”と呼ぶ。
■浅野は「霊能は業である」という考え方を持っており、霊媒と心霊知識の普及を“ワンセット”として考えていたため、霊媒を特別扱いしなかった。そのため“浅野和三郎系の霊媒”は比較的「管理」されてきた。この霊媒の扱いに対して宗教者の宇佐美景堂は「(故浅野氏をはじめその周囲の人たちは、霊能者を)遇する道を知らない」と批判した(宇佐美景堂著『霊媒、本吉嶺山』霊相道書房1967年刊、13頁)。
これに対して福来は霊を仏教理論の延長として考えていたため(→霊を精神的なものとして)、霊媒を監督するという立場をとっていた。そのため三田光一は自由に振舞っていた。
昭和4年頃から昭和20年代にかけて、主に“浅野和三郎系の霊媒”が前面に立って、心霊知識の普及活動の一環として物理的心霊現象の実験会が盛んに行われていた。この期間に行われた浅野系の霊媒による心霊実験会の記録は、日本における心霊現象研究の理論構成に多大な貢献をなした。
<注37>
■梅原伸太郎著「物理的心霊現象と認識論」:ハリー・エドワーズ著、近藤千雄訳『ジャック・ウェバーの霊現象』(国書刊行会1985年刊)275頁参照。
梅原は「物理的心霊現象の起こったのは何も西洋においてだけでなかった。わが国でも昭和5年頃から浅野和三郎が物理霊媒の亀井三郎を発見した頃から交霊会で物理現象が見られるようになった。奇妙なことに、それは浅野がヨーロッパ、アメリカの心霊行脚の旅に出て、彼地のスピリチュアリストとの接触があってからのことである。それまでは浅野の霊媒発掘の試みも実を結ばなかった。私は西洋スピリチュアリズムの現実レベルでの流入が行われたのは(浅野という稀有の使命を持った人物を通して)この時ではなかったかと推測している」と述べて、浅野のISF大会参加と優秀な物理霊媒出現の連動を指摘している。
ISF大会における各種体験は、浅野の「素朴なナショナリズム」を触発させて、西洋発の「新スピリチュアリズム」を日本の「伝統的な祖霊観・霊魂観」と結びつけて、日本人に咀嚼しやすい形の「和製スピリチュアリズム」として誕生させた。このことを梅原は「現実レベルでの流入が行われた」と述べているのではないだろうか。
この時期以降、日本のスピリチュアリズムは「黎明期」から「発展期」へと飛躍していった。浅野たち心霊科学研究会(=東京心霊科学協会、大阪心霊科学協会)の人たち、およびその周辺部の人たち(小田秀人など)によって、これ以降、物理霊媒を前面に立てた「攻めの普及活動」の時期に入っていった(→この「攻めの普及活動」に危機感を持った権力は、昭和15年秋の「心霊写真展覧会事件」を皮切りとして、翌年にかけて「心霊知識の普及センター」潰しに出てきた)。
<注38>
■雑誌『心霊と人生』の昭和7年1月号から8月号に連載された「日本国民の精神的指導原理―日本神霊主義の提唱―」に見られるような論調は感じられない。
■「国家主義」とは、国家を第一義的に考える立場で、この傾向が強まると対内的には国家権力の行使は無制限となって独裁体制へ、対外的には国家膨張主義を招く。日露戦争ごろから、ナショナリズムの中に国家主義的な傾向が徐々に強まっていったという(佐藤能丸著『明治ナショナリズムの研究』参照)。
「皇国史観」とは、日本の歴史を万世一系の現人神である天皇が永遠に君臨する万邦無比の神国の歴史として描く歴史観のこと。
<注39>
■第一次シルバーバーチブーム
日本ではシルバーバーチのブームは二回あった。最初のブーム(→仮にこのブームを“第一次シルバーバーチブーム”と呼ぶ)は昭和37年(1962年)頃に、心霊科学研究会系の日本スピリチュアリスト協会(→昭和34年名称変更:旧名称は東京心霊科学協会)において起きた。
桑原啓善が訳した「シルバーバーチの霊訓」をもとにして、昭和37年(1962年)前後に日本スピリチュアリスト協会において座談会が開催された。その様子が雑誌『心霊と人生』に掲載されている。
誌面から見る限り一種のブームが起きた様子が窺える。しかしこの時期はいまだ霊が宗教の範疇で語られる時代を抜けきっていなかったために、機が熟さず一過性のブームで終わってしまった。
■第二次シルバーバーチブーム
雑誌『心霊研究』に近藤千雄の編訳で『シルバーバーチは語る』(副題:「シルバーバーチ霊言集」より)というタイトルで17回に分けて連載された(1982年6月号から1983年10月号まで)。この連載は非常に好評であり、当時筆者の周りの知人の間でも、この連載記事は“砂に水がしみこんでいく”ように受け入れられていった。そこには一種の“高揚感”が感じられた(→仮にこのブームを“第二次シルバーバーチブーム”と呼ぶ)。
連載終了後にこの記事はまとめられて『古代霊は語る』(潮文社1984年刊)として出版された。さらに1985年以降、同じ出版社から『シルバーバーチの霊訓』として全12巻シリーズが刊行されて、書店の「精神世界」のコーナーに並んだ。1982年に起きた一つの組織内のブームは、その後大きなうねりとなって2000年以降の「スピリチュアリズム・ブーム(純粋なスピリチュアリズム、Higher
Spiritualism)」へ繋がっていった。
<注40>
■近藤千雄訳『シルバーバーチの霊訓、1巻』(潮文社)212頁参照。
近藤千雄訳『地上人類への最高の福音―シルバーバーチの霊訓』スピリチュアリズム普及会、66頁参照。
近藤千雄訳『霊訓、上』スピリチュアリズム普及会、146頁参照。
◆浅野和三郎研究:目次
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