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第7講:霊的成長について

目 次

1.霊的成長

①.永遠の旅人、霊的巡礼者

・地上人生と霊的旅路

・個性が顕著になって行く

②.「この世を旅する者であれ」

・「旅人」と「住人」の違い

・「終着点」と「通過点」の違い

③.霊性の開発とは霊性の向上のこと

④.霊的な覚醒、時期の到来

・霊的覚醒、霊的自覚

・店舗型の“待ちの形態”

・時期の到来、受け入れる用意

 

2.霊優位の生活

①.「霊が主・モノが従」の意識を持つ

・「霊主肉従」という言葉

・民芸品「起き上がり小法師」

②.霊的摂理を実生活に応用した生き方

・知識であるが故に多様な使われ方をされる

・知識を実生活の場で実践する

・知識と責任の関係

③.霊優位の修養的な生活、利他的行為

・最初の一歩は自己修養から

・二種類の利他的行為

・利他的行為の原則と特則の例え

④.なぜ困難・苦難・病気があるのか

・魂の磨き粉

・新しい意味付け

⑤.動機と道義心の問題

・混在社会における善悪の判断基準

・道義心

・一つの考え方

⑥.取り越し苦労、心配性がもたらす影響

・霊的エネルギーの循環

・通路を塞ぐ阻害要因

・ネガティブ思考

・回復する手段

 

3.精神統一(瞑想)

①.精神統一とは

・精神統一の必要性

・精神統一の目標

・「アンテナの錆び落とし」と「受信装置の周波数」との関係

・平均的な振動数に見合った霊

・技の修得と霊格の向上は別

②.精神統一の病的状態

・先人たちの体験から

・モーゼスの『霊訓』における瞑想

・『シルバーバーチの霊訓』における瞑想

 

4.祈り

①.祈りの目的、効用

・祈りとは

・祈りの効用

・定型的な祈り、御利益信心的な祈り

②.仲立ちを介した祈り

 

<注1

 

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1.霊的成長

①.永遠の旅人、霊的巡礼者

ア)地上人生と霊的旅路

A:重荷を背負って遠き道を行く

徳川家康の遺訓に「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし」という有名な文言がある。家康はこのような表現で人生の訓えを述べたが、霊的旅路という観点から見れば次のようなことが言える。

人間という個別霊は、自我の本体(意識の領域)に“潜在している完全性(神の分霊)”を顕在化させて行く為、意識レベルに相応しい何らかの“形体(→肉体や霊的身体など、霊的身体は洗練の度合いが増すに従って色彩や光輝によって包まれる)”をまとって体験を積み重ねながら、“霊性レベル100%”を目指して永遠の旅を続けている。家康の遺訓にある「重荷を負うて」をスピリチュアリズム的に解釈すれば、困難や障害と言う重荷を“魂の磨き粉”にして霊性を高めていく、という説明になる。

 

B:地上に生れてくる目的

シルバーバーチは地球上の全生命は「唯一の霊的ゴールに通じる道」(8巻33⑬~34①)を旅している。また「あなた方は永遠の旅路を行く巡礼者」(5巻227②)であるとも述べる。このような“永遠の旅路”の観点から見れば、地上人生はほんの一瞬のことに過ぎない。

地上は「学校」であるので、人生に於いては「何らかの荷を背負い、困難と取り組むこと」(1巻52⑨)が本来の姿となっている。なぜなら地上に生まれてくる目的は霊的成長にあり、その成長の連続が霊界に於いても永遠に続いていくことになるから(語る349①~②)。ここから「人生とは(困難や障害を魂の磨き粉とした霊的成長の)旅であり、闘争であり、発展である。その旅は常に上り坂である」(霊訓下222⑯~⑰)となる。

 

イ)個性が顕著になって行く

A:「神との合一」を否定

シルバーバーチは“創造した者”と“創造された者”が一つになるという意味での「神との合一」は、あり得ないと明確に否定する(福音177④、到来269⑧~⑨)。創造した親と創造された子供が一体化するということは、理性的に考えればあり得ないことは分かる。

それでは創造された者が永遠の旅路の最終地点で、“潜在的完全性(=神の分霊)”を“意識の領域”に100%顕在化させること、これは可能か(→親から生まれた子供が“完全な子供”になることは可能か)。しかしこれも有り得ないと否定する(新啓示164③~⑦)。なぜなら「生命は永遠にして無限」「完全へ向けて絶え間なく努力していくのであり、その過程に“終局”はない」(福音177⑨~⑩、到来269⑩)、“永遠の旅”には終わりはないからと述べる。

 

B:個性化の道

このように終わりなき旅路に於いて、人間という霊的存在(=個的存在、霊の客観的存在)はどうなっていくのか、消えてしまうのか。シルバーバーチは「オーケストラが完全なハーモニーで演奏しているとき、たとえばバイオリンの音は消えてしまうのでしょうか」(4巻64⑩~65②、語る319⑥~⑧)と述べる。バイオリンという音色(=個性)が消えてしまうことはなく、ますますオーケストラ全体に溶け込み調和が高まって行くと。

 

霊の客観的存在である個的存在は永遠に存在し「ますます個性が顕著になって」(新啓示163⑬~⑭)、内在する神性を発揮する“個性化の道”を深めて行く。その過程に於いて意識は徐々にレベルを高めていく。なお“意識(魂)”は「開発されるほど単純さへ向かう」と同時に、「奥行き(意識の深奥)を増していく」(6巻135④)。

 

②.「この世を旅する者であれ」

ア)「旅人」と「住人」の違い

A:イエスの言葉

高級霊はイエスの言葉を引用して「その昔“この世を旅する者であれ。この世の者となる勿れ”という訓え」(4巻19⑨、霊訓下176⑭)が説かれたと述べている。「この世を旅する者であれ」とは一時滞在者の「旅人」(→帰るべき我が家は霊的世界)であり、「この世の者」とは「住人」(→帰るべき我が家は現在地)のことである。

 

B:長期滞在者用のホテルに住まう旅人

霊的真理を知れば「この世は仮の世」であり「学校」や「トレーニングセンター」という位置づけとなる。いわば長期滞在者用のホテルに住まう「旅人」という感覚になってくる。生き方も「死を一つの通過点とした生き方」に変化していくため、その地に根を張った「住人」とは価値観が異なってくる(→モノに対する執着心が薄くなる)。このような「旅人」的な生き方を目指していけば「この世(俗世)にありながら俗世に染まらない生き方」(3巻208⑤~⑥、11巻172⑭、到来58⑪)、「地上への訪問者としてこの世の慣習に順応しつつ、しかもそれに隷属せぬ生き方」(霊訓下205⑫~⑬)が次第に身に付いていく。

 

イ)「終着点」と「通過点」の違い

多くの人が抱く「住人」的感覚の中には「死後生(=死後個性の存続)」が存在する余地はない。著名な脳学者は「精神(心)は物的脳によって生み出された副産物」なので死によって雲散霧消してしまうと述べる。また高名な作家は「死によって自分は無くなり海のような大きな世界の中に溶け込む」「死は自分の終わりであるが生命の終わりではない」と述べている(五木寛之著『玄冬の門』ベスト新書、124頁~126頁)。

 

このような「死は終焉」や「私は消えて大きな海に溶け込む」と言った考え方の中には「死後生(=死後個性の存続)」の居場所は存在しない。「死」を「終着点」とする人の中には、この世で悪行の限りを尽くしても「死はゴール」なので「逃げ得(→この世で不正を咎められることはないので)」と考える人も出てくる。人間社会が築き上げてきた倫理観の崩壊である。死生観が「終着点から通過点」へと転換することによって「逃げ得」は許されず、また困難に出会った際の対応の仕方や、高齢者の晩年の生き方が大きく変わって行く。

 

③.霊性の開発とは霊性の向上のこと

A:“潜在的完全性”を顕在化させること

人生の目標は、困難や障害という重荷を“魂の磨き粉”にして(1巻188⑭~189①)、自我の本体たる“霊魂(意識)”に内在している“潜在的完全性(神の分霊)”を“意識の領域”に顕現させる霊性の開発にある(1巻116③)。霊的身体(形体)に具わっているサイキック能力の開発が人生の目標ではない。

霊性を開発する為には「霊的成長を促すような生活」(4巻25③~⑨)、たとえば寛容の精神、同情心、愛の心を持つようにする、また無私の行為を行って自分で自分を変えていくなどがある。霊性が開発された分だけ“潜在的完全性”が“意識の領域”に顕在化してくる。その結果、神の属性の一つである受容力や洞察力が増して、神に対する理解力も増えていく(6巻164⑪~⑫)。なぜなら霊的な理解力は霊的発達程度に応じたものだから。

 

B:刻苦と苦難と修養と節制の生活

霊性の向上は「刻苦と苦難と修養と節制の生活」(9巻97④~⑤)を通してしか成しえない。このように“霊(神の分霊)”に宿された資質を自らの手で顕在化させる「霊性の開発」は、悪戦苦闘しながら行わなければならず、最も達成が困難なものとなっている(新啓示174①~③)。そのために「永遠の時が用意されている」(8巻37⑩~⑪)。

 

④.霊的な覚醒、時期の到来

ア)霊的覚醒、霊的自覚

A:意識を時系列から見れば

意識を時系列から見れば、「A:地上人生(表面意識の大部分は“本能に起因する意識”で占められている)」→「B:死」→「C:明確な死の自覚を持つ(帰幽霊の表面意識は物質性が濃厚な霊的意識に切り替わる)」→「D:明確な霊的自覚を持つ(霊的覚醒、霊の表面意識により深い霊的意識が浮かび上がってくる)」→「E:霊的家族(類魂)のもとへ帰還」→「F:さらなる霊性の向上に伴って“意識の深奥”が深まる」

 

霊的覚醒(悟り)とは「魂が目を覚ます」(→私とは何者か、何をしなければならないかを自覚する)ことである。この霊的覚醒に至る道は、本人自ら歩んで到達しなければならない。上記Cの意識を持った霊がDの意識を持つ迄には長い時間がかかる(10巻60⑥~⑧)。

 

B:地上と霊界に於ける「霊的覚醒」の違い

霊の世界では霊的身体で自己を表現するため、地上のように物的身体で表現する必要がない分(→地上的波動の残滓が残っている幽界の下層界を除いて)、意識がよりクリアーな状態となる。地上では「魂が目を覚ました(=霊的覚醒、明確な霊的自覚を持つ)」という場合でも、物的身体を通して自己表現をしているが故に、本能に起因する意識(→肉体を維持し保全しようとする意識や、本能から派生する意識)に絶えず悩まされることになる。いわば地上では「霊的覚醒」の状態を、本能に起因する意識によって四六時中試されているようなもの。この点が霊界に於ける「自覚」との違いになっている。

 

イ)店舗型の“待ちの形態”

A:一人一人が納得して普及していく

この世は一人一人霊的レベルが異なった霊が、肉体をまとうことによって同じ物質世界で生活している混在社会である。この人間社会に於いては、霊的真理は一人一人が納得して広がっていくものであり、熱狂的雰囲気の中で一度に大勢の人を目覚めさせることは出来ない(2巻70②~⑤)。

 

B:無差別的じゅうたん爆撃型と店舗型

シルバーバーチは「大勢の人を一度に変えようとしても、必ず失敗します。暗示が解け、普通の感覚に戻った時、すべてが忘れ去られます。そうした一時の興奮から目覚めた者は、気恥ずかしささえ味わうものです」(メッセージ118⑬~⑮)と述べている。

一般に宗教の普及方法には、熱狂的な雰囲気に満ちた集会を催して勧誘を行う形態や、誰彼かまわず布教する“無差別的じゅうたん爆撃型”の勧誘形態が見られる。これに対して霊的真理の普及は必要としている人が自ら足を運んで来る、いわば“店舗型の待ちの形態”に特徴がある。

 

ウ)時期の到来、受け入れる用意

A:受け入れる準備が整った人を対象

本人に霊的真理を受け入れる準備ができるまでは、周りが幾らお膳立てをしようとしても受け付けない(1巻55⑫~⑬)。よく用いられる比喩に「馬を水辺に連れて行くことは出来ても、水を欲しなければ馬に人為的に水を飲ませることは出来ない」と同じである。

 

B:対象者限定の訓え

シルバーバーチは霊的教訓を「霊的に受け入れ態勢の整った人」(3巻107⑧)に訴えようとしているだけであり、誰彼かまわずに説いているわけではない。『シルバーバーチの霊訓』を含む「質の高い高等なスピリチュアリズム(Higher Spiritualism)」は、いわば“対象者限定の訓え”である。霊的真理の普及に「熱狂的雰囲気の中での集団的回心の方法」(8巻165①~②)をとらない理由はそこにある。

 

一般にその人相応の困難や障害といった地上体験をすることによって、物的身体の奥に隠れていた“魂(意識)”は目覚めていく。この場合の「魂が目を覚ます」とは霊的に受け入れ態勢が整った状態を言う。それ以降、意識は徐々に「盤石不動の自信と冷静さと堅忍不抜の心」(1巻35⑥)に変化して、本能によって試されながら深まって行く(→霊性が高いと言われる人が時として独善的な言動を取る場合を見かけることがある、その理由がここにある)。

 

2.霊優位の生活

①.「霊が主・モノが従」の意識を持つ

ア)「霊主肉従」という言葉

A:霊の優位性を反映させた生き方

人間は霊的存在であるので霊が主体であり肉体は霊の従属物、死によって霊が去れば身体は朽ち果てる(11巻32⑬~⑭)。身体は霊が地上で自我を表現する為の媒体であり、霊は物質に優るから。これを端的に表現する言葉に「霊主肉従」がある。この言葉は霊の優位性を反映させた生き方を表す言葉として(福音243⑩)、スピリチュアリズムを実践哲学的に理解する人たちの間では広く用いられている。

 

B:浅野和三郎が作った造語

大正6年(1917年)当時、大本教の機関誌『神霊界』の主筆兼編集長であった浅野和三郎は、スピリチュアリズム思想とは一線を画す神智学のE.S.スティーブンソン(海軍機関学校の元同僚、ポイント・ローマ派所属、神奈川県の逗子にロッジを開設)との間で心霊論争を行った。その際に浅野が反論として執筆した「霊の発動と其目的」という文章の中に「ただ霊主肉従、霊体不二」という文言が出てくる(『神霊界』大正6年3月号、9頁上段)。

筆者が調査した限りでは、これが「霊主肉従」という言葉が活字として登場した最初ではないかと思われる。当時の大本教団では「霊主体従」という言葉を使っていた為、浅野は心霊論争の過程でこの言葉の使用を避けて、新たに「霊主肉従」という造語を作ったのではないかと思われる。

 

イ)民芸品「起き上がり小法師」

A:本能に起因する意識等

地上を歩む私たちの意識は、地上生活に不可欠な肉体を維持し保全しようとする意識(→本能に起因する意識)と、自己顕示欲・物欲・名誉欲等と言った本能から派生する意識が物的脳を通して強烈に働いている。そのため余程“修養的な生き方”に徹する覚悟がなければ“安易な生き方”に流れてしまい、顕在意識に上がってくる霊的意識の割合は低い。

 

物質が精神を支配している世界においては、人は物的要素に偏らずに霊的要素に比重を置いた生活を目標とした「加圧トレーニング」をしているようなものである。その状態を少しでも長く保つ努力をすることによって、物質の世界にありながら“霊優位の意識状態”を保つことが出来るようになっていく。

 

B:「霊が主・モノが従」の意識状態の例え

この「霊が主・モノが従」の意識状態を「起き上がり小法師」を使って説明してみる。

台の上に「起き上がり小法師」を置く。この状態が「モノが優位、それに霊が従属する意識状態」で、この世的には最も安定した通常の意識状態となる。その状態から「起き上がり小法師」を傾けた状態にする。これが「霊が優位、それにモノが従属する意識状態」となる。この世的には異常な意識状態となるため、気を抜くと元の安定した状態に戻ってしまう。スピリチュアリズムを「生き方の指針にする」とは、傾けた状態を絶えず意識するようにして、この時間を長くしていくことを指す。

 

②.霊的摂理を実生活に応用した生き方

ア)知識であるが故に多様な使われ方がされている

「スピリチュアリズム(思想)の本質は宗教性にある」(続霊訓77⑩)が、単にスピリチュアリズムと言う場合は「大自然の法則のこと」(9巻48⑥)を指しているに過ぎない。いわば啓示を一つにまとめた総合的な思想のことであり(続霊訓43⑬~⑭)、名称や霊的な知識を表現している言葉に過ぎない(1巻176②~③、7巻175⑧)。このように単なる「名称、知識」であるが故に、スピリチュアリズムという言葉を用いる人の考え方如何によっては、それを「商売の手段」として、また知識として「引き出しに仕舞い込む」こともできる。

 

イ)知識を実生活の場で実践する

一般に人がスピリチュアリズムを学ぼうと決意する背景には、何らかの世俗的な事情から、さらには学びを通して自己変革を図りたいと願う強い決意まで、そこには何らかの動機が存在している。

 

私たちは『シルバーバーチの霊訓』を通して霊的知識を学んでいるが、その知識は実生活の場で実践して初めて理解したことになる(1巻63⑩~⑪)。シルバーバーチは「知っているということと、それを応用することとは別問題です。知識は実生活に活用しなくてはなりません」(3巻42⑪~⑫)と述べる。人の霊性レベルの判断指標は日常の行為にあるから(9巻117⑭~118③)。霊的知識を知っているということと知識を実生活に応用ができると言うことは別問題だから。このように学んだ霊的知識を実生活に活用することが学ぶ者の目標となっている(3巻41⑭~42③)。

 

ウ)知識と責任の関係

学んだ霊的知識を日常生活でどのように活用するかはその人自身の責任となる(11巻42⑬、9巻135③)。知識と責任との関係につきシルバーバーチは「知識に大きな責任が伴う。知っていながら罪を犯す人は、知らずに犯す人より重い責任を取らされる。その行為がいけないことであることを知っているということが罪を増幅する。知識の受容力を増したことは、それだけ大きい責任を負う能力を身に付けたこと」(到来218①~④)と述べている。

 

③.霊優位の修養的な生活、利他的行為

ア)最初の一歩は自己修養から

霊的知識を学んでそれを日常生活に応用するためには「霊の優位性の自覚に基づく修養的生活」(福音243⑩)が求められる。なぜならその人の霊性レベルの判断指標は日常の行為にあるから(9巻117⑭~118③)。自己修養が出来ていない人は他人を正しい道に導くことは出来ないので、変革の第一歩は自己修養からとなる。

シルバーバーチは「精神的にも霊的にも自己を厳しく修養し、生活の全ての側面を折り目正しく規制し、自分は本来霊であるという意識」(福音243⑦~⑧)を持った、「霊の優位性の自覚に基づく修養的生活」(福音243⑩)スタイルが最高の生き方であると述べている。その目標に向けた努力の過程が「魂の成長(→自我の本体に内在している“完全性”が意識の領域に顕在化していくこと)」をもたらしてくれるから。

 

イ)二種類の利他的行為

A:奉仕は霊の通貨

シルバーバーチは「人の為に役立つことが霊の通貨」(3巻50⑮~51①)、「無私の善行は霊の通貨」(2巻95⑮)であると述べている。このように他者のために役立とうとする利他的行為を「霊の通貨」に例えて、自己を通路として宇宙に遍満している霊的エネルギーを他者に流す行為の重要さを説いている。この利他的行為はシルバーバーチの教えの中心テーマの一つとなっている(2巻24②、2巻136⑥)。地上世界がいま最も必要としている行為は利他的行為だからである(2巻59③)。

 

利他的行為にはその性質に応じて、より専門性を持った行為から、誰でも行える行為(一種の労務提供型)まで幅広く存在する。専門性を持った利他的行為には、自分の経験や体験を人のために生かす形の利他的行為(→カウンセリングや現在行っている仕事の延長線上の行為)などがあり、そこにはさまざまな分野がある。

シルバーバーチは利他的行為には二種類(→利他的行為の原則と特則)あるとして、次のように述べている。「真理を普及すること(→特則のこと)のみが、人のための仕事ではありません。他にも色々あります。貧困に喘いでいる人々への物質的援助もそうです。病に苦しむ人々の苦痛を取り除いてあげることもそうです。不正と横暴を相手に闘うこともそうです。憎しみ合いの禍根を断ち、人間的煩悩を排除して、内奥の霊性に神の意図されたとおりに発現するチャンスを与えてあげる仕事もそうです」(4巻111⑫~112②、到来93⑦~⑫)。

 

B:利他的行為の原則(人の為になる行為なら何でも良い)

シルバーバーチは宗教の基本は「いつどこにいても人のために自分を役立てること」であり、「奉仕こそ霊の通貨」(7巻57⑦~⑧)であると述べている。これは信仰者の最大の関心事である“神に対する奉仕”は、表現を変えれば“神の子である地上の同胞に奉仕すること”であるから(語る83⑮、最後啓示61⑤~⑥)。このようにまずは自分の出来ることから利他的行為を行いなさいということになる。

 

C:利他的行為の特則(霊的真理の普及をしなさい)

スピリチュアリズムという霊的思想(11巻175⑬、1巻176②)を普及する行為は、人間の生き方や社会の在り方を根本的に変える利他的行為である。この行為は一般的な利他的行為(上記B)に対して、より専門性を持った利他的行為にあたる(→「人の為になる行為なら何でも良い」の特則になる)。霊的知識を学んだスピリチュアリストは、いわばその道の“スペシャリスト”なので、上記「B」のような一般的な利他的行為に留まらず、専門性を生かした「C」のような行為も出来る(→利他的行為の選択の幅が広がることになる)。

 

ウ)利他的行為の原則と特則の例え

A:ボランティアを行う医師の行為

利他的行為の原則と特則の関係を、地震の被災地で“瓦礫の片付け”を行うボランティアのグループに入って、復旧活動に携わる医師の行為を例にとって考えて見れば良く分かる。

被災地で「医療行為が求められていない“平時の時”」は、その医師の利他的行為は賞賛され何等問題は生じない。しかしその被災地において「医療行為が求められているような“非常時”」においては、ケースによっては問題が発生する。医師が“非常時”においても、なおも“瓦礫の片付け”にこだわり、それを優先して行い続けている場合には「道義上の責任」が生じる。なぜなら医療行為は医師でなければできない行為であり、職業倫理上も自ら率先して医療行為に携わることが求められるからである。

 

このように代替可能な“瓦礫の片づけ行為(→労務提供型の利他的行為)”と、一身専属的な“緊急医療行為(→専門性を持った利他的行為)”とを同列に並べて、自分の好みで前者を選択するということは、ケースによっては許されない場合がある。

 

B:スピリチュアリストとの比較

同様なことは霊的真理を理解したスピリチュアリストにもいえる。ただし霊的真理を理解し、自覚したといっても、その理解の深さや自覚の程度は各人各様(ピンからキリまで)なので、その“能力に応じた責任の発生”ということになる。

これに対して医師は、一定の能力を有していると判定された者にのみ与えられた公的資格なので、その名称を有する者には一定以上の能力があるという“社会の期待感(当然に責任もあるということ)”がある。そこにスピリチュアリストとの本質的な差異がある。

 

スピリチュアリストが行っている霊的真理の普及活動は、人間の生き方の本質部分に深くかかわっている利他的行為である。利他という点では他の行為、一般的なボランティア活動と質的には同一だが、人の生き方や社会の在り方を根本から変えるという点では、利他の程度は極めて高い行為と言える(→社会変革を目指したものだから)。したがってあまた存在する利他的行為の中でも霊的真理の普及活動は、人の霊的成長や社会の根本的な変革に直結するため(→「新しい世界」の建設に直結するから)、利他的行為の頂点に位置しているといえるのではないだろうか。

 

④.なぜ困難・障害・病気があるのか

ア)魂の磨き粉

この世には預金の残高を増やすことが人生の目標、身の回りを高級なモノで飾り立てることが人生の目標とする人は多い。このような物的要求を満たすことだけが目標といった人生からでは、「魂(意識)を向上させる」という真に価値あるものは得られない。

 

人間の本来の姿はなんらかの荷を背負い、困難と取り組みながら何かを学び取って霊性を向上させる、それが地上人生の本来の姿である(1巻52⑨)。なぜなら人間は、困難、苦労、悲しみ、痛みなどを体験して、それらが魂の琴線に触れることによって、初めて自我に目覚めて霊的真理を受け入れる素地が出来上がるから(1巻64②、3巻130⑨)。いわばそれらの体験は、受容性に富む魂を作り出すための“魂の磨き粉”の役割を担っている(7巻69⑧~⑩、3巻213⑨)。

ただし苦しみさえすれば自動的に人間性が磨かれる、というわけではない。その苦しみが人生を別の視点から見つめさせるきっかけとなって、結果的に人間性を磨くことに繋がるということである(8巻138⑥、8巻140⑧~⑩)。

 

イ)新しい意味付け

シルバーバーチは「地球は宇宙の惑星の中でも最も進化の程度の低い部類に属する」(11巻177⑭~⑮)と述べている。環境と霊性レベルは一致するので、地上人類の霊性レベルの低さ故に“磨き粉の粒子”はそれなりに粗い。いわば病気や事故と言った“目の粗い磨き粉(→地球の霊性レベルに応じた粗い研磨剤入りの磨き粉)”を使って体を洗っているようなものである(→例えれば軽石に石鹸を付けて体を洗うようなもの)。そこまでしないと霊性が目覚めないから。

 

この世的には「困難や障害はできるだけ避けるべき」として、面倒なことが生じないことを願って生活している人は多い。シルバーバーチは困難や障害を避けるのではなく、これらに積極的に立ち向かって自らの手で克服していく、その為の心構えを説いた(3巻1⑫~2①)。人々から忌避されてきた「困難や障害に魂の磨き粉という役割」を持たせて、新しい意味付けを行った。そして霊的成長には「修養と節制の生活(→宗教や修養の世界では“修養と節制の生活”は普通に説かれてきた)」と「刻苦と苦難」、この双方が必要になると述べた(9巻97④~⑤)。

 

⑤.動機と道義心の問題

ア)混在社会における善悪の判断基準

A:地上世界と霊界との違い

人間は物的身体をまとった霊である。地上世界は霊的成長レベルの多様な霊が、同一構造にある物的身体を身にまとって生活している混在社会である。これに対して霊界は、同一レベルの霊が集まって生活している世界である。

このように地上は霊界とは異なって、さまざまなレベルの霊が同一平面上で生活しているため、私たちは霊界では体験できないことを直接あるいは間接に体験することができて、霊性向上の為に学ぶ機会が数多く出合える場となっている。

 

B:万人に共通した基準は存在しない

地上では多様な霊的成長レベルにある霊が生活しているため、万人に共通した“善悪の判断基準(=出来合いの尺度)”は存在し得ない(5巻217⑪~⑫、9巻159⑧~⑨)。なぜなら“出来合いの尺度”によって“善悪・正誤”を判断すれば、ある人には厳しくある人には緩いものとなってしまうから。そのためその霊が到達した霊性レベルから判断する必要が出てくる(5巻218⑥)。

 

C:動機と道義心

シルバーバーチは常に「動機は何か」を問題とする。「その動機が問題です。いかなる問題を考察するに際しても、真っ先に考慮すべきことは“それは霊にとっていかなる影響をもつか”ということです」(6巻121②~③)と述べる。さらに動機と共に善悪の判断基準を「判定装置(道義心)」に求めている(7巻60⑪~61⑥)。言い換えれば人の思考や行為の根本に存在する原動力(動機)を、道義心でチェックするという図式になる(→当該動機が道義心から見て是認できるか否か)。

 

イ)道義心

行為の評価はまず「行為の背後にある動機は何か」が問題となる。次にその動機は道義心に適っているかが問われる。シルバーバーチは道義心を「霊的自我の中に絶対に誤ることのない判定装置が組み込まれている」(12巻94①~②)と述べる。霊的自我のレベルが高い霊(→神の分霊の顕現の度合いが高い霊)は霊的意識レベルも高いので、道義心を“行為時の霊的意識レベル”と言いかえることもできる。したがって「〇〇のためという動機で行った行為」につき、それまでに到達した霊的意識レベルを指標として“動機の純粋性”をチェックすれば良いことになる(→顕在意識に上がってくる“良心の声”を指標。何が“良心の声”か、それを見極めるだけの霊性レベルが必要となるが)。

 

ウ)一つの考え方

A:因果律が解凍

行為者は一段高い霊的意識レベルから当時の行為を再評価して、その結果、霊的法則違反を自覚するようになると(→良心の呵責を覚えるという形で)、自らの行為に対して何らかの責任を取りたいとの気持ちが湧いてくる。

いわば霊性レベルが一段と向上することを停止条件として、そのレベルに行為者が到達すると、それまで意識の中に潜在していた“休眠状態にあった因果律”が動きだして(→凍結状態にあった因果律が条件成就により解凍しだす)、良心の呵責を覚えるようになる。その後さらに霊性レベルがアップすれば、そのレベルに見合った別の凍結中であった因果律が深い意識の底から浮かび上がってくる。

 

たとえば施しをする際に本来であれば相手にモノを手渡すべきところ、放り投げて与えたとする。本人の意識レベルが向上したことにより、行為当時には気が付かなかった“自らの中にある傲慢さ”に気付いて、良心の呵責を覚える。このように霊的進化の階段を上ることによって、意識の中にある己の未熟さを一つ一つ“クリアー”して、「魂のシミ」を少しずつ消して行く。そして純粋さを一段と増して進化の階段を一段一段と登っていく。

 

B:たとえ

蕎麦屋で蕎麦を食べた時に跳ねた汁が服に付きシミとなったが、店内の照明では見えなかったので気がつかなかった。料金を支払って外に出て、明るい太陽の下で良く確認したら服がシミになっているのが分かった(→霊性が向上して薄暗い低い世界から明るい高い世界に来ると、自分の中にある“シミ”が見えてくるようになる)。

 

上記の事例で、蕎麦汁が跳ねて服に付いたことに気が付かなかった場合は道義心に反しないケース。この場合はより明るい世界に来て、服にシミが付いていたことに始めて気がつく。進化の低い段階では、ある行為が霊的法則違反であることが認識できない(→蕎麦汁が服に付いたことに気づかない=道義心に反していないから)。しかし道義心に反していないからといって“服に付いたシミ”がなかったことになるわけではない。

 

C:生きるということは多くのシミを付けること

霊性が向上して一段と明るい世界に来ると、それまで気が付かなかった自分の中にある“大きなシミ”や“小さなシミ(→未熟な部分、迷惑をかけたことなど)”が、意識の表面に浮かび上がってきて良く見えるようになる。

前世で社会的に活躍した人の場合は、必然的にたくさんの“シミ”を作っているので“シミ抜き”の数も多くなるであろう。物的身体という排他性を持った衣装を身につけて生きるということは、聖人君子と言われるような人といえども、必然的にたくさんの“シミ”を付けながら学んでいるということである。しかし“シミ”がつくことを恐れる必要は全くない。シルバーバーチも「地上にあってもこちらの世界にあっても、人間は何らかの借金をこしらえているものです」(語る106⑪~⑫)と述べているから。

 

⑥.取り越し苦労、心配性がもたらす影響

ア)霊的エネルギーの循環

宇宙に遍満している霊的エネルギーは、自我の本体(霊魂)にある「魂の窓」(2巻124⑨~⑩、3巻117⑩~⑪)から取り込まれて、その人の「霊的要素」を活性化して、接合体などの名称のある「半物質」(注1)を経由して「物的要素」へと、各部位を活性化させながら流れて行く。さらにその人の利他的行為によって「他者(人間、動植物等)」に流れて行く(→人間を通路として働きかける:3巻32⑬、5巻90⑪~⑬)。このように自己を起点とした霊的エネルギーの循環ルートが出来上がる。その人の霊性が高ければ質の良い霊力が大量に流入して、これが他者へと流れ込んでいく。

 

イ)通路を塞ぐ阻害要因

この世には“霊的エネルギー(生命力)”の通路を塞ぐ阻害要因を持った人、いわゆる「霊的な動脈硬化の要因」を持った人が数多く存在する。最も一般的な阻害要因としては、次の二つのタイプがある。

一つ目は「霊性が低いタイプ」である。このタイプには霊性の未熟さの表れである「残忍性や野蛮性」、異常なまでの物欲や度を越した利己性の持主などがいる。

 

ウ)ネガティブ思考

A:霊的な動脈硬化の要因を持った人

二つ目は「度を越したネガティブ思考のタイプ」である。このタイプには(度を越した)心配性の人や取越し苦労性の人などがいる(4巻172⑧、11巻47⑩~⑫)。このような人は「霊的エネルギーの通路(→半物質状の接合体から物的脳や各種臓器へ繋がる通路)」を自ら塞いでしまうことになる。いわゆる「霊的な動脈硬化」の要因を持った人と言える。

 

この要因を持った人が「過労・ストレス・不規則な生活」によって、本来“物的脳や物的身体の各部位”に流れるはずの霊的エネルギー(=霊的生命力)が、通路が塞がれたことによって枯渇して不調和状態となってしまい、精神的な病気(うつ)や肉体の病気を発症することがある。なぜなら健康とは「身体と精神と霊の三者の関係」が調和状態にあること(1巻127⑫)、病気とはそれが不調和状態となることが「健康・病気」の定義だから。

 

B:通路を塞ぐ

この「霊的な動脈硬化の要因」を持った人は、必要以上に心配事で悩むことや、取り越し苦労によって心を奪われたりすると、本人の周りに霧のような障壁が立ち込めてしまい、援助しようとする霊界人の接近を阻んでしまう。さらに「恐怖心、信念の欠如、懐疑の念」などによって、霊力が働く通路を自ら塞いでしまうことになる(1巻63③~④、1巻73①~②)。シルバーバーチは「あなたが悩みを抱くと、霊と身体との間の水門が閉ざされ、身体は生命力の補給路を失うことになる」(9巻49②~③)と述べている。これに対して本人に霊的知識に裏打ちされた静かで穏やかな確信があるときは、通路が開かれているため受容性は高く、霊力はその本来の働きをする。

 

エ)回復する手段

霊的な動脈硬化の要因の一つである“ネガティブ思考の持ち主”が、霊的エネルギーの循環を正常に回復する手段として知られているのが、「瞑想(→肉体的・精神的に障害がある場合は避ける)」と「笑いの効用(→肉体的・精神的な障害があっても有効)」である。

私たちは物質世界で生活している以上、悩みや取り越し苦労と無縁ではいられないので、努力目標を少しずつ高めていく、その中で自己改善を図っていくのが現実的な方法であろう。最初は必要以上に悩むことからの脱却を目標に置き、それが可能になれば徐々に目標を高めていくという方法をとる、最初から実現不可能な目標を設定しても意味がないから。

 

3.精神統一(瞑想)

①.精神統一とは

ア)精神統一の必要性

A:効用がクローズアップ

精神修養法の一つである精神統一(瞑想)には、精神状態の調整や精神面のバランスを高める効果、身体面における高いリラックス効果があることで知られている。現代のストレス社会の中で近年“瞑想の効用”がクローズアップされてきている。

シルバーバーチはしばしば「静寂の時を持つ」「日常生活の喧騒から離れた状態へ身を引く」「いったん物質界から身を引く」など、本来の自分を取り戻す精神統一の重要性を述べている。人は波長を整えて調和を取り戻す方法を体得して、物的喧騒から身を引きリラックス状態に置くことが出来れば、本来の自我を取り戻すことができるようになるから。

 

B:潜在力が目を覚ます

精神統一が「目指すところは、脳の働きを鎮め、潜在的な個性を発現させて本来の生命力との調和を促進しようとするもの」(1巻155⑦)で、潜在力が目を覚ます機会を与える効用がある。さらに精神統一には、受け身的で受容性ある心の状態を作り出す訓練の側面もあるので、次第に霊界からのインスピレーションを受けやすい体質に変化していく。

 

霊が最も近づきやすいのは、「静かで受け身的で受容性のある心の状態」のときである(2巻18⑩、到来171⑧~⑨)。この状態は霊と地上人のオーラが融合し易くなっており、インスピレーションを受け取り易くなるから(2巻18⑭~⑮)。なお精神統一の訓練を継続して行っていると、最初に“心霊的な面(形体に具わったサイキック能力)”が開発されて、その後に“霊的な面(潜在している霊が意識の領域に顕在化していく)”が開発されていくことが知られている(1巻157⑫~⑬)。

 

イ)精神統一の目標

A:浅野和三郎の見解

日本における「スピリチュアリズム(心霊主義)&サイキカル・リサーチ(心霊研究)」の草分けの一人である浅野和三郎は、精神統一には目標があると述べた。浅野の後継者を自任する脇長生は、浅野の説をまとめて次のように述べている。

<精神統一の目標>

・「純真な愛情の上に立つ者」として心から愛する他界の者と通信したいと願う目標

・「着実な研究心の上に立つ者」としての目標

・「高邁なインスピレーションに接したいと思う者」が置く目標

・「衆生済度の念願に燃える者」の目標

・「心身の浄化修行を目的とする者」が置く目標など

<感心できない目標>

・「なんらかの正しくない、不合理な欲望や野心に駆られる者」

・「好奇心に駆られる者」

・「これを職業にしようとする者」

・「目標のない者」など

<霊媒志願者>

・霊媒志願者は「生活の顧慮のない人か、少なくとも生活問題を他に何とか解決した人に限る」としている。

*出典:脇長生著「精神統一の正しい目標」:脇長生編『精神統一入門』霊魂研究資料刊行会1980年刊5版所収、71頁以下

 

B:精神や肉体面に問題がある場合はどうするか

一般に霊媒体質者や霊的に敏感な人が精神統一(瞑想)を行う場合には、統一の目標を高く掲げて、自らの体調や精神状態を見極めて十分に注意して行う必要がある。体調が悪い状態で精神統一を行っていると、意識が肉体に向いて霊的波長が低くなるので、低級霊と同調し易くなり最悪の場合には憑霊状態になることもあるから。

 

本来は精神的・肉体的に問題があるような人は、精神統一を無理に行わない方が良い。「精神統一のポイントは日常生活にある」(脇長生)ので、このような人は先人も述べているように「内省は一種の自力統一法」(浅野正恭)なので、日々の生活の中で「吾れ日に三たび吾身を省みる」(論語の一節)といった行いを習慣化すべきであろう。その過程で「意識の底上げ」や「意念の統制」が図られて行くから。そして精神的・肉体的に状態が安定してきたら、守護霊や高級な背後霊との「感応道交を求めた統一」から始めて、少しずつ慣らしていけばよいと思われる。

 

ウ)「アンテナの錆び落とし」と「受信装置の周波数」との関係

A:固有の周波数を持った通信装置

人間とは霊的存在であり、私たちの周りには高いものから低いものまであらゆるレベルの霊や地上人の思念が取り巻いている。その中でどの思念と通じ合い影響力を受けるかは、その人の霊的レベルにかかっている。

人間を固有の周波数を持った“通信装置”に例えることができる。私たちは誰でも霊界と交流できる受信装置の“アンテナ”をもっているが、先天的に感度が良好な霊媒体質者は別として、一般にはその“アンテナ”に錆が付いていて感度が悪い。精神統一という身体技法は、この通信装置の“アンテナ”の錆を落として感度を上げる行為と考えればその仕組みが理解しやすい。

 

B:同じ波長の霊と同調を良好にする

日常生活に於いて人は、絶えず“通信装置のアンテナ”から雑多な思念を受け取っている。意識は五感から入るさまざまな刺激に対して過敏に反応して、興奮した状態に置かれている。精神統一とはさまざまな刺激に反応している状態を鎮めて、意識の焦点を自己の身体からずらせていく技法のことである。ズレの程度が大きければ深い統一状態となり、ズレが小さければ浅い統一状態となる。統一の熟練者は容易く深い統一状態に移行することができる。このように統一者の“固有の周波数”に見合った霊的波長を持つ霊と、同調を良好にさせる行為が精神統一である。

 

C:固有の振動数を引き上げる

その人に感応道交してくる霊は、修業者の固有の波長(受信装置の周波数、振動数)に見合った霊なので、精神統一の実修と同時に修業者の固有の振動数(受信装置の周波数)を上げる努力をしなければ、「アンテナの錆び落とし」が進んだ分だけ霊からの影響を受けやすくなる。したがって精神統一を行おうとする者は「アンテナの錆び落とし」をして背後霊との結びつきを強固にすると同時に(→精神統一の修錬は受信感度を高める行為だから)、「受信装置の周波数」を上げて感応道交する霊の選別を行う必要がある(→修養的生活を心がけることにより修業者の固有の振動数を引き上げることが大切となる)。

 

エ)平均的な振動数に見合った霊

人間は肉体をまとって雑多な人間が混在している社会で生活している以上、低い意識状態から高い意識状態の間を終日揺れ動いている。高い意識状態を一日中保っていられるわけではない(→霊性レベルが高いと言われる人でさえ、肉体が不調の時は意識が肉体面に向かうため、霊性レベルを落とすことになる)。

精神統一をしている状態の時に霊界(幽界)から働きかける霊は、「同調の原理」から統一者の日頃の心境に応じた霊(→その人の“平均的な振動数”に応じた霊)である。一般に精神統一は清浄な気分で行うため、その人の最も高い振動状態で行うのが普通だが、体調不良や精神状態の悪化などから、稀に低い波長のままで統一に入る場合もある。このような状態の時は、霊的敏感者は憑依され易くなる。

 

精神統一者が統一時において高い背後霊と感応道交しようとするためには、日頃から「意識の底上げ」を心掛けなければならない。なお修業者の固有の振動数とは、その人の“平均的な振動数”のことである。修養的生活を心がけるということは、その人の“平均的な振動数”の底上げを図る努力を行うということである。

 

オ)技の修得と霊格の向上は別

上記のように考えれば、精神統一が習熟していくことと、統一者の心境(霊格)が高まることは必ずしもイコールではないことが分かる。精神統一はあくまで技法であり、アンテナを磨くだけにすぎない。坐っているだけでひとりでに霊格が上がることはない。アンテナの錆落とし(=精神統一の実修)と同時に、通信装置の周波数を高める努力(=修養的生活と利他的行為を行うことによって)が必要となる。なぜなら精神統一によってアンテナの錆落としが進んだ分だけ、固有の周波数に見合った霊の影響をより一層受けやすくなるから。

 

②.精神統一の病的状態

ア)先人たちの体験から

A:病的状態の報告例

心霊に長年携わってきた先人たちの体験から「宗教の作法において熱中すると無我の状態となり、一種の統一状態に入るのでさまざまな障害が現れやすい」、精神統一によって「精神錯乱の状態を呈する場合も決して珍しくない」などの事例が報告されている。また「霊能を啓開されたがために、かえって不幸な結果を招いている実例があまりにも多く見聞する」「性格的に著しく調和を欠いた問題行動を起こしやすい人間を生み出してしまう」などという報告例もある。

さらに日常生活における行動で、ふとした出来心、激情、陰鬱な気分、イライラ、不可解な衝動、精神的奇行などが生じたり、強められたりすることも起きてくる。これは“アンテナ”が磨かれた分、同調の原理から修業者の固有の波長に見合った霊からの影響力が強く作用した結果であると思われる。このような事例が数多く報告されていることから、霊媒体質者は特に注意する必要がある。

 

B:危険性ある精神統一とは

一般に危険性がある精神統一とは、「統一の前提条件が欠けた状態」で行うケース、統一の目標を「利己的なもの・物質的なもの」に置いたケース、このような場合に多く見られる。また精神的に障害をもっている者や情緒不安定者・ノイローゼ気味の者の場合には、精神統一中に霊動が発動しやすくなり危険な状態になることが多い。

 

イ)モーゼスの『霊訓』における瞑想

A:瞑想のすすめ

高級霊のインペレーターは『霊訓』の中で、「われらの側より最も近づき易い魂は普段より霊的交わりを重ねている者である」(霊訓上167⑦~⑧)として、背後霊との感応道交の大切さを述べている。そしてモーゼスに対して「今のそなたには瞑想と祈りが何より大切である。友よ、祈るのである。真実への道を求めて一心に、そして真摯に祈るのである」(霊訓上187⑮~⑯)と述べた。なお祈りや瞑想は「真実への道を求めて」であって「物質的要求を求めた」ものではない。

さらに利他的行為と修養的生活の大切さを次のように述べている。「かくして同胞のための公共的奉仕の生活にはげみつつ、一方においては絶え間なく霊的向上のための生活――真理への憧れと発展、霊との交わり、物質的・地上的なものからの超脱によって一歩でも主イエスの完全なる模範に近づかんとする修養を怠らぬ」(霊訓下202⑦~⑩)。

 

B:モーゼスに対して

しかしながらモーゼスのような高い境地の者に対してさえ、「神経の一本一本が震えるほど神経組織全体が過労ぎみで緊張の極みにある時は・・・せめてそうした精神状態が呼び寄せる低級霊に憑依される危険からそなたを守るのが精一杯である。そのような状態の時はわれらの世界との交信は求めぬように忠告する」「そなたはこれより急速に進歩し、それがあらゆる種類の霊的影響を受け易くする」(霊訓下44⑮~45④)と述べている。

さらに「霊的知覚が鋭敏さを増すにつれて邪霊の敵対行為も目立ってくる」(霊訓下193②)として、精神的・肉体的に状態が悪い時は「霊との交わり」をしないようにと忠告している。高級背後霊との感応道交が常にはかられているからと云っても、状態によっては肉体特有の波長の低さゆえに低級霊の影響を受けてしまう場合があるからである。

 

C:瞑想を避けた方が良い人たち

インペレーター霊は「磁石が鉄を引きつける如くに霊的影響力を何でも引き寄せてしまう。・・・地上では低き次元での霊的引力の作用が現実にあるからである」(霊訓下126⑧~⑩)として、同調の原理を述べた上で「軽薄なる心で以て霊界と係わりをもつ者、単なる好奇心の対象に過ぎぬものに低俗なる動機からのめり込む者、見栄っ張りの自惚れ屋、軽率者、不実者、欲深者、好色家、卑怯者、おしゃべり、この種の者にとっては危険が実に大である。われらとしては、性格的に円満を欠く者が心霊的なものに係わることは勧められぬ」「節度なき精神、興奮しやすき感情、衝動的かつ無軌道な性格の持ち主は低級霊にとって恰好の餌食となる。その種の人間が心霊に係わることは危険である」(霊訓下168⑤~⑮)とも述べて、このような人は「心霊的なもの(=霊との交わり)」を求めない方が良いと述べている。

このようにインペレーター霊は誰かれ構わずに、やみくもに「祈り・瞑想」を行うようにとは述べていない。

 

D:モーゼスの『霊訓』と『シルバーバーチの霊訓』の差異

モーゼスの『霊訓』では低級霊の跋扈を、詳細に事例を挙げて述べているが(霊訓上12節・13節、霊訓下29節)、『シルバーバーチの霊訓』ではそれほど触れられていない。この違いは何か。

推察するにインペレーター霊には地上人類浄化のための「総合的基本計画」(8巻96⑩、11巻28⑩)に沿った先陣(→いわば切り込み隊の先鋒)としての仕事が割り当てられていた。その仕事とはキリスト教社会に霊的真理普及のための「橋頭堡」を築くことであった。そのためには地上側に強固なキリスト教神学を持ったモーゼスを立たせて、両者間に於ける論争という形をとって“キリスト教神学という壁”に亀裂を入れること。さらにはモーゼスに悪影響を及ぼして“計画阻止を企てる邪霊集団”(福音236①~⑧)と、熾烈に切り結んで影響力を排除して、霊的真理を地上に根付かせる必要があったから、と考えられる。

 

このことはインペレーター霊の次の言葉から明らかである。「今そなたを中心として進行中の新たな啓示の仕事と、それを阻止せんとする一味との間に熾烈なる反目がある。われらの霊団と邪霊集団との反目であり、言い換えれば人類の発達と啓発のための仕事と、それを遅らせ挫折させんとする働きとの闘いである」(霊訓下152⑬~153③)と。

その後インペレーター霊が獲得した陣地を足掛かりにして、後に続く霊団が陣営を広げてスピリチュアリズムを地上に根付かせることに成功した。ここに霊界における霊団の役割分担が垣間見えてくる。

 

ウ)『シルバーバーチの霊訓』における瞑想

シルバーバーチは参加者の質問に応えて「精神統一をなさることです。時には煩雑なこの世の喧騒を離れて魂の静寂の中にお入りなさることです。静かで受身的で受容性のある心の状態こそ霊にとって最も近づき易い時です。静寂のときこそ背後霊が働きかける絶好機なのです。片時も静寂を知らぬ魂は騒音のラッシュの中に置かれており、それが背後霊との通信を妨げ、近づくことを不可能にします。・・・少しの間でいいのです。精神を静かに統一するように工夫することです。・・・背後霊のオーラとあなたのオーラとが融合する機会が多いほど、それだけ高度なインスピレーションが入ってきます」(2巻18⑨~⑮)として精神統一の重要さを述べている。

 

上述したように統一時は霊にとって最も近づき易い時であり、近づいてくる霊は「同調の原理」から統一者の日頃の心境に応じたレベルの霊である。『シルバーバーチの霊訓』の記載からも分かる通り、シルバーバーチは利他的行為や霊的視野から物事を見ることの重要さを繰り返し述べている。これらが前提にあってその上で精神統一を勧めているのであり、上記の回答部分だけを取り出して、やみくもに「霊との交わり」を求めて精神統一(瞑想)に入ると、人によってはさまざまな問題が起こるので注意する必要がある(→精神統一を行おうとする者には霊的敏感者が多いので注意)。

 

以上のことから云えることは、高級霊のシルバーバーチやインペレーターは「霊的教訓」の内容を理解できるレベルの西洋人に対して、“精神統一(瞑想含む)の勧め”を述べているのであって、これを万人向けに一般化することには弊害が伴う。「霊との交わり」には前提条件がある。

 

4.祈り

①.祈りの目的、効用

ア)祈りとは

A:祈りの対象と忠誠を捧げるべき対象

祈りの対象は神である(11巻113⑩~⑪)。なぜなら祈りとは、神の分霊である自己とその始源との一層緊密な繋がりを求めるための手段であるから(12巻125⑪)。従って神の使者である高級霊やイエスを祈願の対象とするのは間違いとなる(語る159⑦)。

 

シルバーバーチは忠誠を捧げるべき対象は「神と永遠不変の摂理」(7巻207③~④、メッセージ165⑮~⑯)であると述べる。これに対して祈りの対象は「神のみ」(11巻113⑩~⑪)として、両者を区別して用いている。なぜなら祈りの照準は当然に「神」でなければならないが、永遠の旅を続けるには「流れに乗る」という意味で「摂理」に合わせる必要が出てくる。そのため忠誠の対象として「神」に「永遠不変の摂理(統治の手段)」が加わった。

 

B:祈りとは魂の行

祈りとは自分自身の波長を高めて、少しでも高い界層との霊的な交わりを求める行為である(3巻141④~⑥)。シルバーバーチは「祈りとは魂の行」(3巻226⑪)であり「より多くのインスピレーションと霊的エネルギーを摂取するための手段である」(3巻227①)と述べる。世間で言う「何らか願いを叶えてもらう」ために「高次の存在」に祈願する行為とは異なる。このように「祈りとは魂の行」であるため、祈りが出来ない時や祈りたくないと思えば祈る必要はないことになる(3巻227⑥、7巻205①)。

 

イ)祈りの効用

波長を高める霊的活動としての祈りや衷心からの祈り、人のために役立ちたいとする祈りは、一種の「磁気力にも似た吸引力」のような力が発生して、祈る者の霊的成長に見合った分の援助を自動的に引き寄せる(1巻170⑩~⑪、11巻114⑪~⑫)。

祈りによって自然法則(=因果律の法則)の働きを変えることはできないし、地上的な労力の代用にもなりえない(3巻218⑩~⑪)。また「心配の念はその人の周囲の物的ならびに霊的雰囲気を乱して」霊からの援助が受けにくくなる(11巻114⑬)。

祈りに対する回答は、その時の祈る者の霊的成長にとって一番望ましい形で与えられる(1巻58⑭~59②)。祈りの動機次第によっては、何の反応もないということもあり得る。

 

ウ)定型的な祈り、御利益信心的な祈り

無意味な文句の繰り返しや、神に挨拶するための機械的な祈り、集団で行う紋切り型の祈りには何の効果もない。祈りの効果を決定づけるのは、祈る人の霊格と動機である(到来173⑦~⑨)。御利益信心は利己的な要求なのでこれらの祈りは、当人の霊的成長にプラスにならないので、何の効用もない(1巻169⑩)。シルバーバーチは「利己的な祈りは時間と言葉と精神的エネルギーの無駄遣い」(7巻198⑭)であると述べる。

 

②.仲立ちを介した祈り

限界ある人間が「指導霊崇拝」を回避するための祈り方として「高級霊は私たち人間の“兄や姉”であり、最終責任者の神に取り次ぐ中継役である」とする祈り方がある。『モーゼスの霊訓』には「神の概念が理解できた者なら直接神に祈ることです。それができないのであれば、自分にとって最も身近な信仰の対象を仲立ちとして祈るがよろしい。その仲立ちによって祈りが神へ届けられます」(続霊訓75⑨~⑪、同趣旨12巻122⑫~123③)との記載がある。この「祈りの仲立ち」とはイメージしやすい守護霊なり指導霊なりを「仲立ち」としたスタイルの祈りのこと。守護霊や指導霊が一種の“ライフル銃の照準器”的な役割を果たすことになるので、最終的に神に祈りのピントが合うことになるから。

 

祈りは「祈りの純粋性や利他性の度合い」に応じて、「仲立ち」を経ながら相応のレベルまで届く。霊界通信の『ベールの彼方の生活』には、霊界には祈りを専門に処理する霊団がおり、祈りに含まれる純粋性や利他性などを分析して、価値評価の高い祈りは順次高位の霊に取り次がれていく(彼方1巻208⑥~⑧)との記載がある。同趣旨として「人間が祈りを発すると、それを中継する霊が受け取り、その霊自身の判断による回答」(続霊訓78②~③)を授かるという記載もある。

 

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<注1>

ア)さまざまな名称で表現されている

スピリチュアリズムでは、質的差異の異なる「霊体」と「肉体」とをつなぐ結合体の存在を明らかにしている。この結合体は「ダブル」「エーテル体」「複体」「結合体」「中間物質」「半物質」「幽質結合体」「ペリスピリット」など、さまざまな名称で表現されている。当ブログでは“立場や思想”によって呼称や概念が異なる“結合組織”を、質的な面から見て区分けした「半物質」または「中間物質」という名称を使って表現している。したがって当ブログで「半物質(中間物質)」という場合は、それぞれの立場の方や神秘思想家が用いている「ダブル」「エーテル体」「複体」「結合体」「幽質結合体」等の言葉と、“主要な点で同じ”意味で用いていると理解して頂きたい。

 

イ)『シルバーバーチの霊訓』では

シルバーバーチは「人間は物的身体と霊的身体、そして両者を結び付けている生命の糸、この三つの要素から成り立っています」(語る110⑨~⑩、5巻134⑦)。「あなた方がその肉体器官を機能させる時、それぞれの器官とそっくりの幽質の身体を使用します」(8巻106⑥~⑦)。

交霊会の参加者から「物的身体はエーテル体を原型としているのでしょうか」との質問に対して「そうです」と答えている。さらに「病気になった時に治療するのはエーテル体の方でしょうか」との質問に対して「それが全ての霊的治療の原則です」と答えている(語る107⑦~⑩)。

 

ウ)『マイヤースの通信』では

マーヤースの通信では「人体の誕生から死に至るまで、その人体より少し波動の高い媒体があって、それ自体は目に見えないが、知性や想像力と肉体(脳)とを接続する役目をしている。それを一応仮説として認めた上で“ダブル”と呼んでおこう。一種の結合組織である。その形は人体とそっくりである・・・ダブルには、一体不離の相棒である肉体が受ける印象がことごとく反映する」(個人的存在78⑰~79③)。「私がダブルと呼んでいる目に見えない連結組織こそが精神と生命が連結する唯一のチャンネル。両者をつなぐ糸が一本でも切れると、たちまち肉体機関の支配に不具合が生じます」(個人的存在18⑨~⑪)。「人間には、地上生活の初めから終わりまで、ダブルという一種の接合体が具わっている」(永遠の大道115⑦)

 

エクトプラズムとダブルとの関係は「エクトプラズムというのは物質と生命の中間的存在で、半物質的性質を持っているが、肉体のように消化過程をへて吸収されたものではない。ダブルの中で精錬されて全身へ送られ、とくに神経を養い、細胞を強化する役をしている。このエクトプラズムが人によって有り余るほど豊富に製造されることがあり、そういう人が物理的霊媒になることが多い」(個人的存在82⑨~⑬)。「動物もエーテルを原料としてこしらえられた、目に見えない接合体(ダブル)がある」(個人的存在19⑦~⑧)。

 

中間境から幽界に移行する際に「この中間境に滞在中に半物質的身体から脱皮して、より垢抜けのした身体に宿り、それでこのイリュージョンの世界、地上生活の願望の反映でこしらえられた世界で過ごす」(永遠の大道50⑪~⑫)。「ダブルの中から幽体が脱け出る・・・それまで肉体とのつなぎ役をしていたダブル、今やヨレヨレの衣装のようになった媒体を脱ぎ捨てた後、彼はすっかり意識を取り戻して無幻界の一住民となる」(永遠の大道119①~②、119⑤~⑥)。

 

エ)アラン・カルディックの場合

アラン・カルディックの『霊媒の書』では「肉体が物質的衣装であるとすれば、その肉体と霊とをつなぐための半物質的衣装として“ダブル”というのが存在する。ダブルは肉体とそっくりの形をしていて、通常の状態では肉眼に映じないが、ある程度まで物質と同じ性質を備えている」(霊媒の書29⑩~⑮)。

 

アラン・カルディックの『霊の書』では「物質には霊との接着剤的媒介の役目をしている普遍的流動体が付属しています。物質と霊との質的差異が大きすぎるために、霊が物質に働きかけるための中間的媒介物が必要なのです」(霊の書34③~⑤)。「(普遍的流動体は)地上の物質の基本的要素です」(霊の書35⑭)。

 

オ)神智学では

神智学では「エーテル複体は肉体の原型であり、肉体とそっくり同じ形体をなしているのでこの名がある。これを構成している資質は物質であるが、肉体を作っている個体、液体、気体よりももっと精妙な目に見えないエーテル資質より成る。その機能は、エネルギーを摂取して肉体各部に分配してその成長、維持に努め、また肉体とアストラル体とを結合させている。チャクラ、ナヂス等は、エーテル複体に属している」(総合ヨガ用語解説集18頁)。

 

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『シルバーバーチの霊訓』講座、講義用ノート:目次

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