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第4講:霊的摂理・霊的存在

目 次

1.霊的摂理(法則)について

①.普遍性を帯びた究極の“愛”は摂理となる

②.因果律は基本的な法則

③.自己責任の原則

④.「因果律の拡張」と「業因縁の継承」の問題点

⑤.自由意志の法則

⑥.動機と道義心

⑦.親和性の法則

⑧.愛の法則

 

2.霊的存在について

①.「天使的存在」と「人間的存在」

②.守護霊

③.背後霊

④.支配霊

⑤.指導霊

⑥.指導霊崇拝批判

 

3.「霊格」と「形体」と「居住環境」の関係

①.霊界は一つ

②.霊性レベルに応じた生活の場

③.界層の移動

 

<注1>~<注3>

 

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1.霊的摂理(法則)について

①.普遍性を帯びた究極の“愛”は摂理となる

<前回のポイント>

19世紀半ばに始まった霊界主導による「近代スピリチュアリズム」の普及運動は、「霊的知識の普及」と「霊的知識を日常生活に活かす」ことを“車の両輪”として展開されてきた。後者の「(学んだ)霊的知識を日常生活に活かす」ことは、その人の生き方を大きく変化させることになる。

 

シルバーバーチはイエスの訓えを引用して「この世を旅する者であれ、この世の者となる勿れ」(419⑨)と述べた。多くの人たちは「死は終着駅」と考えるが、霊的知識を身に付ければ「死に対する見方」も変わってくる。スピリチュアリズムでは「死は通過駅、死の先にも人生がある」と説く。死後個性の存続(=死後にも人生は続くこと)は今をどう生きるかの問題に繋がってくる。ここからスピリチュアリズム思想は「実践哲学」であるとされる。

 

<行為が霊的法則に合致するか否か>

シルバーバーチの基本的な神観・宇宙観は「神(創造者)/宇宙(被造物)」であり(5198⑤~⑥)、被造物である「宇宙には厳然とした目的がある」(6128⑪)。ここから神は何らかの目的によって宇宙を創ったとなる。そしてこの宇宙は神の意志が顕現した法則によって支配されている(7190②)。

 

推測するに神の意志とは、何らかの目的のもとに宇宙に“神の属性(→愛、憐れみ深さ、寛容さ、叡智、公正さ、正義、優しさ、協調など)”を隈なく顕現させることではないだろうか(→宇宙に神の属性を100%顕現させること)。その為の手段として「霊的法則(神→法則⇔万物)」という仕組みを創った。法則を介在させることによって、全ての存在物は“行為”がこの霊的法則に合致していれば霊的な成長がもたらされ(→個別霊や集合魂としての成長のこと)、その“行為”が霊的法則に合致しなければ何事も成就しないという形で、依怙贔屓なく機械的に作用することになるから(メッセージ143⑬~⑯)。

 

それではなぜ万物は“霊的成長の道(→神の属性を意識の領域に100%顕現させる道)”を歩むのか、という基本的な疑問が出てくる。この問いに対しては、万物には集合魂や個別霊の中に潜在的に霊を内在している。それ故に生来的に霊を“意識の領域に顕在化させる力”が“霊的本能”となって表れるから。その為に等しく霊的成長の道を歩まざるを得ない仕組みとなっているからという結論になる。

 

<公平性が担保されるという形で>

このように神と万物の間に霊的法則を入れることによって、万物の霊的成長に関して均しく“公平性が担保”されることになる。この霊的法則の裏側には万物に対して依怙贔屓なく霊的成長の機会を与えるという「神の愛」が存在する(→愛は“普遍的な愛”や“血縁的な愛”など、多彩な形態を取って私たちの前に現れる。その究極の形態が“神の愛”となる)。

シルバーバーチは「神は無限なる愛」(6153①)であり、「(普遍性を帯びた)愛とは摂理のこと」(8126⑪~⑫)であると述べる(神=愛=法則)。ここから究極の愛である神は、万物の前に霊的法則という形で登場することになる(1150⑧、6185③~⑤)。霊的法則が介在しているため、神と万物が直接相対することはない(→“神との取引”といった観念は人間神から生れたもの:注1)。

 

<普遍性を帯びた愛へ>

一本の線上の左端には物質性を帯びた究極の「利己的な愛(束縛し隷属を求める一方的な愛)」があり、その隣には「血縁重視の愛(仲間や身内重視)」がある。さらに右に進めば一定の広がりを持つ「郷土愛や偏狭な愛国心」、そして被災地で献身的に活動するボランティアなどに見られる「利他的な愛」へと進んでいく。さらに右に進めば徐々に“愛”に内在する利己性が薄れて利他性が増して行き、普遍性が一段と帯びてくる。“愛”の対象も特定の個人から万人に、すべての生き物に、自然に、宇宙へと拡大していく。その右端には「利他的な愛(与えるだけの愛)」の極致である“神の愛”がある(→愛は自己愛に始まり、そして共存共栄へ、さらには一方的に与えるだけの愛へと進化していく)。

 

このように右に行けばいくほど“愛”を受け取る対象が拡大して、公平性や普遍性といった無機質さが前面に出てくる(→規則性や法則性という側面が強くなる)。このように考えると究極的な“愛”の表現は“法則”となる。神が宇宙を統治する仕組みとして創った「神→法則(摂理)⇔万物」という図式には、神の万物に対する“究極の愛”が表現されている。なぜなら「神=愛=摂理」(1150⑧、154⑥~⑦、6153①)だから。

この“法則”として現われた“愛”が不完全な世界に行くに従って、“法則”の裏側に隠されていた“温かみ”が表面に現われてきて、次第に特殊性を帯びてくることになる(→“愛”を与える者と受け取る者との距離が近くなるに従って、個人に特有な個別事情が考慮されるようになるから)。

 

②.因果律は基本的な法則

<目的は霊性の進化にある>

因果律とは「原因はそれ相当の結果を生み、自分が蒔いたタネは自分で刈り取る」(182③~④)ことであり、数多くある霊的法則の中でも基本的な法則の一つである。その因果律の根本には霊性の進化という目的があるため(1180⑥~⑦)、高級霊といえども“原因と結果”という過程に介入することは出来ない(7186⑪~⑫)。そのため行為者は永遠の旅路のどこかの時点で必ず「蒔いたタネの刈り取り」を行うことになる(注2)。必ずしも短い「地上生活期間中に(因果律が)成就されるとは限らない」(1179⑪~⑫)。

 

<カルマと善根との関係>

宇宙は「原因と結果の法則」を基本として形成されているので、何らかの原因を作れば機械的に相応の結果が発生する。何らかの“カルマ(=霊的負債)”を背負えば、それは本人自身が必ず返済していかなければならない(→日本的な心霊の世界ではカルマと善根との関係は「大難は小難に、小難は無難に」として、アレンジされて都合よく使われている)。

大きなカルマを背負った人間が何かのキッカケで「愛と奉仕の生活(善根を積む)」に入った場合、両者の関係はどうなるかとの質問に対して、シルバーバーチは「ある人が急に愛と奉仕の生活に入ったとすれば、それはそれなりに業の消滅に寄与するでしょう。しかし、いっぺんにというわけには行かない。愛と奉仕の生活を積み重ねていくうちに徐々に消えて行き、やがて完全に消滅する」(480⑧~81⑤)と述べている。

 

Aさんは何らかの原因があって、結果的に莫大な借金を作ってしまった。それ以降生活を改めて「愛と奉仕の生活」に入って行ったとする。Aさんの愛と奉仕の生き方に感銘した支援者が、借金の返済で困窮するAさんに新たな就職口を世話したり、家族の面倒を見てくれたりと、何くれと手を差し伸べてくれた。その結果、時間はかかったもののAさんは何とか莫大な借金を完済することが出来た。このようにAさんが最初に作った「原因(マイナスのカルマ)」は機械的に「結果」をもたらすが(→返済が免除になるわけではない)、同時並行的に「愛と奉仕の生活」が新たな「原因(プラスのカルマ)」を作り、前者の「原因(マイナスのカルマ)」の刈り取りの過程で、後者の「原因(プラスのカルマ)」の刈り取りが始まり、結果的に時間はかかるものの前者の「原因(マイナスのカルマ)」は完済する。その完済までの過程は「善根(プラスのカルマ)」によって楽になる(→家族の面倒や生活全般の支援を受けることによって、収入の大半を返済に回せるから)。これをトータル的に見れば「善根(プラスのカルマ)」によって、あたかも前者のマイナスのカルマが消えていくように見える。

このことをシルバーバーチは「(マイナスのカルマは)愛と奉仕の生活を積み重ねていくうちに徐々に消えて行く」と述べたまで。供物を神前に供えて一心不乱に神仏に祈願し、または長時間の祈りをすれば、自動的に「大難は小難に、小難は無難に」なるわけではない。なぜならこの世は行為が主の物質の世界だから。

 

<因果律は国家や民族に対しても働く>

戦争や過去の植民地支配などによって引き起こされた行為は、当然に個人の集合体である国家や民族に対しても何らかの結果(=因果律)となって返ってくる(482①~②、433⑮~34①)。霊的摂理に逆らった行為を行えば、その行為の主体が「個人・集団・民族・国家」を問わず、いつかはその代償を支払わされることになるからである(語る93⑨~⑩)。

 

<複合的に働く因果律>

ある国家や民族に生まれると言うことは、その国家や民族が過去に作ってしまった因果律を“大枠”として用いながら、その枠組みの中で自らの因果律の解消を図っていくということである(→因果律の大枠による縛りの強弱は、市井で暮らす庶民であれば影響は薄いが、国家の意思決定に携わる公務員であれば縛りは強い)。このように複合的に働く因果律を駆使して自らの霊性の向上に努めている。

例えば対外折衝という形で国家の意思決定に携わる公務員は、相手国との粘り強い交渉という外交の場を使いながら、自らが有する因果律の解消を図っていく。その他の国民は重苦しい雰囲気を受忍するという行為を通して(→その受忍の過程で自らが有する因果律の解消を図る)、過去に国家が作った“縺れた糸”をほぐしていくという形で。

 

③.自己責任の原則

スピリチュアリズムには「自己責任の原則」という摂理がある。これは原因を作った者が自ら償いをして刈り取らなければならないということであり、他人が“原因を作った者”に代わって刈り取ることではない。シルバーバーチは自分のすること、言うこと、考えることに責任があり、他人の魂のすることに責任を負うことはない、責任は個々に於いて背負うというのが摂理であると述べている(658①、658⑥~⑦)。

何らかの摂理に反した行為を行った本人は(注2)、この世かあの世かを問わず永遠の旅路の中で、自らが正していかなければならない(5196①~②、5214④)。これが「各自が各自の人生の重荷を背負う」(659⑫)ことの意味になる。

 

地上生活中に何らかの霊的負債を作ってしまったAは地上に再生して、または霊界から“問題ある地上人”の背後霊となって、自らも苦しみながら指導を行うという形で完済して行かなければならない。類魂の他のメンバーである「BCD・・」がAに代わって霊的負債を返済してくれると言うことはない(→マイナスのカルマは作ってしまった本人が自ら償う)。

 

④.「因果律の拡張」と「業因縁の継承」の問題点

<祖父が作ったカルマは自ら償う>

宗教では「先祖から流れてきている悪因縁は、身内の誰かが消さなければならぬ」として、この流れを断ち切るには「布施心が悪因縁を解消する最も良い方法」であると言われている。世俗的な心霊の世界でも、頻繁に「親の因果が子に報う(→先祖が犯した悪い行いが原因で、何の罪もない子がその報いを受けて不幸になる)」が説かれている。

 

これに対してシルバーバーチは、原因(=因縁)を作った者は自ら償いをして刈り取らなければならないという「自己責任の原則」(658①、658⑥~⑦、659⑫)を述べている。この「自己責任の原則」から見れば、孫は祖父が蒔いたタネ(因縁)を祖父に代わって刈り取ることはできない。祖父の因縁は祖父自ら何らかの形で、霊界でまたは再生して刈り取りをすることになる。

 

<大枠やマイナスの型を使って因縁解消>

孫は再生するに際して自身の因縁を解消するためには、日本という民族集団が有する大枠としてのカルマを使って、さらに「祖父の家」に存在する“カルマの流れ(→例えば代々の当主は極端な吝嗇家であり、そのために作り出されたカルマの一種である「家にまつわるマイナスの型・パターン」のこと)”を利用しながら、自分自身のカルマの解消をはかるのが最も適していると「本来の私(=個別霊、狭義のインディビジュアリティ)」が判断して再生したもの。

世俗的な心霊の世界で言われている血縁を重視して「祖父の家」に再生したのではない(→通常は“祖父という霊魂”と“孫という霊魂”の間には血縁関係はない)。このように世間で言われている「因果律の拡張」や「業因縁の継承」は、シルバーバーチが述べる「各自が各自の人生の重荷を背負う」(659⑫)という因果律の原則から見ると問題がある。

 

⑤.自由意志の法則

<自由意志を使って霊性の向上を目指す>

霊的摂理には「自由意志の行使」という法則がある。人間はロボットではないので、一定の枠組みの中で神からの授かりものである自由意志を有している(3162⑨、435④)。これを用いて自らの行為により霊性レベルのアップをはかっている。当然にその使用法を誤れば霊性の停滞を招き、それ相応の責任が発生する。これは個人であろうと国家であろうと同様である(3162⑩)。自由意志は「本来の私(=狭義のインディビジュアリティ)」という“魂(=意識:語る425⑦)”が進化した分だけその行使範囲は広くなる(164⑩~⑫)。

 

<自由意志と宿命との関係>

しばしば自由意志と宿命との関係が問題となる。再生に際して「本来の私」は指導霊の助言を得ながら「出生に際してのテーマ」を設定する。テーマとは霊性向上のために「新たな地上体験を積む(→潜在的大我の発達にとって必要な資質を身に付ける:1109⑧)」ことや、「地上でしか償えない霊的負債の完済を図る」ことなどである。

これらのテーマを再生人生の中で達成するため、「本来の私」は最も適した「試練、寿命、性別、両親、体質など」を選定する(→過酷な体験の中でテーマをクリアしていく道を選べば当然にハンディキャップは厳しいものになる)。地上に誕生した「現在の私(=パーソナリティ、本来の私の一部)」は、「本来の私」が設定した大枠としての地上人生に沿って(→この大枠は現在の私から見れば宿命となる)、遭遇する試練に対して自由意志を行使しながら乗り切り(485①~②)、“再生テーマ(=地上体験を積むことや、カルマの解消を図ることなど)”の達成を図っていくことになる。

なお地上人生を歩む上で有するハンディキャップは、自らのカルマの解消の為であると同時に、一般人の“利他的行為を誘発させる”という二面性を持っている(→周囲の人の冷淡な行為は、霊的エネルギーの流入経路の目詰まりを起こしてしまい、個々人の霊的成長を阻害するから)。

 

<自由意志の行使という二つの側面>

このように「本来の私」から見れば、あらかじめ地上で辿る“大枠としての地上人生”を承知して誕生することになる(1109⑦~⑩)。これを「現在の私」から見ればこの大枠(=宿命)は“背負わされた荷物”ということになる。このように再生に際しての自由意志の行使の問題は、まず「本来の私(=狭義のインディビジュアリティ)」が行使する側面と(1109⑨)、他方「現在の私(=パーソナリティ)」が行使する側面の二方面から考察する必要がある。

 

例えを使って説明すれば、「再生人生のテーマ」を攻略するために出兵した「本隊(=本来の私、狭義のインディビジュアリティ)」は、本隊自らの自由意志によって攻略の為の作戦計画を立てる。本隊から敵陣地の攻略を命ぜられた「突撃隊(=地上に再生中の現在の私、本隊に所属する小編成の部隊)」は、本隊が立てた大枠としての作戦計画(→突撃隊から見れば宿命)に従いながら、遭遇する個々の戦闘行為に臨機応変に自由意志を行使しながら対処していく(→現場の人間の限られた範囲での自由意志のこと)。

このように再生に際しての自由意志の行使の問題は、「本隊たる本来の私(=インディビジュアリティ)」が行使する側面と、「突撃隊たる現在の私(パーソナリティ)」が行使する側面の二方面から考察する必要がある。

 

⑥.動機と道義心

<地上世界と霊界との違い>

人間は物的身体をまとった霊(=個別霊)である。霊界は親和性を有した同一レベルの霊が集まって生活している均一な世界であり、地上世界は霊的成長レベルの多様な霊が親和性の有無にかかわらず、同一構造にある物的身体を身にまとって生活している混在社会である。

このように地上はさまざまなレベルの霊が同一平面上で生活しているため、私たちは霊界では体験できないことを直接あるいは間接に体験することができる。そのため地上世界は霊性を向上させる為の“学びの機会”に数多く出合える場となっている。

 

<到達した霊性レベルで判断>

このような混在社会において善悪の判断の適用に際しては、万人に共通した“出来合いの尺度”を用いることはできない(5217⑪~218④)。なぜなら“出来合いの尺度”によって“善悪や正誤”を判断すれば、ある人には厳しくある人には緩いものとなってしまうから。そのため善悪の判断基準をその“個別霊が到達した霊性レベル(→狭義のインディビジュアリティが到達したレベルを基準にする)”からチェックする必要が出てくる(5218⑤~⑥)。

 

シルバーバーチは常に「動機は何か」を問題とする。例えば「それはその動機が問題です。いかなる問題を考察するに際しても、真っ先に考慮すべきことは“それは霊にとっていかなる影響をもつか”ということです」(6121②~③)と述べる。そして善悪の判断基準を行為時における「判定装置(道義心)」(760⑪)に求めている。このように人の思考や行為の根本に存在する原動力(動機)を道義心でチェックするという図式になっている。

 

<道義心とは>

ある人が何らかの行為をしたとする。その場合にまず“行為の背後にある動機”は何かを確認する。次にその動機は道義心に適っているかをチェックする。具体的には、その動機から行為者は「自分は正しいことをしている」と思って行動を起こしたのか、または「いけないことと知りつつ行う」形で行動に移したのかをチェックする(→前者は動機が道義心に反していないケース、しかし事例によっては霊性の未熟さが存在するケースもある。後者は道義心に反したケースとなる)。

 

シルバーバーチは道義心を「霊的自我の中に絶対に誤ることのない判定装置」(1294①~②)という意味で用いている。霊的自我のレベルが高い霊(→意識の領域に神の分霊の顕現の度合いが高い霊)は“霊的意識(インディビジュアリティ)”のレベルも高いので、道義心を“行為時の霊的意識レベル”と言いかえることもできる(12224②)。

したがって「〇〇のためという動機で行った行為」については、それまでに到達した霊的意識レベルを指標として、その“動機の純粋性”をチェックすれば良いことになる(→通常の意識状態では自己のインディビジュアリティの意識レベルは分からない、そのため霊的意識が発する“良心の声”ということになる)。図式的には「道義心(インディビジュアリティ)―→行為の原動力である動機―→ある行為」という流れになる。

 

<個別事例>

Aさんは「兵役に就くことは国家への奉仕」なのだとの考えから、「母国を守るためには敵を殺めることも一国民としての義務である」として戦場に赴いた。これに対してBさんは「戦場とは人が殺し合う場所である、故に徴兵を忌避する」として軍隊への出頭命令を拒否した(→なお多くの国では、徴兵逃れは刑法犯となる)。

 

このように相反する二つの行為をどのように理解したら良いか。判断基準は何か。これにつき高級霊は「徴兵を拒否した人の方が軍人より進化の程度において高いこともあれば低いこともある。しかし、互いに正反対の考えをしながらも、両方ともそれなりに正しいということもあり得る」(5218⑪~⑬)。そして「あなたにとっては正しいことも、他の人にとっては間違ったこともある。なぜなら、あなたとその人とは霊的進化のレベルが違うからです」(5218⑨~⑩)と述べている。Bの徴兵拒否の動機は何か。その動機は道義心(基準は人により異なる)に適っているかがポイントになろう。

 

⑦.親和性の法則

<基本的な法則>

霊的摂理に「親和性の法則」がある。これは霊的成長度が同じで親和性を有する者との交流が為されている霊界では基本的な法則だが(最後啓示149①)、霊界とこの世との間でもこの法則は働く(5234①~③)。

例えば人の為という願望は自動的に同じ願望を抱く霊を引き寄せる(129⑤~⑥、217⑤~⑥)。そのプロセスを地上側から見ると、まず霊を引き寄せる為には“地上人の何らかの行動や強い思い”が存在する(=先行する)必要がある。最初の一歩は地上側で「必要な条件を人間側が用意する」ことから始まる(2209⑨)。なぜならその行動や思いに共鳴した霊界人が親和性によって引き寄せられるから。霊界人から見れば地上人の霊的成長度はオーラから一目瞭然にわかるので、それだけの“資格”がなければ霊界人は引き寄せられない。これが基本となる。

 

地上人が人のために行う行為は、地上人のみならず霊界人にとっても霊性向上のチャンスとなるので、同じ願望を持つ霊を引き寄せることになる。なぜなら親和性によって引き付けられた霊界人は、地上人の“利他的行為を援助する”という行為を通して、自らの霊性レベルを引き上げることができるから(→霊界人も霊性向上のため常に“人世のため”に働くことを願っている)。そのため霊界人はたえず霊的エネルギーの“通路・道具”となる協力者を求めている。

 

<憑依(親和性の法則の一種)>

地上の人間の一日は、高尚な意識状態から動物性を過度に発現させた意識状態の間で、絶え間なく揺れ動いている。人の魂を揺さぶる行動や話を見聞きすれば意識は高揚する。これに対して過度のアルコール摂取は、自らの“理性の蓋”を開放して動物性を強く発現させることになる。そのため人間はあらゆる霊的レベルにある霊からの影響力にさらされていると言うことが出来る。しかし「実際に引き寄せるのは自分と同じ霊格を持った霊だけ」(894⑭~⑮)であり、「両者の間に親和関係がある場合に限られる」(語る435⑦~436③)。

 

親和性の法則には、原因があればその“原因の性質”に応じた結果が発生するという関係がある。原因を発する者の行為や言動に応じた霊界人が引き寄せられるという関係は憑依現象にも言える。なぜなら憑依現象は親和性が“マイナスの作用”となって表れたものだから。これに対して霊界人の援助は親和性が“プラスの作用”となって表れたもの。

親和性があると言うことは人間の堕落した生活が同類の邪霊を引き寄せることになるので、人間の側から餌をまかなければ憑依は防げることになる(霊訓上48⑫~⑭、50⑥~⑧)。

 

この現象は「音叉(おんさ)」を使った実験で説明することが出来る。物理の実験でよく行われる“固有振動数が同じ共鳴箱付き音叉”を二つ用意して、片方を鳴らすと空気の振動を伝わって他方の音叉もなり始めるという現象と同じである(→音叉の固有振動数が違う場合は共鳴しない)。

このように「地上の罪悪と悲劇の多くは邪霊が同種の人間に働いた結果に他ならない」(霊訓下156②~③)ので、その「悪循環を断ち切る方法は人類全体の道徳的意識の高揚と物的生活の向上に俟つほかない」(霊訓上50②~③)。その為には“車の両輪”である霊的知識の普及活動と、その知識を日常生活に活用する為の実践活動、その双方の普及は混沌とした世情を打開する為の“急務の課題”となっている。

 

⑧.愛の法則

<愛の多様な形態>

愛には普遍性を帯びた高い霊性を伴った愛から、血縁関係から発する“閉鎖的で内向的な愛”まで幅広く存在する。家族的な絆に根ざした血縁的な愛よりも「奉仕的精神から発動した愛」には、霊性が高い分だけ“神の属性”がより多く顕現している(→排他性の内向的愛よりも発展性の外向的愛の方が上だから:1145⑪)。

愛には多様な形態がある。これを図式化すれば 「エロス(二人の世界)」< 「血縁的な愛(一族を対象とした消極的な利他的行為)」<「郷土愛や愛国心(地域)」< 「血縁や地域に関係ない奉仕的な愛(広がりを持つ積極的な利他的行為)」< 「より普遍性を帯びた万物に対する愛(法則)」となる。

 

<地上に通信を送る霊>

シルバーバーチは次元の異なる地上に通信を送ることは「(霊的波長から物的波長への切り替えを伴うことから)容易なことではない、大へんな努力を必要とする」ので、通信霊は必然的に「愛念を抱く者に限られる」(189⑨~⑪)と述べている。従ってこのような困難を乗り越えて送られてくる霊界通信の多くは、意識の関心が地上に向いている、物質臭の抜けきらない幽界の下層に居住する血縁者からのものとなる。ここに血縁重視の霊界通信が多くなる理由がある。

これは高校に進学した生徒が中学時代のクラスメートや部活の後輩の面倒事に、自分の休みを犠牲にしてまで駆け付けて世話を焼きたがる意識状態と似ている。

 

2.霊的存在について

①.「天使的存在」と「人間的存在」

<天使的存在>

個別意識を持った「個別霊」には、霊的成長に物的体験を不要とする「天使的存在(→キリスト教文化圏で受信したためこの表現となった)」(480②~⑦、新啓示124④~⑧、6163⑩)と物的体験を必要とする「人間的存在」(語る202⑤)がある。

 

この宇宙には物的身体を通した体験を持たなくても霊的成長ができる高級霊の界層が存在する。これらの霊は一度も物質界に誕生したことがなく、居ながらにして高級霊であり、宇宙の上層部に所属して「宇宙経綸の仕事(=霊的摂理の執行)」を担当する「天使的存在」と呼ばれている霊である(480④~⑤、新啓示124④~⑧)。

なお個別霊たる「天使的存在」も個性的存在であるが、翼のある天使は人間の想念体によって作り出したものである(メッセージ60⑦)。

 

<人間的存在>

霊的進化に物的体験を必要とする「人間的存在(=意識的生命体)」が住む惑星は、宇宙には地球だけに限らず数多く存在する(6170④~⑦)。地球以外の他の惑星に住む「人間的存在」は、惑星ごとの物的条件が異なるために普段私たちが見慣れている形体をしているわけではない(6170⑧)。しかし意識的生命体であるという意味では、我々地球人と同じ霊的要素と物的要素を併せ持った組織的存在であることに変わりはない(6170⑪~171①)。この宇宙には“天体(惑星、恒星、衛星、彗星などの総称)”はたくさんあるが、地球より劣っている「人間的存在」の住む天体は一つだけであるという(語る202⑤~⑦)。それだけ地球の霊的レベルは低いということになる。

 

②.守護霊

<誰にでも一人の守護霊が必ず付く>

人間には全員に守護霊が一人、受胎(=受精時:453⑩~⑪)の瞬間からあるいは地上に誕生する前から付いている(1179②~⑨、10138⑪*)。守護霊は個人の場合でも集団の場合でも、守護される側の霊格にあった霊がつく(霊の書208⑧~⑪)。多くの場合「再生する前まで顔見知りの間柄」(霊の書208⑦)にある霊である。ここから守護霊は同じ類魂のメンバーという説が有力に主張されている。守護霊は本人の特質を見極めた上で、本人の霊的進化に最も適した形で任命されて付く(道しるべ230⑬~⑭)が、守護霊も霊的に進化するために本人との間に霊的な関係を持つことになる。

 

両者の関係を例えればリング上で闘う“ボクサーA”と、リングサイドで闘いを見守る“セコンドB”という図式になる。Aは闘いの相手の一挙一動に全意識が集中しているため、巨視的に展開を見ることが出来ない。しかしBは介添人という立場で、闘い全体を俯瞰できる位置にいる。そのためAに対して的確な支援ができる(→敗色濃厚なボクサーにセコンドがタオルを投げて棄権の意思表示をするなどはその一例)。

 

<霊的回路を敷設する>

人間と守護霊との関係は、原則として霊的親和性によって結びつくが、例外として血縁関係による結びつきも存在する。人間と守護霊とは何を原理として結びつくかとの質問に対して、シルバーバーチは「それは霊的親和性による結びつきです。たまに血縁関係が縁になることもありますが、大部分は血縁はありません」(道しるべ228⑤~⑫)と述べている。

守護霊は一人のみで生涯変更はないが、守護霊の指示のもとに付く背後霊(指導霊)は複数存在する(1179⑤~⑥)。一般人の場合には霊的意識の向上によって(=魂の進化)背後霊は入れ替わっていく(霊訓上31④~⑤)。

 

守護霊はその人間が辿るべき道をあらかじめ分かっているが(1179⑥~⑦)、人間の方から日頃から守護霊との間に霊的回路を敷設しておかなければ(→思念を守護霊に向けるなど)、守護霊は影響力を行使できない(2209⑥~⑬)。両者の結びつきが強いほど守護霊は強い影響力を行使できるが(道しるべ228⑪~⑫)、多くの場合は霊的回路が敷設されていない。その為に守護霊や背後霊は霊力の行使に苦労しているのが現状であるという。このことに関して「守護霊の働きかけを全く感受できない場合は、霊力を使用して外部環境から操作せざるを得ない」(到来33⑨~⑬)との記述がある(注3)。

 

③.背後霊

<背後霊は入れ替えがある>

シルバーバーチは厳密に守護霊、指導霊、背後霊を区別していない。背後霊は主に地上圏に近い霊たちである(霊訓上31⑥~⑧)。地上人の霊的進化に見合った霊が霊的親和性によって援助している。霊それ自体には民族も国家も血縁関係もない(2130⑪~⑮)。これらは単に“肉体上の属性の差異”に過ぎない。地上人の一生に於いて守護霊は変わらないが(1179②~③)、背後霊は入れ替えがある(霊訓上31④~⑤)。

 

<二人三脚で霊的成長を目指す>

背後霊となる為には自薦他薦があり(2131②~④)、霊的レベルや担当する分野などはさまざまである(2130③~④)。背後霊も自身の霊性向上のために地上人を援助している(霊訓上30⑫~⑬)。さしずめ地上人は背後霊に“活動する場を提供”して、二人三脚で霊的成長を目指している“同志的存在”とでも言えようか。

 

本人が背後霊に気持ちを向けることによって両者間に磁気的な回路が架設されて、それが次第に強固になっていく(1135⑭、218⑭~⑮)。その磁気的な回路を通って支援のための霊的エネルギーが送られてくる。その際の援助や指導は霊界人の都合とタイミングで、あくまで霊的影響力の行使という方法になる(10166⑫~167③)。地上人が背後霊の霊的支援を受けて、困難に打ち勝って物事をやり遂げれば、地上人自身の成果であると同時に背後霊にとっても成果となる(→リング上で闘うボクサーの勝利であると同時にセコンドの勝利でもある)。

 

④.支配霊

<支配霊とは>

支配霊とは一般には「交霊会における霊界側の司会者」(田中千代松編『新・心霊学事典』93頁)とされる霊、または「霊団全体の指揮に当たる霊」(7176⑫~177③)のことである。シルバーバーチのような霊格の高い支配霊は本来の個性を犠牲にして地上圏に降りてきている(2119⑧)。いわば飛躍のための犠牲である。

 

<霊媒が他界した場合>

物理現象が盛んな頃は、支配霊は担当する物理霊媒が他界したら別の霊媒を探して仕事を継続していた(827⑪~28①)。しかし精神的心霊現象の場合には原則として霊媒が他界したら終了する。なぜなら精神現象を扱う霊媒は物理霊媒より支配霊との関係がはるかに緊密だから(828②~⑤)。シルバーバーチ(支配霊)の場合はバーバネル(霊媒)が死去すれば、支配霊としての仕事は終了する。シルバーバーチの仕事は高度な内容であった為、大変な労力をかけてオーラの融合を図って仕事を行ってきたことから、再び別の霊媒を探して通信を行うことはないという(828⑥~⑨)。

 

<支配霊の霊格>

支配霊の霊格は霊媒が行う仕事によって異なり、霊媒より高い場合もあれば低い場合もある。入神霊言霊媒の支配霊の霊格は必ず霊媒よりも高いが、物理現象の支配霊は必ずしも霊格が高い霊ばかりではない。物理現象を演出するには地上的要素が強く残っている必要があるから(7176⑨~177⑨、福音158③~159③)。

霊媒の背後霊を勤める熟練した支配霊の場合には「霊媒との調和の程度が高く潜在意識による着色が少ない」(メッセージ82⑪~⑫)という。人間的に問題がある霊媒の場合には「低級霊が支配霊のスキを狙って憑依してくる」(最後啓示158③~⑤)ので要注意。

 

⑤.指導霊

指導霊の役目は本人の霊的面からの監督指導である。指導霊は守護霊とは異なって、成長過程の一時期だけを担当する場合があり、次の段階になると霊は入れ替わる(到来21⑭~22⑤)。指導霊は親和性ある者どうしが引かれ合って、または前世の縁で自分を役立てたいという欲求に沿って人間を選択する(最後啓示89②~⑪)。指導霊自身も霊的成長のため自分の持っている資質を犠牲にして地上圏に降りてくる。地上時代に指導に当たっていた霊が、本人の死後も引き続き指導霊として担当する場合がある(続霊訓120②~③)。

 

⑥.指導霊崇拝批判

<指導・監督に誤りを犯すことがある>

霊的な理解は霊的発達程度に応じたもので(→神の属性の顕現が50%程度の霊格を持つ霊の理解力は50%程度)、その霊の霊的レベルが限界となるため高級霊といえども完璧ではない。そのため場合によっては指導や監督の際に誤りを犯すこともある(6207④~⑧)。絶対に誤りを犯さないのは創造者の「神」のみ(818⑤~⑥)。

 

シルバーバーチは常々指導霊は崇拝対象とされることを望まないとして、「指導霊の資格を得た霊は自身が崇拝の対象とされることは間違いであるとの認識を持っている」(821②~③)と述べる。そして「指導霊崇拝(818③)」や「イエス崇拝(3104⑨、5206⑧~⑨)」等の「高級霊信仰(高級霊崇拝)」を批判している。なぜなら最終的な責任者ではないからである。

 

<高級霊は取次役である>

シルバーバーチは「崇拝の対象は神」(1118②)であり、また「忠誠を捧げるのは神とその永遠不変の摂理」(498⑤~⑥)と述べて、両者を使い分けている。

日本的な心霊の世界では、霊能者は神と共に自分の指導霊も崇拝の対象としていることが多い。さらに多神教の世界では、スピリチュアリズム的に言えば高級霊である“八百万の神”も崇拝の対象としている。一つの解決策として高級霊(=指導霊)は“取次ぎ役”であるとの認識を持つことが、指導霊崇拝に陥るのを避けるポイントになる。

 

3.「霊格」と「形体」と「居住環境」の関係

①.霊界は一つ

<次元の異なる場が重なり合う世界>

定評ある霊界通信では「霊界(広義)」とは、霊的レベルが異なった数多くの“界層(=状態のこと:1093④~⑥)”がグラデーション的に連続して存在する世界であり(4143①~②)、「霊の世界は一つ、その表現形態は無限である」(4146⑦、語る229①)と表現されている。霊の世界(広義の霊界)は地上世界とは異なって地理的な分布ではなく(895⑥)、魂の発達程度に応じた“次元の異なる場”が重なり合った世界となっている(4147②、7195⑥)。

 

<物質的要素の濃い界層>

しかしグラデーション的に存在する霊の世界(広義の霊界)の中でも、私たちが関心を向ける場所は、物質的要素が濃い界層(→中間境や幽界など)に限られる。思いっきり想像の翼を広げて見ても、例外的に「再生・類魂(霊的家族)」との関係で扱う「霊界(狭義)」の入り口迄であろう。

このようなグラデーション的に広がる霊の世界の中でも、物質的要素の濃い低い界層を便宜「幽界」と呼んで区別している。「霊界(狭義)」や「幽界」という名称は「霊界(広義)」の中の小さな区域であり、分かり易く表記する為に特別に呼んでいる名称にすぎない(4127⑥、福音83⑤~⑥)。

 

その幽界と地上とが接する部分を特別に「中間境(または冥府)」と呼んでおり(永遠大道49⑫、50⑪)、そこでは霊的波長の調整が行われている(→イエスも中間境でしばしの休息をとっている:永遠の大道114⑭~⑮)。帰幽霊は中間境で休息しながら霊的機能を発達させて、不足しているものを補っている(続霊訓191⑩~⑮)。霊界通信に登場する「霊界の病院、休息所」(4145⑦~⑧、8116⑬)や、死と同時に魂自身が審判者となって地上時代を反省する(霊訓下221⑫~⑱)ためのエリアはこの中間境にある。

 

②.霊性レベルに応じた生活の場

霊の世界は霊性レベルに応じてグラデーション的に繋がった一つの世界、限りなく続く長い一本の梯子のような世界である。そこにはあらゆる次元の生活の場が互いに重なり合い融合しあっている(4148①~②)。

それぞれの界層には地上世界とは異なって、そこに住まうだけの霊的成長を達成した、その界の環境条件に相応しい者が霊的親和性によって一緒に生活している(1034③、福音23⑥~⑦)。同じレベルの住民の思念で生活が営まれているため(4126②、メッセージ55①~②)、思念の波長が合わない霊とは生活を共にできない(続霊訓99⑨)。そのため日頃生活する上で交わる相手は「霊的成長度と霊的能力に於いて同等な人たち」に限られることになる(福音30③、30⑪~⑫)。

 

霊の世界は思念が実在の世界であり(4124⑨)、心に思うことに実体が伴い実感がある。そこの住人の想いが周りの環境を作り上げてしまうため、「思念は環境を形成する」ことになる。住人は同じ発達レベルにあるため、丘や川などの客観的存在物はそこに住む住人にとっては同じように映り、同じように体験することになる(887④~⑤、889⑦~⑨)。

 

③.界層の移動

霊は意識がその界のレベルを超えて進化すると、そこを自然に離れていく(4126③、4143②)。意識が浄化されて向上するにつれて、より高い境涯への適応性が身に付くと自動的にその境涯に置かれることになるから(8116⑤、最後啓示40③~⑤)。

このような界層の上昇は「霊体が徐々に浄化され低俗な要素が拭い去られる」(霊訓下148①~④)という形で為されている。

 

自我の本体たる霊魂には形体はない。そのため霊格を向上させるには、第三者から見て客観性を備えた何らかの“形体(肉体、幽体、霊体、色彩、光輝など)”をまとって、物的体験や霊的体験を積む必要がある。形体は“意識の領域に霊が顕現する度合い”に応じて、グラデーション的に洗練度を増していく。それに比例して居住環境もグラデーション的にレベルアップして行く。なぜなら形体と環境は一致するから(→霊格の向上に応じて形体も居住する環境も洗練度を増していくから)。このように「霊格」と「形体」と「居住環境」という三者は密接に関連している。

 

― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― 

<注1>

古代地中海沿岸や中央アジア各地に広まった都市社会(→生産地と消費地を分離した生産物を消費するだけの集落)は、安全保障や信仰・交易などの観点から複数の集団が集まって、次第に共通の文化を持った「文明圏」への形成に繋がっていった(→古代社会における神観の拡大については、フュステル・ド・クーランジュ著、田辺貞之助訳『古代都市』白水社1995年刊参照)

大きな集団となった部族は都市を造り、その古代都市の中央には必ず神殿を設けた。他の部族も同様に都市を造り、自分たちを守護する「神」とそれを祀る神殿を設けた。古代社会では神殿を持つ都市だけが本当の意味での都市だと見なされた。ここから住民と「神」との密接な関係が見て取れる。「神」を祀る神殿には信者によって多くの家畜や貴金属などの供え物が捧げられて、その部族における富の集積所となった。これらの近隣都市における「神」や神殿は、相互にライバル関係に立っていた(→守護神VS守護神)。

 

■古代社会において民は、「神」を崇拝して神殿に供え物を絶やさないように努めること、その見返りとして「神」から恵みを得るという関係が両者にあった。一般的な見返りの例としては、毎年多くの収穫物があること、都市が経済的に繁栄すること、戦争に勝利することなどがあった。そこには「神」と人間が「直接相対する密接な関係」があり、そのベースには“御利益信仰(→神との取引という考え方)”があった。

 

■古代社会の戦争は部族どうしの存亡をかけた戦いであったと同時に、「神」と「神」との戦いでもあった。それぞれの部族は「我々の神は、我々を必ず勝利に導く」と確信して、「神」に勝利祈願を行い、戦士の士気を鼓舞して戦いに挑んだ。なぜなら兵力や戦闘技術に差がない戦いの場合には、団結力が戦闘の勝敗を決めることが多いからである(→われらの神は“戦いの神”であるので必ず勝利するというように、団結力を高めるために神が使われた)。

古代社会においては戦いに敗北するということは、自分たち部族が滅亡することを意味していた。戦いに負けた部族の都市や神殿は徹底的に破壊されて財産は没収された。たとえ生き残ったとしても奴隷として連れ去られて、戦勝国における重労働に使役されたり、神殿に生贄として捧げられるなど、過酷な生活を余儀なくされた。

その結果、敗北した部族側の神は、「自分たちの神は勝利を約束したはずなのに、その約束を実行しなかった」「約束を守らないようなダメな神だ」として、生き残った者たちから「駄目な神、無能な神」として見棄てられることになった。このようなことから「戦争で集団が敗北するとその集団が崇拝していた神は死ぬ」ことになるため、「古代における戦争は神と神との戦い」でもあった(加藤隆著『旧約聖書の誕生』ちくま学芸文庫2011年、230頁~)。

 

<注2>

■明治の初期、日本では横浜の写真師の三田弥市が、1879年(明治12年)に初めて心霊写真を撮影(湿板写真)している。三田は1879年(明治12年)1月に、程ケ谷宿(東海道五十三次の四番目の宿場:現在の横浜市保土ヶ谷)の真言宗の寺(天徳院)で住職を被写体にして写真を撮った。その写真の法衣姿の住職の左肩後方に、横向きのやつれた若い女性の姿が写っていた。和尚にはその女性が誰であるかすぐに分かったという。この時の写真が「我が国最古の心霊写真」であるとされるが、この話には後日談があった。

なおこの時の心霊写真のメカニズムは、霊界にいる若い女性霊が写真乾板に写り込んだ住職の後方に、周囲に居合わせた霊媒体質者から無意識に流出された半物質状のエクトプラズムを材料にして、意図的に姿を現したものであった。

 

■後日談とは「彼(和尚)は驚き悲しみ、かつ観念して、若き日に犯した罪を自首した。この和尚の前身は、紀州藩の武士安芸三郎であった。まだごく若いときに、お初という女と深いちぎりを結んだが、あるとき嫉妬の念に燃えて、彼女を殺してしまった。その嫉妬が誤解に基づいていた、と知った時、彼の悔恨は深かった。さりとて法の裁きを受ける気はなく、遁走して仏門に入った。爾来三十余年、ひそかに彼女の霊に詫びつつ、その成仏と己の罪障消滅を念じ続けていた。彼は、お初の幽魂の、なお自分の身辺を離れないでいることを見て、深い罪が、出家遁世くらいで消えるものではないことを、今更ながら知った。自首して間もなく、悶々の情の内に、彼は死去した。このことは、当時の仮名読売新聞に載っているということだが、他にまだこういう傍証もある。後年、弁護士の林逸郎が、当時警視庁警保局長であった古賀廉造とこの話をした時、古賀は確かにそういうことがあった、その幽霊写真は参考資料として警保局に送られてきたのだが、いまも保存されているはずだ、と語ったという」(田中千代松著『第四の世界』講談社1960年、163頁~164頁参照)。

 

■小池壮彦著『心霊写真』(宝島文庫2005年)22頁~35頁の記載によれば、この「後日談」には二つのストーリーが存在しているようである。なお小池はこの事件の報道資料を丹念に調査したところ、明治12年(1879年)114日付『仮名読売新聞』に事件が報道されていたことを突き止めた。当時の新聞報道記事が、『心霊写真』30頁~31頁に掲載されている。

 

<注3>

■多くの人たちは「精神(心)は物的脳によって生み出された副産物」であるとか、人は死とともに生命エネルギーの海のような世界に、個性を持った自分は溶け込んで消滅する(→但し個性を持たない生命としての循環はある)、などと言った説明で「死後個性の存続」を否定している。そのため個々人に守護霊が付いていることすら意識していない。本人は意識的に“守護霊に意識を向ける”ことをしていないので、両者の間に霊的回路が敷設されていない(→その結果、守護霊は本人に対して援助の為のインスピレーションを送ることが出来ない)。その場合はどうするか。窮余の策として守護霊は本人の周囲にいる人を通して援助のインスピレーションを間接的に届ける場合がある(→友人や知人の忠告がこのケースに当たる)。このケースに当てはまる実話を一部アレンジして次に掲げる。

 

■ある心優しい青年Aがいた。Aは多くの人と同様に「精神(心)は物的脳によって生み出された副産物」であり、「霊的世界」「死後個性の存続」「顕幽の交流」は宗教上の話と考えていた。ある時、Aは重大な問題を抱え込み自殺をしかねない迄に、精神的に追い詰められてしまった。この時Aの守護霊は何とかして自殺を思いとどめようとして、Aにインスピレーションを送ったが届かなかった(→守護霊とAとの間には霊的回路が敷設されていないから)。次善の策として守護霊はAの周囲にいる人の中から、霊界との間で霊的回路が出来ている人を探し出し、Bに白羽の矢を立てた。Aの守護霊はBの守護霊の了解を得た上で、Aの“自殺の阻止役”をBに期待してインスピレーションを送った。何らかのインスピレーションを感じ取ったBは、夜遅くにAに電話をした(→翌日でも良い程度の、軽い問い合わせであったとのこと)。電話に出たAからは日頃の優しさは全く感じられなかった。非常に硬い口調で事務的にBの問い合わせに応対していた。そのためBは、Aの取り込み中に電話をしたと勘違いして早めに電話を切ったという。後日Bはその時を振り返って、電話に出たAからは「鉄の板のような強い意志に満ちた印象」が感じられたと話していた。Bの電話の数時間後にAは飛び降り自殺をした。電話の着信履歴の最後に残っていたBに警察から連絡があり、初めてAの自殺を知った。八方手を尽くしたAの守護霊の努力の甲斐もなく、自殺の止め役のBにはAの自殺の強い意志を和らげることはできなかった(→BはこのAの強い意志を“鉄の板”と表現していた)。

 

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