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第5講、地上人生、生と死(2023年)

<目次>

1、地球という惑星

2、地上人生の始期

・人間の始期

・生まれ出る際の問題

3、地上人生の終期

・死とは何か

・さまざまな「死の形」

4、地上人生の役割

・本来の世界と地上世界

・地上人生の意義

5、講座に寄せられた質問

 

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1、地球という惑星

ア、「霊」と「物質」という二つの要素

A、「霊的要素」と「物的要素」

創造者である神は138億年前に物的な宇宙を創った。神が創った宇宙は「霊(神の一部、霊的要素)」と「物(普遍的物質又は根源的物質、物的要素)」という二つの要素から構成されている。その両者の上に創造者としての神が君臨している(霊の書33⑬~⑭参照)。

「霊(霊的要素)」の個別化によって、宇宙に遍満する「霊的エネルギー(普遍的要素としての霊、一般的な霊)」や「個別霊(意識)」、さらには「意識」に内在する「神の分霊」が生じた。

これに対して「物(物的要素)」の個別化によって「個々の物質の素材」が、さらには物が霊と繋がる為の接着剤的な働きをする中間物質の「普遍的流動体(→人間の肉体と霊体を接着させる接合体、さらに生命素や活力、シルバーコードやエクトプラズムなどの素材として)」が生じた(霊の書34③~⑫参照)。この中間物質には霊的要素の多いものから物的要素の多いものまで多岐に亘っている。

 

B、三種類の「霊」

一般に「霊」は次の三つの用例で用いられている。まず「神の分霊」の意味として、次に宇宙は「神」と同質の「霊」によって満たされていることから宇宙に遍満する「霊的エネルギー(一般的な霊)」という意味で、さらに「個別霊(→個性を具えた個的存在としての霊、個別意識)」という意味で、この三種類で用いられている。このように「霊」と言っても文脈によって意味は異なるので、どの「霊」を指しているのかは各自で判断しなければならない。なお個別霊は「霊的要素」の個別化によって生じたが、それが何時どのようにして為されたかは高級霊といえども分からないという(霊の書57⑭~⑮)。

 

イ、地球の誕生

 神の創造物である「根源的物質」が変化して個々の物質となって(→物体の一つ一つは根源的物質が変化したもの:霊の書36⑤参照)、それが空間にまき散らされ、その一部が凝縮して今から約46億年前、物的な地球という天体が形成された(霊の書41②~③参照)。

地球という惑星は完全な状態で創造されたのではなかった(184⑦参照)。地球誕生の初期に見られた大規模な火山噴火や激しい造山活動などの中で進化してきた。そして地球は次第に荒々しい現象が収まって穏やかになってきた。その穏やかになった地球の表面に人間を頂点にした様々な生物が出現した(→生物の出現は地球の発達段階に応じて、それに適合した形の生物が現れた:霊の書42④~⑤参照)。

 

ウ、生命体

 無機物たる水・空気・鉱物・無機化合物等の個々の物質は、物的要素たる「根源的物質」が変化した(霊の書36⑤、57⑬参照)ものだが、いまだ非活性化の状態にある。

物質と霊はその質的差異が大きすぎるため直接には結びつかない。両者の結合は「根源的物質(普遍的物質)」が変化した半物質状の「普遍的流動体」によって行われる(霊の書34③、50①参照)。

物質はこの「普遍的流動体」の一種である生命素と一体化することによって、活性化して有機物となり(霊の書50②、48⑥~⑨参照)、初めて生命の器たる物的身体となる(霊の書49④参照)。この物的身体に霊的要素が流入することによって人間などの生命体となる。

半物質状の「普遍的流動体」は目的に応じて生命素となったり、霊と物質を結合させる接合体となったり、シルバーコードになったり、物質化現象を出現させるエクトプラズムとなったりと、さまざまに変化する(霊の書34⑧参照)。

 

◆ポイント

*神の被造物たる物的な宇宙は「霊(神の一部、霊的要素)」と「物(普遍的物質又は根源的物質、物的要素)」の二つの要素から構成されている

*神の一部である「霊(霊的要素)」は個別化によって、宇宙に遍満する「霊的エネルギー(一般的な霊)」や「個別霊(意識)」、さらには「神の分霊」として存在する

*「物(物的要素)」は「個々の物質の素材」として、また半物質状の「普遍的流動体」として存在する

*「物(個々の物質)」+「生命素(半物質の普遍的流動体)」➡活性化して生命の器たる物的身体になる

*「生命の器たる物的身体(活性化した物)」+「霊的要素」➡生命体(人間、動物、植物)

 

エ、天体固有の半物質の「普遍的流動体」

<地上圏霊界>       <人体の構成・名称>

 

各天体の物的要素は「根源的物質」の個別化によって生じた「個々の物質の素材」が、その天体の性質に応じて変化したもの。そのため各天体を移動できるクラスの霊(→再生を必要とする地上圏霊界を卒業した霊、高級霊)が、天体上で生活する「霊媒」と接触する場合には、その天体の中間物質(半物質)で形成された「普遍的流動体(ダブル、エーテル複体、接合体など)」をまとう必要がある(霊の書63⑩参照)。

両者(→各天体を移動できる霊と天体に住む霊媒)の霊格の差が大きい場合には、その天体出身の霊を「霊界の霊媒」として用いる。そして「霊界の霊媒」が、かつてその天体の中間境で脱ぎ捨てた「半物質的身体(普遍的流動体、ダブル、エーテル複体、接合体など)」を再度まとって、天体の物質界で生活する霊媒にコンタクトを取る方法を用いる。

地球という天体に於いて「死」を迎えた者は「中間境」で霊的調整を行い(個人的存在114⑦参照)、さらに霊的身体(幽体)を完成させて「半物質的身体(ダブル、エーテル複体、接合体など)」を中間境に脱ぎ捨てていく(永遠の大道50⑪、個人的存在80①参照)。地球を構成する物質が変化して作られた中間物質の「半物質的身体(接合体)」は、地球という天体のオリジナルなものである(霊の書63⑨~⑩参照)。

 

2、地上人生の始期

①、人間の始期

ア、古い霊と新しい霊

人間は物的体験を積む為に肉体をまとって地球に生まれてきた。シルバーバーチは「人間界への誕生には二種類ある」として、「古い霊が再び地上へ戻ってくる場合と、“新しい霊”が物質界で個体としての最初の段階を迎える場合です」(593②~③参照)と述べている。

「古い霊」とは進化の完成のために物的体験を積むため再生して来る「再生霊」のこと(593⑥~⑩参照)。この「再生霊」には霊性の汚れが極端で“霊の海”に埋没した霊が、上位の霊性レベルにある天体から下位の天体に再生する「落第生の霊」を含む(続霊訓104⑪~⑬参照)。また初めて人間の身体に宿る「新しい霊」とは「動物の類魂の中でも最も進化した類魂」(5101⑧~⑨参照)のこと(同趣旨、個人的存在81②~⑤、247⑯~248②参照)。

 

イ、地上人生のスタート時期

A、はじめに

子孫を残すために有性生殖を行う高等動物には雄雌の別がある。人間にも性別があり生殖細胞としては「卵と精子」がある。この二つが合一することを「受精」と呼んでいる。その受精の瞬間から遺伝子に書き込まれているプログラムが始動する。

人間は「受胎の瞬間から個性ある霊となる」(893⑧参照)と言われている。この「受胎」という言葉をどのように理解するかによって、地上人生のスタート時期が異なる。

 

B、二つの立場(受精時説と子宮着床時説)

イラストは人間の始期を「受精時」とするか、「子宮着床時」とするかを表したもの。まず一つ目の立場は「受胎」という言葉を「妊娠」の意味として理解して、受精卵が子宮に着床する「妊娠成立期(受精から約2週間後)」とする説であり、広く受け入れられている考え方である。この立場では“子宮着床前の胚”は人間ではなくモノ(細胞の塊)となる。

二つ目の立場は父方の精子と母方の卵が合体(DNAが融合)して、結合体である「受精卵が出来上がる時」とする「受精時」説である(453⑨~⑪、メッセージ203⑩~⑭参照)。この立場では“活性化した物質”(霊の書34④、48⑥~⑨、49④、49⑥~⑪参照)である卵と精子が合体して受精卵となって、同時にそこに霊的要素が流入して初めて個別意識を持った個別霊となる(5145⑩~⑬参照)。この時点から自我意識(個的意識)が始まり、それ以降は永遠に個性を具えた「個性ある霊」(893⑧参照)となる。その為に受精直後の“初期の胚(→受精時から14日目までの初期の胚)”はモノではなく人間となる。

 

C、初期の胚は“モノ”の根拠(研究者の立場)

<研究用の受精卵>

受精卵の問題は“研究者側の立場”に立って考えるのか、それとも“生命倫理側の立場”に立って考えるのかによって結論は異なる。

母胎から月に一個の割合で卵が作られる。不妊治療では排卵誘発剤を用いて複数個の卵を作り、それを卵巣から取り出して試験管(またはシャーレ)の中でまとめて体外受精させる。受精した一個を母体に戻して余った受精卵は凍結保存される。最終的に子宮に戻されなかった余剰受精卵や異常があった受精卵は廃棄されるか、または“ヒトES細胞”などの胚の研究に利用されている。なぜならこれらの受精卵は着床前でまだ胎児にもなっていないモノ(細胞の塊)だから。子宮に着床する前の初期の胚は受胎前だからモノとされている。

 

<有力な根拠>

その有力な根拠としてオーストラリアの哲学者ノーマン・フォード(サレジオ修道会の神父)が1988年に唱えた説がある。彼によれば「14日目までの胚は一卵性双生児になる可能性があるから、まだ人の個体ではなく“細胞の塊”にすぎない」と。さらにイギリスの哲学者メアリ・ワーノックを委員長とする諮問委員会が1984年にまとめた「人の受精と発生に関する委員会の報告書」がある。この報告書によれば「受精後14日までの胚は原始線条がまだ発現していないことから、自己同一性を持った個体とはみなされない」とある。ワーノック報告の背景には、英国国教会では体外受精に対して条件付容認(寛容説)を取っていることがあげられている。

これらの説を受けて多くの国では「人間の始期」を、原始線条の出現期以降(受精後約2週間)とする考え方を採用して、これが胚研究の国際基準となっている。いわゆる「14日ルール」のことである。これは「胚を受精後14日以降、または原始線条(胚の発生初期に臓器分化を開始する直前に形成される線条のこと)の形成以降、培養してヒト胚を発生させることを禁じるルール」のことを指す。なお2021年5月末に国際幹細胞学会(ISSCR)はガイドラインを改定して、ヒト胚研究の国際ルールである「14日ルール」を禁止項目から除外して緩和した。

*秋葉悦子著『人の始まりをめぐる真理の考察』毎日アースデイ2010年他、参照

 

<日本では>

20047月の総合科学技術会議「生命倫理専門調査会の最終報告書」では「14日目までの初期胚は人そのものではないが、人の生命の萌芽として尊重されるべき存在である」としている。日本ではこの最終報告書に基づき、初期胚は「人」ではなく「モノ(細胞の塊)」であるので、胚を研究用に用いても何ら問題はないとの解釈に立っている。

 

<カトリック教会の立場>

カトリック教会では「人の生命は受精時に始まる(→それ故に受精卵は人間である)」という立場を採っている(教理聖省『堕胎に関する教理聖省の宣言』カトリック中央協議会1974年参照)。この立場から「大部分の生殖医療は禁止、体外受精・胚移植・胚凍結など人工的な手段による妊娠や胚を用いた研究」は認めていない。なおプロテスタントは体外受精を結婚した夫婦間に限り認めている。

*教皇庁生命アカデミー著『着床前の段階のヒト胚』カトリック中央協議会2008年参照。

 

D、シルバーバーチの立場

シルバーバーチは「受胎作用は精子と卵子とが結合して、自我を表現するための媒体を提供する」ことであり、この媒体(受精卵の原型)に「小さな霊の分子が自然の法則に従って融合」する、その瞬間(→受精卵の原型に霊的要素が流入するその瞬間)が「意識を持つ個体としての生活が始まる」時期と述べる(3173⑦~⑫、語る414①~③参照)。

ここからスピリチュアリズムでは「受胎の瞬間」とは、世間で広く理解されている「妊娠成立期(受精卵が子宮に着床した時)」ではなく、父方と母方のDNAが融合して物的な結合体の「受精卵(接合子)が出来上がった時」となる。

 

②、生まれ出る際の問題

ア、産児制限

生命の誕生を阻止する産児制限は、結局のところ「動機は何か」の問題に帰着する(450⑧~51①、語る412①~④参照)。シルバーバーチは出産を制限する際の動機が正しければ問題ないが(8130③~④参照)、肉体的快楽だけを求めて妊娠を避ける者は、その動機が利己的であり程度が低いので感心しない(452③~⑤参照)。また両親の霊的進化にとって生命の誕生が不可欠の場合は必ず生まれてくる(語る412⑧参照)。生まれてくる宿命を持った霊は、避妊をしない夫婦を選ぶ(451③、最後啓示135⑤参照)と述べる。

 

イ、不妊体質で生まれた女性

一般に「女性は子供を産んで一人前であり、子供を持つことが女の幸せである」とする旧来の女性観に立った世間からの暗黙の圧力がある。そこに近年の医療技術の発達、さらにマスコミの影響も加わって、不妊治療を受ければ誰でも母親になれるという安易な風潮が出来上がってしまった。

医療の世界では、妊娠したくとも妊娠できない、そのことを苦痛に感じて来院した人の病名を“不妊症”と呼んでいる。従来から“原因不明な不妊”は「妊娠を望んでいるカップルの10組に1組の割合で存在する」と言われている。いわば妊娠しにくい体質を持った人たちの存在である。医療関係者によれば、現状は多額の費用をかけて不妊治療を受けても、妊娠する確率は1020%であるという。

 スピリチュアリズムの観点からいえば、再生人生を「“不妊体質という身体”をまとって地上体験を積む」という選択をして生まれてきたにもかかわらず、それでもなお妊娠したいと望むその動機は何かが問題となる。動機面から言えば子供を持つことによって、自分たちを人間的に成長させたいと願うカップルも存在する。この場合は実子ということに拘らなければ、子供を養子に迎い入れて共に成長していくという選択肢もある。

 地上人生では子供と共に霊的成長を図って行くのが一般的なコースとなっているが、それだけに限らずその他の“霊的成長の為のオプション”も多数用意されている。一例として「仕事」を通して霊的成長を図るという選択肢もあり、多くの人が選択している。スピリチュアリズムでは地上世界は「学校」という位置づけであり、そこに於ける“教育課程”は人によって異なる。子供の有無や障害を持って地上という「学校」で学ぶなど、さまざまなコースが用意されている。

 

3、地上人生の終期

①、死とは何か

ア、この世に於ける「死」

A、「三徴候」の確認

何をもって「死」と判断するのかは時代や文化によって幅があるが(脳死から細胞死まで)、腐敗により死臭が漂うことで死は決定的なものとなる。

死者が蘇生したという話、いわゆる「早すぎる埋葬」は昔から存在した。19世紀初頭に「死は心臓と肺が機能を停止した時に訪れる」という事実が明らかにされるまで、「死」は“細胞死(腐敗により死臭が漂う)”であった。

その後、医療の世界では「心拍停止」「自発呼吸停止」「瞳孔散大・対光反射消失(脳幹の機能が喪失している)」の「三徴候」を確認してから「死」と診断する慣行が定着している。現在では立ち会った医師は患者の「三徴候」を確認した後に、家族に向かって死を宣告する。

 

B、新たな「死の概念」の登場

物質次元から「死」を見れば物的身体の崩壊過程として現れるため、どの時点で死と判定するかは難しい。「心臓死」の場合は法律(*墓地埋葬法)によって死者を一定期間観察する道が残されている。また昔は土葬が主流であったため、仮死状態や棺に入った状態から蘇生した場合でもそれなりに対応できた。しかし「脳死」にはその道はない。

昨今は「脳死」という新たな「死」が登場している。この「脳死」とは20世紀後半に導入された「臓器移植と対になった新たな“死”の概念」である(→脳死とは大脳・小脳・脳幹を含む脳の全ての機能が不可逆的に停止した状態を言う:平成22年度版『法的脳死判定マニュアル』参照)。

1967年に南アフリカのケープタウン大学で人間から人間に対して世界初の心臓移植が行われた。その翌年の1968年に、従来から問題となっていた“脳疾患の末期患者”を表す言葉として「脳死」が使われるようになった(ハーバード大学医学部『脳死判定基準』参照)。

この「脳死」という概念を導入することによって、始めて「ドナーの心臓は生きているが、ドナーは死んでいる」状態が出現した(→脳死と心臓死との時間差を利用)。新たな“死”の概念を導入することによって「ドナーは死者から」という高い壁をクリアすることが出来た。その結果「脳死者からの臓器摘出」、つまり“死体”から脈を打っている心臓を取り出すことが可能となり、執刀医は殺人罪で訴追されることなく心臓移植手術を行うことが出来るようになった。

 このように医学技術を優先した「死の定義」が作られたことによって、移植医療はますます発達して移植用臓器のニーズは高まった。その結果「人体の商品化」がもたらされた。この背景には「死は忌み嫌うもの」や「死は敗北である」という意識が存在する。

 

*蘇生の可能性があるために「墓地、埋葬等に関する法律(昭和23531日法律第48号)」第3条では「埋葬又は火葬は、他の法令に別段の定があるものを除く外、死亡または死産後24時間を経過した後でなければ、これを行ってはならない。但し、妊娠7箇月に満たない死産の時は、この限りでない」と定めている。

 

イ、スピリチュアリズムの「死」の定義

A、シルバーコードによって結ばれている

形がない“霊的な心・本来の私という意識”が、自らの霊性を向上させる為には(→霊性の向上とは潜在している“神の分霊”を意識の領域に顕在化させていくこと、顕在化に伴って意識が拡大して行く、イラスト右AからEへ)、各種形体(→地上では肉体、幽界では幽体、霊界では霊体など)をまとってこの世では物的体験・あの世では霊的体験を積む必要がある。

この世で体験を積むためには「霊的な心」は、肉体をまとう必要がある(→肉体をまとうことによって肉体本能に強く影響を受けた意識となる)。その肉体とより精妙な霊的身体(→中間物質で出来た結合組織の接合体を含む)との間には、二本の太いシルバーコード(→頭部と臍の部分)と糸状の細いシルバーコードがクモの巣状に張り巡らされている。

 

B、二本の太いシルバーコードが切断

老化から死への長い“死のプロセス”は、各臓器と繋がった細いシルバーコードが萎縮または切断する所から始まる。細いシルバーコードが萎縮または切断することによって、生命力(霊的エネルギーの一種)の流れに障害が生じて臓器は不活性化となる(臓器の不具合)。

生物学的には“死のプロセス”の最初の兆候は“肉体の老化・病気”として現れる。そして最後に二本の太いシルバーコードの切断によって“死のプロセス”の前半は完了する。後半は霊的世界に舞台を移して、他界者は中間境で明確な「死の自覚(→私は死んだ人間だという自覚)」を得て、物的バイブレーションから霊的バイブレーションへの切り替えが完了した時点で一連の“死のプロセス”は終了する。切り替えが完了することによって物質性の濃い霊体が完成するから。なお“死のプロセス”が何時まで経っても完了しない者を地縛霊と言う。

このようにスピリチュアリズムでは、太いシルバーコードが双方ともに切れた瞬間をもって「死」と定義している(11206⑫~207⑦、永遠の大道115⑮~116③参照)。これに対して切断されずに、霊的身体が肉体から離れた状態で体験したことを蘇生後に語る現象を「臨死体験」(Near Death Experience)という。臨死体験者の中には「紐のようなものが自分の位置まで伸びているのが見えた(→シルバーコードのこと)」と述べている者もいる。

 蘇生可能性という観点から見れば、物的身体と霊的身体を結んでいるシルバーコードが切断されていなければ必ず蘇生するので死者ではない。地上世界は「学校」であるという観点から見れば、植物状態の患者でも“私(霊的な心・本来の私という意識)”はボロボロになってしまった肉体に繋がれた状態に置かれても、なお何らかの物的体験を積んでいること、または周りの者や家族に対して何らかの体験を積ませていることが考えられる。このように考えれば「臓器移植を前提とした脳死」には問題があると言わざるを得ない。霊界通信によれば高級霊は臓器移植を認めていない(9127⑩参照)。

 

C、医師は霊視能力者ではない

人間の死は“シルバーコードの切断の瞬間”としても、現実問題として医師は霊視能力者ではない。そのため“シルバーコードの切断の瞬間”を見極めて死の診断を行うことはできない。物質次元から見た“人間の死”とは、徐々に「生命現象が終息していくプロセス」として現れるので、医師にとってはどの時点をもって死とするかの診断は難しい。

近代医学の著しい進歩によって、重篤の患者は人工呼吸器や蘇生技術等の助けを借りて、命を長らえることができるようになった。病床では脳疾患の末期的病態にある患者に対して、従来の医療行為の継続か、または治療水準の切り下げかの判断に際して「臨床的脳死診断」が行われることもある(→これ以降は延命治療の中止を考える時期となる)。

このように脳が機能停止した「脳死」は臓器移植が絡まなければ、単に脳疾患の末期的病態の患者に対する“通常の臨床医学上の問題”に過ぎないといえよう。

 

D、「死」とはバイブレーションの切り替え

スピリチュアリズムでは「死」とは、肉体を脱ぎ捨てて霊的身体に移行するための通過地点に過ぎないと説く。バイブレーションの観点から「死」を見れば、従来の鈍重な肉体を通して感知していた粗い物的バイブレーションの世界から、精緻な霊的バイブレーションの世界へと切り替わる、そのことを「死」と呼んでいるに過ぎない(344④~⑤参照)。

 

②、さまざまな「死の形」

ア、不慮の死(急死、事故死、戦死)

A、無理に生木を裂く状態(予期せぬ死)

スピリチュアリズムの観点に立って「人は死んだらどうなるか」を考えて見た場合に、そこには「死の形」ごとに生じる特有の問題が見えてくる。

「本来の死」は細いシルバーコードが一本一本穏やかに切れて、最後に太いシルバーコードが切断して死を迎える。この前後に亘って他界者は“死後の深い眠り”に入る。眠りの中で粗い物的バイブレーションから精緻な霊的バイブレーションに切り替わる準備が行われる。

これに対して「急死・事故死・戦死」などの「不慮の死」は、本来の想定していた死のプロセスを踏まないケースであり、他界者に死の準備が整っていない段階で無理に生木を裂くように肉体から離される死である。

これら「不慮の死」の場合には、急激にシルバーコードが切断することによって突然に死を迎えるので、他界者にショック状態を引き起こす。その状態を緩和する為に「霊的エネルギーの注入や長期の休養」などの処置が霊的世界で行われている(6106⑤~107③、メッセージ61⑬~62①参照)。

 

B、霊的知識の有無と休養期間

<休眠の必要性>

事故や戦死などの「不慮の死」によって眠ることが出来ない他界者は、死のプロセスを進めるために必要な調整、バイブレーションの切り替えがなかなか完了せず、調整期間が長引いてしまうことになる。この場合でも他界者の“表面意識(→顕在意識のようなもの)”に「死の自覚」が芽生えてくると、急激な眠気を催すようになる。なぜなら粗い物的バイブレーションから精緻な霊的バイブレーションに切り替える為には眠ることが必要だからである。

「不慮の死」を遂げた他界者に霊的知識がある場合には、相応の霊的調整期間を経て「死の自覚」が持てるようになる。これに対して霊的知識がない場合には霊的調整の為の長い休養期間が必要となる。その調整期間は正常死のケースよりも長くかかるのが通例である(8巻103⑦~⑬参照)。その場合には「地縛霊(→死の自覚が何時まで経っても芽生えない他界者)」となって地上圏をうろつかないためにも、速やかに“休眠”を取る必要がある(霊訓下125⑫~⑮、126③~⑦参照)。なぜなら霊肉分離が本来の過程を経ずに、急激に引き剥がされることによるショックを“休眠”の中で調整していく必要があるから。「不慮の死」を遂げた他界者は張り詰めた意識状態(一種の興奮状態)にあり、なかなか眠ることが出来ずに死を遂げた場所やゆかりの場所をさ迷い歩くことが多い。

 

<霊的な事柄をどちら側から見るか>

時間の流れはあの世では純粋に精神的なものなので、精神的な時間の流れの中で計る。これに対してこの世では地球と太陽の位置関係の中で、機械的に時間の流れを計る。このような違いがあるので“死の眠り(休眠期間)”をどちら側の観点から見るかで意味が違ってくる。

死後の目覚めに要する時間は、霊界側の時間の流れからすれば「死の自覚(→私は死んだ人間だ、死んで霊の世界に来たという自覚)」が理解できるまでに霊的バイブレーションが整った時点、つまり「死の自覚の芽生え」が他界者の意識に生じた時点で目覚める。これはあくまでも精神的な時間であるため、いつ目覚めるかは霊的状態の変化によるので、個々人が有する其々の条件(→霊的知識の有無や霊格の程度、さらには人の為に尽くすなど善意の波動を受ける立場の人は目覚めが早い)によって異なる。

この眠りからの目覚めに要する時間を地上側から見れば、機械的な時間の流れで計るため「Aさんでは〇〇日、Bさんでは〇〇日、Cさんでは〇〇日かかりました」と表現しているに過ぎない。このように「死の眠り」を霊的視点から“霊的状態の変化”として見るか、物的視点から“この世的な時間の流れ”の中で計るかにより、目覚め迄に要する時間は異なる。

 

イ、意識的に命を絶つ行為(自殺、死刑)

A、「学校」を中退する行為

自ら命を絶つ自殺(9206⑤~⑥参照)、他人の命を絶つ殺人(5215①参照)、犯罪者に対し法の執行によって命を絶つ死刑(4210⑦~⑩参照)など、人間が人間の生命を奪う行為は霊的摂理に反している。

命を自ら意識的に絶つ自殺者の場合は、地上生活を通して霊的成長するせっかくの機会を自らの手で投げ出してしまうことになる。これに対して殺人の被害者や死刑囚の場合には自らの意に反して命が絶たれてしまい、その結果としてまたとない物的体験を積む機会が奪われてしまうことになる。特に死刑囚の場合は刑務所の中で自分自身を見つめ直して(→強制的に内省の時間が持てる)、自らの性格の弱点を矯正するせっかくのチャンスが奪われてしまうから。

例えて見れば自殺は自らの意志で本来の就学期間を全うせずに「学校を中退する行為」であり、他殺の被害者や死刑の場合は他人の命を無理やり奪って「学校を中退させてしまう行為」であると表現できる。

 

B、自殺の場合

<シルバーバーチの見解>

シルバーバーチは「(自殺行為に関して)寿命を全うせずに無理やり霊界へ行けば、長い調整期間の中でその代償を支払わなければならなくなる」「(利己的な波動によって)周囲にミゾをこしらえてしまうから」(語る407③~⑥参照)、霊的進歩の妨げになるからと述べている。しかし一口に自殺者といっても地上人生をどのように送ってきたか、霊的な発達程度はどうか、自殺の動機は何かなど、自殺に至る事情や心情など、考慮すべき条件がケースごとに異なっている。そのため自殺者の死後の状況もそれぞれであり一律ではない。

 

<利己的要素が強い自殺>

自殺の動機に「利己的要素」がより多く付着している者ほど、自殺者の意識は内側に強く向いて閉じられている。いわば本人が作った思念という厚い壁が周りを取り囲んでいる状態であり、その壁を外側から砕くことは非常に困難である(個人的存在88⑥~⑫参照)。

筆者の知人に自殺者がいる。たまたま自殺の数時間前に電話で話をした。その際に知人の自殺を決意した感情的な思念が私には“鉄の板”のように感じられた。この体験から自殺者(霊)の周りには陰湿で感情的なネガティブな思念が“鉄の板”のように取り巻いている、それを外から破るのは難しいとの印象を持った。ここに利己的要素の強い自殺には霊界側から(外部から)救済の手がなかなか届きにくい理由がある。

このようなケースでは自己の“利己性の罪”の償いのため、自ら作り出した「暗黒の世界」に、いわば意識が内側に向いて閉じられているがゆえの暗黒の世界に、長期間閉じ込められることになる。「死んだつもりなのに相変わらず自分がいる」「その精神的錯乱が暗黒のオーラを生み、それが外界との接触を遮断する」(9209⑩~⑬参照)。結局、時間をかけてでも本人の意識の変化を待って、内側からその壁を壊していくほかない(→同様に引き籠りも自らの意志で“部屋から出る”という気持ちにならない限り根本的な解決は難しい)。

 

<利他的要素が強い自殺>

これに対して自己犠牲的な動機が強い自殺の場合は(9210③参照)、自らの命を絶つ行為に利己性は薄いので、その人の意識は外側に向いて開いている(個人的存在89⑥~⑧参照)。そのため一旦は暗い世界に落ちるとしても、霊界の救済霊との接触は極めてスムーズに運ぶことになる。

 

<憑依霊による自殺>

これ以外に自殺を決行する明確な意思はなかったにも拘らずに、地縛霊や邪霊に憑依されてしまって自殺する場合がある。この場合も自殺者はしばらくのあいだ暗闇で過ごすことになるとしても、自殺の責任は主に憑依霊側にあるので、救済霊との接触がはかられて周囲を取り巻く思念と言う壁を打ち破ることができる。

なお憑依霊を呼び寄せた何らかの“受け皿”が自殺者側にあったとしても(個人的存在252⑨参照)、その“受け皿”となった歪んだ性格の矯正は自ら幽界の下層界で行うことになる(→浄化の為の界が下層界にある)。一方憑依霊は、本人に憑依して自殺をさせてしまったという行為の責任を負うので、その償いをしなければならない。

 

C、死刑の場合

死刑制度は死後の世界に関して何の準備もできていない死刑囚から肉体を無理やり分離させてしまい、霊界側の問題児である「地縛霊や邪霊」を増やしてしまう結果となっている。死刑を執行された霊のバイブレーションは、地上人の物的バイブレーションに極めて近いため、何らかの“受け皿”を持つ地上人の波長と容易く同調してしまう。

その為「怒りと復讐心に燃えた霊」による憑依現象は親和性の法則から多発する(霊訓下154⑮~155⑩参照)。地上人(霊的敏感者)の歪んだ性癖や習性(→自己中心的・意志薄弱・自主性がないなどの未熟な魂の持ち主や、薬物依存・アルコール依存・自傷行為などの悪習慣)がエサ蒔きとなって、そこに親和性を持った邪霊が引き付けられるから。

シルバーバーチは「死刑に処するということは正義からではなく報復心に駆られているという意味において間違いである」(新啓示28⑦~⑧参照)として、正義と復讐を区別するようにと述べている。

このように死刑制度は単に犯罪者から肉体を奪うだけであって(→あの世に行っても単に肉体が無いだけであって性格は変わらず、地上時代に有していた意識状態はそのまま)、地縛霊や邪霊による憑依という形で地上にトラブルのタネを蒔いているにすぎない。高級霊からの霊界通信では例外なく死刑制度を批判している(6150⑧~151③参照)。

処罰制度には懲罰的要素も必要であるが、同時に矯正的・厚生的な要素も必要である(霊訓上47⑪参照)。暴徒や死刑囚など蛮行を行う者は「一種の病人」(4巻207⑤参照)であるとの観点から対処する必要がある。霊界通信には「罪人は矯正するか隔離するかのいずれかにすべきであって、身体を奪ってはなりません」(続霊訓101④~⑥参照)とある。

その為には現在の刑務所を取り巻く問題の改善が必要となる。例えば矯正・厚生的観点から受刑者の矯正プログラムの改善や、すし詰め状態の収容の改善を図る必要がある。少なくとも内省的になれる空間の構築という観点からの改善は必要であろう。

 

ウ、安楽死、延命処置、尊厳死

A、安楽死

安楽死は医師が直接薬剤を投与することにより患者の自然な死期を早めて死亡させる「積極的安楽死」と、苦痛を長引かせないように医療行為を控えたり延命治療を中止したりして死期を早める「消極的安楽死(尊厳死のこと)」とがある(ブリタニカ国際大百科事典)。

日本の「安楽死裁判」で問題になったのは「積極的安楽死」であり、関与した医師は「嘱託殺人(→患者の嘱託を受けて死期を早める処置を行う)」や「承諾殺人(→患者の承諾を得て処置を行う)」の罪に問われている。法律上問題となる「積極的安楽死」は「自殺ほう助(自殺関与罪)」や「殺人(殺人罪)」との区別が難しい。

シルバーバーチは「回復の見込みがない患者(→植物状態の患者や不治の患者、筋萎縮性側索硬化症・ALS患者など)」を人為的に死なせる安楽死は、当然のこととして認めていない。なぜなら死後に備えの出来ていない者に一種のショックを与えてしまい、そのショックが何かと良からぬ影響をもたらしてしまうことになるから(448⑦~⑨参照)。さらに植物状態になっていても、本人自身が何らかの学びをしている場合があること(最後啓示155⑪~⑬参照)。または周りの家族に対して何らかの学びをさせていることも考えられるから。

 

B、延命処置を施すこと

シルバーバーチは患者に延命処置を施すことに関しては問題ないという。なぜなら霊は肉体を去るべき時が来れば、どのような医学的処置を取ろうが肉体から離れていくので、延命処置の効果は「ある程度までのこと」(449⑧~⑩参照)であり、いわば「寿命の範囲内のこと(=寿命の糊代部分)」だからと述べる。

 

C、尊厳死

尊厳死(消極的安楽死)は「必要以上の延命治療を受けず、人間らしい最後を全うしよう」という考え方に立って、回復の見込みのない時点での人工呼吸装置など機械的な延命工作を、あくまでも本人の意志に基づいて辞退、結果的に死を選ぶことを言う(日本大百科全書)。近代医学が死に臨む人の人間性を無視しがちであることの反省から生まれた概念(広辞苑)。

尊厳死は“医師の行為の妥当性の問題”と“患者本人の動機の問題”とに分けて考えて見る必要がある。医師が患者の苦痛を和らげ除去する以外の延命のための治療を行わない行為、栄養補給のカンフル剤は用いるが静かに死を待つだけの医療行為に関しては、霊は肉体を去るべき時が来れば必ず去るもの(4巻48②~③参照)なので問題はない。

これに対して患者本人は何のために「延命のための医療は望まない(リビング・ウィル)」で尊厳死を望むのかという問題がある。その理由に経済的な問題や厭世観、また多数の生命維持装置等によって無理やり命を永らえさせられる状態(スパゲッティ症候群)に対する忌避もあろう。シルバーバーチは常々「動機は何か」を問題にする。この点から尊厳死を考えて見れば「リビング・ウィルを望む本人の動機は何か」という問題に帰着する。

 

4、地上人生の役割

①、本来の世界と地上世界

ア、本来の世界

私たちの本来の住処は、霊的家族(類魂)が待つ「霊界(狭義)」である。この「霊界(狭義)」は「同一霊格で、親和性を有する霊」が集団で生活する均一な世界である。そのような環境(→同一霊格で親和性がある霊の集団)の中で生活しているために、出会う人も自分と同じ霊格やタイプの者となり、遭遇する体験も似通った体験となる(→それ故に類魂と言うシステムを利用したり、指導霊となって利他的行為を行ったりして霊的成長を図る)。

シルバーバーチは「こちらでは同一レベルにまで進化した者どうしの生活が営まれており、霊格による区別がはっきりしているからです。ですから地上のように比較対象というものがありません」(1巻174②~④参照)と述べている。

 

イ、地上世界

   

A、肉体を通して自我を表現する世界

人間は霊であり、霊性を向上させる為に地上世界(=海底)に降りて来た。この地上で一定期間を過ごすためには、“霊的な心(=本来の私という意識)”は肉体(=潜水具)を通して自我を表現しなければならない。それ故に肉体は個別霊が地上世界でまとう衣服に例えられる。この個別霊と肉体との関係をシルバーバーチは「身体はあなたが住む家である」「家であってあなた自身ではない」(1巻27⑩参照)と表現している。

 なお人間には“二つの心(自我)”がある。まず自我の本体を表す“霊的な心(→この心の中に神の分霊が内在している)”がある。そして“霊的な心”は、地上では肉体(=潜水具)を通して“地上的自我(→海底において潜水具を通して表現している私のこと)”を表現している。この地上で表現している地上的自我を“物的な心(=現在の私という意識)”という。

 

B、多様な霊格の霊が交わる世界

地上世界は霊格がバラバラで親和性がない個別霊、本来の住処である霊界(狭義)では絶対に交わることがない個別霊が共通構造の肉体(=潜水具)をまとうことによって、地上(=海底)という同一平面で交わって生活している混在社会である。

 

ウ、地上世界は相対性・両極性の世界

地上世界は霊的に見て混在した世界、比較対象の有る世界なので本来の住処である霊界(狭義)では出会うことがない人や体験(→直接体験、間接体験)に遭遇できる。地上では困った隣人がいれば手を差し伸べる愛にあふれた人がいる一方で、自分の快楽しか眼中にない自己中心的思考の持ち主や利己主義者もいる。このような快楽主義者や利己主義者の末路を見聞きして自らの教訓としている。いわばこの世は本来の住処では絶対に出会うことがない“肉体をまとった霊”と、日常的に(→直接に又は報道を通して間接に)出会うことができる両極性に満ちた世界となっている。

 

エ、地上世界の役割

A、意志力と集中力を身に付ける

地上は物質の世界なので、思いは行為(→物や言葉と言った物的外形)を伴って始めて相手に理解される。例えば地上では「有難うという感謝の思い」は言葉に包んで相手に伝えるか、または贈答品という形を伴った行為に包み込んで伝えなければ相手は理解できない。心の中で“感謝の気持ち”を発しただけでは相手は真意を認識できない。

このように地上では思いは、言葉や行為と言った物質に包んで表現しなければならず、そこに意志力と集中力が要求される。例えばある人が頭の中で単に善行を想念しただけでは、その人の外観からは何も伝わってこないので善行にならない。頭の中で思い描いた想念に何らかの行為や言葉をプラスすれば、他人から見て善行として認識できる(→例えば電車の中で老人に席を譲るという思いを頭の中で想念しただけでは善行とは言えず、実際に行為に移さなければ善行にならない)。

このように地上世界では、頭に思い描いているアイディアという思念を誰が見ても分かるカタチにして行く必要がある。その為には意志力と集中力によって何らかのカタチに作り上げて行かなければならない。霊的世界は思念が基本となっているので、死後の世界にスムーズに適応できるようになるためには、地上世界で培った意志力と集中力という体験が大いに役に立つことになる。地上世界の存在目的は霊性の開発にある。その霊性の開発には強い意志力と集中力を必要とする。物的世界はそれらを強化するには絶好の環境にある。

 

B、この世は学校

私たちはこの地上世界で苦と楽、悲しみと喜び、愛と憎しみ、勇気と臆病、平静さと怒り、嵐と晴天、明るい側面と暗い側面、困難、闘争など、さまざまな両極性を体験(→直接体験又は間接体験)することによって学んで、各自が霊性の向上を図っていく仕組みとなっている。このように地上世界は学ぶ機会に数多く出合える場となっているので「学校」(474⑫参照)と言われている。

シルバーバーチも「地球は学習のために通う“学校”です。その(学校での)学習は、比較対象の体験による以外には有り得ない」(到来25⑩~⑬参照)、「人生とは学校です。刻苦と闘争、努力と困難、逆境と嵐の中をくぐってこそ魂は真の自我に目覚める」(4214⑩~⑪参照)と述べる。このようにスピリチュアリズムでは地上世界を「学校」と呼んでいる。肉体は“私という意識”がまとう「学校の制服」である。

 

②、地上人生の意義

ア、苦難は魂の磨き粉

A、魂の磨き粉

霊的観点から見れば、地上人生はホンの一瞬のことに過ぎない。シルバーバーチは「永遠の観点から地上人生を見る」「視点を変えてみる」ということを私たちに説いている。この観点から苦難を見ると別の側面が見えてくる。

この世的な幸せを得ることが人生の目標、物的要求を満たすことだけが目標といった人生からでは「魂を向上させる(→霊性の向上とは“本来の私という意識”に潜在している“神の分霊”をより多く顕在化させていくこと、イラストAからBCDEへ)」ことはできない。

この世に生まれてきた人間は、何らかの荷を背負い困難と取り組みながら、そこから何かを学び取って霊性を向上させる、それが地上人生の本来の姿である(152⑨参照)。なぜなら人間は、困難、苦労、悲しみ、痛みなどを体験して、それらが魂の琴線に触れることによって、初めて自我に目覚めて霊的真理を受け入れる素地が出来上がるから(164②、3130⑨参照)。いわばそれらの体験は、受容性に富む魂を作り出すための“魂の磨き粉”の役割を担っていると言える(769⑧~⑩、3213⑨参照)。魂の目覚め(霊的自覚)は簡単には得られない。シルバーバーチは「成長は困難に堂々と対処し、挑戦を正面から受け止め、そして克服していく中で得られる」(1273⑥参照)と述べる。

 

B、自動的に磨かれることはない

ただし「困難・障害・病気など」に出会いさえすれば自動的に人間性が磨かれる、というわけではない。その「困難・障害・病気など」が人生を別の視点から見つめさせるきっかけとなって、結果的に人間性を磨くことに繋がるということである(8138⑥、8140⑧~⑩参照)。受け身的ではなく果敢に困難に挑み、そこから何かをつかみ取って行く態度が必要となる。

例えば70歳の老人が自らの来し方を振り返って、「あの時の苦労がなければ自分の一生はチャランポランな人生だった、あの時のもがき苦しんだ苦労が自分を磨いた」という独白と同じ。苦しみの渦中にいる当の本人は目の前の試練に悪戦苦闘して闘っており、周りを見回す精神的余裕はないだろうが、それを乗り切った暁には大きく成長して霊性も一段と磨かれることになるということ。このことは「困難・障害・病気など」に果敢に挑戦して、乗り切った多くの人が体験談として述べている。

 

イ、霊性レベルと磨き粉の関係

A、研磨剤の粒子

シルバーバーチは「地球は宇宙の惑星の中でも最も進化の程度の低い部類に属する」(11177⑭~⑮参照)と述べる。霊性レベルと環境は一致するので、地上人類の霊性レベルの低さ故に“磨き粉の粒子”はそれなりに粗い。その“目の粗い磨き粉”を使って体を洗っているようなものである(→目の粗い磨き粉とは、重い病気にかかったり重大事故や災害に巻き込まれたりと言った厳しい体験のこと)。例えれば軽石に石鹸を付けて体をゴシゴシと洗うようなもので、汚れは落ちるが当然に肌は痛い。そこまでしないと余りにも低いレベルにある地球人の霊性は目覚めないから。

 

B、「学校の試験」のようなもの

人間は霊であり、霊として何をなさねばならないか、ということを物的体験によって表面的な自覚ではなく心の底から自覚する(→明確な霊的自覚を持つこと)、その為の仕組みが各自の人生の随所に組み込まれている。いわば「困難・障害・病気・災害」は「学校の試験」のようなものであり、霊的視点がどこまで身に付いたかを人生の節目で試される。

 

ウ、霊性の開発

A、故事「人間万事塞翁が馬」

大部分の人は「困難や障害はできるだけ避けるべき」との心情を持って生活している。シルバーバーチはこのような多くの人の願いとは真逆のことを説いて、困難や障害に出会ったらそこから逃げるのではなく、これらに対して積極的に立ち向かって自らの手で克服していく、その為の心構えを説いている(31⑫~2①参照)。

シルバーバーチはこの世的な視点で幸不幸を見るのではなく、霊的視点から見ることを私たちに説いている。このような霊的視点から見れば、不幸な人生が霊的に見れば幸多い人生であったということもあり得る。地上的な意味での幸福になることが地上人生の目的ではないから。

 

B、刻苦と苦難、修養と節制の生活

シルバーバーチは人々から忌避されてきた困難や障害に魂の磨き粉という役割を持たせて、新しい意味付けを行った。そして霊性の向上には「修養と節制の生活」と「刻苦と苦難」、この双方が必要になると述べた(997④~⑤参照)。

霊性の向上とは“霊的な心・本来の私という意識”の領域に潜在している“神の分霊”をより多く顕在化させていく霊的成長のこと。現在の胚芽的存在から、最終的には“霊的な心・本来の私という意識”の全体に神の分霊を顕在化させて行くことが最終目標となる。このことから人は「神のミニチュア」と言われている(1巻80⑧~⑫、11109④~⑤参照)。

霊性の向上は「刻苦と苦難と修養と節制の生活」を通してしか成しえない。このように“本来の私という意識”に内在している“神の分霊”を顕在化させて、分霊に宿された資質(→あらゆる種類の美徳・善行・能力のこと。親切、同情、慈悲心、思いやり、寛容心、公正、慈善、愛などの神の属性のこと:1巻154⑭~155③、6176⑤参照)が、形体を通して外部に滲み出て行く霊性の向上は、悪戦苦闘しながら困難や障害等と闘って勝ち取って行くもの。最も達成が困難なものであるために永遠の時が用意されている。

 

5、講座に寄せられた質問

①、質問その1

<質問>「ごく稀に人や動物を殺めたり、傷つけたりをしても平気、もしくは何の罪悪感も持たない人がいます。このような人を見る度に人間は“神の分霊”を内包しているという認識が覆されるような気がします。シルバーバーチの立場からどう考えたら良いか?」

<回答>

ア、高級霊はどのように見ているか

高級霊は悪人や罪を犯す者、残虐行為をする者を、一様に「霊的成長が未熟な人」「未熟な魂」と見ています。つまり「霊的な心(=自我の本体、本来の私という意識)」に潜在している“神の分霊”の顕現度合いが極めて低い人のことです。このような人を含めて個別意識を持った人間として生まれてきたからには、全ての人間に“神の分霊”が宿っています。

シルバーバーチは「あなたが悪い奴らと思っている人間は未熟な人間ということです」「悪い人間というのは霊的成長における幼児なのです」「善なるもの、聖なるもの、美なるもの、愛、叡智、そのほか人生の明るい側面だけに神が宿っているかに考える旧式の思想は捨てなければいけません」(5152⑤~⑭参照)。また「地上で“悪”と呼んでいるものは不完全な段階で神を表現している“不完全さ”を意味するに過ぎません」(5149⑨~⑩参照)。さらに「悪魔はキリスト教が生み出したもの」(5154⑤~⑥参照)と述べています。

 モーゼスの『霊訓』では「悪の軍団とは未発達・未熟な霊のこと」(霊訓上33⑮参照)。またマイヤース霊は「未熟な魂、これから数え切れないほどの体験を通じて、改良と形成を繰り返し、誰もが通過すべきコースを歩み、何時かは誰もが体験する試練を受けて辛く深い挫折感を味わうことになるのである。絶対的多数の魂が一度はそうした未熟な状態にあったのである」(個人的存在207⑩~⑫参照)と述べています。

 したがって人間(→個別意識を持った個別霊)として生まれてきた以上は、肌の色に関係なく、また善人や悪人の区別なく、全員の霊的な心(本来の私という意識)の中に“神の分霊”は潜在しています。霊的な心の中に“神の分霊”が潜在していることと、顕在化率(顕現の度合い、上記イラスト右)の問題とを区別しなければならない。

 

イ、霊媒体質者の憑依の問題

次に罪を犯す者や残虐行為を行う者を「霊媒体質者の憑依」という観点から考えて見ます。私たちは時々ニュースで無差別殺人事件や通り魔事件の報道に接することがあります。その際に事件の加害者は、しばしば「神の声を聴いた」とか、耳元で「事件を起こせ」とのささやき声が聞えたなどと話すことがあります。

 加害者の言動からこの様な事件を見ると、真っ先に「憑依の疑い」が思い浮かびます。憑依は霊的敏感者である本人側に邪霊を引き寄せる何らかの“受け皿(→例えば薬物依存、自殺願望、強い憎しみ、自己中心的思考、意志薄弱など)”が存在する場合に起きます。但し霊的敏感者だからと言って見境なく憑依される訳ではないです。

モーゼスの『霊訓』には「地上の罪悪と悲劇の多くは邪霊が同種の人間に働いた結果に他ならない」(霊訓下156②~③参照)、「地上の大都会はまさに悪徳と残忍と利己主義と無慈悲と悲劇のるつぼである」(霊訓下157②参照)とあります。憑依にも親和性が働くので本人側に邪霊を引き寄せる何らかの“受け皿”が存在することが不可欠です。

 

②、質問その2

<質問>「私自身、霊訓の内容の実践は少しずつしか出来なくても生きる方向性として心の支えにしております。ですが、ハート出版と潮文社の本が全て絶版になっていることが気になっています。物理的心霊現象が下火になって精神的心霊現象へと移ったように、次の段階が用意されているのでしょうか」

<回答>

 私が見た1980年から現在までのスピリチュアリズムの世界の印象を述べて見ます。

 日本に於ける「スピリチュアリズム史」をひもとけば、1930年代から1950年代前半までは物理的心霊現象の全盛期、1960年代から1970年代にかけて心霊治療が、1980年代に入ると「質の高い高等なスピリチュアリズム(Higher Spiritualism)」が前面に出てきました。その普及の一翼を担った出版社が「潮文社」と「ハート出版」であった。1980年代から1990年代に於ける一連の出版によって、スピリチュアリズムの基本文献が容易く日本語で読めるようになりました。

これら日本語訳を基にして「スピリチュアリズムの全体図」という複数の“海図(マップ)”が作られました(→信仰を前面に掲げた海図やオーソドックスな海図など)。学習者は従来の“海図”なきスピリチュアリズムの世界に「スピリチュアリズムの全体図」という“海図”を携えて、迷信や商業主義が混在した“荒海(=スピリチュアリズムの世界)”を安全に航海できるようになりました。

 これ以降、霊的知識の普及活動(→各種講座・勉強会・読書会など集団を通して、または個々人に対する個別対応を通して普及させる)と、学んだ知識を日常生活に活用する各自の実践活動が“車の両輪”となって、スピリチュアリズムは大きく進展しています。

日本に於いては、現在は“知識としてのスピリチュアリズム”から“生き方としてのスピリチュアリズム”への移行過程にあります。この大きな流れは私たちの目に触れることなく、現在社会の底流部分で静かに進行しています(→個人の意識の変革運動という形で進行しているので表立って変化が無いように見えるだけ)。シルバーバーチは霊的知識の普及によって世界各地で難攻不落と思われた城壁が崩れ落ちていると述べています(1巻44④~⑤参照)。近年における地球レベルでの人権意識の高まりや、女性の地位の向上、宗教界をめぐる動きなどはその一つの表れです。

質の高い高等なスピリチュアリズム文献の出版に携わった潮文社やハート出版が撤退した後の日本のスピリチュアリズム界の動向は、個人の意識の変革や社会の意識の変革と相まって、今後一段とレベルアップして進展して行くものと思われます。それは個々人が霊界からもたらされた霊訓を咀嚼して、如何にして自分のものにして行くかの段階に入ったことを意味しているから(→従来までの知識の吸収から生き方の変革へという形をとって)。

 

③、質問その3

<質問>「祈りについて。祈りの言葉はたった一言しかありません。「何とぞ私を人の為に役立てる方法を教え給え。これです」とあります。わたし色々してしまうのですが、皆さんはどうされていますか? 須江先生自身はどうされていますか?」

<回答>

ア、祈りに対するシルバーバーチの見解

A、祈りとは魂の行

祈りとは自分自身の振動数を高めて、少しでも高い界層との霊的な交わりを求める行為です(3141④~⑥参照)。シルバーバーチは「祈りとは魂の行」(3226⑪参照)であり「より多くのインスピレーションと霊的エネルギーを摂取するための手段である」(3227①参照)と述べています。このように「祈りとは魂の行」であるため、祈りが出来ない時や祈りたくない時は祈る必要はないことになります(3227⑥、7205①参照)。

自分自身の振動数を高める為に行う「人のために役立ちたいとする祈り」は、一種の「磁気力にも似た吸引力」のような力が発生して、祈る者の霊的成長に見合った分の援助を自動的に引き寄せることになります(1170⑩~⑪、11114⑪~⑫参照)。

 

B、定型的な祈り、御利益信心的な祈り

無意味な文句の繰り返しや、神に挨拶するための機械的な祈り、集団で行う紋切り型の祈りには何の効果もない。祈りの効果を決定づけるのは、祈る人の霊格と動機です(到来173⑦~⑨参照)。

祈りに類似したものに「ああして欲しい、こうして欲しい、金が欲しい、家が欲しい」など、何らかの物的な願いを叶えてもらうために祈願する“要求型の祈り”があります。これをシルバーバーチは御利益信心と呼んでいます。この種の祈りは利己的な要求なので本来の意味での祈りではないです。御利益信心は当人の霊的成長にはプラスにならないので何の効用もない(1169⑩~⑬参照)。シルバーバーチは「利己的な祈りは時間と言葉と精神的エネルギーの無駄遣い」(7198⑭参照)であると述べています。

 

C、霊界での祈りの扱われ方

祈りに対する回答は、その時の祈る者の霊的成長にとって一番望ましい形で与えられます(158⑭~59②参照)。そのため祈る者の動機次第によっては、何の反応もないということもあり得ます。

祈りは「祈りの純粋性や利他性の度合い」に応じて「仲立ち」を経ながら相応のレベルまで届きます。霊界通信の『ベールの彼方の生活』には霊界には祈りを専門に処理する霊団がおり、祈りに含まれる純粋性や利他性などを分析して、価値評価の高い祈りは順次高位の霊に取り次がれていく(彼方1208⑥~⑧参照)との記載があります。同趣旨として「人間が祈りを発すると、それを中継する霊が受け取り(→無数の階梯をなして存在する天使的存在によって)、その霊自身の判断による回答」(続霊訓78②~③参照)を授かるという記載もあります。なお“要求型の祈り”は物質志向が強いため上昇せずに、祈る内容に応じて親和性から幽界の下層界にいる低級霊との間に繋がりが生じます。

 

イ、質問に対する回答

推測するに多くの人の祈りには「何らかの物的な願いを叶えてもらう」ための“要求型の祈り”が多いのではないかと思われます。シルバーバーチの「祈りとは魂の行」(3226⑪参照)との定義から見れば、一般に神社仏閣で行われている祈りとは、同じ祈りという言葉を使っているが“似て非なるもの”という事になります。

 私自身、シルバーバーチの上記の言葉に巡り合うまでは、物的な願い事である“要求型の祈り”を日常的に行っていました。現在は“要求型の祈り”は無くなり、時々神社仏閣を訪れた際には心の中で「こんにちは」「お邪魔します」と挨拶する程度に留めています。

 

④、質問その4

<質問>

①「霊界と繋がった霊的な能力(スピリチュアル能力)を持つ本物の霊能者は少ないと講義内で説明がありました。英国等で広まっており日本でも知られているミディアムについてはどう思われますか?」

②「ミディアムになる為の養成講座が日本でもいくつかあり、その中でミディアムシップは技術なので誰でもできると説明されていることが多い。先生のお考えでは、やはりこの様な講座で習得した技術では本物の霊能者ではないと思われますか?」「また,この様な養成講座で死者と通信できるミディアムになれると思いますか?」

<回答>

A、質問①について

◆本来の在り方

霊能者は「見えた、聞えた」の霊的情報を正確に相談者に提供する。相談者はもたらされた霊的情報を参考にして、霊的真理に沿った生き方へと自らの「意識の転換」をはかって行く、これがスピリチュアリズム本来の在り方ではないかと思われます。

 

◆「自力で」または「背後霊を通して」

霊能者が「見えた、聞えた」と言っても、その情報は霊能者の背後を通して見せてもらっているもの、自力で見ているわけではない。自力で見ている場合はこの世レベルのサイキック能力(→透視、予知、テレパシーなどの超感覚的知覚)です。多くの霊能者はこのサイキック・レベルに留まっているのではないかと思われます。

 

◆背後霊のレベルを高める

スピリチュアル能力を持つ場合でも霊能者の背後霊のレベルによっては、相談者に不正確な情報を伝えてしまうこともあります。例えばある霊能者は背後霊から「相談者に蛇が付いている」光景を見せられ、別の霊能者は「蛇が見えるがその奥に人霊が見える」光景を見せられた。それぞれ見えた霊的事実に霊能者の解釈をプラスして相談者に伝えたとします。

見えたと言っても霊能者に親和性から憑いている背後霊のレベルによっては、見える範囲は自ずと異なってきます。感応する背後霊のレベルを高めないと正確な霊的情報を伝えることは出来ないです(→スピリチュアル能力を高める)。

霊能者が話す内容や噂話、書かれたものを読む限りでは、大部分の霊能者はスピリチュアリズムの基本的理解が不十分であることが分かります。なお個別の霊能者に対する評価は差し控えます。

 

B、質問②について

◆霊的な能力は先天的なもの

 私は「霊的な能力は先天的なもの」との立場に立っております。そのため霊的な能力がない「霊的鈍感者」は「ミディアムになる為の養成講座」に熱心に通っても、能力発揮はある程度まで、ものにならないと考えています。しかし今生での体験が次の再生人生で生かされて、霊能者としての人生を歩むという事は当然に考えられます。

例えば歌は誰でも歌えます。しかし歌好きの中には絶対音感に優れた人がいる一方で、音痴(先天的音楽機能不全)の人もいます。音痴の人が熱心に音楽学校に通い、歌唱レッスンを受けても“優れた歌い手”にはなれないのと同じです。

 

◆サイキック能力者から本物の霊能者へ

 先天的に有する霊能力を発現させる為には、精神統一会や優れた指導者、霊能養成講座に通うのが一般的なコースでしょう。シルバーバーチは「最初は精神統一の為のグループに加わることを勧めます」「初めから霊能養成会に参加することは勧めない」(8巻158⑨~⑫参照)と述べています。

 霊能を発揮させたいと望む霊的敏感者は、精神統一会や霊能養成講座を上手に利用して修行を行えば、霊能(サイキック能力)発現のきっかけは作れると思います(→霊的敏感者であれば“それなりのサイキック能力者”にはなれる)。本物の霊能者であるスピリチュアル能力者になれるか否かは、開発した才能(サイキック能力)を他人の為に活用して自らの人間性を磨いて行くことが必須となります。

その利他的行為によって自らの霊的バイブレーションは高まって行きます。その結果、高い背後霊と感応できるようになり、機会が与えられてよりレベルの高い霊と交信できる霊能者になれるでしょう(→シルバーバーチが言う本物の霊能者のこと)。

 

⑤、質問その5

<質問>「日本には数多くの霊能者がいます。これ等の者に相談する際には決して安くない金額を取られます。やはりこの様に商売としている者は一律に霊界からの援助が無くなり、能力が退化するものなのでしょうか?」

<回答>

 霊能力を商売にしている霊能者は一律に「霊界からの援助が無くなり、能力が退化する」とまでは言えないでしょう。それは霊能者が如何なる動機で高額の相談料を採っているかに掛かっているからです。

一般に霊能者が金銭的になり過ぎると意識の指向性が“地上的なモノ(→ベクトルの向きが下)”に向かい、その結果として霊的バイブレーションが下がって感応する霊は物質臭の強い霊だけとなってしまうものです。高額の相談料を受け取る霊能者は、低級霊や邪霊に付け狙われる確率が極めて高く跳ね上がります。その際に必ず動機が斟酌されます。何のために高額な相談料を取るのかという問題です。例えば毎月の“売り上げ(相談回数)”目標を立てて、今月は目標を達成できなかったので来月は宣伝活動を強化しようと目論む霊能者がいれば、確実に低級霊や邪霊のオモチャにされるでしょう。

 今まで高いレベルの霊が霊能者の霊的能力を使って働いていたが、金銭に執着してくると霊能者のバイブレーションと合わなくなり離れて行く、今度は同じ霊能力を低級霊が使うようになります(→霊能者の背後霊がより低い霊と交代して行く)。

 

⑥、質問その6

<質問>「シルバーバーチの霊訓で説く子育て、保育幼児教育、青年期の教育など。また児童虐待、少子化、子を産み育てる意味など」

<回答>

ア、教育に関する基本的立場

 シルバーバーチは教育問題に関して次のような基本的立場を述べています。交霊会参加者からの「現代の教育に欠けているものは何か?」との質問に対して、「人間が霊的な宿命を背負っている霊的存在であるという事実」に向けさせる教育的視点がないと指摘しています(268④~⑥参照)。

さらに別の箇所で「意義ある社会の一員としていかなる事態においても、社会のため、人類のために貢献できる人物に育てるための知識を授けることが、教育の根本義なのです」(福音109⑧~⑨参照)と述べています。

 

イ、子供に対する教育の問題

子供に対しては、宗教教育に関しての回答ではあるが次のように述べています。子供は感受性が強いので「知能的にも教えられたことが果たして真理であるかどうかを自分で判断することが出来ません。とても従順ですから、教えられたことは何もかも本当のことと信じて、そのまま飲み込んでしまう」「教え込んだことがそのまま子供の性格のタテ系となりヨコ系となって織り込まれて行く」「教わったことはそのまま潜在意識に印象付けられ、それが子供のその後の思想を築いてゆく土台となる」(4218③~⑩参照)。

子供の教育は特に慎重であらねばならないので、両親や小学校の教員の責任は重いと言えます。

 

ウ、子育て・児童虐待に関して

 一般に子育ては親にとって苦労が多いもの。その苦労の多い子育てを、多くの人は自らの霊性向上の為の手段として選択しました。地上生活が悩みと苦しみが絶えないのは「魂が目を覚ます場所」(9巻164⑮~165①参照)だから。困難・苦難・面倒は魂の進化にとって必須なもの(→魂の磨き粉)だから(1089④参照)。両親の霊的進化にとって子供の存在が不可欠である場合は、必ず子供は生まれてくるものです(語る412⑧参照)。

 親による児童虐待(→身体的暴力や性的虐待、食事を与えないことや病気の世話をしないことなどの養育の放棄、言葉や態度による心理的虐待など)は、親の霊的進化にとって障害となります。子と共に霊的成長をするという“またとないチャンス”を活かしきれずに、ケースによっては重い“霊的負債(マイナスのカルマ)”を背負うことにもなります。

 

エ、少子化の問題

 日本では少子化問題が騒がれていますが、霊的視点に立って地上世界は「学校」という観点から見るならば、この問題はさほど意味はないです。過去の植民地宗主国のイギリスやフランスを見ても分かるように、中東やアフリカ系の人が国籍を取得して次々と新しい国民となって入ってきています。

これは地球という学校における「クラス(→日本国と言う箱)」の構成員の移動に例えて見れば良く分かります。“日本国と言う箱”の主要な構成員である日本民族が減少して(→地上での学びの課程が修了したから)、新しい人たちが他所のクラスから“日本国と言う箱”に移動して来るだけのこと。それが自ずと多様な国民性を生み出すことになるから。

 

⑦、質問その7

<質問>「現代で霊訓を受け取った場合、内容は現代的表現になるのでしょうか。また受け取った霊的能力者が心理学や量子物理学に精通していた場合、双方の概念で説明された霊訓の内容になるのでしょうか?」

<回答>

ア、精神的心霊現象の一種である「霊界通信」

 精神的心霊現象(主観的心霊現象)の一つである霊界通信(霊言現象や自動書記現象など)は、霊媒の潜在意識を使用して行われます(4157⑫参照)。通信霊は霊媒のオーラと通信霊自身のオーラを融合させて、霊界から携えてきた思念を霊媒の潜在意識に蓄積されている用語を使って文章にする。そのため通信内容は通信霊が英語圏の人であっても、霊媒が日頃から用いている言語(→例えば日本語)になります。また通信霊が千年前の人であっても通信は霊媒の潜在意識に蓄えられた用語を使って行われるため、現代的表現になります。

 霊媒の潜在意識の中に用語や概念が豊富にあれば、通信霊は制約を受けずに多様な通信や哲学的な通信が送れます(→霊界の言語である思念を地上の特定の言語に翻訳する能力が高い霊媒の場合)。そのため霊媒の潜在意識に「心理学や量子物理学」の知識が豊富にあれば、通信霊はそれらの用語を使って学術的な通信を送ることが出来ます。この場合は潜在意識に用語の蓄積がない無学文盲の霊媒とは異なって、質の高い専門的な通信が送れるので通信内容の幅が格段に広がります。

 

イ、物理的心霊現象の一種である「直接談話現象」

物理的心霊現象(客観的心霊現象)の一つに「直接談話現象」があります。これは霊媒の潜在意識に蓄積された単語や思想を使って文章にして、それを霊媒の声帯を用いて行う「霊言現象」とは異なります。

直接談話現象とは、霊媒から抽出したエクトプラズムで模擬咽頭を作り、この咽頭を使って通信を行う現象のことです。この模擬咽頭がメガホンに付着して部屋を動き回ることも多いです。

直接談話現象の場合は、言語や方言は通信霊が地上で生活していた当時の言葉であり、イントネーションも当時のままです。そのため霊媒自身は全く知らない古語や外国語であったりする場合もあります(→異言または異種言語発話現象のこと)。

 

⑧、質問その8

<質問>「除霊の際の霊的能力者と憑依霊とのやり取りが、心理カウンセラーとクライアントのやり取りに似ていると思うのですが、どう思われますか?」

<回答>

 心理カウンセラーとクライアントのやり取りの詳細は分かりませんが、本来の除霊は憑依霊の“心”を納得させて(→憑依している霊によっては、霊自身の“心”に「死の自覚」または「霊的自覚」を芽生えさせて行う)、オーラの融合を解消させるのが目的なので共通する箇所はあると思います。

 

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