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第2講:霊的実在の証明方法の推移

目 次

1.19世紀後半から20世紀初頭の証明方法

①.ウィリアム・クルックス

②.詐術の嫌疑との闘い

③.霊界側の戦略・証明方法の転換

 

2.20世紀半ば以降の証明方法

①.主たる証明方法としての「心霊治療」

②.シルバーバーチの出現と「霊的教訓」

 

3.日本における証明方法の推移

①.ターニング・ポイント:昭和4年(1929年)

②.「百花繚乱の時代」の曲がり角

③.日本における「心霊治療」の黎明期

④.霊的教訓の時代の幕開け

 

<注1>~<注9>

 

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1.19世紀後半から20世紀初頭の証明方法

①.ウィリアム・クルックス

<交霊会のブーム>

19世紀後半、ブームとなった「家庭交霊会(Home circle)」で頻発して起きた心霊現象は、科学者の目に留まり科学的な調査研究の対象となった。

心霊現象を科学的に調査研究した著名な科学者には、ウィリアム・クルックス(1832年→1919年、イギリスの科学者・物理学者)、シャルル・リシェ(1850年→1935年、フランスの生理学者)、オリヴァー・ロッジ(1851年→1940年、イギリスの物理学者)などがいる。

ウィリアム・クルックス(William Crookes)は元素タリウムの発見者として、また高真空内放電現象を研究してクルックス管を発明した科学者として知られている。1863年に王立協会の特別会員となって、イギリスを代表する物理学者の一人として認められていた。

 

<クルックスの宣言>

クルックスは18707月に『化学四季報』に「近代科学から考察した心霊主義」を掲載して、科学者という立場から「心霊現象を暴く目的」で心霊研究に乗り出す宣言を行った(注1)。この宣言以降クルックスは本格的に心霊研究に乗り出したが、その結果、当初の意図とは反対の現象を相次いで確認することになった。たとえば実験によって絶縁銅線の枠の入ったアコーディオンが誰も触れないのに音楽を奏でるという現象や、子供が座った状態にある椅子が浮き上がるという現象、重いテーブルが空中に浮揚するという現象など。

 

<霊媒と物質化霊は二人の別々の個人>

この時期にクルックスの実験に協力した霊媒の中では、1871年に実験を行ったD.D.ヒューム(=D.D.ホーム)や、1874年に実験を行ったフローレンス・クック(Florence Cook1856年→1904年)が特に有名である。

クルックスは霊媒ヒューム(=D.D.ホーム)の協力を得て物理的心霊実験を行った際に、霊媒の詐術を防止するための配慮、たとえばヒュームが実験前に事前準備ができないようにするため、さらには実験中のトリックを防止するため、クルックスの自宅の明るい室内で実験を行った(注2)。それにもかかわらずヒュームは数々の物理的心霊現象を起こしている。

 

またクルックスは霊媒フローレンス・クックのエクトプラズムを使って出現した物質化霊のケティ・キングを調査して、それを187465日付の『ザ・スピリチュアリスト』に「ケティ・キングの最後」という記事を書いている。この記事の中で「わたしはクック嬢とケティ(物質化霊)のからだは二人の別々の個人であるという絶対的な確信を持っている」(注1)と述べて、最終的に霊魂の存在を認めるに至ったことを表明した。

 

②.詐術の嫌疑との闘い

<外観からは同じ現象>

スピリチュアリズム普及運動の歴史は「詐術の嫌疑との闘いの連続」(新啓示42⑭)であった。霊能者が行う心霊現象と奇術師が舞台で行う実演とを比較してみれば、外観から見る限り全く同じ現象である。しかし両者には決定的な違いがある。最大の違いは奇術には演者によって事前に準備された仕掛けが存在しており、霊能者が行う心霊現象には“仕掛けが一切ない”ということに尽きる(→霊能者側にはないが霊界側では霊界の技術者による現象演出の為の準備はあるが)。 

 

<アンチ・スピリチュアリズムの世論>

懐疑論者の奇術師の多くは心霊現象を一切認めず、それは「創意工夫による“術”であり、すべての心霊現象には“トリック”が介在している」との立場を一貫してとっている(注3)。

心霊現象からヒントを得て、奇術師が取り入れて行ったパフォーマンスの実演は、スピリチュアリズムの勃興期の1851年にはすでに行われていた。

心霊現象は詐術であるとの立場をとっていたスッコットランドの奇術師のジョン・ヘンリー・アンダーソン(John Henry Anderson1814年→1874年)は、ニューヨーク公演でテーブル傾斜とラップ音を取り入れたパフォーマンスを行っている。この頃から心霊現象は詐術であるとの「アンチ・スピリチュアリズムの世論」を受けて、奇術師側からスピリチュアリズムに対する執拗なまでの攻撃が始まった。

 

西洋では心霊現象に関する研究が「奇術師の立場」から盛んに行われている。研究によって奇術師はさまざまなトリックを考案して、自らのレパートリーを広げていった。その結果「20世紀のはじめ、奇術師たちは霊媒のトリックを再現するという口実のもとに心霊術のトリックをショーに仕立てて、予言や読心術を主題にしたメンタル・マジックという分野を開発した」(注4)。

 

③.霊界側の戦略・証明方法の転換

<物理的心霊現象という形で関心を呼びこむ>

スピリチュアリズムの勃興期、霊界側は従来の物理法則では説明ができない現象を「物理的心霊現象」という形で示して、当時の科学者の関心を呼びこんで、科学的な手段を用いた方法で霊的実在の証明を行おうとした(新啓示40⑧~⑩)。この方法は当時の人たちの唯物論的思考や霊的レベルに対応した証明手段であって、霊界側の「一大計画」に沿ったものであった(550⑤~51④)。

 

20世紀初頭にアプローチの変化>

このような霊界主導で始まった「近代スピリチュアリズム」運動は、20世紀初頭にアプローチの変化があった。著名な科学者を巻き込んだ物理的心霊現象による霊的実在の証明の歴史が「詐術の嫌疑との闘いの連続」(新啓示42⑭)であったこと、20世紀に入り古典物理学が破たん(→相対性理論、量子力学などの登場)したこと、このような要因によって霊界から地上への働きかけにも当然に変化が生まれてきた。1920年代以降「心霊治療(sprit healing:スピリット・ヒーリング)が盛んになったのはその一つの表れ」であった(新啓示41⑬~⑭)。

 

シルバーバーチは物理的心霊現象が次第に衰退して「心霊治療と霊的教訓という高等な側面」(9165⑧~⑨)が前面に出てきた背景を「地上の人間の進化のサイクルが変わりつつあるからです」(9165⑨~⑩)と説明している。さらに心霊治療に関しては「身体の病気を治すという意味では物質的ですが、それを治すエネルギーは霊的なもの」(新啓示41⑭~⑮)として、現代の風潮にマッチした霊的実在の証明手段の一つであると述べている。

 

2.20世紀半ば以降の証明方法

①.主たる証明方法としての「心霊治療」

<広義の心霊治療は従来からあった>

物質世界に現れた霊的徴候から霊界側の意図を推察してみると、次のような霊界側の「一大計画」(550⑧)の存在が推測できる。

治療師の生体エネルギーを使った広義の意味での心霊治療(サイキック・ヒーリング)は従来からあった。この心霊治療という形式を用いながら“中身(=治療の質)”を高めてより洗練した形に作り変える。これを「霊的実在の証明」の手段として用いる方式が、1920年代の後半以降に行われるようになった。

 

<霊界の霊医による心霊治療>

この従来の「物理的心霊現象」から「霊界の霊医による心霊治療(sprit healing)」という概念を用いた方式への転換は、霊界側の「地上世界にスピリチュアリズムを普及する」という戦略に沿ったものであった。なおこれは主たる証明方法が「霊界の霊医による心霊治療」に転換したという意味であり、従来の「物理的心霊現象」を必要とする人や地域においては、いまだに主たる証明方法として有効な手段として存在している(9102⑫~⑬)。

 

イギリスにおける「心霊治療(sprit healing)」の功労者の一人W.T.パリッシュは、癌を患っていた妻を心霊治療で治癒させたことから名声が広まり(→手紙は1年間に15,000通に及んだという)、1927年から始めて1946年に死去するまで心霊治療に献身的に携わった。

C.A.シンプソンは1928年に「治療組合(通称名:求道者)」で心霊治療を始めた。またW.H.リレイは1939年にリーズで治療所を作って心霊治療を行った(注5)。その後ハリー・エドワーズ(Harry Edwards1893年→1976年)が登場して、「心霊治療(sprit healing)」は広く知られるようになった。

 

②.シルバーバーチの出現と「霊的教訓」

<シルバーバーチは転換期に出現した>

シルバーバーチは1920年に霊媒バーバネルを介して出現して、1930年代中頃から「本格的」に活動を開始した。時期的に見れば「霊的実在の証明」方式が物理的心霊現象から次の段階に転換した時期と重なっている。

なおシルバーバーチは霊媒の潜在意識に影響されずに、純粋な霊的教訓(=霊的真理)を地上に降ろす為の前提となるオーラの融合に「15年もかかりました」(4168②~③)と述べている(→1935年頃に霊的教訓を地上に降ろすために行ってきた三者間の準備が整った)。

最初の『シルバーバーチの霊訓(=シルバーバーチの教え)』は“三者(=地上側の霊媒、霊界側の霊媒、高級霊のシルバーバーチ)”のオーラの融合が完璧となった後の1938年に出版された。

 

<シルバーバーチの霊訓は対象者限定の教え>

シルバーバーチの使命はスピリチュアリズムの土台部分に当たる「霊魂説の証明」にあったのではない。この「物理的心霊現象」を観察するという手段を踏まなくても、または踏むことによって「霊魂説」の上部構造に位置する「スピリチュアリズム思想(霊的教訓)」を理解できる人が対象となっている(918⑦~⑨)。

シルバーバーチは「スピリチュアリズム思想(霊的教訓)」を「霊的に受け入れ態勢の整った人」に訴えようとした(3107⑧~⑨)。なぜなら霊的教訓は本人に受け入れる準備ができるまでは、周りが幾らお膳立てをしても受け付けないからである(155⑫~⑬)。馬を水辺に連れて行くことは出来ても、水を欲しなければ馬に水を飲ませることは出来ないという例えと同じである。

 

霊的に受け入れる用意のできた「大人の霊(=霊的に成人した人間の魂)」(918⑩~⑪)に対して、霊的教訓に沿った生き方を日常生活の中で実践することを促した(226⑤)。このようにシルバーバーチは霊的教訓を誰彼かまわずに説いているわけではない。いわば“対象者限定の教え”ゆえに求めるハードルは高く設定されている(868①~②、8193⑨~⑩)。そのため“スピリチュアリズムの周辺部”にいる人たちにとっては「シルバーバーチの教えは厳しい」と感じることになる。

 

<生き方の変革を求める>

「霊的実在の証明」方法としての「物理的心霊現象」は、主に「霊魂説(→死後個性の存続、顕幽の交流は可能)」を証明して霊的知識を普及する、そのためのデモンストレーションとしての意味があった。

これに対してシルバーバーチの出現と同時期に普及し始めた心霊治療(スピリット・ヒーリング)は、その本質を患者の霊的覚醒に置いている(9169①~②)。いわば病気治癒をきっかけとして、自らの生活や考え方を見直すという“自己努力を伴った生き方の変革”にある(→心霊治療の本質が「生き方としてのスピリチュアリズム」にあるから)。

このような点から判断して霊界の「一大計画」に沿った地上側の進捗状況は、ワンランク進んで地上人類は「新たな時代」に突入したことが分かる。このように霊的教訓を説いたシルバーバーチの出現時期と「心霊治療(スピリット・ヒーリング)」の普及時期とは密接に連動している。

 

3.日本における証明方法の推移

①.ターニング・ポイント:昭和4年(1929年)

<ISF大会>

国際スピリチュアリスト連盟(ISFInternational Spiritualist Federation)の第三回大会は、昭和3年(1928年)97日から一週間の日程で、ロンドンのクイーンズ・ゲート・ホールで開催された。この大会には日本から浅野和三郎と福来友吉が参加した。

浅野はISF大会参加の機会を利用して、英米の多くのスピリチュアリストや霊媒と接触して実験会に参加する機会に恵まれた。これらの体験はその後の浅野がスピリチュアリズムの普及を進めていく上で、かけがえのない財産となった。浅野の古くからの友人である宮澤虎雄は「浅野さんの心霊研究は昭和37月より12月に亙る欧米心霊旅行によりエポックを画するに至った」(『心霊研究』昭和264月号)と述べている。この時の浅野の個人的な体験は、その後の日本の心霊の世界にとってエポック・メーキングな出来事となった。

 

<黎明期から発展期へ>

翌年以降、日本には相次いで優秀な物理霊媒が出現した(注6)。また受け皿組織の拡充も図られた(→東京心霊科学協会、大阪心霊科学協会、菊花会など)。昭和3年から昭和4年における出来事を霊的観点から見れば、浅野の昭和3年の西洋における一連の体験は、日本において物理霊媒を前面に押し出しながら霊的真理を普及させていくための準備作業の一環、いわゆる霊的な環境整備の一環であったことが理解できる。

昭和4年以降、浅野和三郎を中心とした「普及運動の前衛部隊」による活発な普及活動によって、日本における霊的潮流は格段にその流量を増して、日本のスピリチュアリズムは「黎明期」から「発展期」へと着実にコマを進めることができた。このことからもこの時期、日本における霊的潮流は最初の大きなターニング・ポイントを迎えたことが分かる(注7)。

 

②.「百花繚乱の時代」の曲がり角

前述したように日本では昭和4年(1929年)に最初の“霊的潮流のターニング・ポイント”があった。これ以降、主に“浅野和三郎系の霊媒”の活躍によって、日本でも西洋に見劣りしないような物理的心霊現象が数多く出現し、心霊知識の普及活動に大きな役割を果たした。このような主たる「霊的実在の証明」手段を物理霊媒が担った「百花繚乱の時代」は昭和20年代まで続いた(→当時の雑誌『心霊研究』誌に掲載された記事から裏付けられる)。

 

雑誌『心霊研究』誌によれば、昭和2410月に日本心霊科学協会の幹部と作家の長田幹彦(1887年→1964年)との座談会が行われ、その中で従来から活躍してきた物理霊媒の能力衰退発言が協会幹部から発せられている(注8)。この頃新しい物理霊媒の発掘が精力的に行われたが目新しい成果を上げていない。

日本でも霊的実在を物的手段で証明しようとした時代には、華々しい物理的心霊現象が頻繁に発生したが、1950年代に入るころには次第に下降傾向をたどるようになってきた。雑誌『心霊研究』誌の記事も「実験会の記録」の掲載から、次第に解説記事が多く掲載されるようになってきた。この時期、遅ればせながら「霊的実在」を証明する手段は、物理的心霊現象から次なる手段へと移行する“節目の時期”に差しかかっていたことが感じられる。

 

③.日本における「心霊治療」の黎明期

<生体エネルギーを使った除霊治療>

日本の古代社会においては、仏教が民衆の中に浸透していくにつれて多くの僧医が輩出されていった。平安時代の貴族社会では病気平癒や政敵失脚のための加持祈祷を、天台や真言の密教僧に行わせていた。このような経緯から、日本の医療は近世に至るまで「漢方と加持祈祷を行う僧医が主流であった」と言われている。

 

平安時代、山岳信仰と仏教等が結びついた修験道が盛んに信仰されるに従って、次第に「密教が民衆化」されていった。江戸時代には一般人を相手に病気治療の加持祈祷を行って生計を立てる修験者が数多く出てきた。加持祈祷では病気の原因は“霊”にあるとして(→憑依霊という「悪しき存在」に原因があるとして)、密教僧や修験者は主に「霊体エネルギー」や「肉体磁気エネルギー」などの生体エネルギーを使って、その“霊”を強制的に排除、または因縁解除によって取り除くとして「除霊治療」を行っていた。

 

<サイキック・ヒーラー>

日本においては、霊界のスピリチュアリズム普及の「一大計画」に沿った形で、霊医という概念を使った治療、いわゆる「スピリット・ヒーリング(sprit healing)の試み」が始まったのは1960年代以降のことである。それ以前は「心霊治療」と言っても、治療師の“生体エネルギー(→霊体エネルギーや肉体磁気エネルギー)”使った治療(直接・遠隔・除霊等)であった。これは浜口熊獄や三田光一が実際に行った治療の事例、さらには松原皎月著『心霊治療法(復刻版)』(八幡書店1998年)の記載からも窺える。

 

例外的ケースとして中には治療師の霊性レベルによっては、本人は意識していなくとも霊界の霊医が働いたケースがあったことは否定できない。しかし1930年以前は、霊的実在を証明するための手段として、霊界側が「組織的にsprit healingを用いた」とは考えにくいので、このようなケースがあったとすれば、治療師と霊医との間で親和性の法則が働いた結果による場合か、両者に何らかの個人的な繋がりがあって「スピリット・ヒーリング(sprit healing)」が行われたものと思われる。

 

<日本心霊科学協会における取組み>

雑誌『心霊研究』誌の昭和27年(1952年)10月号において、粕川章子はハリー・エドワーズの心霊治療を紹介して「心霊治療の目的や遠隔治療のメカニズム」を解説している。昭和34年(1959年)12月と昭和35年(1960年)2月に開かれた日本心霊科学協会の講演会では「心霊治療」が演題に取り上げられた。

その後、日本心霊科学協会とイギリスの心霊治療師の団体である「英国心霊治療者国民連合」の事務総長メジャー・パターソンとの交流があり、協会から昭和36年(1961年)に『心霊治療指導の手紙』(フェノモニスト著:パターソンの筆名)という冊子が出版された。さらに昭和39年(1964年)には日本心霊科学協会内に「心霊治療研究会」が発足して、事前に医師の診断を受けた者に対して直接治療と遠隔治療の試みが始まった(『心霊研究』昭和399月号、37頁)なお昭和3910月号の『心霊研究』誌は「心霊治療特集号」となっている。これが日本において霊界の霊医の概念を取り入れた、組織として本格的な「スピリット・ヒーリング(sprit healing)」が行われた最初ではないかと思われる。

 

④.霊的教訓の時代の幕開け

<シルバーバーチ・ブーム>

桑原啓善が雑誌『心霊と人生』誌に「シルバーバーチの霊訓」の翻訳を掲載して(19615月号~19634月号)、それを基にした学習会が開かれて“ブーム(一過性のブームに終わった)”となった20年後の1982年(昭和57年)、時代は変わり「精神世界」が「宗教」から分離して一つのジャンルとして出来上がりつつあったころ、二度目のブームは起きた。そのきっかけを作ったのは、日本心霊科学協会の機関誌『心霊研究』誌の19826月号から198310月号にかけて連載された近藤千雄編著「シルバーバーチは語る(シルバーバーチ霊言集より)」であった。

 

この連載は当時吹いていた「精神世界ブーム」という時代の追い風に背中を押される形で、協会内でブームとなった。その後、日本心霊科学協会という組織の枠を超えて広がり、スピリチュアリズムの普及に大きな弾みとなった。

この連載記事は1984年にまとめられて、潮文社から『古代霊は語る』として出版された。この『古代霊は語る』は出版社の予想に反して好評であったという。出版の成功によってその後の『シルバーバーチの霊訓』(潮文社)全12巻シリーズ等の刊行が始まった。

この時期、大型書店では「精神世界ブーム」に便乗するかのように、宗教書のコーナーに隣接する形で精神世界のコーナーが設けられて、そこに少しずつ良質なスピリチュアリズムの文献が並ぶようになった(注9)。

 

1980年代以降、顕著な変化>

日本では霊的実在の証明方法として1930年代から1950年代にかけて隆盛を極めた「物理的心霊現象」は、1950年代に曲がり角を迎えた。1960年代に入ると「スピリット・ヒーリング」が紹介され、さらに1980年代に入ると「質の高い高等なスピリチュアリズム(Higher Spiritualism)」関連書籍の相次ぐ出版という形で「霊的教訓の時代」が幕を開けた(→新しい時代に見合った霊的環境整備の構築、霊的なインフラ整備が始まった)。

 

以上の事柄から、大局的に「日本におけるスピリチュアリズムの発展史」を概観すれば、顕著な変化が時代ごとに存在していたことが見えてくる。1980年代以降のスピリチュアリズムの普及活動に関しては、大きな転換点に立っていたことが分かる。普及活動もその時代の変化に沿ったものが求められるから。

 

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<注1>

■ウィリアム・クルックス著、森島三郎訳『心霊現象の研究』(たま出版1980年刊)17頁以下、184頁以下参照。

■ジョン・レナード著、近藤千雄訳『スピリチュアリズムの真髄』(国書刊行会1985年刊)106頁~107頁に以下の記載がある。

――クルックスは学者らしくその実験の一つ一つについて詳しい長文の記録をとり、それを徹底的に検討した結果ついに心霊現象の真実性を信じ、同時にそれまで知られていなかった新しいエネルギーの存在を突き止め、これをサイキック・フォースPsychic Forceと名付けた。・・・・クルックスの業績の中でもこのサイキック・フォースの存在に関する研究は、スピリチュアリズムにとって正に画期的な意義を持つものであった。というのも、それがスピリチュアリズムの歴史上はじめて、心霊現象を徹底して科学的根拠に基づいて立証することになったからであった――。

 

<注2>

■粕川章子著『DD・ホームの霊能』(日本心霊科学協会1957年刊)151頁以下参照。

クルックスはホームに関して「その(霊媒)能力が微弱である場合、強い光線が心霊現象の障碍となることは既知の事実である。しかしホームの有する力は、この有害な強力光線を障碍としない程度にまで強いものであるから、彼は闇中で実験することに反対する」と述べて、ホームは霊媒能力が最も顕著な人であると述べている。

 

<注3>

■松田道弘著『トリックスター列伝』(東京堂出版2008年刊)94頁、80頁参照。

奇術師の松田道弘(1936年→ )は心霊現象を一切認めない立場から「霊媒は奇術師と違ってたえず新しいトリックを開発しなければならない職業的義務はありませんから、同じやり方、やりなれたトリックを何度も繰り返して演じればよい」(前著94頁)。さらに「両者(霊媒と奇術師)はトリックという鎖で繋がれています。どちらもトリックで生計を立てている同業者である」(前著80頁)と述べている。

 

<注4>

■松田道弘著『トリックスター列伝』(東京堂出版2008年刊)291頁参照。

メンタルマジックとは、不思議さを前面に出して、透視・読心・予言・浮揚・念動といったことを超能力仕立ての演出で行うマジックを云う。奇術の分野におけるメンタル・マジック(心霊奇術)の占める位置は大きいという。

 

<注5>

■アーネスト・トンプソン著、桑原啓善訳『近代神霊主義百年史』(コスモ・テン・パブリケーション1989年)121頁参照。

■心霊治療家のパリッシュは、夫人を伴ってシルバーバーチの交霊会に出席した。その際のシルバーバーチとの問答が「4194頁から199頁」にかけて掲載されている。

 

<注6>

■日本において明治以降に現れた物理的心霊現象を出現させることができる物理霊媒は、大きく分けて次の三つの系統に分類することができる。

①長南年恵に代表されるように信仰集団の枠内で囲われてしまい、科学的研究に応えられなかった霊媒。

②福来友吉の透視や念写の実験に協力した霊媒。当ブログでは「御船千鶴子、長尾郁子、森竹鉄子、高橋貞子、武内天真、渡辺偉哉、三田光一」を便宜“福来友吉系の霊媒”と呼ぶ。

③浅野和三郎の心霊知識の普及活動に協力して、その先頭に立って物理実験を行なった霊媒。当ブログでは「亀井三郎、本吉嶺山、津田江山、北村栄延、萩原真、竹内満朋」を便宜“浅野和三郎系の霊媒”と呼ぶ。

 

■浅野和三郎は「霊能は業(わざ)である」という考え方をしていた。霊媒と心霊知識の普及を“ワンセット”として考えていたため、霊媒を特別扱いしなかった。そのため“浅野和三郎系の霊媒”は比較的「管理」されていたという。この霊媒の扱いに対して宗教者の宇佐美景堂は「(故浅野氏をはじめその周囲の人たちは、霊能者を)遇する道を知らない」と批判した(宇佐美景堂著『霊媒、本吉嶺山』霊相道書房1967年刊、13頁)。

これに対して福来友吉は霊を仏教理論の延長として考えていたため(→霊を精神的なものとして)、霊媒を監督するという立場をとっていた。そのため三田光一は比較的自由に振舞っていた。

昭和4年頃から昭和20年代にかけて主に“浅野和三郎系の霊媒”が前面に立って、心霊知識を普及する活動の一環として“物理的心霊現象の実験会”が盛んに行われていた。この期間に行われた浅野系の霊媒による心霊実験会の記録は、日本における心霊現象研究の理論構成に多大な貢献をなした。

 

<注7>

■梅原伸太郎著「物理的心霊現象と認識論」:ハリー・エドワーズ著、近藤千雄訳『ジャック・ウェバーの霊現象』(国書刊行会1985年刊)275頁参照。

梅原は「物理的心霊現象の起こったのは何も西洋においてだけでなかった。わが国でも昭和5年頃から浅野和三郎が物理霊媒の亀井三郎を発見した頃から交霊会で物理現象が見られるようになった。奇妙なことに、それは浅野がヨーロッパ、アメリカの心霊行脚の旅に出て、彼地のスピリチュアリストとの接触があってからのことである。それまでは浅野の霊媒発掘の試みも実を結ばなかった。私は西洋スピリチュアリズムの現実レベルでの流入が行われたのは(浅野という稀有の使命を持った人物を通して)この時ではなかったかと推測している」と述べて、浅野のISF大会参加と優秀な物理霊媒出現の連動を指摘している。

 

ISF大会における各種体験は、浅野和三郎の「素朴なナショナリズム」が触発されて、西洋発の「近代スピリチュアリズム」を日本の「伝統的な祖霊観・霊魂観」と結びつけて、日本人に咀嚼しやすい形の「和製スピリチュアリズム」として誕生させた。このことを梅原は「現実レベルでの流入が行われた」と述べているのではないだろうか。

この時期以降、日本のスピリチュアリズムの普及運動は「黎明期」から「発展期」へと飛躍していった。浅野たち心霊科学研究会(→東京心霊科学協会、大阪心霊科学協会)の人たち、およびその周辺部の人たち(小田秀人など)によって、これ以降、物理霊媒を前面に立てた「攻めの普及活動」の時期に入っていった。この「攻めの普及活動」に危機感を持った権力は、昭和15年秋の「心霊写真展覧会事件」を皮切りとして、翌年にかけて東京や大阪にあった「心霊知識の普及センター」潰しに出てきた。

 

<注8>

■雑誌『心霊研究』誌によれば、昭和2410月に日本心霊科学協会の幹部と作家の長田幹彦(1887年→1964年)との座談会が行われ、その中で協会理事の後藤以紀は「亀井氏も津田氏も(現象が)昔ほどで無いように思われます」と発言している。協会の理事長である吉田正一も「私も同感です。どうも近頃は物の動きの幅が以前と比べてあまり広いとは言えないように思われます」と述べている(『心霊研究』19501月号「研究はどう行うか―研究部員の会合」24頁~27頁)。このように従来から活躍してきた物理霊媒の能力衰退発言が協会幹部から発せられている。この発言を受けて新しい物理霊媒を発掘しようとする試みが始まった。

 

■物理霊媒を発掘する試みの概要が、当時の雑誌『心霊研究』誌の広告から窺える。昭和25年(1950年)4月号の『心霊研究』誌の表紙裏側一面を割いて、昭和25415日付で「全国の霊能者諸兄へ」という「お知らせページ」が掲載されている。内容は「物品浮揚またはエクトプラズムの放出、あるいは幽霊またはその一部分の物質化」および「念写」が生起できて、「審判委員によって確認された最初の者に対して賞金五千円を呈す」というものであった。

この広告は昭和25年(1950年)4月号から昭和26年(1951年)5月号まで継続して掲載された。この時の“審判委員”は、4月号の広告では板谷松樹(東京工大教授・工学博士)、後藤以紀(東大教授・工学博士)、長田幹彦(作家)、宮澤虎雄であった。翌月の5月号のお知らせページでは、審判委員に日野寿一(東大教授・医学博士)が加わっている。

 

<注9>

■この時期、次のような「質の高い高等なスピリチュアリズム(Higher Spiritualism)」の翻訳本が相次いで刊行されている。

近藤千雄訳編『古代霊は語る』(潮文社1984年刊)。桑原啓善訳『シルバーバーチ霊言集』(潮文社1984年刊)。近藤千雄訳『シルバーバーチの霊訓、全12巻』(潮文社1985年刊~1988年刊)。ステイトン・モーゼス著、近藤千雄訳『霊訓』(国書刊行会1985年刊)。梅原伸太郎訳『不滅への道(=永遠の大道)』(国書刊行会1985年刊)。梅原伸太郎訳『人間個性を超えて(=個人的存在の彼方)』(国書刊行会1986年刊)。G.V.オーエン著、近藤千雄訳『ベールの彼方の生活、全4巻』(潮文社1985年刊~1986年刊)。アラン・カルデック編、桑原啓善訳『霊の書』(潮文社1986年刊~1987年刊)。ステイトン・モーゼス著、近藤千雄訳『インペレーターの霊訓―続『霊訓』―』(潮文社1987年刊)。ステイトン・モーゼス著、桑原啓善訳『ステイトン・モーゼスの続霊訓』(土屋書店1988年刊)など。

このような相次ぐ出版によって、日本でも原書を取り寄せたりせずとも、容易く「純粋なスピリチュアリズム思想」を学ぶことのできる環境が整ってきた。

 

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◆参考ページ

①.心霊写真展覧会事件

https://1411.cocolog-nifty.com/ks802/2016/06/post-999d.html

 

②.霊的実在の証明方法の変更

https://1411.cocolog-nifty.com/ks802/2016/06/post-3c07.html

 

③.シルバーバーチ・ブーム

https://1411.cocolog-nifty.com/ks802/2016/06/post-50c8.html

 

 

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『シルバーバーチの霊訓』講座、講義用ノート:目次

https://1411.cocolog-nifty.com/ks802/2016/10/post-55c0.html

 

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