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第12講:再生・類魂について

目 次

1.再生について

①.再生は異論の多いテーマ

②.「本来の私」「現在の私」「拡大した私」という意識

・何が再生するのか

・何のために再生するのか

・再生回数のカウントの仕方

③.地上人生を承知して再生する

・出生条件を選択する

・宿命と自由意志の関係

④.前世記憶の問題

 

2.類魂について

・「類魂・再生」という考え方

・霊の形体面から(客観的存在、本来の私)

・類魂の一員として(主観的存在、拡大した私):平面的

・類魂の一員として(主観的存在、拡大した私):立体的

 

3.講座を終えるにあたって、『シルバーバーチの霊訓』の中心テーマ

 

<注1>~<注6>

 

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1.再生について

①.再生は異論の多いテーマ

A:古代社会の再生観

古代社会では「死の向こう側には死者の世界がある」と考えられていた。このことは世界各地に残る「死者の世界」の説話や、「循環的再生観」を表現した出土品からも窺い知れる(→縄文人の死生観を表した土偶など)。その死者の世界から現世に生れ出るという“再生説”は、洋の東西を問わず古代から存在していた。

古代ギリシャの密儀宗教には「肉体は霊の牢獄」という観念があり、「再生を繰り返す肉体の桎梏から霊魂を解き放ち、より高次の神的合一の境地に達することが究極の目標とされ、その為に秘儀により、魂を浄化することが必要と信じられた」(丸善『宗教学事典』2010年刊436頁)。また古代インドでは、再生思想と業(カルマ)を組み合わせた「輪廻転生説」があった。仏教では輪廻転生を繰り返す状態を苦として、この苦の状態から脱して永遠の安らぎの境地に達することを究極の目標とした(→涅槃の境地に達する解脱のこと)。

 

B:再生は概略を知る程度

再生に関しては従来から肯定説と否定説が存在している。再生否定者に何らかの証拠を提示しても、それをもって再生を理解してもらうことは極めて困難である。例え再生と思える現象を取り上げて見ても、そこには「憑依現象」や「低級霊の悪戯」、さらには「何らかのサイキック現象」の可能性があるからである。

再生は霊魂説からは説明できないので、地上側において“証拠を提示して論じ合う”ことには馴染まない。高級霊からもたらされた霊界通信で概略を知る程度の理解に留まる。なぜなら再生の詳細は地上人の霊性レベルでは理解不能な事柄となっているから。そのため書店に並んでいる本で再生の解説箇所の多くは、著者の独自説となっている(注1)。

 

C:霊界通信に見られる不一致

霊界通信の多くは物質性が濃厚な“地上的波動から脱しきれていない霊”からのものなので、「今まで再生した事例を知らない」と否定する通信も数多く存在する。20世紀半ば以降、マイヤースの通信や『シルバーバーチの霊訓』が浸透していくに従って、再生否定説は後退して肯定説に変わってきている(注2)。

大まかに言えば「インド思想・神智学・人智学」や「スピリティズム(ラテン系スピリチュアリズム)」は再生を強く主張しているのに対して、一世代前の英米のスピリチュアリストには再生を否定する者が多い(注3)。代表的な再生否定論者にはD.D.ホーム(=D.D.ヒューム)やW.Sモーゼス。さらには「再生に付いては、科学的に証明できる証拠はない」として否定したアーネスト・トンプソン(→週刊心霊誌『ツーワールズ(Two Worlds)』の主筆、著書に『近代神霊主義百年史』がある)などがいる。またシルバーバーチの霊媒のバーバネルも否定論者である。

シルバーバーチとバーバネルが別人格であることを示す有名なフレーズに「私は再生を認めておりますが、このバーバネルは認めようとしません」(9162③~④)がある。再生についてシルバーバーチ自身「私にも(再生の)体験がある」(1173⑩)と、また「私は現実に再生して来た人物を大勢知っている」(695⑥~⑦)とも述べている。

 

霊界通信に見られる不一致の理由を、シルバーバーチは「死後の世界が地上のように平面的でなく段階的な内面の世界だからです。その段階は霊格によって決まります。その霊的段階を一段また一段と上がって行くと、再生というものが厳然と存在することを知るようになります。もっともその原理はあなた方が想像するような単純なものではありませんが」(122⑪~⑭)と述べている。さらに『続霊訓―インペレーターの霊訓―』では「霊の再生の問題はよくよく進化した高級霊にしてはじめて論じることのできる問題である」(続霊訓132⑬)と述べる。この問題は霊界に於いても“再生が認識できるレベル”にまで霊性が向上しないと理解できないテーマなので、霊界にも再生の事実を知る者と知らない者とがいることになるから(1173⑦~⑩)。

 

D:仏教の輪廻転生説

仏教の輪廻転生思想では、人間がこの世に生まれてきたのは過去世においてその生命が積んだ業の結果であり、現世での自己の生命が積んだ業は来世における自己に受け継がれていくので、解脱しない限り永遠にこのサイクルが繋がっていくと述べる。この自己の「前世→現世→来世」の生命の輪廻、つまり“同一霊魂(一個の霊魂が丸ごと、ダイヤモンド一個分が丸ごと)”があたかも「春服→夏服→秋服→冬服」に着替えると同様に、それぞれ「前世、現世、来世」という具合に“別の肉体(→別の服に着替える)”に宿って物質世界に生まれ変わる。この機械的な再生説を高級霊は批判する。

高級霊は再生に関して次のように述べている。霊は何の目的もなく機械的に再生するのではなく(9200⑦~201⑦)、地上で広く喧伝されている「機械的輪廻転生」という形の再生は誤りであると(霊訓下132⑪~⑫、続霊訓133④~⑤)。

 

②.「本来の私」「現在の私」「拡大した私」という意識

ア)何が再生するのか

A:自我の本体

最も基本的な用語に「自我の本体」がある。この言葉の意味するものは何か。当ブログではこの言葉を、神の一部である「意識」とその意識の中に潜在している“完全性(霊、神の分霊)”を合わせたものとして用いている。したがって意識レベルが高い霊とは、霊の顕在化率が高い個別霊のことになる(→顕在化率が0%から限りなく100%に近い個別霊までが存在することになる)。顕在化率が高まれば形体をまとった個別霊の行動に、“神の属性(→愛、寛容さ、叡智、公正、親切、優しさなど)”がより多く滲み出てくる。

この「自我の本体」を筆者は「本来の私(=狭義のインディビジュアリティ、ダイヤモンドや氷山の一個分)」と呼んでいる。この「意識」が「霊的意識(→潜在意識のこと)」であり、一部が地上人の潜在意識となって使用される。マイヤースの死後に刊行された『人間個性と死後の存続(Human Personality and its Bodily Death1903年)』では、「人間の識閾下(→しきいきか:潜在意識又は無意識unconscious)の自我こそが真の自我であり、通常意識はこの真の自我の一断面にすぎない」とある。シルバーバーチも同様に「地上へ生まれてきたパーソナリティは一個のインディビジュアリティの側面の一つ」(9200⑩~⑪)と述べている。

 

B:用語の整理

<特有な言葉>

シルバーバーチは地上の言語で説明するのが難しい再生や類魂を「ダイヤモンド」や「氷山」(695⑩~⑪)に例えて説明している。また「私(意識)」という言葉も多義的に用いている。この言葉の問題が『シルバーバーチの霊訓』を理解する上でネックとなっている。このように多義的に用いられている言葉を整理して、「再生」や「類魂」を理解しやすくする為に当ブログでは次の通り用いている。

 

<ダイヤモンド>

5060年続いた交霊会での応答を編纂した『シルバーバーチの霊訓』では、この「ダイヤモンド」を「個別霊」として使用していると読み取れる箇所と、「類魂(霊的家族)」として使用していると読み取れる箇所とが見られる。

いろんな使い方をされている「ダイヤモンド」だが、当ブログでは「再生」や「類魂」を理解しやすくするため、文章の文言に捕らわれずに「ダイヤモンドは個別霊(→本来の私)のこと」として話を進めていく。このように考えた方が全体の理解が容易になるから。

 

<インディビジュアリティ>

さらにシルバーバーチは再生を説明する際に「意識の総体」という意味で、「インディビジュアリティ」という言葉を使って説明している。この「インディビジュアリティ」も「ダイヤモンド」と同様に「個別霊」として用いていると読み取れる箇所と、「類魂(霊的家族)」や「類魂の延長」(10137①)として用いていると読み取れる箇所がある。

この「インディビジュアリティ」という言葉を当ブログでは、「狭義のインディビジュアリティ(=客観的存在、本来の私)」と「広義のインディビジュアリティ(=主観的存在、拡大した私)」の二つに分けて用いることにする。後者の「広義のインディビジュアリティ」とは「類魂意識(→同一霊格で親和性のある複数の個別霊が作り出す共有状態にある意識の総体)」や「類魂の延長」(10137①)のことを指している。

 

<現在の私>

地上人生を歩んでいる「私」がいる。これが当ブログでいう「現在の私」であり、この私が作り出した個性が「地上的人物像(=パーソナリティ)」である。地上生活によって作り出された個性は、「霊的自覚」が芽生えていない幽界の住人にも、しばしば「地上的人格の残像」という形で「意識」に付着して残っている。

 

<本来の私>

次に「自我の本体」を指し示す「霊(神の分霊)」を内在させた「私」がいる。これが当ブログでいう「本来の私(=霊的意識)」のことであり、シルバーバーチはしばしば「自我の本体」や「真の自我」という用語を用いている。当ブログで用いる「本来の私」とは『シルバーバーチの霊訓』で比喩的に用いられている「ダイヤモンド」や「氷山」丸ごと一個分のことであり、「狭義のインディビジュアリティ」を指している。

 

<拡大した私>

さらに狭義の霊界では「本来の私」はスイッチを切り替えれば、「類魂(霊的家族)」が持つ「同一霊格で親和性のある複数の個別霊」によって作り出される「意識(→共有状態にある意識、類魂意識)」の中に入って行ける。この状態にある時、「本来の私」の意識は拡張して広がりを見せているので、これを当ブログでは「拡大した私」と呼んでいる。

 

<ダイヤモンドの“相”が地上に再生する>

したがってシルバーバーチの言う「ダイヤモンド」とは「狭義のインディビジュアリティ(→本来の私)」のことになり、この一部が「ダイヤモンドの“相”」となる。この“相(→新入生や再生者が地上で使用可能な霊的意識のこと。これが潜在意識という形で新入生や再生者の地上的人格の形成に対して影響力を行使する)”が地上に生れ出て、“霊的意識(X)”となって一部が物的脳に流れ込む。新入生や再生者は物的世界では肉体という衣装をまとって自我を表現するため、必然的に“本能に起因する意識(Y)”が統合機関である脳に強く作用する。これらXとYの出自の異なる二つの意識が物的脳によって一つに統合されて、今生を生きる「地上的人物像(→パーソナリティ、現在の私)」という個性が形成される。

 

C:一つの個体に溶け込む二つの部分意識

地上世界に出現した地上的人格である「現在の私」と「前世の私」との間には、地上的視点から見れば同一性はない。「本来の私(→自我の本体、ダイヤモンド)」である「狭義のインディビジュアリティ」から見て初めて同一性があると言える。実際は「本来の私」という一つの個体の中に溶け込んでいる「前世の私(→ダイヤモンドの本体の中に溶け込んでいる)」と、「現在の私(→ダイヤモンドの相の部分)」という二つの部分意識である(695⑬)。シルバーバーチは「今のあなたという意識(→現在の私)とは別に、同じくあなたという大きな意識体(→本来の私)がある。(大きな意識体の)ホンの小さな一部が地球という物質界で表現されているのが今のあなた(→現在の私)です」(語る312⑦~⑧)と述べている。

 

例えを使えば「地上人生であるテーマの達成」をする為に出動した“部隊(=本隊)”がいるとする。この部隊に所属する小編成の「一番突撃隊(前世の私)」が、果敢にテーマに挑んだが戦いに敗れて敗走してきた。幽界で陣営を立て直して次の「二番突撃隊(現在の私)」が地上に繰り出された。「本隊(→本来の私、狭義のインディビジュアリティ、ダイヤモンド)」から見れば「一番突撃隊(→ダイヤモンドの相の部分)」も「二番突撃隊(→前回とは違うダイヤモンドの相の部分)」も本隊の一部であり、同一部隊に所属する小編成の突撃隊である。いわば「一つの個体の二つの側面」(695⑬)ということになる。

 

イ)何のために再生するのか

A:地上は混在社会

この地球という物的世界で一定期間を過ごすためには、自我の本体たる「本来の私(=霊的意識)」は物的身体をまとって地上で自我を表現しなければならない。しばしば地上世界は「学校」(→困難や苦難を磨き粉にして体験を積む場所)に例えられる。多様な霊的レベルにある者(→各自が持つ固有の霊的な周波数はさまざま)が集まった「学校」で地上体験を積むためには、共通の構造を持った物的身体をまとわなければならない。この衣装をまとうことによって本来は霊的周波数の違いから交わることがない、さまざまな霊的レベルにある霊(→周波数の違う霊)が同一平面上で混在し合いながら生活することができるようになる(→ラジオは周波数の異なる電波を一か所に集めて受信することが出来る。このラジオを地上世界と読み替える)。これに対して霊界は、同一周波数を有した親和性のある霊が集まって生活している均一な世界である。

このような違いが両者にあるため、私たちは霊界では体験できないことを地上という「学校」で、直接にあるいは間接に体験することができる(→間接体験とは“人のふり見て我がふり直せ”のこと)。地上は霊性向上の為に、学ぶ機会に数多く出合える場となっている。

 

B:地上人生で達成すべきテーマ

一般に“地上人生で達成すべきテーマ(再生人生のテーマ)”としては、次の二つの側面から考えることが出来る。一つは個別霊(→ダイヤモンドのこと)が過去の地上人生で(→ダイヤモンドの“相”のこと)作ってしまったカルマ(注4)、つまり地上でしか償えない性質を持ったカルマの解消(→霊的負債の完済)という側面がある(10123⑧~⑨)。霊界で引き続き霊的成長の道を歩んでいくためには、自らの“意識の領域”に存在する霊的進化の足を引っ張る“カルマ(大きなシミ)”を、何らかの行動によって消して行かなければならない(458⑥~⑧)。

 

さらに別の側面として霊性を向上させるために「新たな地上体験を積む」という目的がある。個別霊は霊界の相応の界層で親和性のある他の個別霊と「霊的家族(→類魂という拡大した私)」という集団を作って、体験を共有しながら霊的成長を図っている。この集団は単なる個別霊の寄せ集めとは違い「大きな意識体を構成する集団」である。「その全体の進化の為に各自が体験を求めて物質界にやってくる」(語る319①~②)。

 

このように再生には「地上でしか償えないカルマの解消」(→個別霊の側面から見た再生)と、「霊的成長をするために新たな体験を積む」(→霊的家族という側面から見た再生)という二つの側面がある。

この他に「地上で奉仕的な仕事に献身したい」として再生する霊や、「特殊な使命を託された霊」もいる。このような自覚を持った霊は、自らの意志で自発的に再生する(10131③、4204⑫~⑬)。なお再生すべき霊は「意識が拡大」して自分(→本来の私、狭義のインディビジュアリティ)で決意して再生する(473⑤~⑧)のであり、他者から強制されて再生するものではない。

 

ウ)再生回数のカウントの仕方

A:狭義の再生カウント(テーマの達成という観点から)

巷には「再生回数」に関してさまざまな説が唱えられているが、総じて何を持って「再生一回とカウントするのか」という問題がある。当ブログでは「地上人生で達成すべきテーマ(→再生テーマ、以下同じ)」を重視する立場に立って、これが達成されて初めて「1回」と数えることにする。この立場では霊界の霊的家族(ベースとなる類魂)から地上に出生して、「地上人生でテーマを達成」して再び霊的家族に戻ってくるまでを「再生期間中」とする。霊的家族のもとに戻って来て初めて「再生一回」とカウントする。

 

霊界通信で定評ある「マイヤースの通信」には「一個の霊が、機械が回転するように生と死を繰り返したという例証を私は知らない。百回も二百回も地上に戻るなどと言うことは、まず考えられない。その説は明らかに間違っている」(個人的存在92⑥~⑧)。そして「大部分の人間は(再生回数は)二回から三回、ないしは、せいぜい四回くらいなものである」(個人的存在93②)との記述がある。ここからマイヤース霊は再生回数を「地上人生でテーマを達成する」という観点から述べていることが推測できる。

なお守護霊役の個別霊は、再生霊が地上に再生して遭遇する困難や障害を“魂の磨き粉”にして「地上人生でテーマの達成」に果敢に挑戦し、これをクリアして再び「霊的家族(ベースとなる類魂)」に戻ってくるまでの全期間その任に就くとする立場をとる。

 

B:広義の再生カウント(幽界からの再生も含める)

多くの再生事例の中には「個別霊A(ダイヤモンド)の部分意識A-1(ダイヤモンドの相の部分)」は再生テーマを達成できずに(→苦難に耐えきれず再び自殺をしてしまったなど)、幽界から地上に再び生まれ出る場合がある。

幽界からUターンして再び地上に生まれ出た場合は、前回とは違う“地上的人格の出現”なので(→個別霊Aの部分意識A-2)、地上的観点から見る「広義の再生カウント」では新たな「再生」としてカウントする。前回の人物像(→ダイヤモンドの相の部分:A-1)と今回の人物像(→前回とは違うダイヤモンドの相の部分:A-2)は全くの別人であるから。

これに対して霊的観点から見た「狭義の再生カウント(→地上人生でテーマを達成して初めて一回とカウントする)」の立場からは、いまだ再生継続中となる(→個別霊Aから見れば同一なので)。

 

この幽界から再び地上に誕生するケースでは、「地上人生に於けるテーマ」は未達成の状態にあるので、霊界で待つ「霊的家族(本来の私、類魂)」のもとには戻れない。いわば東京に住むAは、海外転勤でアメリカのニューヨークに赴任したが、仕事の関係でさらにサンフランシスコに転勤になった(→Aの海外赴任はいまだ継続中)、という事例に似ている。このようにAの「再生テーマ」はいまだ継続中となっているため、守護霊の任務も引き続き遂行中となる(→海外赴任中のAの日本における財産管理人は、Aが帰国するまではその職にある)。霊的家族のもとに帰還して初めて守護霊の任務は解除になるから。

 

③.地上人生を承知して再生する

ア)出生条件を選択する

A:出自の異なる二つの意識

上記に示した「地上人生で達成すべきテーマ(再生テーマ)」を最も効率よく達成することができる出生条件を、「本来の私(→狭義のインディビジュアリティ、霊的意識)」は指導霊の助言を受けながら自ら設定する。再生に際して「本来の私」という意識の全てを、容量の小さい限りある物的脳では受信しきれないため、実際に地上に再生するのは「本来の私の一部(→今回の地上人生で“色付き”となる霊的意識の一部、ダイヤモンドの相の部分、潜在意識の一部)」である。

ダイヤモンドの相の部分に当たる霊的意識から流れ出る意識(→利他的に働く潜在意識:X)と、肉体を持つが故に発生する“本能に起因する意識:Y(→肉体保全という目的から利己的に作用する意識)”、さらに“Y意識から派生する意識(→見栄、名誉欲などの煩悩)”が、物的脳で統合されて一つの意識(→表面意識、顕在意識)ができあがる。この出自の異なるXとYの二つの意識が一体となって、地上的人格(パーソナリティ)という個性が作られる。

 

B:“色付き”となる意識

出生の待機期間に入ると「本来の私(狭義のインディビジュアリティ)」という意識の中に、もっぱら再生時に使用されて地上体験によって“色つき”となる部分意識。つまり「本来の私」という意識の中に境界線によって区分けされた小さな領域(→小さな区画のインディビジュアリティ、ダイヤモンドの相のこと)が出現する。

地上で成長するにしたがい、物的脳によって“霊的意識(上記Xの意識)”と“本能に起因する意識(上記Yの意識)”が一つに統合されて、両者のせめぎ合いが作り出す体験によって「小さな区画のインディビジュアリティ」は“独特な色”に染め上げられて行く。この“独特な色(→地上での体験や獲得した知識など)”が霊界に持ち帰る「新たな地上体験(→再生人生のテーマの一つ)」となる。この体験は「本来の私(→個別意識)」または「拡大した私(→霊的家族が作り出す類魂としての意識)」が、霊性を向上させていくために不可欠な地上体験となっている。

 

イ)宿命と自由意志の関係

A:「本来の私」と「現在の私」の視点

自我の本体である「本来の私」は、再生人生に於いて“再生テーマ”を達成するために、大枠としての人生行路を自らの意志で決定した(→“本来の私”が持つ自由意志で)。この「本来の私」が決めた人生行路を、現実に地上を歩む「現在の私」という意識から見れば、人生の大枠は決まっているとなる(→それは宿命となる)。その大枠の中で「現在の私」は、遭遇する試練に対して“自由意志(→現場サイトの裁量の範囲内での自由意志)”を行使しながら“再生テーマ”に挑んでゆく。この「本来の私」が決めた大枠は「現在の私」の潜在意識の奥深くに仕舞い込まれている。その意味で「本来の私」から見て再生人生の大枠を承知して「現在の私」は出生してきたとなる。このように地上的観点ではなく霊的観点に立って始めて“地上人生を承知して出生した”と言えることになる。

 

B:物的試練

今回の「地上人生で達成すべきテーマ(再生人生のテーマ):ア」を達成するために、「本来の私」である個別霊Aは最も適した「試練(魂の磨き粉):イ」を選ぶ。代表的な物的試練の一例として「人間関係の問題(例:家族関係、夫婦関係、職場や地域の人間関係など)」や「所有欲の問題(例:一般的な物欲、金銭欲など)」や「性・愛の問題」などがある。

個別霊Aが選んだ物的試練(イ)は「Aの地上的人格(A―1:現在の私)」が生きていく時代背景や境遇に最も適した形にアレンジされて、「イ―①」「イ―②」「イ―③」という形で面前に順番に登場する。これらの試練に対して「A-1(Aの地上的人格:現在の私)」は、自由意志を行使して「上(霊性レベルを高める方向)」に行くか、「下(霊性レベルの停滞を招く方向、負のカルマを作ってしまう方向)」に行くかを選択して、自らの地上人生を切り開いて行く。具体例は「注5」を参照のこと。

 

C:「寿命」「民族」「両親」という条件

次に個別霊Aはイの「物的試練」を無理なく体験できる「寿命―ウ」を選択する。ウには“糊代部分”がある(→諸事情によって寿命は伸び縮みする:482③~④)。肉体は一種の機械なので乱暴に扱えば耐用年数を待たずに壊れるし(→壊す意図で乱暴に扱えば自殺となるので、ここでは壊す意図はないが無知から乱暴に扱う場合を指す。例えば荒れた生活や暴飲暴食漬けの生活など)、メンテナンスを欠かさず丁寧に扱えば耐用年数を超えて長持ちする。この範囲を寿命の“糊代部分”と呼ぶことにする。

なおシルバーバーチは「寿命=死」を、小鳥が鳥籠から解き放たれて大空に羽ばたいていくことであり(1180⑨~⑪)、第二の誕生である(344⑬~⑭)と表現している。地上人の「死生観」とは異なる。

 

個別霊Aは上記の「ア(地上人生で達成すべきテーマ)」と「イ(試練)」と「ウ(寿命)」の、出生条件に最も適した「国・民族(先進国、最貧国、紛争地など)」や「両親・家庭環境(富裕層の家庭、貧困家庭、黒人や白人の家庭など)」や「性別(目標達成に最も適した性別)」や「体質(霊媒体質、気質、身体障害など)」を選択する(469①~④)。

 

D:人生の大枠の中で背負う荷物

地上に誕生した地上的人格の「A-1」は、Aが選定した枠内で「地上人生で達成すべきテーマ:ア」をやり遂げるべく、“自由意志(→現場サイトの裁量の範囲内での自由意志)”を行使しながら地上生活を送っていく。いわばAが自ら設定した「筋書(大枠)だけのアドリブ劇」を、自分の一部である「A-1」は自由意志を行使しながら、大枠だけの人生にいろどりを添えながら演じていくようなもの。

このように「本来の私(個別霊A)」が設定した「人生の大枠」に、さらにプラスして地上人生で“背負う荷物(→国・民族、両親、性別、肉体条件など)”が、「本来の私:A」から「地上的人格たる現在の私:A-1」にハンデキャップとして課せられる。それらの荷物を背負って、大枠という条件の中で「A-1」は自由意志を行使しながら、今回の「地上人生で達成すべきテーマ:ア」を決められた「時間内(寿命)」に処理していく。

 

④.前世記憶の問題

前世記憶の問題について、シルバーバーチは「その人が潜在意識の奥深くまで探りを入れることが出来れば、それは可能」だが、「はたして地上の人間でその深層まで到達できる人がいるかどうか、きわめて疑問」。なぜなら「そこまで探りを入れるには大変な霊力が必要です」(6182④~⑧)と述べている。

前世の記憶は「自我の本体(→より深い潜在意識、霊的意識)」の中に溶け込んでいるので、前世の記憶を取り出すためには顕在意識を、意識を保ったままの状態で「表面意識(普段用いている顕在意識)」→「潜在意識(もっぱら現在の私の地上体験や知識で着色される潜在意識の領域)」→「より深い潜在意識(自我の本体)」と深めて取り出す必要があるから。

結論を言えばこの「前世記憶の問題」は理論的には可能だが、現在の地上人の霊性レベルでは潜在意識の深奥に分け入って前世記憶を引き出すことは不可能と考えた方が無難であろう。なお背後霊が本人の霊性向上にプラスとなると判断した場合は前世体験の示唆があるが、地上人側の思惑で前世の情報が得られるわけではない。

 

また催眠術によって前世記憶の中に入って行けるかについて、シルバーバーチは「遡及によって前世とコンタクトできるという事実は否定しない」(10130⑤)。しかし前世記憶には潜在意識が描く願望や一種の虚栄心の表れ、単なる空想や催眠状態に於ける憑依霊の問題等があるので「催眠術による遡求は頼りにならない」(10128⑧~129②、131⑤~⑥)と述べる。「催眠術の基本は“暗示性”にある」ので控え目に受け取るべきと述べる(10131⑩~⑫)。催眠術にはさまざまな問題があるので「前世記憶の問題」は慎重に考えなければいけない。

 

2.類魂について

ア)「類魂・再生」という考え方

再生のテーマを突き詰めていくと“類魂(→親和性のある同一霊系の魂の集団のこと)”に行き着く。そのため「再生の問題」は類魂の視点から考えないと正しい理解が得られない。シルバーバーチは「霊的親族関係を有する霊の集団が一つの統一体を構成しており、それが全体としての進化を目的として、いろんな時代にいろんな土地に生れてその体験を持ち帰る」(9201⑤~⑦)と述べる。再生には“個(→個別霊、本来の私)”にスポットを当てた「地上でしか償えないカルマの解消」という側面と、同一霊格で親和性を持った霊的集団たる“全体(→類魂または霊的家族、拡大した私)”にスポットを当てた側面とがある。つまり後者は、“個”は“全体”の霊的進化に寄与するために「新たな地上体験で積む」という側面である(464⑥~⑦)。ここから言えることは類魂と再生は密接に結びついているということであり、両者を切り離して再生は理解し得ない。

 

類魂の記述に関しては『シルバーバーチの霊訓』と同様に、マイヤースの通信の『永遠の大道』と『個人的存在の彼方』にも詳細に記述がなされている。シルバーバーチは「(マイヤースの言う類魂と)まったく同じものです」(4巻64⑤~⑥)と述べているので、当ブログではマイヤースの通信と『シルバーバーチの霊訓』の双方を参考にしながら、類魂全体を見ていくことにする。

 

イ)霊の形体面から(客観的存在、本来の私)

A:二つの側面

マイヤース霊は「人間の存在には二つの側面がある」と述べている。それによれば「一つは形態に宿っての客観的存在であり、もう一つは類魂の一員としての主観的存在である」(永遠の大道87④~⑥)という。さらに“個”と“全体”の関係では「我々は立派な個性を持った存在であり続けると同時に、全体の中の不可欠の一員でもあり続ける」(永遠の大道87⑨~⑩)とも述べている。

当ブログでもマイヤース霊の分類に準じて「本来の私(狭義のインディビジュアリティ)」とは霊の形体面から見た存在(→客観的存在としての個霊)という意味で使用する。なお個別霊は霊的な進化レベルに見合った、第三者から見て認識できる多彩な“客観的形体(→肉体・幽体・霊体など、霊体は霊的レベルの向上に伴い色彩や光輝によって包まれる)”をまとって、体験(→地上体験や霊的体験)を積み重ねながら“潜在的完全性(霊)”を意識の領域に顕在化させている。そして“霊”の顕在化に応じて、まとう形体から“神の属性(→愛、寛容さ、叡智、親切など)”を外部に表している。

 

B:因果律の主体

上記で述べたように個別霊A(→狭義のインディビジュアリティ、ダイヤモンド一個分)には、形体面から見た「客観的存在(本来の私)」と、類魂の一員という意識面から見た「主観的存在(拡大した私)」の二つの側面がある。形体面から見た「客観的存在(本来の私)」とは、一個の「ダイヤモンド」のことになる。シルバーバーチも客観的存在を「意識そのものが“個”としての存在であり、個としての存在は意識のことです」(4155②)と表現している。

この形体をまとった客観的存在たる個別霊は、因果律の観点から見て自らの進化に自らが責任を負っている(458⑥~⑧)。因果律の責任の主体となるのはこの「本来の私:A」である(→なぜならこの“本来の私”の中に“霊”を内在させているから)。前世に於いて霊的負債を作った「前世の私」という意識は、「本来の私:A」の中に溶け込んでいるのでAが自らそれを償う。他の客観的存在の個別意識が償うことはない。

 

C:永遠に個霊としての存在を維持する

進化の途上において「本来の私:A」という意識は消滅してしまうことはなく、永遠に何らかの形体をまとって保ち続ける。シルバーバーチは「個的存在が消えてなくなる時は永久にきません。反対に、完璧に近づくほど、ますます個性が顕著になって行きます」(新啓示163⑬~⑭)と述べる(→“神人合一”を否定する)。

地上では肉体という形体に(→肉体という物質を維持するため、必然的に他の肉体との衝突が発生する。物質性が濃厚な身体を持つ地球人は自己主張が強烈な分だけ他の個体との衝突が激しい。その結果、地球は際限なき貪欲と紛争に満ち溢れた世界となっている)。中間境では「半物質の形体(→接合体)」に。幽界では「幽体(→物質性が濃厚な霊体)」に。霊界以上の世界では「霊体(→霊体は進化レベルの向上に伴い色彩や光輝によって包まれる)」に身を包んで自我を表現していく。霊性レベルの向上によって物質性が減少して行くにつれて、個別霊が持つ「個人的存在」は次第に薄れて「個性化の道(→個性が次第に強まる)」を一段と強めていく。

 

このように形体面から見た客観的存在としての個別霊Aが霊性を進化させて行くためには、各種形体を通して物的体験や霊的体験を積んでいかなければならない。また意識的に“類魂というシステム(→他の個別霊の体験を自らの体験とするシステム)”の中に入って霊性レベルを高めていく必要がある。ここから霊は「形体面から見た側面」と「類魂の一員としての側面」の両面を併せ持つことになる。

 

D:アフィニティ

類魂(ベースとなる類魂:ABCD・・・)から再生する個別霊は一つのみであり(→二つの分霊が同時に地上に誕生することはない:458②~④、語る314⑧~⑩)、その個別霊から地上に誕生する“形体(意識)”も一つのみである。「一個の霊が複数の相を別々の場所で同時に表現することはできない」(1099⑦~⑧)から。

例外的に「アフィニティ(→同系統で親和性が極めて強い関係にある魂)」がある。これは二つの人格は一つの魂の半分ずつというケースである。シルバーバーチは「別々の人間でありながら一個の魂の半分ずつ・・・アフィニティは同じダイヤモンドを構成している部分的側面です」(10117③~⑥)と述べる。

 

シルバーバーチは「(アフィニティを)一個の魂が半分に分かれた存在で、二つが同時に地上へ誕生することがある」(10136⑦~⑧)と述べているので、言いかえれば個別霊Aの地上的人格A1A2は、肉体的には別々の人間でありながら一個の魂の半分ずつと言うことになる(→例えれば一個の卵には黄身一つが原則だが、例外的に黄身が二つある二黄卵がある)。「アフィニティ」も「再生・類魂」と同様に、地上の人間には概略だけしか知らされていない事柄である。

 

ウ)類魂の一員として(主観的存在、拡大した私):平面的

A:意識が平面的に拡大する

ここでは霊を形体面からではなく、類魂の一員の「主観的存在(→拡大した私、広義のインディビジュアリティ)」から見る。この類魂の一員としての「私(→拡大した私、主観的存在)」は二つの意識面から表現できる。

一つ目は「同一霊格で親和性のある複数の個別霊」によって作り出される「共有状態にある類魂意識」のこと。同一霊格であるため「本来の私:A(狭義のインディビジュアリティ)」の意識は平面的に拡大する(→拡大した私、広義のインディビジュアリティ、ベースとなる類魂意識)。

 

B:「連邦」と連邦を構成する個々の「王国」

マイヤース霊は「私は私としての王国を持っているが、それすら大きな連邦の一単位に過ぎない」(永遠の大道86⑦~⑧)と述べる。いま「夫R」と「妻S」という夫婦がいるとする。「R」と「S」は第三者から見ても別々の存在である。これが霊の形体面から見た側面(→客観的存在、本来の私)のことであり、マイヤース霊のいう「私としての王国」になる。

例えば相思相愛の度合いが極めて強い夫婦を、形体面から見ればRとSという別々の人間である(→Rが病気になってもSは健康体でいられる、Rの病気はR自身のもの)。これを意識面から見れば両者は気持ちが通じ合って一つになっていて、相手の目を見ただけで何を考えているかが分かる関係にあるとする。これが意識面から見た「主観的存在(拡大した私)」のことで(→Rの意識はSの意識を取り込む形で拡大する)、マイヤース霊のいう「大きな連邦の一単位」のこと、平面的に「拡大した私」のことを指す。

 

エ)類魂の一員として(主観的存在、拡大した私):立体的

A:意識が立体的に拡大する

二つ目はさまざまな霊性レベルにある霊の集団を含む意識状態(→意識が立体的に奥行きを増す状態、潜在意識の深奥)で「拡大した類魂、類魂の延長」などと呼ばれている「広義のインディビジュアリティ」がある。

シルバーバーチは「一人の支配霊がいくつかの類魂を従えていることがある。それを“延長”と呼びたければそう呼ばれて結構です」(10136⑭~137①)と述べて、このような表現で「拡大した類魂(→立体的に奥行きを増した類魂)」を説明している。

 

B:中心霊の部分的側面

シルバーバーチは「あなたも他の分霊も一個の中心霊の側面です」(457①)、「個々の霊は一つの中心霊の構成分子」(458⑧)、「われわれは、見せかけは独立した存在ですが、霊的には一大統一体を構成する部分的存在です」(746⑭)と述べている。

マイヤース霊は「類魂は、見方によって単数でもあり複数でもある。一個の高級霊が複数の霊を一つにまとめている。脳の中に幾つかの中枢があるように、霊的生活に於いても、一個の統括霊によって結ばれた霊の一団があり、それが霊的養分を右の高級霊から貰う」(永遠の大道84③~⑤)と述べる。つまり平面的な類魂を構成する個別霊「A・B・C・D・・・」は類魂をまとめている中心霊(=統括霊)Gの部分的側面と言うことになる。そのGもより上位の中心霊Hの部分的側面であり、そのHもさらに上位の中心霊Lの部分的側面である。このように個別霊は形体面から見た客観的存在であると同時に、主観的には類魂の一員として「一大統一体を構成する部分的存在」(746⑭)となる。

 

C:たとえ

この形体面から見た客観的存在と、主観的には類魂の一員という存在、そして潜在意識の深奥の問題を次の例えを使って説明する。

年齢を表す言葉に「私は70代です」という表現と、「私は75歳です」という表現がある。この「70代」という言葉には「70歳、71歳・・・79歳」が含まれているのでどちらの表現も間違いではない。いま「70歳、71歳・・・79歳」の各年齢を“個別霊(=個別意識、以下同じ)”と考えて、これらが類魂の中心霊「70代」によってまとめられて「共有状態にある類魂意識」を形成しているとする。この「70歳~79歳」の個別霊は中心霊「70代」の「一側面、構成分子」(457①、458⑧)ということになる。

 

人生経験を積んだ「70歳」の意識には、多様な年代の意識が含まれている。意識をそれぞれの年代(60代、50代、40代、30代・・・)に向けると、その年代で味わった喜怒哀楽の感情が甦ってくる。これを類魂の中心霊「70代」の意識の深奥には、「60代(60歳~69歳)」・「50代(50歳~59歳)」・「40代(40歳~49歳)」・「30代(30歳~39歳)」等によって表現される個別霊「0歳~69歳」が含まれているとなる。これはシルバーバーチが言う「一人の支配霊(70代)がいくつかの類魂(60代、50代、40代等の中心霊を傘下に収めている)を従えていることがある」(10136⑭~137①)と同じことである。

 

他方、類魂の中心霊「50代」の意識の深奥には同様に個別霊「0歳~49歳」が含まれている。当然に「70代」の方が「50代」より意識の底は深い(→霊性レベルが高い)。これを中心霊「50代(50歳~59歳)」から見れば、中心霊「70代(70歳~79歳)」は「拡大した類魂(→広義のインディビジュアリティ)」となる。なぜなら中心霊「70代」は「0歳~69歳」までの各年代の“複数の類魂の中心霊”を従えているから(10136⑫~137③)。

 

D:意識の変遷(一つの考え方)

<霊と顕現する場所とはワンセット>

神によって創られた宇宙には「創造者である神」(1196⑤)と同質の「普遍的要素としての霊」が、いわゆる「意識」とともに遍満している。「大霊(神)の一部である意識」(メッセージ147⑪)には“霊が顕現する場所(=霊の外皮)”という役割がある。シルバーバーチは「神と同質の“霊”」と「意識」について、「神は全生命に宿っております。全存在の内部に宿っております。全法則に宿っております。神は宇宙の大霊です」(5140⑪~⑫)と表現している。ここからすべての存在物の中に、「霊」と「霊が顕現する場所(→意識、霊の外皮)」が二重構造(=ワンセット)になって組み込まれていることが分かる。

 

<単なる意識>

意識は前講(第11講:動物について)において考察したように、グループごとに集まって一つの集団を形成している。霊的進化の低い段階では、物的形体に対応した“個々の意識(→物的身体と中間物質がワンセット)”には個別の霊的要素はなく、“個々の意識”の集合体である“グループという集団(→器、霊の外皮、いわゆる意識)”に神と同質の霊は宿っている。そのため因果律は“集合魂(→グループなどの集団)”という個々の意識の集合体を単位として働く。この段階をブログでは“単なる意識の集合体(→集合魂または群魂)”と呼んでいる。

 

<類魂意識>

悠久の時を経て意識は進化し(→意識に潜在している霊の顕現が増すこと、これによって個々の意識がまとう物的形体の個別化が進行する)、集合魂の中に“個々の意識”ごとに薄っすらとした境界線が出現する。この段階でも因果律は“グループという集団”に対して働くことに変わりはない。“個々の意識”がまとう物的形体は“哺乳類(→霊的進化の観点から見れば、哺乳類といってもピンからキリまで存在するが)”となる。意識の有り方は“単なる意識の集合体”から個別意識の萌芽形態たる“類魂意識”となる。この関係をシルバーバーチは「動物の世界には個的意識はなくとも、その奥には類魂としての意識が存在します。動物よりさらに下がると類魂の意識もなくなります」(道しるべ223⑤~⑥)と述べる。なおシルバーバーチは哺乳類を動物と呼んでいる。

 

人間の世界に近づいてきて、人間から多くの愛を受けた“動物(→個々の意識が地上でまとう物的形体はペットと呼ばれるもの)”は、進化が促進されて一時的に個別意識を持つことができる。一般的な“類魂意識”を持つ哺乳類の場合は、集合魂の中に“個々の意識を分ける境界線”が薄っすらと出現した状態だが、人間の愛を受けた動物(ペット)の場合は進化が促進した分だけ、その“境界線”が一段と鮮明になりクッキリと浮かび上がってくる(→個々の物的形体に対応した形で。この場合でも因果律は個々の意識ではなく集合魂に対して働くが)。境界線がより一層鮮明になった分だけ、一時的に個別意識を持つことが出来る。

 

<個別意識>

個別意識を持つ人間は死によって霊的世界に戻り、「霊的自覚」が芽生えて意識が拡大していくにしたがって、自分が所属する「類魂(霊的家族)」を意識するようになる。哺乳類の「類魂」と人間の「類魂」の違いは、前者は“種というグループ(→器、集合魂)”に霊が内在していることから(→類魂を構成する個々の意識には“霊”は内在していない)、因果律は集合魂に対して働く。これに対して人間の場合は、統括霊のもとに個別霊が複数集まって一団を形成しているが(→二十の場合もあれば百の場合もあり、また千の場合もあり、その数は一定しない:永遠の大道85⑭~⑮)、因果律は個別意識を持った個別霊ごとに働く。人間にも哺乳類にも同じ集団を指す「類魂」という言葉を使っているが、本質的に両者は異なる。人間の類魂を構成する個別意識には“霊”が内在しているが、哺乳類の類魂(=集合魂)を構成する“個々の意識”には“霊”が内在していないから。

 

<意識と形体との関係>

意識と形体の関係から見ても、哺乳類という類魂(=集合魂)から地上に出現する物的形体は無数なのに対して、人間という類魂から地上に生れて物的形体をまとうのは一体のみ(→地上に誕生する個別霊は一霊のみ:458②~④、語る314⑧~⑩)。このように哺乳類と人間では意識の有り方が異なっている。これ以降、意識が進化していくに伴って個別意識はさらに“意識を拡大・深化”させて行く。

 

3.講座を終えるにあたって、『シルバーバーチの霊訓』の中心テーマ

A:創造の全目的

シルバーバーチは「創造論」の立場に立って、神によって創られた万物の中に潜在(5140⑪、語る120⑩~⑪)している「霊(→普遍的要素としての霊、神の一部、神の分霊)」を、「霊の外皮(→神の一部である意識の領域)」に顕在化させて「神性を増し、物質性を減らしていく」こと、それが「創造の全目的」(3113⑨~⑪)であると述べる。

ここから「霊的進化はひとえにインディビジュアリティの限りない開発」(9131④~⑤)のことになる。つまり個別霊たる人間に関して言えば、自我の本体に内在している完全性を顕現(0%~100%)していく過程が「霊的進化」であり、この「霊性の開発」をすべての人間は目指している(→霊的身体に具わっている「サイキック能力」は霊的進化に付随して出現するもの)。これがすべてに優先される。

 

B:「潜在的完全性」を顕在化させるためには

自我の本体に内在している“霊(神の分霊)”の顕在化率を高めるためには、「意識(→霊の外皮、自我の本体)」の進化レベルに見合った何らかの“客観的な形体(→物的身体や霊的身体)”をまとって、各種体験を積まなければならない。シルバーバーチは行為の中でも取り分け利他的行為の重要性を「通貨」にたとえて、「人の為に役立つことが霊の通貨」(350⑮~51①)であると述べている。利他的行為は宇宙に遍満している霊的エネルギーを他者に流す際のキーワードになっているから。

 

現代社会の病理現象の一つである利己主義は、際限なき貪欲という形をとって地上世界を蝕んでいる。これは霊的エネルギーが地球上に絶対的に不足しているため、万物に潜在している“霊”が奥深く押し込められていることが原因となっている(→地球人は“霊”の顕在化率が極めて低いため、地上世界に愛や寛容さなどの“神の属性”が現れ出ていないから)。地上世界がいま最も必要としている行為は、あらゆる形の利他的行為である。霊的エネルギーの通路となってくれる人たちのあらゆる利他的行為よって、暗い地上の隅々までエネルギーが及んでいくからである(4132⑫~⑬)。この利他的行為は「シルバーバーチの教え」の中心テーマとなっている(224②、136⑥)。このようにシルバーバーチは物的視点から霊的視点に意識を変える「生き方の問題」を我々に提示した(注6)。

 

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<注1

■分霊再生

和製スピリチュアリズムの提唱者の浅野和三郎は、当時主流であった「全部再生」説に対して「分霊再生」説を述べた。浅野が述べた「分霊再生」説は、「前生霊(守護霊)がそのまま生まれ変わるのではなく、自分の未浄化な部分を再生させる」という説。一部が再生するので「部分的再生」、または霊の一部は本体から派生されるので「派生的再生」、さらに派生するにはその部分を創るので「創造的再生」などと呼ばれている。浅野はこの主張を昭和3年頃から雑誌『心霊と人生』に掲載して、昭和9年頃に独特な「創造的再生説(→守護霊があたかも親が子を産むように分霊を出すという説)」として完成させた。

 

浅野は昭和58月号の『心霊と人生』において(コメント1)、人間の死後、幽界において物質的欲望や現世的執着が次第に薄れていくにつれて、自我の分裂が起きる(→浄化した自我意識と未浄化の自我意識の二つに)。浄化した自我意識は“第一の自我”となってさらに向上進化の道を進む。これに対して未浄化の自我意識は“第二の自我”となって再び物質界に生まれ出ると述べた。

つまり再生する自我とは、物質的欲望や現世的執着を浄化しきれていない「未浄化の第二の自我」に他ならない。これを「分霊再生」と呼び、仏教の輪廻転生思想でいう自我意識が“丸ごと再生”する「全部再生」はありえないと述べている。さらに“第二の自我”が再生する際に、浄化された“第一の自我”である「前生霊」は守護霊になると述べている。

 

■筆者の批判

筆者は「新しい霊(直前まで動物霊)」は「前世霊(守護霊となる霊)」の“未浄化な意識の一部”を引き継ぐが、この部分は“新しい霊”のカルマになるのではなく、地上人生で“やり遂げるべきテーマ(課題)”となると考えている。なぜなら「神は全ての霊を無垢と無知の状態で創造される、一人一人に神は使命を持たせてある」(霊の書66⑧~⑨)から。地上人生で“新しい霊”はこの“やり遂げるべきテーマ”に対して、自由意志を行使しながら果敢に挑む。しかしその過程で何らかのカルマを作ったとする。これが“新しい霊”にとっての本来の意味でのカルマ(霊的負債)となる。

なお筆者は自我が分裂して「浄化した自我意識と未浄化の自我意識の二つ」に分裂するという立場はとらない(→個別意識を持った“自我の本体”が無限に分裂していくとは考えられないから)。浅野和三郎が説いた「分霊再生」説には、シルバーバーチが述べた「類魂・再生」説の立場から見て疑問を感じる。

 

◆コメント1

雑誌『心霊と人生』昭和58月号、浅野和三郎著「創造的再生説に就いて」

――さて物質界と離れた自我は幽体に包まれて幽界の方に引き移り、爰に新たなる経験を積む。それが所謂幽界の生活である。だんだん修行をつみ現世生活から持ち越した物質的欲望、現世的執着の名残が次第にその中心意識と離れるに連れ、爰に再び分裂作用が営まれる。即ち浄化した自我意識と浄化せざる自我意識とが当然二つに分かれるのである。・・・右の浄化した第一自我はそのままずんずん向上の途を辿る。之に反して浄化せざる第二自我は言わば現世的執着の塊であるから再び物質界に舞い戻る。それが取りも直さず再生という現象である。即ち再生とは浄化せざる第二自我の再生、換言すれば分霊の再生であり、自我意識の全部が再生するのではないことになる(昭和58月号、9頁参照)――

 

<注2

■霊界通信の進化

物理的心霊現象が盛んに出現していたころ、世間の目に触れないところで、物理的心霊現象から霊界通信への転換が静かにはかられていた。高級霊界からはスピリチュアリズムの礎石となったカルデックに続いて、インペレーター霊団がキリスト教の牧師であったモーゼスに対して、1873330日に自動書記という形で働きかけを行ってきた。こののちモーゼスは10年間にわたって膨大な量の通信を受信したが、そのうちの一部を1883年に『霊訓』として出版した。このモーゼスに働きかけを行ってきたインペレーター霊団の役割は、「キリスト教的ドグマの誤謬を指摘し、それに代わる真正な霊的意義を説くこと」にあった。このような役割を持ったインペレーター霊団は、カルデックに係わる霊団が置いた礎石を足掛かりにして、果敢にキリスト教神学に切り込んでいった。インペレーター霊団の役割がキリスト教神学に正面から向き合って、そこに霊的橋頭堡を築くことであったため異論が多く複雑な再生については、言及した箇所(霊訓下132⑪~⑫、続霊訓104⑨~⑭、続霊訓132⑬~133⑨)はあるものの積極的には述べていない。このように類魂や再生に関しては、いまだ機が熟しておらず、次の霊団の仕事として持ちこされたものと思われる。

 

■ウイリアム・ステッド

その後スピリチュアリズムの理解が深まるにつれて、再生に関してより深い内容の通信が地上にもたらされた。ウイリアム・ステッド(William Stead18491912)は1891年に他界した文筆仲間のジュリア・エイムズ(Julia Ames)からの通信を、死後直後から数年間にわたって自動書記の形で受信した。ステッドはこの自動書記通信を1898年に『死後――ジュリアからの便り』として出版した。日本では『ジュリアの音信』(桑原啓善訳、でくのぼう出版)として出版されて、この中に「死後――ジュリアからの便り」と「ジュリアのお話」が収められている。この「ジュリアのお話:19081013日」(『ジュリアの音信』123頁~125頁)にはイギリス系として画期的な再生に関する通信が含まれている。再生を「車輪の輻(や:こしきから車輪の輪に向かって出ている放射状の細長い棒)と轂(こしき:車輪の輪の中心部分の太い部分)」を用いて、本来の自我を車輪の轂に、地上に現れている部分を車輪の輻に例えて説明している。

 

この霊界通信のあと、さらに詳細な「類魂・再生」に関しての情報が、マイヤース霊から霊媒のカミンズを通して『永遠の大道』(1932年)、『個人的存在の彼方』(1935年)として地上にもたらされた。マイヤース霊の通信は、再生を類魂との関係で詳細に説明しており、スピリチュアリズムの真髄に触れる画期的な情報であった。

 

■イギリス系とフランス系のスピリチュアリズム

イギリス系の「スピリチュアリズム」とフランス系の「スピリティズム」の最大の違いは再生を認めるか否かにある。「同一霊魂」の進化向上に再び地上体験が必要か否か、という観点から再生が論じられているが、当時のスピリチュアリストには「分霊再生」や「類魂・再生」という観点はなかった。イギリス系のモーゼスは再生を否定し、フランス系のカルデックは再生を肯定した。しかし両陣営の最大の相違点であった再生に関しては、何が再生するのかの違いはあるものの、再生を肯定する「シルバーバーチによって架橋された」といえる。このように霊的教訓は地上世界の霊的な理解力に応じて徐々にその質を深めていったことが、カルデック、モーゼスからシルバーバーチまでの流れを見るとよく理解できる。

 

■マイヤース霊からの通信

フレデリック・マイヤース(Frederick William Henry Myers18431901)は古典学者、詩人でありケンブリッジ大学の古典文学の講師および学監を勤めた。またSPR(英国心霊研究協会)の設立に尽力し、1900年にSPRの会長に就任したが翌年ローマで死去した。

マイヤースの死後1903年に出版された『人間個性と死後の存続』(Human Personality and its Bodily Death)は、潜在意識における自我の能力と超常的な知覚機能について論じた遺作である。梅原伸太郎氏は「人間の識閾下の自我こそが真の自我であり、かつ心霊機関であり、いわゆる通常意識はこの真の自我の一断面にすぎないこと、また超常的知覚は肉体に拘束されない魂の生命のもつ通常の知覚であること」(梅原伸太郎訳『不滅への道』国書刊行会、訳者の解説268頁)をマイヤースは明らかにしたと述べている。マイヤースは個々人の心は識閾下(=潜在意識)で他の意識とつながっていると主張したが、この説はその後のユングの「集合的無意識(→人類が生来的に所持している民族・国家・人類などの共通意識)」に受け継がれていった。

 

マイヤースは死後にレオノア・パイパー夫人(Leonore E. Piper18591950)らを通して、1924年に交叉通信(一人の霊媒を通してあるメッセージが届けられ、それと関連したメッセージが別の霊媒を通して届けられる現象)によって自らの死後個性の存続の証明を行った。自らの身元証明を行ったマイヤース霊は、霊媒のジェラルディン・カミンズ(Geraldine Cummins18901969)による自動書記通信の形で、1924年と1925年および1927年、1931年の3期に分けて通信してきた。それを友人であるEB・ギブス(E. B. Gibbes)が集成して1932年に『永遠の大道』として出版した。さらに1933年から1934年にかけて受信したものを『永遠の大道』の続編として、1935年に『個人的存在の彼方』として出版した。マイヤース霊の通信は極めて論理的かつ思索的な通信となっている。

 

これらの一連の通信では、永遠の中で人間の魂がどのように成長していくのか、さらに霊界の各層や類魂、意識や記憶について詳細に言及されている。特筆すべきは英国系スピリチュアリズムでは長年にわたって再生を否定してきたが、マイヤース霊は「類魂説」に立って再生を肯定する霊界通信を送ってきたことであった。

 

<注3

■ジョン・レナードは1956年に出版した『The Higher Spiritualism』(邦訳:近藤千雄訳『スピリチュアリズムの真髄』国書刊行会1985年刊)の中で、「再生」について反対の立場から次のような自説を述べている。

ジョン・レナードは「(地上に)戻ってきて別の身体に宿れば前世とは別人になるのであり、前世の記憶もないのであるから、それは前世の続きでもなく前世と同じ個性の連続でもないのである。同一人物であることは記憶によって決まることであり、記憶がなければ同一性は証明できない」(前著11頁参照)。さらに続けて「スピリチュアリズムでは、権威ある著作のどれをみても輪廻転生は説いていない。事実上すぐれた指導者の全てが口をそろえてこの説に反対している。・・・デービスは転生説に反対していた。・・・スピリチュアリズムでは、魂は肉体から解放された時点から永遠の進化の道程を歩むと説く。たった一回の地上体験で、魂の進化に必要な体験と知識は十分に得られると信じるのである。その体験と知識を基礎として、霊界において限りなき進化の階段を登り続けながら、さらに新たな体験と知識を獲得し、同時に新たな神性を開発していくわけである。スピリチュアリズムでは、地上生活というのは魂の教育課程における幼稚園のようなもので、その基礎体験を終えると一段高い小学校へ進むのであって、再び地上に戻ってもう一度幼稚園の勉強をする必要はないと説く」(前著13頁~14頁参照)。

 

ジョン・レナードが原著を発行したのは1956年であり、この時期はいまだシルバーバーチやマーヤースが説いた「再生」に関する霊界通信が、十分には理解されていなかったことが分かる。ジョン・レナードは、シルバーバーチが説いた「意識の問題(→インディビジュアリティとパーソナリティの違い)」や「再生の目的(→カルマの刈り取りはすべて霊界で行えるわけではなく、地上で刈り取る以外に方法のないカルマもあること)」、さらには再生に際して最も適した環境(→民族・国、性別、両親など)を自ら選択して出生することなどを理解していなかった。また当時の西洋人の思想的偏見が、「(輪廻転生説は)東インド哲学の非論理的きわまるもの」との言い分からも見て取れる。

 

<注4

■本来の意味でのカルマ

マイヤースの通信で使われている「カルマ」には、「本来の意味でのカルマ(狭義のカルマ)」と「型・パターン(広義のカルマ)」と「未浄化な部分、魂の歪み(本来はカルマではない)」の三通りがある。

個別霊Aが自ら償うべき「本来の意味でのカルマ(→狭義のカルマ、悪性のシミ)」としては、狂信的な信仰でグループのメンバーを誤った道に引き入れてしまった主宰者の責任がある(例:オウム真理教の教祖など)。Aは自らの責任で「カルマ」という“悪性のシミ”のシミ抜きを、地上体験を通して行わなければならない。

 

■型・パターン

次にマイヤース霊が言うカルマの「型・パターン」には「前世とは自分と同じ霊系の魂の一つが、私が誕生する以前に地上で送った生涯をさすもので、それが現在の自分の地上生活の型をこしらえている」(永遠の大道85③~⑤)。「ただ仏教でいうところの宿業は確かに前世から背負ってくるのであるが、それは往々にして私自身の前世のカルマではなくて、私よりずっと以前に地上生活を送った類魂の一つが残していった型のことを指す。同様に私も、自分が送った地上生活によって類魂の他の一人に型を残すことになる」(永遠の大道85⑮~⑱)。「私自身は二度と地上に現れることはないであろう。が、自分と同系の他の魂は、私がかつて地上でこしらえたカルマの中に入ることになる。ただし私がカルマという用語を用いる時、それは従来のカルマと同じものではない」(永遠の大道86⑤~⑦)がある。

 

類魂の構成メンバーである個別霊A・B・C・Dはそれぞれ地上生活を送った。その際に「自ら償うべき性格のカルマ」を作った。これが個別霊自ら償うべき「本来の意味でのカルマ」のこと。これとは別に地上生活で何らかの「型、パターン(→広義のカルマ、良性のシミ)」を残すことがある。

例えば類魂メンバーは再生するたびに音楽の才能を開花させていくことがある。また「信仰心(→キリスト教、イスラム教、仏教などのベースにある信仰心のこと)」を深めていくなどがある。A→B→と“自分と同じ類魂のメンバー”が作った「型、パターン」を再生人生でCやDは引き継ぐことによって(→シミが良性なので他の個別霊は引き継げる)、さらに「音楽的才能」や「信仰心」が深まっていく。マイヤース霊が用いるカルマの「型、パターン」とはこのことを指す。

 

■未浄化な部分、魂の歪み

三番目の「未浄化な部分、魂の歪み」もマイヤース霊の文言から引用する。「初めて地上に生まれてくる霊の場合は特別の守護が必要なので類魂との霊的な繋がりが密接となり、その結果、直接の守護に当たる霊のカルマが強く作用する・・・もう一つは、地上に生まれた若い類魂の守護霊となって、自分の残したカルマの中でもう一度その類魂と共に間接的に地上生活を送る方法」(個人的存在97⑱~98⑥)との記載がある。

 

マイヤース霊が述べる「初めて地上に生まれてくる霊の場合は・・・守護に当たる霊のカルマが強く作用する」(個人的存在97⑱~98①)という際の“カルマ”とは、「守護に当たる霊(守護霊)」の“未浄化な意識”のことをいう。本来はカルマではないがマイヤース霊はこれもカルマと呼んでいる。

個別霊Aは進化の途上にいる為、当然に意識の中に未浄化な部分が残っている。この“未浄化な意識の一部”の克服をAは守護霊となって“新入生の霊X”に託すことになる(→守護霊は類魂のメンバーという考え方をすれば、新入生Xの地上体験をAは間接的に共有することが出来るから)。“新入生の霊X”は守護霊から託された“未浄化な意識の一部”の克服を(→この部分がXの地上人生でやり遂げるべきテーマとなる)、地上人生に於いて自由意志を行使しながら果敢に挑戦していく。両者はいわばリング上で闘う“ボクサーX”と、リングサイドで闘いを見守る“セコンドA”の関係に似ている。その挑戦の過程でXは何らかの“霊的な借金”を背負ったとする。これが本来の意味でのX自身のカルマとなる。死によってXは幽界の下層に落ち着く。Xを含む多くの“新入生の霊”は“テーマ未達成”のため、幽界からUターンして地上に再生することが多いと思われる(→幽界の下層から「前世の私」とは別のパーソナリティをまとって再生する)。

 

<注5>

■物的試練について

Xは「人間関係の問題」という試練を使って今回の「再生人生のテーマ:ア」を達成しようとした。地上的人格の「X1」は現代の日本という国で、厳格な家庭の子として生まれたとする。18歳になった「X1」は両親の余りの厳格さに耐えきれなくなってしまった(家族関係という試練「イ―①」の登場)。

この時点で「X1」が取りうる主な選択肢は二つある。一つは家出の道、二つ目は大学進学や就職を機に穏便に家を離れる道。「X1」は自由意志を行使して前者の家出の道を選択した。家出をして渋谷の歓楽街を歩いていると、“センター街”を根城にしている不良仲間に声を掛けられた。不良仲間に加わった「X1」は、持ち前の腕力と強気な性格が幸いして、次第にグループ内で頭角を現して行った。

 

数年が過ぎたある年の暮れ、渋谷署と渋谷区役所が一体となって“歓楽街のクリーン作戦”が行われた。摘発された「X1」は、その時に出会ったNPOのリーダーに紹介されて、更生者の面倒を見てくれる飲食店に住み込みで働くことになった。その店で「X1」は、職場の人間関係という二つ目の試練「イ―②」を受けることになる。

まず不良仲間でその日暮らしをしているうちに増幅してしまった“安易さに流れる自分”を抑えて、真面目に働いて将来は“暖簾分け”によって自分の店を持つという堅実な道。二つ目はトラブルメーカーという側面が強く出て、自分を抑えることが出来ずに問題を起こしてしまい、飲食店を飛び出してしまう道。「X1」は些細なことが発端となって同僚との間で問題を起こしてしまい、半年も辛抱できずに店を飛び出してしまった(二つ目の試練に対する選択)。

 

新宿の歌舞伎町をふら付いていると、渋谷時代に不良グループをまとめていた“リーダー”と出会った。暴力団〇〇会の準構成員となっていた“リーダー”の紹介で、「X1」は〇〇会のフロント企業の金融会社に働き口を見つけて、会社の寮で寝泊まりすることになった。ある地域を任された「X1」は、高圧的で情け容赦ない取り立てから、度々警察のお世話を受けた。ある取り立ての際に傷害事件を起こして数年の実刑判決を受けた。刑務所での生活が長くなるに従い、出所後の人生をどうするかという思いが強くなってきた。

その際「X1」には、今度こそ更生すると心に固く誓って刑期を満了する道。あるいは“娑婆に出たらあれを食べたい、これもしたい”という意識が次第に強くなってきて、煩悩の虜になったままの状態で刑期を終える道。この刑務所での意識の葛藤が三つ目の試練「イ―③」となります。この選択によってその後の人生が大きく変わってくるから。

 

Xの地上的人格「X1」は、肉体をまとうことによって利己的に働く意識(生命維持、種族本能、権勢欲、所有欲)が、利他的に働く意識(「小さな区画のインディビジュアリティ」から来る意識)をしのいで大きくなり、人生の岐路(イ―①、イ―②)に際し、霊的に見て誤った選択を行ってしまった。自由意志の行使によって「下:霊性レベルの停滞を招く方向、カルマを積み重ねる方向」を選択してしまった。

地上的人格「X1」が残りの地上人生で、今回の「再生人生のテーマ:ア」を達成することが出来るかどうかは、これまでの人生ですべて「下」に向いていた意識のベクトルの向きを、「霊性レベルを高める方向」に舵を切れるか否かにかかっている。このように三つ目の試練「イ―③」を「上」に選択することによって、一発逆転の可能性がまだ残されている(但し残りの地上人生が“茨の道”になることを覚悟しなければならないが)。このように「本来の私X」が“設定した条件”を使って、地上的人格の「X1(現在の私)」が「再生人生のテーマ:ア」を達成していくことになる。

 

■試練をどのように乗り切るか

試練「イ―①」をどう乗り切るかで、試練「イ―②」の現れ方が全く異なってくる(例えば両親と和解できて穏やかな一生を送るなど)。さらに試練「イ―②」の対処の仕方(例えば自分の店を持って一市民として平穏に過ごせるなど)によって、試練「イ―③」の現れ方が異なってくる。このように自由意志をどのように行使するかよって、次の試練の形が現れてくるのであって、前もって次の試練の形態が決まっているものではない。

 

<注6>

①.「ローカル・スピリチュアリズム」適用における多様さ

■国民性の違いから変質していく

地球上には多様な気候風土、国や民族の歴史、国民性などによって、さまざまな“宗教や信仰形態”を持つ人たちが共存して生活している。そこには極めて多様性に富んだ世界が広がっている。顕幽を貫く霊的法則そのものは不変であるが、その法則の適用に際しては個々人の置かれた実情や霊的進化の程度を考慮しなければならず、そこには“適用における多様性”が常に存在する。スピリチュアリズムは究極のところ「意識の変革を伴った生き方の問題」である以上、各国の実情や国民性の違いなどから変質・変容していくことは必然であろう。

 

■夾雑物が混在している

シルバーバーチは次のように述べて“適用における多様性”の存在を肯定している。「さまざまな民族の必要性に応じて、さまざまな手段が講じられつつあります。忘れてならないのは、現在の地上はますます複雑さを増し、相互関係がますます緊密となり、それだけ多くの通信回路を開かねばならなくなっているということです。各民族の異なった気質、習慣、思想、生活手段や様式を考慮に入れなくてはなりません。通信の内容もその国民の生活環境や特質、民族的習性にあわせなくてはなりません。それをその国民の言語で表現せねばならず、その他もろもろの制約があります。が、啓示の由って来る究極の淵源はみな同じです」(1212⑨~213②)と。

しかし各国の宗教や習俗と習合して広がった「ローカル・スピリチュアリズム」には、当然に霊的法則に反したさまざまな“夾雑物”が混在しているので、これを排除しなければならない。シルバーバーチは「宗教の名のもとに行われている欺瞞と誤謬」(福音66⑥)という表現で、この“夾雑物”の存在を指摘している。

 

■純粋なスピリチュアリズムという光

このように各地における気候風土、国や民族の歴史、国民性などの違いから変質・変容していくスピリチュアリズムの現状に対して、「純粋なスピリチュアリズム(→質の高い高等なスピリチュアリズム:Higher Spiritualism)」という“光”を当てることによって、“夾雑物”の存在を浮き彫りにすることができる。そしてそれらの“夾雑物”を“濾過”することによって「ローカル・スピリチュアリズム」を一段と高いレベルにまで引き上げることができるようになる。その結果、“適用における多様さ”という観点から、「ローカル・スピリチュアリズム」は「純粋なスピリチュアリズム」を各国民や民族、個々人の実状にあった形で表現することができるわけである。ここに本来の意味での「ローカル・スピリチュアリズム」の存在意義がある。

 

なお当ブログでいう「純粋なスピリチュアリズム(→質の高い高等なスピリチュアリズム:Higher Spiritualism)」とは、『シルバーバーチの霊訓』、モーゼスの『霊訓』『続霊訓』、アラン・カルデック編『霊の書』『霊媒の書』に、マイヤースの通信『永遠の大道』『個人的存在の彼方』を加えた書籍の中で述べられている「霊的な教え」を指している。

 

②.国家や民族レベル

国家や民族レベルにおける「純粋なスピリチュアリズム」の役割とは、「ローカル・スピリチュアリズム」が誤った方向に変質・変容していかないように監視し修正させる“モニター装置としての機能”である(→国や民族の霊的レベルに見合った“道義心”のこと)。

修正の方法としては、混乱を避ける意味で穏やかな形で行われていくと思われる。なぜなら高級霊のインペレーターも「われらとしては急激なる改革によって混乱を来すことは望まぬ。今あるものに磨きをかけ、新しき解釈を施したく思う」(霊訓上146⑨~⑩)と述べているから。

 

③.個々人レベル

個々人に対しても、なぜあなたは『シルバーバーチの霊訓』に代表される“純粋なスピリチュアリズム”を学ぶのですか? という形で、同じことが問われてくる。

まず各自が有するバックグランドの違い、つまり各自はそれぞれ霊性レベルが異なること、各自はそれぞれ具体的な諸事情を有していること、各自はそれぞれに固着思想(=固着観念)を有していること、その強さの程度に違いがあることなど、多様性に富んでいる。このような多様性に富む人たちが、スピリチュアリズムを学んでそれを「生き方の指針(→実践哲学や信仰)」とする際にも、そこには個人レベルにおける“適用における多様性”が存在する(→個々人の霊的レベルは違うから、道義心)。

 

突き詰めれば「純粋なスピリチュアリズム」を学ぶということは、個人レベルにおいては各自が有する「道義心というモニター装置(自我の本体)」に、この“光というものさし(=純粋なスピリチュアリズム)”を組み込んでいく作業にほかならない。この作業過程において、各自が有する“固着し沈潜している固有思想”との間で葛藤が起きることになる。この葛藤(=破邪顕正)具合如何によって、その人の“スピリチュアリズムの純粋さの度合い”が決まり、その度合いに応じて霊性を向上させるための“動機付け”が行われることになる。ここに個々人において「純粋なスピリチュアリズム」が果たすべき意義と役割がある。

 

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<質問「類魂の移動」に対する回答>

■一つの考え方

個別霊Aは所属する類魂から派遣されて再生して(→実際に再生する意識は“A意識”の部分的側面である“A―1意識”となる)、地上で体験を積んでそれを類魂に持ち帰る。なぜなら「類魂メンバーABCD・・・」は、中心霊(統括霊)Gの「一側面、部分的側面、構成分子」(457①、58⑧、746⑭)なので、再生霊A(→実際に地上に再生するのはA―1)は一旦Gのもとに戻ることになるから。

 

数多い再生事例には再生霊A(A-1)は地上体験を積む過程で、想定以上の霊的成長をする場合も当然に出てくる。この場合でもAは中心霊(統括霊)Gの「一側面、部分的側面、構成分子」に変わりはないので、Aは所属する類魂に一旦は戻る。なぜならAはGの「部分的側面」だから(→想定以上のAの地上体験を「類魂メンバーBCD・・・」はGの霊的レベルの限度枠の範囲内で共有する。限度枠を超えたAの体験は他の類魂メンバーは共有できない)。今回の再生でAは所属する類魂の霊性レベルを超えて成長したので(→中心霊Gの霊性レベルを超えるので)、上位の中心霊Hが管轄する類魂に移動する(→Aは従来の中心霊Gの部分的側面から、上位のHの部分的側面に入れ替わるので、所属する類魂の上昇が起きる。Aは中心霊Gの上位の中心霊Hとの話し合いで所属が入れ替わる)。いわば「所属する類魂の厳正な淘汰と入れ替え」が行われることになる。

 

Aは中心霊Gの部分的側面という点から考えると、想定以上の霊的成長によってAが所属していた元の類魂も大幅に霊性が向上する(→但し中心霊Gの“霊性の上限”という範囲内で)。今回の再生でAはその範囲も超えたので、より上位の中心霊Hの類魂に移動していく。

ポイントは「類魂メンバーABCD・・・」は、中心霊(統括霊)Gの「一側面、部分的側面、構成分子」であると言うこと。この部分的側面を超えてAは霊的成長をしたと言うこと。

 

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