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第6講:個別霊たる人間

目 次

1.人間とは何か

①.死生観

②.自我の本体たる「霊魂(意識)」

③.人類はみな霊的な大家族

④.「霊の宿」としての身体

⑤.人間は「受信局と送信局」

 

2.出生にまつわる問題

①.地上生活の始期

②.古い霊と新しい霊

③.産児制限

 

3.死・延命について

①.「お迎え」現象

②.臨死体験

③.通常死(寿命を全うした死)

④.急死(病死、事故死、戦死)

⑤.自殺、殺人による被害者

⑥.死刑

⑦.安楽死、尊厳死

⑧.人工中絶、流産

⑨.臓器移植、輸血

⑩.植物人間、延命処置

 

4.地上生活

①.睡眠中の体験

②.戦争と物質中心主義・利己主義について

③.愛国心について

④.人種問題について

⑤.原子力エネルギーについて

 

<注1>~<注6>

 

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1.人間とは何か

①死生観

人は苦しんでいる隣人を見ると「何のためにこの世に苦難はあるのか?」「何のためにこの世に生まれてくるのか?」と問わずにはいられなくなる。さらに臨終に立ち会った体験を持つ人からは「人は死んだらどうなるのか?」と言った素朴な疑問が出される。

このような深遠なテーマに対しては、その人が持つ「死生観」の違いによって自ずと回答は異なってくる。次に代表的な三パターンの死生観を概観してみる。

 

ア)「心は脳の副産物」という唯物論的な考え方

物質(物的脳)と心の関係を学問の分野から見れば、19世紀までは物質の解明は自然科学が担当し、精神の解明は宗教や哲学が担当するスタイルが一般的であった。20世紀に入ると急速な科学技術や自然科学の発達が起こり、前世紀末になると物的脳の解明が急速に進んで、徐々に自然科学が精神の分野を研究対象に加えるようになってきた。そして物的脳にはさまざまな心の働きを司る領域・中枢があり、この領域・中枢の作用によって心は作り出されるという考え方(→心は脳の副産物、心は脳のどこかに宿っている)が、影響力の強い知識人によって唱えられるようになってきた。

このような唯物論的な考え方から死を見れば、まさに「死は終焉」であり「死によって私は雲散霧消してしまう」と考えるので、当然の結果として「死後の世界」は存在しない。より一層この世に対する執着が強くなる。

 

唯物論的な考え方が未だに支配的な医療の世界では、特に高度医療を提供する病院では「絶対に人を死なせてはいけない」「死は敗北である」と考える傾向が強いと言う。現在では大半の死は病院で迎えるため、患者や家族は「人は誰でも平等に死んで行く」という事実を忘れたかのように、病んだ肉体に固執して「病気と闘う」意志を最後まで持ち続けながら死んで行く。

 

イ)「生命の循環」という考え方

上記のような唯物論的な考え方に馴染まない多くの人は、死を「生命循環」的に考える傾向が強い。これには唯物論に近い考えをする人たちから、よりスピリチュアリズムに近い考えをする人たちまで幅がある。

この考え方によれば、死とともに“私という個人”は消えてなくなって、死後は一種の「生命エネルギーのような大きな海」に溶け込み、そこから「大海の一滴」という形で次の新たな生命が生み出されると説く(注1)。死とともに“個性を持った自分(〇〇という名前の自分)”は消えるが、「生命エネルギー」という概念の中に“自分が存在したという証”は残ると考える。これに近い考え方が血縁をベースにした日本の伝統的な「霊的世界観・神観」にもある。日本人は比較的この「生命の循環」説に馴染み易い。

 

日本の伝統的な習俗からは、供養の対象となる“死霊(死者の魂)”は「弔い上げ(33回忌)」によって初めて汚れを拭い去って清まり、個性を失って先祖の霊に融合して「祖霊という大きな海」に溶け込む(→この「海」は普遍的な海ではなく「〇〇家、一族」というラベルの付いた海である)。この祖霊が草葉の陰から子孫を見守る形で、または再生することによって、「祖霊という大きな海」と地上にいる一族との間を行き来することになる(注2)。「祖霊」とは個性を失った先祖の霊魂の集合体であり、一種の「集合魂」のこと、スピリチュアリズムで言うところの「個別霊」ではない。

この死霊が祖霊となり、祖霊は神格化して祖神や氏神として祀られる「死霊→祖霊→祖神・氏神」という流れは、民族宗教である神道にも取り入れられている。神道では「神」と「祖先」との間には明確な境界がなく、渾然一体のものとして扱われており、遠い祖先は祖先であると同時に「神(人格神)」としても崇められている。

 

ウ)「死の先にも人生は続く」という考え方

スピリチュアリズムでは「死の先にも人生は続く(→個性を持った人格をそのまま維持して)」と説く。「死」とは自我の表現媒体が物的身体から霊的身体に移行する為の「通過点」に過ぎず、そこには物的波長から霊的波長へ切り替えを行うための「死の眠り」が存在する(→パソコンにソフトウエアをインストールする際に再起動して完了させるようなもの)。

 

この「死の先にも人生は続く」によって、愛する者との死別は一時のものであり、個性を持った者どうしが親和性から惹かれ合って、霊の世界で再び出会う。このような考え方をすることによって、愛する者を失った心の痛みが癒されることになる。さらに「死後生」の事実は、個々人に対して“今をどう生きるか”という問いかけをすることにもなる。

家族と同居している高齢者は「長く生き過ぎた」「家族には迷惑をかけたくない」などと、何かと周囲に気を遣うことが多い。さらに伴侶の死による生き甲斐の喪失や、健康に対する不安感から“うつ”になる老人も多い。「死後生」の事実は高齢者が陥りやすい厭世観に変化を生じさせて、自殺防止にも役立つことになる。老人の自殺は依然として多い(→警察庁生活安全局地域課作成「平成18年中における自殺の概要資料」によれば、平成18年の自殺者総数は32,155人で、その内60歳以上の自殺者は11,120人となっている。60歳以上の自殺者は全体の34.6%を占めている)。

 

房総半島には「JR東:千葉駅」を起点にして太平洋側(外房)を走る外房線があり、終点「安房鴨川駅」で内房線に接続している。内房線の始発「安房鴨川駅」から「館山駅」を経由して、東京湾(内房)に沿いながら「千葉駅」に戻る路線が房総半島を一周している。

これを例えにして比喩的に説明すれば、外房線の終着駅「安房鴨川駅」で電車を降りて(物的身体という形体を脱ぎ捨てて)、内房線のホームに行き電車に乗る(霊的身体という形体をまとう)。外房線の電車に乗っていた「私(意識)」と、終点で乗り換えて内房線の電車に乗る「私(意識)」とは、同一の個性を持った意識体である。「安房鴨川駅」での外房線と内房線の乗り換えが「死の眠り(→物的波長から霊的波長への転換を行う)」であって、そこで「死後の生活」に備えた準備をすることになる。

 

②.自我の本体たる「霊魂(意識)」

ア)人間を通路として働きかける

ここからは上記の「死生観」のうち「死の先にも人生は続く」というスピリチュアリズム的死生観に立って、「個別霊たる人間」というテーマで順次見ていくことにする。

 

神によって作られた宇宙には「神の一部」(8巻105⑦、10巻55②)である「霊(普遍的要素としての霊:霊の書56⑥編者注)」が、「基本的素材あるいは根源的素材」(1巻40⑬、5巻147⑤、12巻110⑪)として遍満している。この「霊(神の力)」が人間を通路として地上に働きかけている(3巻32⑬)。通路となった人間から流れ出た霊力は、人間だけに留まらず他の生命にも及んでいく(5巻90⑪~⑬)。

 

物的身体をまとった人間(個別霊)は一人一人が「霊(神の分霊)」を一身専属的に有している。そのため「人間は個別化された霊、神の一部」(3巻162④、メッセージ191⑫)とされている。その霊が顕現する場所は“霊の外皮”である“魂(→魂とは意識のこと:語る425⑦)の領域”である。ここから自我の本体とは「霊魂(=意識)」のことになる。

この「潜在的完全性」である「霊(神の分霊)」は、人間が進化するにつれてより多く「魂(→霊の外皮、意識)の領域」に顕現して行く(5巻147⑤~⑨)。同時に流入する霊力の質が高まり量も多くなっていく(11巻69⑫~⑬、最後啓示70⑪~⑮)。

 

イ)進化する為には“形体”をまとって体験を積む

本来は霊と魂は平面的には表現できないのだが、あえて言えば霊は「魂の奥に潜在する」形で存在していると言える(1巻53⑬)。自我の本体たる霊魂(意識)には形体はない。その形体なき霊魂(意識)が進化する為には、何らかの“形体(→肉体、幽体、霊体、さらに意識の媒体としての色彩・光輝など)”をまとって体験を積む必要がある。人間が“体験(肉体を通して利他的行為を行うなど)”を積み重ねることによって、この“魂の領域(=意識の領域)”に神の属性である「愛・寛容さ・叡智、親切、優しさ、思いやり心、協力の精神など」が少しずつ滲み出て行く。「潜在的完全性」である神の属性を顕在化させることが個人の責務となっている(1巻84⑧~⑨)。全ての存在物は神の属性が“魂の領域(→人間の場合は意識、動物以下の存在物の場合は集合魂)”に滲み出てくる「霊の顕現の度合い(0%~100%)」から霊性レベルが決定される。

 

ウ)形体と居住環境の関係

形体は霊の顕現度合い(0%~100%)に応じて、グラデーション的に洗練度を増していく。それに比例して居住環境もグラデーション的にレベルアップしていく。なぜなら形体と環境は一致するから(3巻153⑥~⑦)。霊格の向上に応じて形体も居住する環境も洗練度を増していくから。このように無限の時の流れの中で内部に宿る“潜在的完全性である神性”は少しずつ意識の中に顕現していく。

 

③.人類はみな霊的な大家族

全ての地上の人間には、自我の本体に「霊(神の分霊)」が組み込まれている(→霊の外皮である魂の領域に霊が顕現する度合いは各自異なるが)。人間を表面的に見れば一人一人の肉体的特徴は異なっているが、「霊」という「根源に於いては同じ(→顕在化の割合が異なるだけ)」なので「人類は一つであるとの認識」が生まれてくる(8巻173⑧、1巻31⑩)。さらには「全人類が霊的親族関係をもった大家族」(8巻121⑤~⑥)や「全民族の霊的同胞性」(4巻105①)といった意識も芽生えてくる。

このような「霊的同胞性」意識を持つことによって、肌の色は肉体だけのものであり魂には色はないこと、魂はその始源に於いては全てが同じという事実に理解が及ぶことになる(→意識は神の一部:3巻113④)。この考え方が広まることによって、諸悪の根源である「唯物主義と利己主義」が徐々に根絶されて民族間の離反や国家間の障壁が消滅していく(語る47⑨~⑪)。そこに至る迄は真の平和は訪れない。

 

④.「霊の宿」としての身体

人間は霊的存在であるが、この地上で自我を表現するためには物的身体を通さなければならない(4巻104⑨~⑩)。いわば肉体はこの物質の世界で生活するための“制服”であり、自己表現のための道具ということになる。シルバーバーチは「身体はあなたが住む家」「家であってあなた自身ではない」(1巻27⑩)とか、「霊が王様で物質はその従臣」(1巻188④)であると述べている。

 

いわば肉体は霊が宿る神殿(1巻136⑬、→身体は霊の宮:11巻82①)なので、そこには一定の必需品が必要となる。また肉体は一種の“機械”なので、よく管理し、保護し、大切に使用すべきである(1巻136⑬~⑭、6巻54⑥)。なぜなら地上では、霊は肉体が唯一の表現の媒体(=霊の宮)となっているから(最後啓示146⑨)。これに対して精神は霊が“物的脳(→物的現象を認知する為の組織の中枢であり、物的身体のコントロールセンター)”を通して自我を表現する為の媒体となっている(最後啓示147⑥~⑧)。

 

⑤.人間は「受信局と送信局」

この地上という空間には、霊界人や生きている人間が発するさまざまな“インスピレーション(→霊界から目的意識を持って発せられたもの)”や、“思念(→霊界からの思念や地上の人間が発する思念)”が飛び交っている(メッセージ170②~⑤)。その中から人間は各自が持つ固有のバイブレーションに見合ったインスピレーションや思念を受けとめている(メッセージ168⑦~⑧、→人間は受信局)。この現象は固有振動数が同じ「共鳴箱付き音叉」を二つ用意して、片方を鳴らすと空気の振動を伝わって他方の音叉もなり始めるが、固有振動数が違う音叉の場合には共鳴しないという現象からも理解できる。

 

人間は日常的に受け取ったインスピレーションや思念に何かを付加して再び発信している(→人間は送信局)。そのため人間は霊力の伝達者であると同時に霊力の受信者でもあるので(2巻40⑩、3巻138⑤~⑬)、固有の周波数を持った「受信局と送信局とを兼ねた存在」(8巻39①)ということになる。

何を受け取ることが出来るかは人間の受信能力にかかっている(3巻139⑫~⑭)。受け取った思念と発信される時の思念とはすでに同じではない(3巻138⑧)。そこには発信者が有する“フィルター(=固着観念)”というバイアスがかかっているから。したがってある思想を「そのままの形で伝える」と言うことは本来有り得ない表現である。

 

2.出生にまつわる問題

①.地上生活の始期

ア)人間の構造

人間の構造を平面的に見れば「物的要素」と「霊的要素」、そして両者をドッキングさせるための「中間物質(→複体、ダブル、接合体などの名称がある)」の三者から成り立っている(語る110⑨~⑩:→本来の姿は三者が重なり合って存在している)。「物的要素」には「物的身体」と物的身体のコントロールセンターとしての機能を持つ「物的脳」とがある。「霊的要素」には「霊的身体」と「霊の心(→潜在している霊が顕現する場所、霊的意識、自我の本体)」がある。

 

イ)人間の始期

子孫を残すために有性生殖を行う動植物には雄雌の別がある。高等動物には生殖細胞として卵と精子があり、この二つが合一することを「受精」と呼んでいる。人間の場合にも性別があるので生殖細胞を有するが、その受精の瞬間から遺伝子に書き込まれているプログラムが始動する。一般に地上人生のスタート時期は「受胎の瞬間から人間」になると言われているが(8巻93⑧)、この「受胎」という言葉をどのように理解するかは人によって見解が異なる。

 

まず一つ目の立場は「受胎」という言葉をそのままの意味に理解して、受精卵が子宮に着床する「妊娠成立期(受精から約2週間後)」とする説であり、広く理解されている考え方である。この立場では“着床前の胚”は人間ではなくモノとなる(注3)。

次の立場は父方の精子と母方の卵が合体(DNAが融合)して、結合体である「受精卵が出来上がる時」とする説である。この立場では物質と生命素が結合して“生命が流入する器”ができあがり(→活性化した物質:霊の書34④、48⑥~⑨、49④、49⑥~⑪)、そこに受精によって霊的要素が流入して受精卵となって初めて個別意識を持った個別霊となる(5巻145⑩~⑬)。この時点から自我意識(個的意識)が始まり、それ以降は永遠に個性を具えた存在となる(8巻93⑧)ので、受精直後の“胚(→受精時から14日目までの初期の胚)”はモノではなく人間となる。

 

シルバーバーチは「受胎作用は精子と卵子とが結合して」「自我を表現するための媒体を提供する」ことであり、この媒体に「小さな霊の分子が自然の法則に従って融合」する、その瞬間が「意識を持つ個体としての生活が始まる」時期と述べている(3巻173⑦~⑫、語る414①~③)。ここからスピリチュアリズムでは「受胎の瞬間」とは、世間で広く理解されている「妊娠成立期」ではなく、父方と母方のDNAが融合して物的な結合体の「受精卵が出来上がった時」となる。以下この立場で説明を行う。

 

ウ)アダムの創造

人間に「霊的要素」が流入する場面を象徴的に描いたものとして、ミケランジェロ作「アダムの創造」(→ヴァチカンのシスティナ礼拝堂の天井壁画)がある。この壁画には“土塊のアダムの体”に、神が人差し指で「霊的要素」を吹き込む姿が描かれている。これは『旧約聖書』の「創世記2⑦」の記述を絵画に表したものであるという。

この「アダムの創造」をスピリチュアリズム的に解釈すれば、造化の天使は霊的法則に則って“土塊(→物質と生命素が結合して活性化状態となつた生命が流入する器のこと)”を創り、そこに「神の分霊」を含む霊的要素が合体(=霊的流入)して個別霊が誕生する、その場面を象徴的に描いたものといえる。

 

②.古い霊と新しい霊

シルバーバーチは「人間界への誕生には二種類ある」として、「古い霊が再び地上へ戻ってくる場合と、“新しい霊”が物質界で個体としての最初の段階を迎える場合です」(5巻93②~③)と述べる。ここでいう“古い霊”とは進化の完成の為に物的体験を積むため再生して来る霊のことである(5巻93⑥~⑩)

上記の「新しい霊」の説明として「(動物の類魂は各種属にそれぞれの類魂がある。それがさらに細分化してその)細分化したものにもそれぞれの類魂がおります。新しい霊――はじめて人間の身体に宿る霊は、動物の類魂の中でも最も進化した類魂です」(5巻101⑧~⑨)との記載がある。

 

マイヤースの通信にも霊は地上への誕生のケースとして「動物の未熟な魂が数多く集まって一個の人間の魂として誕生してくることがある」「意識というものがより複雑な組織体を通して体験を重ね、最終的には人間のレベルに達するという基本的原理にのっとった迄である」(個人的存在81②~⑤)。さらに「遠からず地上へ人間として誕生して行く、初期の段階の魂の姿」をした奇妙な種類の動物がいるという(個人的存在247⑯~248②)。このようにマイヤース霊はシルバーバーチの「新しい霊」と同じことを述べている。

 

③.産児制限

産児制限は結局のところ「動機は何か」の問題に帰着する(4巻50⑧~51①、語る412①~④)。シルバーバーチは出産を制限する際の動機が正しければ問題ないが(8巻130③~④)、肉体的快楽だけを求めて妊娠を避ける者は、その動機が利己的であり程度が低いので感心しないと述べる(4巻52③~⑤)。

両親の霊的進化にとって生命の誕生が不可欠の場合は必ず生まれてくる(語る412⑧)。また生まれてくる宿命を持った霊は、避妊をしない夫婦を選ぶ(4巻51③、最後啓示135⑤)。

 

3.死・延命について

①.「お迎え」現象

ア)「在宅死」から「病院死」へ

死期が迫った者のもとに亡くなった家族や親類がやってくるという現象は、自宅で家族に見守られながら死を迎える時代には普通に見られた現象であった(→古い文献にも出てくる:注4)。1960年代までは病気になれば町内の医師が自宅に往診に来て診断し、出産も死ぬ場所も自宅で、常に家族が周りにいるというスタイルが一般的であった。このような環境の中で旅立つ者は、死の床で自分が見聞きしたことを周囲の者に語りながら、穏やかに「死の壁」を通り抜けて行った。

1961年に「国民皆保険制度」が実現し、1960年代の高度経済成長期に各地に病院が作られたことによって、誰でも気軽に病院で受診できる制度が整った。この環境の変化によって家族が見守る「在宅死」から、見知らぬ人が周囲にいる「病院死」へと次第に変化して行った。

 

イ)老衰死

高齢者の通常死として真っ先に浮かぶ言葉に「老衰死」がある。この定義は厚生労働省の「死亡診断書(死亡検案書)記入マニュアル」によれば、「死因としての老衰は、高齢者で他に記載すべき死亡の原因がない、いわゆる自然死の場合のみ用いる」とある。

死亡原因の「老衰死」は1960年代以降、家族とは切り離された環境の中での死、いわゆる「病院死」が増えるに従って一貫して減り続けてきたが、2010年頃から右肩上がりで増加してきている(厚生労働省「人口動態調査、図表2:老衰死の人数の変化」より)。

 

一般に人が最後を迎える場所は病院であり(→厚生労働省「死亡の場所別に見た死亡数の年次推移」によれば2011年で8割近くが病院死)、現在の病院は高齢の入院患者であふれているという。このように「病院死」が当たり前となっている中で、近年では次第に自宅や介護施設で最期を迎える高齢者が増えてきた。マスコミは今後高齢者の増加により「病院死」が出来ずに、自宅や施設で最期を迎える「在宅死」が増えていくと報道している。

この背景には近年の超高齢者の増加の問題、さらに高齢の入院患者で溢れている「病院医療から在宅医療への移行(病院から在宅へ)」という厚生労働省の政策の転換、この流れに沿って自宅で介護を受ける要介護者や施設入居者の増加がある。このような背景の存在によって、自宅や介護施設で高齢者医療に携わる医師たちに看取られながら「死の壁」を乗り越えていく高齢者が増えてきている。

 

ウ)看取り期に見られる徴候

A:死が近づいていることを示す兆候

・ほぼ寝たきりの状態、または起き上がることが非常に困難

・非常に衰弱している

・食べたり飲んだりできなくなる(→食事量が減るまたは飲食しなくなる)

・嚥下が難しくなる

・眠っていることが多くなる(→ウトウトしている傾眠状態の出現)

 

B:数日から数時間以内に亡くなる可能性を示す兆候

・末梢から皮膚が冷たくなる

・皮膚が冷たくじっとりしている

・四肢末梢の皮膚や口唇にチアノーゼが出現する

・尿量が減る(→最期に大量の尿が出るとの報告もある)

・意識レベルが低下していく

・喘鳴が聞こえる(→呼吸の際に咽頭や喉頭部の分泌物によってゴロゴロと音がする)

・呼吸のパターンが不規則になる(→無呼吸と1回換気の強弱を相互に繰り返すチェーン・ストークス呼吸など)

・顔色が青白くなる

・顔面の筋肉が弛緩し、鼻がより際立つようになる

(森田達也・白土明美著『死亡直前と看取りのエビデンス』医学書院、4頁の表に追記した)。

 

エ)アメリカにおける調査

死期が迫った者が、意識が清明な状態の時に周囲にいる者には見えない存在を見たり会話したりする現象を「お迎え現象」という。この現象は古くから知られており「臨終の幻」や「臨終時体験」とも呼ばれてきた。

臨終時体験を長年にわたって研究してきたのは、アメリカ心霊研究協会(ASPR)に所属する心理学者のカーリス・オシス(1917年生、哲学博士)であった。オシスは1961年から1964年にかけて、アメリカ東部5州に住む医師・看護師各2,500名を対象にした大規模な調査を行った(5,000通の調査票の内1,004通が回収された)。さらに1972年から1973年にかけてインド北部で医師と看護師にインタビューをして、704通の調査票が得られた。

 

回収された1,700通余りの調査票を分析して、臨終時の体験は「大半が薬物や高熱や脳の疾患とも無関係」また「性別、年齢、宗教とも無関係」であること。さらにこれらの現象は「患者のお迎えという明白な目的を持っており、精神病的な幻覚とは大きく異なる」と述べている。日本における調査結果と類似するが「霊姿は必ずと言ってよいほど、死後の世界から訪れた使い」として、「大多数は他界した肉親であった」という。このようにオシスの調査から「お迎え」には、アメリカやインド北部、さらには日本との共通性が窺えて興味深い(K・オシス、E・ハラルドスン『人間が死ぬとき』たま出版1979年刊:125頁、127頁、133頁、183頁、185頁、291頁~293頁、295頁~296頁、302頁)。

 

オ)日本における調査

死期が迫った者の最期の場所は病院である。「病院死」が主流であった最近まで、「お迎え現象」は医療関係者の間では意識障害の「せん妄」として扱われていた(岡部健・竹之内裕文編『どう生き、どう死ぬか』弓箭書院2009年刊、166頁参照)。意識障害の「せん妄」と疑われた死期が迫った者に対しては、治療の為に興奮を鎮めて幻覚を抑える働きがある抗精神病薬が投与される。薬剤の投与によって次第に意識がはっきりしない状態となる。

周囲の者は死に行く者の意識がはっきりとした清明状態でないと「お迎え」の話は聞けないので、必然的に「病院死」が主流の時代では「お迎え」の報告は少ない。

これに対して見慣れた自宅や施設に於いては、安心してその時を迎えられて、周囲の者に見聞きした「お迎え」を語ることが出来る。周囲の者は死期が迫った者の語る言葉の意味を探って、次第に心の準備を整えてその瞬間を待つことが出来る。

 

在宅緩和ケアを行っている医師たちは2003年から2007年にかけて、仙台市内を中心にして682人の遺族に対して「在宅緩和ケアを利用して亡くなった患者が、他人には見えない人や風景について語ったことがあったか」という項目のアンケート調査票を送付した(366通が回収された)。回収された42.3%(155件)で看取りの際に「患者が他人には見えない人の存在や風景について語ったことがあった」とする回答があった。この内「すでに亡くなった家族や知り合いが現れたケース」が155件中82件あった。

この調査結果は『現代の看取りにおける“お迎え”体験の語り――在宅ホスピス遺族アンケートから』として『死生学研究』(2008年3月号所収、東京大学大学院の研究誌)に掲載された(データの一部は岡部健・竹之内裕文編『どう生き、どう死ぬか』164頁~165頁に掲載されている)。

 

時には愛する人との死別によって、遺族は強い無力感に襲われて“うつ状態”となり自殺の危険に陥る場合も生じてくる。そのような時期に遺族は旅立って行った者が語った「お迎え」を反芻することによって、死の先にも人生があることに気付かされる。この気付きによって死別の悲しみから回復して、残された人生を前向きに生きることが出来るようになる。霊的知識は悲嘆にくれる遺族の心を癒すことになる(グリーフケア)。

 

カ)「お迎え」を体験した者の変化

旅立つ者が「死後生」に関する知識を有していれば、穏やかに「死のプロセス」を進んでいける。しかし現状を見れば霊的知識を有する者は少数派にとどまる。そのため霊界側では霊的知識のない人の為に、愛に基づく救済処置を用意した(→血縁愛によって両者間に架設された磁気的ルートを活用する)。それが「お迎え現象(=臨終時体験)」である。ベールの向こう側には死後の世界が存在しており死者はそこで生活している、ということを信じていない人でも「お迎え」を体験することによって、従来までの“霊的な頑なさ”が取れていく。この穏やかな心の状態は、霊の世界の入り口で待つ“ガイド”が死者に接近するのを容易にしてくれる(参照:『500に及ぶあの世からの現地報告』84頁、92頁の訳者注)。

そして死者が“ガイド”の言葉に素直に従えば、程なく「明確な死の自覚」が生じてくるので、「死のプロセス」が滞りなく完了することになる。血縁者の愛に基づく「お迎え」には、このような目的が存在する。

 

しかし「お迎え」を体験した死者の中には、霊的知識がないため地上的常識に強く囚われて頑強に死後の生活を否定する者や、宗教上の理由から間違った来世観が染み込んでいて、素直に死後の生活を受け入れようとしない者もいる。同様なことは「お迎え」の体験がない者が、霊の世界の入り口で待つ“ガイド(指導霊)”の言葉に素直に従わなかった場合にも言える。

 

②.臨死体験

ア)臨死体験とは

臨死体験(Near Death Experience)とは「臨床的に死を宣告された、もしくはそのように見えた者が、その後蘇生した時点で(あるいはそれからしばらくした後に)語る、その間の体験のこと」を指す。この定義の中で使われる「臨床死(=臨床的な死)」という言葉は「外部から観察できる生命のあらゆる徴候(→意識、反射、呼吸、心臓の停止などのこと)はすべて喪失しているが、生命全体としては死に至っていない状態のこと」を言う。

数多い「臨死体験談」の中には上記の厳密な意味ではなく、単なる「意識喪失中の体験」や病床における体外離脱体験までも含めて用いているケースもある。臨死体験は世界各国で古くから存在しており「人類に共通した宗教体験」の一つである。

 

アメリカでは1970年代中頃から「臨死体験」という現象が注目されるようになってきた。そのきっかけとなったのは医師のエリザベス・キューブラーロス(Elisabeth Kübler- Ross:1926年→2004年)や、レイモンド・ムーディ(Raymond Moody:1944年→ )の著書であった。日本でこの言葉が普通に使われるようになってきたのは1990年代以降のことである。1991年に放映された立花隆氏による「NHKスペシャル、立花隆リポート」や、著書『臨死体験』(文芸春秋1994年刊)が大きいと言われている。

 

イ)意識は肉体の外にある(特徴その1)

臨死体験者の大部分は「意識は肉体の外にある」という体外離脱体験(肉体離脱体験)をしている。多くの臨死体験事例において、体外離脱した際にベッドに横たわっている状態では見えない位置にある医療器具や、医療関係者の動作、医師の頭頂部にある肉体的特徴などを正確に言い当てている。さらに浮揚した状態で病室の外に出ていって、そこに置いてある物品を正確に言い当てた事例などがある。

 

体外離脱体験中に起きた心の状態は、臨死体験時の本人の視点は肉体の外にあって、ベッドに横たわる自分の肉体を他人事のような感覚で見下ろす「肉体からの分離感」を伴っていること。肉体から抜け出している間の本人の意識は、肉体ではなく「分離した自分」の中にあること。自分の肉体から分離することによって体が軽くなったような感覚を持つこと。さらに“分離した自分の心の状態”は、完全に覚醒して意識水準は高く、驚くほど思考が明晰になっていること、などが報告されている。

 

ウ)トンネル体験(特徴その2)

臨死体験者の多くは「暗く長いトンネル」「洞窟や井戸」「筒状の場所」に引き込まれて、信じがたいスピードで暗いトンネルを突き進んだ体験を持つ。その際に「耳障りな音」がしたという報告がなされている。

 

エ)“光”の体験(特徴その3)

臨死体験者の多くが「光に包まれた世界に入って行く」「光に包まれて至福の時間が持てた」などの体験を語っている。この“光”の体験から宗教性を感じる人と感じない人がいる。臨死体験中は非常に気持ちが良かったと述べる体験者が多い。

 

オ)走馬燈的な回想体験(特徴その4)

臨死体験者の中には「一瞬のうちに自分の全生涯を見た」とか、「第三者的な感覚で、相手の気持ちになって見ていた」と報告する事例がある。自分の一生をパノラマ的に展開するのを地上的な時間の感覚ではなく一瞬に感じ取るようである。

ここから意識が肉体から分離した状態の“空間”には、地上世界において地球の自転・公転という“機械的な尺度ではかる時間”とは異なった時間の流れがあること。いわば「時間の精神的要素」が支配した状態で走馬燈的な人生の回想体験をするようである。

 

カ)神秘的体験(特徴その5)

体験者の多くは自分のそばに他者の存在を感じ取っている。ムーディは『かいまみた死後の世界』の中でこの存在者を「死につつある人間が死後の世界へ容易に移行できるようにするため」(74頁)と述べている。これは霊界通信が明らかにしている「死のプロセス」を順調に完了させるために手引きしてくれる“指導霊(ガイド)”であり、その存在を示唆している。一般に臨死体験者は既に他界している肉親に温かく迎えられたと述べる事例は多い。

 

キ)不本意な生還(特徴その6)

死の淵から生還した人は「お前の地上での仕事はまだ完了していない。地上へ戻りなさい」とか、「池の左側の方にいた人が、あなたはここを通れません」と言われて戻るケースがある。体験者によれば大部分の者はいや応なしに戻らされている。さらにそれは言葉ではなくその意味が思念で直接に伝わってきたという。

 

ク)臨死体験が意味するもの

臨死体験はあくまでも霊的世界の入り口を覗いただけであり、直ちに「死後個性の存続」の証明に繋がるわけではない(→いまだ肉体と霊体はシルバーコードによって繋がった状態なので蘇生する)。しかし体験者の報告事例の中には、本人の視点が肉体の外にあること。その一点からその場の状況を眺めていたこと。肉体の置かれた位置からは見えないはずの場所で起こった出来事を正確に見ていること。肉体から抜け出している間の本人の意識は、肉体ではなく“分離した自分”の中にあるが、完全に覚醒して意識水準は高く、驚くほど思考が明晰になることなどが報告されている。このような体外離脱状態での“意識”の存在は、物的脳によって感知する心とは別の、もう一つの肉体を離れた“霊的な心”の存在を強く示唆している。

 

多くの臨死体験者には、死に対する恐怖感が薄らぐなどの意識の変化が生じている。霊の世界の入り口部分を覗いた臨死体験者は、「死」の向こう側にも人生がある(→死後の存続、霊の世界の実在性)という確信を抱くようになる。臨死体験中に「すでに亡くなっている他者との出会い」があった場合は、「死後生」の確信がより強くなるようである。そのため体験者は、その後の地上人生において死を恐れなくなる。

臨死体験中において全生涯を瞬時に見せられる“パノラマ現象(人生の回想シーン現象)”を体験した者は、その後の人生に於いて何を優先するかという価値観の変化や、その後の地上人生を大切にして前向きに生きるという割合が高くなるようである。さらに従来の「先入観を伴った物の見方が薄らいできた」「人を裁く気持ちが薄れて寛容さが出てきた」などの報告もある。

医療関係者に対しては「昏睡状態にある患者に対する態度が、完全に意識ある患者に接するときと同様な態度で臨む必要があること」を明らかにした。なぜなら体外離脱状態で医療関係者の会話を聞いているから。

 

③.通常死(寿命を全うした死)

肉体と霊体とは無数のシルバーコードによって結ばれている(個人的存在80⑧~⑨、永遠の大道126⑰)。この中の主要な糸が切れて霊体が肉体から離れた瞬間を「死」と呼んでおり(→いったん分離したら再び蘇生することはない:11巻207⑥~⑦)、これ以降は生活の舞台は霊界になる。このように死とはこの世からあの世に移行する一つの通過地点に過ぎない。

 

物質次元では人間の死は徐々に「生命現象が収束していくプロセス(物的生命体の崩壊過程、脳死→心臓死→細胞死により腐敗が始まる)」として現れる。

霊的次元から見れば、死は肉体的束縛からの解放となるので、当人にとっては喜ばしいことになる。シルバーバーチは「(死を)小鳥が鳥籠から解き放たれて大空に羽ばたいていくこと」(1巻180⑨~⑪)であり、「死とは第二の誕生」(3巻44⑬)であると。さらに死は「リンゴは熟すと自然に木から落ちる」現象と同じであり、霊に準備ができた時に訪れるのが本来の姿である(8巻133⑦~⑧、8巻144①)と表現している。しかし現状は十分な準備が整わない状態で霊の世界に送られてくる者が多いという(2巻207⑧~⑩)。

 

④.急死(病死、事故死、戦死)

事故によって急死する状態とは(→本来の想定した死のプロセスを踏まないケース)、霊に死の準備が整っていない段階で無理に生木を裂くように肉体から離される状態をいう。急死の場合には死者に急激な霊肉分離に伴うショック状態を引き起こすが、それを緩和するための霊的処置(→霊的エネルギーの注入、長期の休養期間など)が霊界で行われている(6巻106⑤~107③)。

 

急激な死に方をした死者に霊的知識がある場合には、相応の霊的調整期間を経て死の自覚を持つようになるが、霊的知識がない場合には霊的調整のための長い休養期間が必要となる。その期間は正常死のケースより長くかかるのが通例である。特に霊的知識がない場合には地縛霊となって地上圏をうろつかないためにも、速やかに“休息(眠ること)”を取る必要がある(霊訓下125⑫~⑮)。なぜなら霊肉分離が本来の過程を経ずに急激に引き剥がされるためのショックを、“休息(眠り)”の中で調整していく必要があるため。

霊界通信の中には「(事故死の場合)譬えて見れば月足らずして地上へ誕生してくる赤子のようなもので、虚弱であるために胎内にて身につけるべきであった要素を、時間をかけてゆっくりと摂取して行かねばならない」(彼方3巻124⑩~⑫)という表現もある。

 

⑤.自殺、殺人による被害者

ア)自殺とは「学校」を中退すること

自ら命を絶つ、他人の命を絶つなど、“人間が人間の生命を奪う行為”は霊的摂理に反している。なぜなら自ら命を絶つ行為は、地上生活を通して霊的成長するせっかくの機会を自らの手で投げ出してしまうから。いわば自殺は自らの意志で「学校を中退すること」であり、他殺は他人の命を無理やり奪って「学校を中退させてしまうこと」だから。

 

シルバーバーチは「(自殺行為に関して)寿命を全うせずに無理やり霊界へ行けば、長い調整期間の中でその代償を支払わなければならなくなる。(利己的な波動によって)周囲にミゾをこしらえてしまうから」(語る407③~⑥)、霊的進歩の妨げになるからと述べている。しかし一口に自殺者といっても地上人生をどのように送ってきたか、霊的な発達程度はどうか、自殺の動機は何かなど、自殺に至る事情や心情など、考慮すべき条件がケースごとに異なっている。そのため自殺者の死後の状況もそれぞれであり一律ではない。

 

イ)動機が利己的な自殺

一般に自殺の動機に「利己的要素」がより多く付随しているほど、自殺者の意識が内側に強く向いて閉じられている。本人の周りに作られた想念という厚い壁を、外部から砕くことは困難であり、霊界側から救済の手はなかなか届きにくい。このようなケースの場合には自己の利己性の罪の償いのために、自ら作り出した「暗黒の世界(→霊的意識が内側に向いて閉じられているがゆえの暗黒の世界)」に長期間閉じ込められることになる。「死んだつもりなのに相変わらず自分がいる。その精神的錯乱が暗黒のオーラを生み、それが外界との接触を遮断する」(9巻209⑩~⑫)現象を作り出す。結局、時間をかけてでも本人の意識の変化を待って、内側からその壁を壊していくほかない。

 

ウ)動機が自己犠牲的な自殺

自己犠牲的な動機が強い自殺の場合は(9巻210③)、自らの命を絶つ行為に利己性は薄いので、その人の意識は外側に向いて開いている。そのため一旦は暗い世界に落ちるとしても、救済霊との接触が極めてスムーズに運ぶことになる。

これ以外に憑依霊による自殺がある。この場合も自殺者はしばらくのあいだ暗闇で過ごすことになるとしても、自殺の責任は主に憑依霊側にあるので、救済霊との接触がはかられて壁を打ち破ることができる(→憑依霊を呼び寄せた何らかの“受け皿”があったとしても。憑依霊の“受け皿”となった歪んだ性癖の矯正は自ら幽界の下層界で行うことになる)。一方憑依霊は、本人に憑依して自殺をさせてしまったという行為の結果責任を負っているので、それ相応の償いをしなければならない。

 

エ)殺人の被害者

殺人の被害者は、本人の意に反して無理やり肉体という衣装を脱がされて「学校を中退させられてしまう」ことになる。その結果いつまでも意識の焦点が「学校(物的世界)」に向いてしまうことになる。

通り魔殺人や自爆テロ・無差別テロなどの被害者は、地上世界から霊的世界への移行理由が「本人の意に沿わない」としても、霊としては速やかに「霊的波長の調整(→物的波長から霊的波長に感応するための切り替え作業)」を行って、新しい環境に馴染んで行かなければならない。しかし多くの被害者は「霊的波長の調整」が完了せず、いつまでも地上時代の生活を引きずっていることが多い(→延々と際限なく記憶の中に存在する生活場面を再現して、そこに籠る傾向がある)。そのため新しい環境に馴染めずに地縛霊となり易い。

 

⑥.死刑

霊界通信では犯罪者は心が病んでいる「一種の病人」(4巻207⑤)であるとの観点から「処罰は矯正と救済を目的としたもの」(10巻192⑫)でなければならないと述べられている。世界の現状は凶暴な犯罪者に対しては、死刑という報復的手段で処罰している国は多い。

 

高級霊によれば死刑は単に犯罪者から肉体を奪うだけであり、肉体から引き離された犯罪者は復讐心に燃える凶暴な地縛霊となっている、死刑は憑依現象というトラブルのタネを蒔いているだけで、何一つ問題は解決しないと批判する(6巻150⑧~⑫、霊訓上39⑮~⑰)。シルバーバーチは「死刑に処するということは正義からではなく報復心に駆られているという意味において間違いである」(新啓示28⑦~⑧)として、正義と復讐を区別するようにと述べている。またモーゼスの『霊訓』では、肉体を強制的に奪われた死刑囚のその後は「心は汚れ果て、堕落しきり、肉欲のみの、しかも無知なる彼らは、その瞬間、怒りと憎悪と復讐心に燃えて霊界に来る。それまでは肉体という足枷があった。が、今その足枷から放たれた彼らは、その燃え盛る悪魔の如き邪念に駆られて暴れまわる」(霊訓上41⑩~⑬)という。

 

このように死刑は、死後の世界に関して何の準備もできていない死刑囚から、肉体を無理やり分離させてしまい、霊界側の救済霊との接点がない地縛霊(→死によって肉体を棄てたにもかかわらず本人は死を自覚せずに、いまだに肉体があると信じており、意識が地上世界に向いている霊。意識の切り替えが長引き完了していない霊)や邪霊を増やしてしまう結果となっている。

死刑囚の霊的波長は物的波長に極めて近く、親和性によって地上人との接触が容易く行われるので「怒りと復讐心に燃えた霊」による憑依現象が多発することになる。このように死刑制度は地縛霊による憑依という形で、地上に大きな災いを引き起こすことになるので、高級霊からの霊界通信では例外なく死刑制度を批判している(4巻210⑦~⑩、続霊訓100⑫~101⑥)。

 

⑦.安楽死、尊厳死

安楽死の定義は「医師が直接薬剤を投与することにより患者を死亡させること」である。この安楽死と対比する言葉として「鎮静(苦痛の緩和)」が用いられている(→従来は「消極的な安楽死」という言葉が使われていたが最近は用いられていない)。この定義は「苦痛緩和を目的として患者の意識を低下させる薬剤を投与すること(一次的鎮静)。あるいは患者の苦痛緩和のために投与した薬剤によって生じた意識の低下を意図的に維持すること(二次的・副次的鎮静)」とある(森田達也・白土明美著『死亡直前と看取りのエビデンス』医学書院、58頁~78頁)。

日本で行われた安楽死裁判では、関与した医師は「嘱託殺人(→患者の嘱託を受けて死期を早める医学的処置を行う)」や「承諾殺人(→患者の承諾を得て医学的処置を行う)」の罪に問われている。

 

シルバーバーチは「回復の見込みがない患者(植物状態の人間や不治の患者)」を人為的に死なせる安楽死は、当然のこととして認めていない。なぜなら死後に備えの出来ていない霊に一種のショックを与えてしまい、そのショックが何かと良からぬ影響をもたらしてしまうことになるから(4巻48⑦~⑨)。さらに植物状態になっていても、本人自身が何らかの学びをしている場合があること(最後啓示155⑪~⑬)。または周りの家族に対して何らかの学びをさせていることも考えられる。

 

尊厳死に関しては1995年日本救急医学会救命救急法検討委員会によって「DNR(do not resuscitation)とは尊厳死の概念に相通じるもので、ガンの末期、老衰、救命の可能性がない患者などで、本人または家族の希望で心肺蘇生法を行わないこと」との定義が示された(『死亡直前と看取りのエビデンス』80頁)。

この尊厳死は“医師の行為の妥当性の問題”と“患者本人の動機の問題”とに分けて考えて見る必要がある。医師が患者の苦痛を和らげ除去する以外の延命のための治療を行わない、いわば静かに死を待つだけの医療行為(栄養補給のカンフル剤は用いる)に関しては、人は「死すべき時が来れば必ず死ぬ」(4巻48②~③)であり問題はない。

これに対して患者本人は何のために「延命のための医療は望まない(=リビング・ウィル)」のかという「動機の問題」がある。延命を望まない理由の一つに医療費という経済的な問題がある。また多数の生命維持装置等によって無理やり命を永らえさせられる状態(スパゲッティ症候群)に対する忌避もあろう。

 

典型的な尊厳死と言われた元米国駐日大使のE・ライシャワーは、1990年に肝臓がんによって死去した。彼の人生哲学は「神から与えられた自らの命は、神の導きのまま自然死を迎え、それで神の下に帰る」(保阪正康著『安楽死と尊厳死』講談社現代新書1993年刊89頁)であった。結局のところこの問題は「尊厳」という言葉にどのような意味を盛り込むか、リビング・ウィルを望む本人の動機は何か、ということに帰着するであろう。

 

⑧.人工中絶、流産

ア)罪悪感のある中絶行為

物的身体の破棄には、利己的な理由や母体の保護と言った観点から行う「人工妊娠中絶」、また突発的な事故によって起きる「自然流産」、さらには胎児が分娩中に死んだ場合の「死産児」のケースなどがある。なお「人工妊娠中絶」には「罪悪感ある中絶行為」と、選択的中絶や受精卵の破棄などといった「罪悪感の薄い中絶行為」とに分けることができる。

 

母親の動機面から「人工妊娠中絶」を見れば、ライン上の一方の端に極めてエゴイズムの強い中絶があり、そこから徐々に動機面で考慮すべき要素が入って来て、その対極に母胎の保護のための緊急避難的な中絶がある。

このように中絶といってもその内容はさまざまであるが、高級霊は一様に中絶行為を「物的身体を奪う殺人と同じ」(8巻131②~⑩、最後啓示94⑤)であると述べている。しかしその際に当然に「動機は何か」が考慮されるが(8巻131⑥~⑦)。

 

日本では人工妊娠中絶は刑法の堕胎罪(刑法212条~216条)によって禁止されているが、母体保護法(旧:優生保護法)第14条に該当する場合のみ、違法性が阻却されて中絶が認められている。したがって厳密に言えば「胎児に異常が存在する」ことを理由として行う中絶行為は、違法性が阻却されない限り刑法の堕胎罪に該当することになる。しかし臨床段階では「母体保護法第14条①」の「妊婦の健康上の理由」を根拠として、合法的な形で中絶が行われている。

 

イ)「自然流産、死産児」のケース

自然流産や死産児の出産の場合には、人工妊娠中絶とは異なってその行為に違法性はない。医学的に見て流産胎児には染色体異常と奇形が多く見られ、その結果自然のメカニズムが働いて流産してしまうことが多いという。一般に流産には母親の心理面におけるショックや、肉体面におけるダメージ(→次の出産が不可能となる場合もある)などが伴う。他方、流産という試練を経ることによって、母親の霊性レベルを高めるという“魂の磨き粉”的な側面も併せ持つ。

 

ウ)罪悪感の薄い“中絶行為”

シルバーバーチは“受胎(→内容的には受精時のこと)”の瞬間(8巻46⑤)に精子と卵子の接合子(→活性化した物質)に霊的要素が結合して、この時点から個的意識を持った自我意識が始まる(→個別霊としての始期)、それ以降は永遠に個性を具えた存在を維持すると述べる。つまり「受精卵(子宮着床前や子宮着床後の胚)」は個別意識を持った人間であるとの立場である。

 

近年の「生命選択の技術」の進歩は倫理上の新たな問題を生み出した。胎児の出生前にその状態を診断して(出生前診断)、胎児に先天的な異常があると人工妊娠中絶(選択的中絶)を選択する場合がある。また“体外受精(→2012年の総出産数の27人に1人が体外受精によって生まれている)”では、複数個の受精卵の中から最も形体の良い一個(原則)が子宮に戻されて、残りの受精卵は妊娠が成功しなかった場合に備えて冷凍保存される。その後不要になった受精卵は廃棄されることになる。これらは初期の“胚(子宮着床前の胚、子宮着床後の胚)”および胎児の「物的な表現器官」を破棄する行為ということになる(注5)。

 

エ)不妊は病気か

一般に「女性は子供を産んで一人前であり、子供を持つことが女の幸せである」とする世間からの暗黙の圧力がある。そこに近年の医療技術の発達、さらにマスコミの影響も加わって、不妊治療を受ければ誰でも母親になれるという安易な風潮が出来上がってしまった。

医療の世界では、妊娠したくとも妊娠できない、そのことを苦痛に感じて来院した人の病名を“不妊症”と呼んでいる。従来から“原因不明な不妊”は「妊娠を望んでいるカップルの10組に1組の割合で存在する」と言われている。いわば妊娠しにくい体質を持った人たちの存在である。医療関係者によれば、現状は多額の費用をかけて不妊治療を受けても、妊娠する確率は30%以下であるという。

スピリチュアリズムの観点からいえば、再生人生を“不妊体質という身体”で地上体験を積むとして、自ら選択して生まれてきたにもかかわらず、妊娠したいと望むその動機は何かが問題となるであろう。また体外受精に伴う余剰受精卵の廃棄の問題、さらには「出生前診断」や「着床前診断」など、動機を考慮する必要があるが、方法如何によっては個別意識を持った人間の選別・抹殺となるので問題ある行為となろう。

 

⑨.臓器移植、輸血

ア)シルバーバーチの立場

シルバーバーチは臓器移植や輸血に対して「私としては人体のいかなる部分も他人に移植することに反対」(10巻51⑦)であると明確に述べている。ただし「患者自身の身体の一部を(患者の)他の部分に移植するのであれば、結構なことです。生理的要素も幽質的要素もまったく同一のものだからです」(到来57②~③)と述べて、自分自身の組織等を用いる「自家移植医療(同一人体内移植)」までは否定していない。なお一卵性双生児の「同系移植(遺伝学的に同一な個体間での移植)」や「同種移植(他の人間からの移植)」でも、遺伝子情報は同じであり肉体的には問題がなくとも“宿る霊”は別々であり、幽質はそれぞれ異なっている。そのため問題がある。

物的レベルから臓器移植を見れば、移植されたドナー(提供者)の臓器はレシピエント(受領者)の体内では異物として検知される。そのため強力な免疫抑制剤を生涯にわたって使用して、副作用を抑え込むことになる。シルバーバーチは臓器移植や輸血に反対する理由として、次のような点を述べている。

 

イ)理由その1:「臓器は交換不能な不代替物である」

物的身体は霊が自我を表現するための器官であり不可分な関係にある。自我の本体たる「霊」と「精神・心(意識)」および「身体」とは分離不可で最初から一体として生まれてきている。また三者は一体となって一つの個性をこしらえている(9巻128⑪~⑬、新啓示192②~⑤)。この三者が調和状態にあれば健康が維持できるので、霊的エネルギーは正常に循環(阻害要因がなければ)して各部位を活性化させる。

肉体は代替物ではなく、交換不能な不代替物である。なぜなら「地上にある限りはその物的身体が唯一の表現の媒体で“霊の宮”」(最後啓示146⑧~⑨)だから。このようにシルバーバーチは移植医療の大前提である「人体パーツの交換可能性」を否定している。

 

ウ)理由その2:「死とは第二の誕生である」

地上に於ける人間の唯一の目的は霊的成長であり「肉体的生命の維持が唯一の目的であってはならない」(9巻127⑪~⑫)。肉体的生命は自我の本体たる霊が、地上で霊的成長するために必要な器官であり、目的を達成するための道具である。肉体の耐用年数の満了を持って死が訪れるが、死とは物的身体に拘束されていた霊が解放される瞬間である。このように死に対する考え方が地上の人間とは異なる。

 

エ)理由その3:「予め出生条件を承知して再生してきた」

人間は個々人の再生人生に最も相応しいオーダーメイドの物的身体をまとって、再生人生に於いて到達可能な霊性レベルの上限(または霊性の停滞を招く下限)、そして寿命という長さ、これらの大枠の中に幾つかの物的試練を「本来の私」は予め設定して出生してきた(宿命)。この設定した幾つかの試練に対して、再生人生を歩む「現在の私」は自由意志を行使して霊性を高める方向に行くか、霊性を停滞させてしまう方向に行くかを決定しながら地上体験を積んでいく(→現場サイドの自由意志の行使のこと)。同時に自らのカルマの解消を図っていく。このような再生目的にマッチした、最も適した身体や環境を自ら選んで出生してきたわけである。

シルバーバーチは「時として失明の原因がカルマにあることがあります」(11巻80④)、「目の見えない人が角膜を移植してもらって見えるようになることが、霊的に見て果たしてその人にとって良い事であるか否かは、一概に片づけられる問題ではない」(11巻80⑧~⑩)。一般に人は自分がどんな人生を生きるかを承知の上で生まれてくるのであり(1巻109⑦)、その人の“人生と物的身体の機能”とは密接不可分な関係にあるからと述べる。

 

オ)理由その4:「霊体と肉体との間には相互依存関係がある」

交霊会の参加者から死去後、すぐに臓器摘出や人体実験を行うことがあるが如何か、との質問が出された。これに対してシルバーバーチは「その死者の霊が霊的事実についての知識があるかどうかによります。何の知識も無ければ一時的に害が生じる可能性があります。というのは、霊体と肉体とを繋いでいるコードが完全に切れた後も、地上での長い間の関係によって相互依存の習性が残っているからです」(10巻52①~④)と述べる。相互依存の関係が残っているので「埋葬または火葬までに死後三日は間を置いた方がよい」(10巻52⑤)とも述べている。

 

カ)理由その5:「移植や輸血はドナーの幽質を他人に移すこと」

A:人間性の一部も移転する

シルバーバーチは「臓器は不代替物」であるとして、それを他人に移植した場合には移植片自体が問題を引き起こすと述べている。「輸血に際して注入されるのは血液だけではなく、それに付随した幽質の要素も含まれている」「それは献血者の人間性の一部です。つまり輸血によってその献血者の存在の本性にかかわるさまざまな要素までもが他人に移されることになり、これは場合によっては好ましくないケースもあり得ます」(到来55④~⑦)。

霊的に敏感な者はドナーの臓器や血液に付着する幽質の影響を受ける場合があるから(注6)。霊的に鈍感な者は幽質の影響を感じないので、精神的なものや霊的なものは個人差が大きい。

 

B:立場上理想を説かなければならない

現実問題として未熟な現代社会に於いて「輸血拒否」を貫くのはかなりハードルが高い。しかしシルバーバーチは立場上、現在の人間にとって実現不可能に思えるような理想を説かなければならない位置にいる(6巻144⑤、7巻75⑥、8巻68①~②)。

 

霊界通信の『ベールの彼方の生活』によれば、地球の未来に到来するという「新しい世界(地上天国)」では、人の生き方が霊的摂理と一致して調和が進み、今ほど忙しく東奔西走することが無くなっているという(彼方4巻270⑪~⑯)。このような未来社会では現代社会特有の“輸血を必要とする病気や事故”は無くなっていると思われること。現在、地上に蔓延している病気や重大事故に替わり、人間の進化レベルに相応しい新たな“磨き粉”が出現していると思われるから(→病気や事故といった“磨き粉”は霊性レベルが低い地球ならではのものだから)。このような点を前提に個々人が柔軟性を以て「輸血の問題」を考えればよいと思われる。

 

⑩.植物人間、延命処置

シルバーバーチは患者に延命処置を施すことに関しては問題ないという。なぜなら霊は肉体を去るべき時が来れば、どのような医学的処置を取ろうが肉体から離れていくので、延命処置の効果は「ある程度までのこと」(4巻49⑧~⑨)であり、いわば「寿命の範囲内のこと(=寿命の糊代部分)」だからと述べる。

これに対して「回復の見込みがない患者(植物状態の人間や不治の患者)」を人為的に死なせる安楽死は、当然のこととして認めていない(8巻137②)。なぜなら前述したように死後に備えの出来ていない霊に一種のショックを与えてしまい、そのショックが何かと良からぬ影響をもたらしてしまうことになるから。さらに植物状態になっていても、本人自身が何らかの学びをしている場合があること。または周りの家族に対して何らかの学びをさせていることも考えられる(8巻136⑪~137⑥、最後啓示154⑤~155⑧)。

 

4.地上生活

①.睡眠中の体験

ア)睡眠と死の違い

人間が覚醒している時は“半物質的身体(→ダブルや複体・接合体などの名称がある)”は肉体の中に納まって完全に合体している。眠気を催してくると半物質的身体の中にある“エッセンス部分(幽体の原型で淡い色をした雲状の固まり)”が、半物質状の太い二本のシルバーコードによって半物質的身体と繋がった状態で脱け出す(個人的存在83⑨~⑩、84⑥、84⑯)。この脱け出した“エッセンス”部分は「極めて柔軟性があるので自然に肉体に近い容姿と容貌を具える」(個人的存在84⑦~⑧)ことになる。

これに対して死とは、半物質的身体と肉体とを繋いでいるシルバーコードが切断して、肉体から半物質的身体が離れる事を言う(個人的存在84⑫~⑭)。マイヤース霊は半物質的身体を“殻(ハスク)”と呼んでいる。死後の世界で自我の本体の表現媒体となる「幽体」を「大事に保護しているから」(個人的存在79⑮~⑰)と述べる。「死後その殻は、卵の殻が破られるように中間境で脱ぎ捨てられる」、その時が「霊界(=幽界)への誕生」(個人的存在80①~②)となる。

 

イ)睡眠の目的

シルバーバーチは「睡眠の目的そのものは単純です。身体は一種の機械です・・・機械である以上休ませることが必要です」(到来18⑫~⑭)と述べている。睡眠中は物的身体とエッセンス部分の両者は、シルバーコードによって繋がっているため(→正確には肉体と合体した半物質的身体と幽体の原型であるエッセンス部分がシルバーコードによって繋がっている)、そのコードを通して生命素などの霊的エネルギーは供給されている(語る275⑬~276③)。睡眠中は“地上的自我(物的な心)”は物的脳から離れて“エッセンス部分(幽体の原型)”に移行するが、霊的身体と肉体はシルバーコードで繋がれているため、休んでいる肉体を管理することができる。そして時間がくれば“地上的自我(物的な心)”は再び物的脳と繋がって意識を取り戻すことができる(語る274⑨~⑪)。

 

ウ)睡眠中に於ける霊的世界での体験

睡眠中の意識体は物的身体から離れて霊的身体に移行しており、その間は霊的世界で過ごしている(3巻14②~③)。これは死後、霊的世界へスムーズに移行するための準備体験である(4巻135⑦)。睡眠中の体験は、主に死後の準備のために「死後の世界に慣れるため」と言われている。これらの体験は全部潜在意識の中に収められて、死後に死者の表面意識にのぼってきて霊的世界があまり不思議に思えなくなる。このような仕組みになっているのは、体験がなければ本当の死が訪れた時に何のことか理解できず、新しい生活環境に順応するのに長い時間を要することになるからという。

 

親和性の法則から睡眠中に訪れる世界も霊的レベルに沿った世界となる。死後下層界へ引かれて行く人は睡眠中の訪問先もやはり下層界となる(道しるべ20⑧)。その世界は地上世界と極めてよく似ているので、睡眠中の体験は死後には役立たない(4巻136①~④)。

この場合の「睡眠中に訪れる世界」とは「地上で培われた霊性に相応しい界層」(12巻34②)のことである(→死後に赴く幽界の環境は地上時代の魂の成長度によって決まるから:12巻36⑥)。

 

②.戦争と物質中心主義・利己主義について

高級霊は戦争の原因は「人類が自由意志の使用を誤って自ら招来した」(4巻120⑨)結果による。さらに「憎悪と利己心と物質的な私利私欲から生まれる」(7巻44⑦~⑧)、「人間の欲望と野心、怒りと驕りと復讐心の産物」(霊訓上47①)によってもたらされると述べる。

戦争の霊的側面としては、戦争行為が霊界の低級霊集団の行動を助長させること(語る295⑭)、さらには「人間が殺意を抱いた時、瞬時にしてその人間の周りに同じ意念を持った地縛霊が引きつけられる」(語る307①~②)という側面がある。

戦争終結後の余韻としては、殺人と暴力が奨励された戦争が終結しても人間の獣性はすぐには引っ込まないため、しばらくは「暴力行為を誘発すると同時に道徳基準を破壊」してしまう(6巻145⑧~⑩、4巻206③~⑤)。このような愚かな戦争を抑止する為には、人間の意識に巣くう利己主義に替わって相互に奉仕的精神を持つこと(語る308⑪)、さらには「物的な問題に霊的摂理を適用する」(道しるべ171⑨)ことが必要となる。

 

③.愛国心について

ア)地上の愛国者に霊界から働きかける

愛国心にも程度の低いものから高いものまである。地上に於いて熱烈な愛国者であった者は、死後の世界でもその意識状態を持ち続ける。その者の内部から「明確な霊的自覚」が芽生えてくるまでは、地上的習慣や地上的な価値基準のベースである国家的意識や民族意識から脱却することは出来ないから。そのためその者の思考には依然として強烈な国家的意識が存続している。そのような霊が親和性の法則によって、地上世界にいる愛国者に霊界から働きかけることになる(5巻234⑥~⑨)。地上の愛国者が霊的に敏感者であれば霊界からの影響を強く受けて、強烈なアジテーターとなって運動を先導する。霊界側の霊に霊的自覚が芽生えてくれば、すべては神の子という共通の霊的認識が内部から浮き上がってくるので、国家的意識や国境的概念が次第に消えてゆく(5巻235⑨)。

 

イ)解決策は二つの面から

地上側の問題としては、地上世界に霊的知識が普及して“利己的な愛国心(→自分の国さえよければ周辺国の迷惑などお構いなし)”から“利他的な愛国心(→共存共栄を図りながら自国の特色を出していく)”へ意識が変わること。同時に霊界側の問題としては、地上に向けて利己的な愛国心の働きかけを助長する霊に対して、霊界側から働きかけを行って、それらの霊に“霊的自覚を芽生えさせる”こと。このような地上側と霊界側の二つの面から考えなければならない問題である。

 

④.人種問題について

人種問題に関してシルバーバーチは「(赤い肌、黒い肌、黄色い肌、白い肌)その一つ一つが全体の組織の一部を構成している・・・あらゆる肌色をした人種が混じり合い、お互いに愛念を抱いて生活する調和のとれた地上天国が実現する日が来ます」(4巻29⑨~⑬)と述べている。どの人種にもそれなりの使命があり貢献すべき役割があるから(語る34⑦~⑩)。

霊的真理の観点から云えば優劣の差は肌の色の違いではなく、どれだけ自分を役立てるかによって決まるので、人種差別は霊的観点から見て誤りである(8巻123⑧)。

 

⑤.原子力エネルギーについて

原子エネルギーの発見のように、時として人類の「知的な発明品が霊的成長を追い越す」(新啓示23①)場合がある。人類の霊的成熟度がその発見に見合ったものであれば、それを正しくコントロールすることが出来るため問題はないのだが、現状は軍拡競争の中で知的な発明品を得てしまうことがある。

シルバーバーチは「各国の命運を握っている指導者たちが、霊的な叡智に目覚めれば解決できる・・・それしか道はない」(到来222⑬~⑭)と述べる。カギは地上世界に霊的知識が普及することに尽きる。

 

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<注1>

作家の五木寛之氏は『玄冬の門』(ベスト新書2016年刊、124頁~130頁)の中で、「生命エネルギーの永久運動ということを考えています」「自分がいなくなれば無になるけれども、それは大きな海の中で海水に溶け込んでしまって、そこでもう自分はなくなる。でも、その海水はまた水蒸気となり、雲となり、雨となって降り注いで、また一つの命になる」「自分が消滅する。海のような大きな世界の中に溶け込んでしまう」「自分の生命が溶け込んで消えてしまう。自分は消えるけれども、今度は大いなる海の中に溶解してしまって、大きな生命の循環の中に何か、自分の個性ではなく、個人ではなくて、生命エネルギーみたいなものが繰り返し循環する」「自分の終わりではあるが、生命の終わりではない」と述べている。

 

この五木寛之氏の「生命観(大河の一滴)」という考え方は、シルバーバーチの「個的存在が消えてなくなる時は永久に来ません。反対に完璧に近づくほど、ますます個性が顕著になっていきます」(新啓示163⑬)や、「人間は霊的に成長することを目的として、この世に生まれてくるのです。成長また成長と、いつまでたっても成長の連続です。それはこちらへ来てからも同じです」(語る348⑪~349②)とは異なる。

 

<注2>

国学院大学日本文化研究所編『神道事典(縮刷版)』(弘文堂)によれば、祖霊とは先祖の霊であり「個性を持たない霊魂を言うことが多い」「死んでから一定年数(多くは33年)以内の供養の対象となる死霊と区別して、個性を失ったものを祖霊」「祖霊がさらに神霊へと昇華する」「神格化した祖霊が、氏神や村落共同体などにより祖神や氏神として祀られる」とある。また「祖神」とは「生きている人間との広い意味での系譜的つながりにおいて捉えた概念」で、祖神は「親神(おやがみ)ともいう」(390頁参照)とある。

 

柳田国男は「人は亡くなると祖先神となって山に鎮まり自然神である山の神となる」「春先には里に降りて来て田の神となり、子孫の農耕生活を守護し、そして秋の収穫後は再び山に戻って山の神となる」として、地上にいる一族との間で行き来すると述べる。

『柳田国男事典』(勉誠出版1998年刊)の「山の神・田の神」参照。

 

<注3>

母胎からは月に一個の割合で卵が作られる。不妊治療では排卵誘発剤を用いて複数個の卵を作り、まとめて体外受精させる。受精した一個を母体に戻して余った受精卵は凍結保存される。最終的に不要となった受精卵は廃棄されるか、または研究用に使われる。

2004年7月の「生命倫理専門調査会の最終報告書」では「14日目までの初期胚は“人そのものではない”が、“人の生命の萌芽”として尊重されるべき存在である」という。医学雑誌を読むと、14日目という根拠は「人の胚は体外では発生後14日目までしか生きられない」であり、当然に実験も14日目までに限られることになる。前述の最終報告書により初期胚は「人」ではなく「物」となるので、胚を研究用に用いても何ら問題はないとの解釈になる。この区分けは、ひところ賑わしたES細胞研究の大前提となっている(→各種組織の細胞に分化する能力を持つ胚性幹細胞:Embryonic Stem Cellは、頭文字をとってES細胞と呼ばれる)。これに対してIPS細胞は、患者の血液や皮膚の細胞から作ることが出来る万能細胞のこと。この細胞は再生医療の分野で現在注目を集めている。

 

<注4>

15世紀の西欧社会では、キリスト教徒としていかに死ぬか、臨終の際にどのように振舞うか、また死に行く者の為に神はあらかじめ天国を経験させる、といった内容の往生術を説いた小冊子や手引書(=アルス・モリエンディ)が数多く発行された。

日本では平安中期に現れた源信は『往生要集』の末尾で、臨終時に於ける念仏生活の心得を説いた(→末尾の「臨終の行儀」は後世に大きな影響を与えた)。同じ頃現れた浄土信仰に基づいた仏画の「来迎図」も臨終時の往生を約束する絵図として利用された。

――出典:平凡社『世界大百科事典』の「アルス・モリエンディ」「臨終」の項目――

 

<注5>

シルバーバーチが現代人に霊的教訓を説いた頃(1920年~1980年)は、生殖技術の萌芽期であり、霊訓では具体的な問題としてはあまり触れられていない。しかし「人間の始期を受精時」とする立場からは、当然に体外受精で作られた複数個の受精卵も権利の主体たる人間となる。シルバーバーチが言う「人間の始期を受精時」とする立場は、カトリックでも述べている。ヴァチカンの教理聖省が1974年に出した「堕胎に関する教理聖省の宣言」によれば、「受精の瞬間から人間的生命の冒険が始まる」(6頁)とある。その後ヴァチカンはこの見解を発展させて「ヒト胚の研究利用」や「人工妊娠中絶」等、現代の生命科学が直面する倫理上の問題に関して積極的に自らの主張を展開している(ホセ・ヨンパルト、秋葉悦子共著『人間の尊厳と生命倫理・生命法』成文堂2006年刊参照)。

 

<注6>

◆新鮮で健康な臓器が最も移植に適している

移植される臓器は、新鮮で健康な臓器が最も移植に適している。そのため生体エネルギーが最も旺盛な若者で事故死した臓器がベストな「人体パーツ」となる。一般にそのような若者は物的執着が強い。

中国でたびたび問題に上がっている“ドナーが死刑囚”の場合(→城山英巳著『中国臓器市場』新潮社、2008年刊参照)、体制批判者や思想犯を除く死刑囚に見られる全般的な傾向として、極端に物欲が強い者や衝動的な行動を取る者、他人への迷惑などお構いなしの利己主義者などが多く目に付く(→但し獄中に於いて生前に自分の犯した罪の大きさを自覚して“悔い改めの糸口”を掴んだ者を除く)。このような者から臓器を取り出せば、自己の所有物という執着が強い分だけ、摘出された臓器に「オレのモノをどこに持っていくのだ」という「意識」が強烈に付着する。その付着した状態でレシピエントの体内に取り込まれる。臓器と共に取り込まれた「意識」は「この臓器はオレのモノだ。誰にも渡さない」と強烈に自己主張を始める。このように「物的な臓器+半物質状の幽質+意識」がセットになって、摘出された臓器が存在する場所に死者の意識も存在することになる。このドナーの臓器から発せられる意識を霊的敏感者は感じ取る。

 

◆ニュース報道

2016年3月の海外からのニュースによれば、移植によって実際にドナーが持っていた“キウイフルーツのアレルギー体質”が患者に引き継がれたという報道があった。

 

◆「ある心臓移植患者の手記」

以下の記載は「ある心臓移植患者の手記」として出版された書籍(クレア・シルビア著、飛田野裕子訳『記憶する心臓』角川書店、1998年刊)からの引用である。

 

1988年原発性肺高血圧症に冒された50歳のクレア・シルビアは、生き延びるために心肺同時移植手術を受けた。手術は成功して順調に回復したシルビアは、次第に嗜好が変化してきたことに気付いた。

例えばあまり飲まないビールが突如飲みたくなり、また大嫌いだったピーマンが大好きになったこと。手術前はファーストフードの店に行ったことがなかったのにもかかわらず、手術後初めて乗った車はいつの間にかケンタッキー・フライドチキンに乗り入れていたこと。そしてやたら活動意欲が湧いて片時もじっとしていられず行動的になったことなど、移植前と比べて明らかに性格が変化した。

シルビアの手記には「自分の嗜好、性格に生じた変化から、ドナーはきわめて健康な人だったのだろうか。活動的な人だったのではないだろうか。もしそうなら、今のわたしが異常なまでにエネルギッシュなのも納得がいく」と綴られている。

 

シルビアは手術後の回復期に、見知らぬ若者が出現する不思議な夢をしばしば見た。その若者こそ自分のドナーであるとの直感的確信を持ったシルビアは、病院にドナーの身元を問いただした。

病院側は臓器移植に関する「規則」の存在を理由にして情報開示を拒んだが、「メイン州に住んでいた18歳の少年で、バイク事故で亡くなった」ことだけは聞き出せた。

その情報を手掛かりとしてシルビアは公立図書館に出向いて、移植手術を受けた週の地元の新聞を調査して「若者のバイク事故」の記事を見つけ出した。その記事を手掛かりにしてドナーの家族を探し出した。

 

シルビアは亡くなった少年の家族に連絡を取り、訪問して家族に夢の話をすると、その内容は18歳のバイク好きな若者像とことごとく一致していた。また若者はチキンナゲットに目がなかったこと、ピーマンが大好物であったことが分かった。

さらに事故処理に当たった警察や関係先の調査などから、死亡した若者はスピード狂として知られていたこと、未確認情報としてドラックかアルコールに浸る生活をしていたらしいこと、このような点から見て相当問題ある若者であったことなど。

この一連の調査の結果、シルビアは手術後に食べ物や好みが変化し、性格まで明らかに変化したのは、心臓や肺と共に「ドナーの性格や嗜好までレシピエントに受け継がれたのではないか」と記している。

 

 

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『シルバーバーチの霊訓』講座、講義用ノート:目次

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